奥州街道(8)



二本柳−八丁目浅川新町清水町福島瀬上桑折
いこいの広場
日本紀行

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二本柳

油井川をわたった街道(県道129号)は桝形にまがって北上をつづける。油井町の先の二又路で、東にまがる129号線と分かれて、左の道を北方にすすみ、用水路をこえた次の十字路交差点を左に折れる。ここから400mほどの短い街道の両側に二本柳の宿場町がつくられた。主だった家の前には、「角屋」、「車屋」など、宿場町当時の呼称を書いた立て札がある。生垣に松を配している立派な家は「問屋」だ。新しい家並みの中にいくつか土蔵の姿もまじっていた。二本柳は小さな宿場で、隣りの油井と共同で運営していた相宿だった。

土地の名となった二本柳は、先ほどの交差点をまっすぐいった、144号との合流点にある。二本の大きな柳が、一里塚の榎のように目印となっていて、木の間に地名の由来碑があった。

宿場の端に構える円東寺の前で、道は右にまがって、すぐ左手に小屋で囲われた弘法清水がある。湧き水というより、井戸のような風采だ。大師が大取場・小取場の急坂を旅する人々のために掘ったと伝わっている。

小取揚坂の途中に、「鹿の鳴石」と呼ばれる石がでてくる。昔、付近の大きな沼に住んでいた竜神が、沼が決壊したとき妻とはぐれてしまった。竜神は鹿に化身し、この石の上で鳴き相手を呼んだが見つからず、山を越えて土湯の女沼に移り住んだといわれる。この「鹿の鳴き石」の周囲を左に3回廻ると、鹿の鳴き声がきかれるという。試さなかった。

しばらくまっすぐなゆるい坂道をくりかえしながら、雄大な田園風景の中を通ってゆく。
渋川の五郎兵衛地区で、奈良時代の遺跡が出土したという案内板をみつけた。道端の田の奥に、薮に覆われた丘陵らしき断片がみえる。この辺一帯の地域から住居跡や焼土、土器類が出土した。それらの景色を観察している素振りは、道の反対側の田で苗を手植えする女性にカメラを向けるための事前工作にすぎなかった。距離を置いているとはいえ、あたりにはだれもいない、一対一の男女関係だから、露骨にレンズを向けて立ち尽くすわけにもいかなかったのである。




八丁目


境川のてまえの交差点角に白壁土蔵があって、そばにいくつかの石碑がならんでいる。街道筋にあったものを道路整備工事の際に一ヶ所に集められたものだろう。境川が安達郡と福島市の境をなし、川をこえたところは松川町、八丁目宿の南はずれにあたる。曽良の日記に「八町の目より信夫郡にて福島領也。」とある。信夫郡とは現在の福島市のこと。今も信夫台、信夫隠という地名が残っている。

桑畑をうしろにして、路傍に「信夫隠しの碑」が立っていた。慶応2年(1866)の建立で、「思いやる心の奥を漏らさじと忍ぶ隠しは袖か袂か」と、万葉仮名で和歌が刻まれている。ところで、歌枕の信夫山となにか関係あるのかないのか、地名「信夫隠」はどこからきたのか、そのあたりの説明がほしかった。調べてみたが今もわからない。

県道52号との合流点に奥州八丁目天満宮がある。ここから八丁目の町並みがはじまる。戦国時代は伊達藩堀越能登守の城下町であり、奥州街道のみならず、米沢街道・相馬街道の分岐点にあたり、交通の要所でもあった。活気ある町人文化を楽しんでいたらしい。

松川に架かる小さな石橋(松川橋)は、明治18年(1885)国道整備とともに完成したもので、それ以前は土橋であった。「めがね橋」と呼ばれ、大悲堂を橋下の水面にうつして明治の風情を感じさせる一角である。つづいて水原川をこえる。繁華街はこのあたりから始まっていた。信夫郡と安達郡との境界(境川)よりここまで、八町あまり離れていることからこの町の名がついたというが、ホントかな。両川にはさまれて「奥の細道自然歩道」の標識がたつ西光寺がある。

左手に黒塀、見越しの松、薬師門に白壁土蔵をそろえた加藤家住宅は、絹織物で財をなした遺産か、華やかだったころの八丁目文化を偲ばせる。中町でつきあたりを右折して114号に出、左にとって最初の信号を右にまがる。石合町を400m程進んだところの交差点が奥州街道と相馬道との追分にあたり、角に道標を兼ねた六地蔵(地蔵といっても全体は石灯篭形で、灯篭のかわりに6角面に地蔵の浮き彫りをほどこしてある)が立っている。

