ここは、寛政年間には角御殿と呼ばれていた。寛政4年(1792)御者頭煙山治部右衛門がここに居住し、八戸城にふさわしい門と玄関を建てるよう命ぜられた。門はその5年後に建てられ、その時の棟札が残されているが、資金繰りの苦心談が八戸藩日記にうかがわれる。昭和53年、風雪のため倒壊したとき、毘沙門天像が門の冠木の中央から発見された。像高3.6cmの小さなものであるが、精巧な像で、棟札にも「奉修毘沙門天秘法」とあることから創建時のものであることが知られる。この寛政9年の棟札の他に、嘉永4年(1851)、明治42年(1909)修理の棟札もある。昭和55年、創建当初の形に復原した。 門の構造は棟門といわれ、通常は二本の柱の上部を冠木でつなぎ、切妻屋根をのせるものであるが、この門の場合は、四本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に二本の柱を取付けるという特異な構造となっている。 昭和57年3月 八戸市教育委員会
八戸城角御殿表門 内丸3丁目 八戸市 青森県