蒲生氏郷は江州(滋賀県)日野城主蒲生賢秀の子。織田信長に仕えその婿となった。後、豊臣秀吉に属し、天正18年(1590)会津入封。天下人秀吉の奥羽仕置きを任地に代表、奥羽の都督を以て目され、治府若松は東北の都と謳われた。黒川の旧称が若松の新称に改まるのもこの時である。はじめ近江商人の町日野、ついで伊勢商人のふるさと松坂に封を受けた氏郷は、蒲生第三の都市にもその伝統を移して、城下町若松を商売繁盛のまちとした。何よりも7層(今5層)の天守、四方石垣の整然とめぐる名城鶴ヶ城が、名将最大の後世への遺産となった。
  利休7哲の随一に数えられた数奇大名氏郷の面影は、鶴ヶ城の一角に復原された茶亭麟閣にしのばれる。利休次子千少庵ゆかりのもの。利休切腹後、氏郷は彼を保護し、千家再興に道を開いた。霊名を「レオ飛騨」と称した氏郷は東北切支丹の先がけでもあった。
  文禄4年(1595)2月7日、40歳を一期に英雄は都に逝いた。「限あれば吹かねど花は散るものを、心短き春の山風」。花のあわれに人のあわれをかさねよんだ優婉な辞世の歌が後に残された。遺髪を納めた興徳寺五輪の塔が、永くその英魂を弔っている。  
蒲生氏郷(1556〜1595)墓 興徳寺 会津若松