さて、八丁目の宿場はここまでにして、これから奥州街道をしばらく迂回する。松川事件の事故現場を見にいくためだ。下に降りて現場まで行く手もあるが、上からあたり一帯を俯瞰できる手ごろな陸橋がある。

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松川事件

さきほどの六地蔵から北にあがると、美郷ガーデンシティという大規模分譲住宅地を横切っている道路に出る。そこを右折して分譲地区をぬけると、東北本線の上下線をみおろせる羽山陸橋にでる。車は、すこし先の老人ホームの駐車場をかりた。振り返ると、まだ安達太良連峰だろうか、もう吾妻連峰だろうか、残雪の美しい山並をみせている。

50年以上もまえ、この橋の下で不可解な事件が起きた。

昭和24年(1949)8月17日午前3時9分、東北本線の青森発上野行き旅客列車が、金谷川駅から松川駅へ向かうカーブ地点にさしかかったとき、機関車と客車3両とが脱線転覆、乗務員3人が死亡した。被害の大きさという意味では、最近100人以上の犠牲者を出した、福知山線カーブスピード違反事故に比べればたいしたことではない。しかし、原因が個人の不注意という孤立事情ではなく、戦後占領治下の複雑な政治社会情勢を背景にして、複数の人間による計画的な犯行をにおわせていたのだ。

注:当時の東北本線はまだ複線化されておらず、現在の下り線を上下の列車が交互に走っていた。事件は複線化前の単線の上り列車で起こったのだが、線路は現在の下り線である。

この年、松川事件に先立って、7月6日に下山事件が、7月17日には三鷹事件がおきたばかりだった。占領軍の指示のもと、夏には、100万人を超える労働者の人員整理が計画されていた。これにたいし、国鉄労働組合を中心勢力とした労働組合、それに大きな影響力をもつ日本共産党は活発な反対闘争をくりひろげつつあった。

9月10日、19歳の少年赤間勝美が別件で逮捕され、その自白から、国鉄労組員10人と東芝松川工場労組員10人が逮捕された。

全員が無実を主張したが、1950年12月、福島地裁は、5人に死刑、5人に無期懲役、残る10人には有期の懲役刑をいい渡した。

二審の仙台高裁では3人が無罪となり、有罪となった17人は最高裁に上告した。

1958年になって、検察側が隠していた「諏訪メモ」なるものがみつかって、共同謀議が架空のものであることが明らかとなった。

1959年8月、最高裁は原審を破棄、仙台高裁へ差戻した。

1963年9月、やり直し裁判の結果、被告全員の無罪が確定した。

しかし、真犯人は見つからないままで、闇の中に放置された。

事故現場のわきには犠牲者の同僚らが建てた殉職之碑が、また、東側の上り線沿いには松川記念塔と記念塔公園が整備されている。作家広津和郎の碑文を掲げた記念塔は無罪確定1年後の1964年9月に、公園は無罪確定30周年を記念して1993年9月に設けられた。

 「人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である」

裁判の結果が真実を反映しているものとすれば、印象論的には、この事件は共産主義を排除するための占領軍の謀略であった、という可能性が高い。『日本の黒い霧』(松本清張)が低く垂れこめていた時代のできごとであった。

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浅川新町(若宮)

羽山陸橋を越えてそのまま東にすすみ、県道307号を左にとる。福島市南体育館の角を左折して、県道114号奥州街道にもどる。およそ2kmほどの奥州街道を端折ったことになったが、八丁目宿場と次の浅川新町宿の間の道であって、その間、見失ったものはないようである。

次の宿場といっても、浅川新町は1604年にできた新しい町で、次の清水町宿と共同で宿駅の役目を果たしていた。街道とJR金谷川(かなやがわ)駅の間に福島大学が位置している。田園のなかに涼しげな白い花をつけたリンゴの樹園が散在している。ほどなく、宿場らしい趣をかすかに残す集落を通り過ぎる。ここが松川町浅川、旧浅川新町宿である。若宮八幡を祀ったことから若宮宿とも呼ばれた。

