藩政期の八戸には城下防備の拠点として現位置に桝形、惣門町に番所がありました。桝形とは土居(土塁)や石垣で方形のマスガタ状地域を作り、城門の外から内部が見えないようにし、攻め入られた場合敵の勢いがにぶるようにする役目をもったものです。八戸城下の南端に位置するこの桝形もそうした役目を持っていました。また、この枡形は上り街道(江戸への通)の出入り口にあたり、藩主の参勤交代の見送り出迎えの場所でもありました。この桝形の構造は、道がコの字形になるように土居を築き、道路の見通しがきかないようになっていました。そして土居の上には二木貫の柵が設けられ、内側には杉が植えられ、足軽の家が並んでいました。 また入□には白山川が流れ、これに橋がかけられて大杉平、上り街道とつながっていました。そしてこの白山川から桝形の東と西に水を取り入れて堰としていました。八戸藩史料には、この桝形は貞享年中(1684−1688)から小規模なものがあったのを寛保3年(1743)に改築して大きくし、柵を設けたと記禄されておりますが、現在残っているのは西側の土居の一部です。この図は文政12年(1829)ごろと推定される八戸城下図の部分です。昭和55年3月 八戸市教育委員会
枡形跡 枡形稲荷神社 根城1丁目 八戸市 青森県