弁天山古墳・小久保藩陣屋跡 小久保 富津市 千葉県
弁天山古墳は5世紀後半に造られた墳丘長87.5mの前方後円墳で、高さ8.5mの後円部に竪穴式石室がある。この竪穴式石室は、付近の海岸から持ち運ばれた凝灰質砂岩の自然石によって壁面を積み上げ、その上部に加工された大形の天井石を載せたものである。石室の規模は全長4.9m、幅96cm、高さ75cm、石積み全体の範囲は南北7m、東西6mに及ぶ。この石室で最も特徴的なのは、中央の天井石の両側に造り出された「縄掛突起」で、石を運ぶときにここに縄を掛けて引いたといわれるものである。縄掛突起は石棺の蓋石などにしばしば見られるが、石室の天井石に用いられた例は少なく、奈良県室宮山古墳などの畿内の大王クラスの古墳に幾つかの例が知られるのみである。 なお3個の天井石のうち、北側の1個は、加工しない自然石が使用されている。石室の発掘調査は昭和2年と昭和51年に行われており、鋲留甲冑・刀・剣・鉄鏃・鎌などの副葬品の破片が出土している。 なお石室は本来、地中に埋まっているものであるが、史跡としての整備に伴って、見学可能なように覆屋を設けて保存している。  平成20年7月20日 富津市教育委員会 小久保藩邸・藩校跡
富津市中央公民館付近の敷地は、明治元年(1868)から明治4年(1871)7月までの4年間小久保藩が置かれ、藩邸・藩校等が所在していた場所である。初代藩主田沼意尊は、江戸時代中期の10代将軍家治時代に老中であった田沼意次から数えて9代目の子孫に当たる。明治元年5月、旧将軍家の徳川家達が駿河へ退き、府中藩が成立したのに伴って、遠江相良藩1万石の田沼意尊が、上総天羽郡・周准郡へ領地を移され、小久保に陣屋を構えた。以下略 
平成22年11月25日 富津市教育委員会