右におおきく曲がって国道4号と交差し、旧道は清水町宿場にはいっていく。



清水町

かって、この宿場に清水が湧いていたところから町の名となったという。また、宿駅を作る際、この場所には木の根が多く作業が大変だったので、伊達政宗は根子町宿と命名したともいわれている。清水町宿は、隣の若宮宿との相宿であった。

宿場の町並みにはいってすぐ左手に、出雲大神宮がある。昔、ここから少し西の平石地区に東山道の片原宿があった。その宿場の長者であった炭焼き藤太という男が氏神として祀ったのが出雲大神宮のはじまりであるという。それはさておき、藤太には4人の子供がいて、その一人が金売り金次だったというのだ。これまで、墓ばかりみてきたが、ここで彼の出生の秘密を知ることになった。白河の白坂宿では、吉次は3人兄弟だったが、一人は若死にしたのかもしれない。吉次の活躍で藤太一家はますます栄えた。

中興寺の前の三叉路を左折すると、粗壁の土蔵・母屋がどっしり構えた旧「旅籠仙台屋」の高橋家があらわれる。これこそ、吉次の父親が住んでいたという、昔の長者屋敷かと思わせるほどに、豪勢な佇まいだ。中興寺までは宿場の面影がほとんど見られなかった清水町だが、宿場のおわりかけに、昔を告げる証人がしっかり棲んでいた。

伏拝

街道は細道を進んで、国道4号線の上を渡り、雑木林の中の静かな道を進んでいく。しばらくして道沿いに駐車場がでてきたので、車を止めて付近をあるいてみた。遠くからかん高い歓声が聞こえてくる。駐車場の奥から歩道が延びていて、林の中にはいっていくと、切り開かれた一角の藤棚の下で、幼稚園児と親たちが遠足の弁当を開けていた最中だった。ここは共楽園という林間公園で、奥のほうには明治天皇休憩所や、石碑群がある。中でもしめ縄を巻いた「拝石」は、昔、信達(しんたち)盆地が湖だった頃、信夫山、羽黒山などに参拝する人々がここから山を伏し拝んだという。「拝石」の伝説は、ここの地名、「伏拝」とセットになって残っている。

道をはさんで、公園と反対側は崖になっていて、樹木の間から眼下の町並と新旧の国道を一望することができる。崖下を走っているのが旧国道4号線で、奥州街道はこれまでずっと、つかず離れずにやってきた。公園の終わった辺りから急な坂を下って、その旧国道に合流する。合流(分岐)点に標識が立っていて、その二つの道のことが記されている。左に折れて坂を下ると、いよいよ福島県庁所在地、福島市内である。

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福島 


荒川(旧須川)にかかる信夫橋の手前、右手奥に福島第一中学校がみえる。その校庭の片隅に、「左江戸海道」「右山王土湯道」と刻まれた古い道標が保存されている。江戸海道とは奥州街道のこと。山王、土湯道とは現在の国道115号線の旧道で、上鳥渡の日吉神社、土湯温泉に通じる道だった。土湯峠を越えて会津猪苗代にいたる会津街道の一つでもある。福島南町郵便局の前を通って上鳥渡を経て国道115号に合流して吾妻山地の土湯温泉に向かっていた。

信夫橋を渡った所にかって江戸口の枡形がありここから先が福島宿であった。川端に建つ稲荷神社の前を通って荒川沿いに歩くと、すぐに阿武隈川の堤防に出る。上流方面をながめると、荒川の流れが浅いデルタを形成して阿武隈川に注いでいる。

旧街道は信夫橋から柳町、荒町、中町と進み、駅前大通りの国道13号線を横切って宿場の中心地、本町に進んでいく。

柳町の東方、阿武隈川に面する地区は御倉(おぐら)町とよばれ、福島藩をはじめ米沢藩、会津藩などが江戸へ年貢米や産物を回漕する阿武隈川舟運の拠点として、各藩の蔵が建ち並んでいた。その名残と思われる「住友肥料」の看板を張りつけた倉庫をみつけた。

復元された
福島河岸を見下ろして建っている立派な邸宅は旧日本銀行福島支店長宅である。不良債権で体力を弱めた民間銀行が軒並みリストラに走っていた当時、その風は日銀にもおよび、リストラ対象としてぜいたくな支店長宅がやりだまにあがった。福島の日銀支店長宅は真っ先に売却対象となり5年前、市が買い取り、現在川端で茶屋を営んでいる。

