「義経記」に、奥州平泉へ遁れる源義経一行が、亀割山で生まれた、亀若丸を伴い、出羽街道(国道47号線)を東へ向かう記述がある。尿前には、その伝承の流れがあり、幼児がはじめて尿をしたのが地名となり、義経腰掛松があったと言われている。尿前の関は、歌枕岩手の関であるという説もあるが、江戸時代は岩出山藩の支配下にあり、出羽街道の要衝として重視されていた、芭蕉と曽良がこの関を過ぎたのは元禄2年5月15日のことである。「おくのほそ道」の紀行文には「南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊る。小黒ケ崎、みづの小島を過てなるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす此路旅人希なる所なれば、関守にあやしめられて漸として関を越す」とあり、「曽良旅日記」には、「尿前関所有、断六ケ敷也、出手形の用意可有之也」。と記述している。通行の難関であったらしい。当時の状況を復元すると、出羽街道は鳴子の対岸付近で玉造川歩渡りとなリ、さらに鳴子町の西で大谷川歩渡りを経て尿前に達した。尿前には鳴子村肝煎検断甚之丞信明(遊佐氏)を中心に集落があり、関所屋敷の中を街道が通過していた。関所屋敷の表門、裏門は夜間は閉じていた。また関守ははじめ検断が努めたが、元禄2年の頃は、岩出山藩の役人が派違され警備していた。街道は番所から壱丁五拾間の尿前坂を経て薬師堂に出、小深沢、大深沢の大難所を越えて中山宿に通じていた、藩境へかけては僅かながら新田開発が行なわれていた。尿前の関越えは、芭蕉と曽良にとり、奥羽山脈越えの苦難の第一歩であった。
尿前の関 尿前 鳴子温泉 大崎市 宮城県