奥羽山脈中の、最低部を切り開いて造られた、多賀城より出羽柵への、最短の街道である。元慶の乱(878)の後、出羽と陸奥の境目にあり、軍事上の要所である尿前に、岩手の関が設けられ、寛文10年(1670改めて、尿前境目番所を設け、往来を厳しく取締った。元和年中(1615〜23)国境から岩出山までに、尿前・鍛冶谷沢・下宮・岩出山の4駅が置かれ、後更に中山の宿にも駅が置かれた。元禄の仙台領絵図に「鳴子村より境まで難所、10月より3月迄積雪、馬足不叶」とあり、ここより尿前までは難所つづきで、、元禄2年(1689)松尾芭蕉が曽良と共にこの街道を難儀して境田に向っている。享保12年(1727)秋田亀田領主がこの街道を通り、文化(1805)以後は、出羽の秋田・庄内・新庄等の家中が江戸への往来にこの道を頻繁に利用した。元禄古図によると、国境より宿まで32町28間とあり、それより尿前までは約1里の道のりである。
出羽街道中山越・尿前坂入口 湯元 鳴子温泉 大崎市 宮城県