宝林寺の銀杏の大木がが色つきはじめていた。

中町から東に折れて
福島城址をたずねる。本丸は現在の知事公館付近、政務をとる二の丸は県庁舎付近にあった。県庁の正面にある福島第一小学校の片隅に土塁が残っている。福島城は信夫の庄司佐藤基治の一族、杉妻(すぎのめ)太郎行長の居城であった杉妻城が前身である。秀吉のとき会津藩の蒲生氏郷から信夫5万石を任された木村吉清が城を大改築し福島城と改称した。その後の城主は、上杉氏・本多氏・堀田氏と変わったが、元禄15年(1702)以降は板倉氏3万石の城下町として明治まで続いた。

東に隣接して阿武隈川を見下ろす位置にもみじ公園がある。二の丸御外庭と呼ばれた、福島城の庭園であった。中心に池を配し欅の大樹が秋の色を濃くしていた。公園の南側は視界が開け阿武隈川のながれにそって美しい景観を見渡せる。一段高い築山の片隅に、板倉神社が鎮座し、福島城主板倉氏の藩祖重昌を祀っている。

宿場中心街

平和大通り(国道13号線)を地下道で渡る。地下道の中に奥州街道の説明板があった。旧奥州街道の道筋や、本陣・脇本陣の位置が示されている。
本町の一筋目で街道からそれて西方向に向かい、JR福島駅東口に出てみることにした。情報ではそこに芭蕉と曾良の像が立っているはずである。駅ターミナル前、タクシー乗り場、バス乗り場をめぐりあるいたが見当たらない。定期券売り場のおばさんにたずねると、「三日前までそこにあったのだけど…」と、身を大きくのりだして右手の空き地を示した。生垣のなかに工事跡とおもわれるまだ新しい土の掘り返しが残っていた。取り壊して捨てるはずもなく、どこかもっと目につくところへ移転したのだろう。

東口の正面の一等地を百貨店「中合」が占めている。中合は近江商人ゆかりの企業で、近江長浜の安藤家と関係があるらしい。民俗資料展示室のおじさんも中合が近江商人と関係があることは知っていたがそれ以上の情報をえることはできなかった。なんでも現在の場所は3度目の移転先で、最初は荒町旧街道沿いの油屋跡、二度めは展示館向かいのサンルートホテルの場所だったという。

本町交差点にもどりレンガ通りを進む。この辺りは本陣や問屋場があり福島宿の中心であった。南西角にある福島市東口行政サービスコーナーに本陣(黒沢六郎兵衛宅跡)、その対角線向いの常陽銀行付近に脇本陣兼問屋の寺島源吉宅があった。日銀の東筋は福島城下から笹木野・庭坂・李平宿を経由し米沢に至る米沢街道の起点で、米沢口(庭坂口)とよばれている。上杉氏は参勤交代でこの道を通り奥州街道へ出ていた。レンガ通りのこのあたりは日銀福島支店をはじめ、銀行・証券の看板が街道の両側を占拠している。

道はサンルートプラザのある交差点を左折。正面に民俗資料展示室があり、玄関先の歩道に明治初年の福島市道路元標がある。このあたりが高札場だった。石標のもとに道路元標の説明が書かれたプレートが据えられている。

「明治初年、市町村の基点として道路元標が定められた。役場から一番近い国道及び県道に設ける基準により、福島市では旧城下の高札場であったこの位置に設置され、大正8年の道路法により石標に改められた。」

いままで漫然と記録写真を撮っていた道路元標だが、それがそもそも何なのかの説明があったのはこれがはじめてだ。全国的な法令によるものだから、自分の故郷にもどこかに石の元標があるのだろう、と連想させる教育的な説明である。

資料展示室にはいって、受付のおじさんに福島宿で活躍した近江商人についてたずねてみた。中合の名が出たのはすでに述べた。近江八幡出の生糸商だったという「千切屋」のことをたずねると、古い街道筋の案内図を持ち出して来て、店の名前を総当たりしてくれたが、見当たらなかった。次の宿場瀬上でふれる内池家も福島に進出した近江商人の豪商の一人である。

道路元標から1ブロック北を右折していく道筋はレンガ通りからみれば枡形のようにもみえる。まもなく右手角にみえる松北園茶舗は芭蕉が泊まったという「キレイな宿」があったところと考えられている。左手には蔵つくりの店が残り趣きのある通りだ。二人は旧暦5月1日(新暦6月17日)にこの宿に泊まり、曾良は宿がキレイだったと気に入った。

