木更津甚句記念碑 富士見3丁目 木更津市 千葉県
木更津甚句は、安政年間に江戸落語界にあった生粋の木更津っ子、木更津亭柳勢が高座で歌ったのが初めといわれています。これが思いのほか人気を得て、一時は江戸界隈に大流行しました。甚句は、江戸通いの船頭たちによって木更津にも伝わり、まもなく花街でも盛んに歌われるところとなりましたが、いつしかすたれ、わずか花街の古老たちが知るだけとなりました。しかし、幸いにもこの歌を覚えていた料理店の女主人露崎きせが、抱えていた芸妓たちに教えておいたので、危うく絶えようとしていた歌の命脈を保つことができました。この芸妓の一人がやがて上京し、若福と名乗って売れっ妓となり、かつて覚えた木更津甚句を生来の美声に乗せてお座敷で歌いだしました。若福は、政界の名士たちの酒席に声がかかることも多く、努めて甚句を披露するうち、大正時代には、再び東京の花柳界で流行し、やがて全国に広まったといわれています。二体のブロンズ像は、向かって右が若福姐さんを、また左は、この伝統芸能を受け継ぐものとして、現代の女性をイメージして造られています。このモニュメントには、木更津甚句が広く普及し、また永く後世に歌い、踊り継がれていくようにという願いが込められています。 平成9年12月 木更津市観光協会
ハアー木更津照るとも東京はくもれ
(キタコラキタコラキタコラサ)可愛いお方が
ヤツサイモッサイ ヤレコリャドッコイ
コリャコーリャ 日に焼ける
(キタコラキタコラキタコラサ)

ハアー東京行く船日に二度三度
(キタコラキタコラキタコラサ)わしも行きたや
ヤツサイモッサイ ヤレコリャドッコイ
コリャコーリャ 顔見せに
(キタコラキタコラキタコラサ)

ハアー船は千来る万来るなかに
(キタコラキタコラキタコラサ)わしの待つ船
ヤツサイモッサイ ヤレコリャドッコイ
コリャコーリャ まだ見えぬ