旧道は国道4号線を横断し、一筋東の通りを左折して北にまっすぐ進み、国道114号線を横ぎる。レンガ通りからはじまるこの旧道ルートは「電車通り」とよばれ、福島駅から長岡を経て飯坂に向かう路面鉄道(福島電鉄)が昭和45年まで通っていた。

豊田町郵便局の入り口辺りに仙台口の枡形があり福島宿の北端をなしていた。
豊田町は旧馬喰町で、4号バイパス沿いに移されている馬頭観音堂を中心に馬市で賑わった。現在は馬市にかわって地方競馬で人気をよんでいる。

旧街道は福島競馬場の西側を北上し、岩谷下交差点で国道4号線をななめに横切って信夫山の東麓を流れる祓川に沿って松川にでていたらしい。現在、旧電車通りは交差点の手前で閉鎖されていて、車でいく場合はあともどりするしかない。国道を横断し、古関祐而記念館の傍をとおって右折すると岩谷観音への入口がでてくる。

信夫山公園の麓から標識にしたがって石段を登ると、色づいた木々が茂る崖縁に、町をみおろして小さいながら姿のよい鐘楼が建っている。競馬場の長楕円形のトラックがめよく見える。右手奥にひそむ観音堂の背後に、多くの
磨崖仏が刻まれていた。ほぼ原型をとどめているもの、切り取られているもの、風化で磨耗・崩壊したものなどが混在している。秋の午後の日差しを受けた仏像は黄金色に映えて神々しい。段丘状につづく上部の岩壁にも大小さまざまな仏像が彫られていて、宝永年間(1704−11)に刻まれた磨崖仏の数は60体を数えるという。

信夫山公園に寄っていく。信夫山全域は公園として整備され、自動車道が展望台や寺社の近くまで通じている。道路を覆いかぶさるようにつづく樹木のトンネルは常緑樹が大勢で、紅葉は控えめだった。信夫山は、平安時代から修験道の道場として栄えた。地元では信夫山のことを御山と呼び、旧安達郡と、旧信夫郡、伊達郡からなる信達盆地の中心地で、古来から信仰の山とされてきた。信夫山は湯殿山・羽黒山・月山の三山からなるとされ、それぞれの社祠がある。特に羽黒神社は立派で、境内には高さ12mの巨大な草鞋が鉄塔につるされている。須賀川中宿の鎌足神社で見たワラジの比ではない。

信夫山公園の麓を流れる祓川にそって旧道を北にすすむと道は松川に突き当たり、川向こうに続いている。国道4号線の松川橋で松川を渡りすぐに旧道に戻る。
左手に、「内池工業」の看板が目にとまった。次の宿場瀬上は近江商人ゆかりの地で、そこの主人公が近江八幡出身の「内池家」なのだ。のちほどその本家を見る。

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瀬上

旧道は右手に大日堂をみて本内、鎌田地区を通りすぎ、八反田川を橋本橋で渡り阿武隈急行の高架をくぐりぬけて瀬上宿の枡形に突き当たる。右におれ県道353号線に出たところから北におよそ700mの両側が宿場町だった。

瀬上宿は、西へ飯坂に向かう街道(県道155号飯坂瀬上線)と、東の月の輪の渡しを経て保原−相馬方面へ向かう街道(県道387号線飯坂保原線)が、奥州街道と交わる地点に設けられた交通の要所であり、阿武隈川には河岸が設けられ船運物資の集散地としても繁栄した。
この地はまた、瀬上花街とよばれた遊郭街でも知られていて、旅人や河岸に集まる男たちで繁盛していたという。

それに関係づけるわけではないが、近くにおもしろい神社があるというので寄ってみた。枡形の県道353号を左におれたところにすぐ右に出る道がある。国道4号を越え東に進むと阿武隈急行の線路ちかくの
青柳神社にいたる。樹木の生い茂る薄暗い境内を、小学1、2年生くらいの女の子が一人、木の枝を手にもってなにをするでもなく歩き回っていた。私の目的は境内のどこかにあるという、男根石と女陰石の道祖神を探すことにあった。社殿の右側、境内の北端にそれらしき石仏群が並んでいた。カメラを構えて目的物に近づいた時、女の子が横からよってきて「撮ってあげようか」と声をかけてきた。カメラがめずらしかったのか、写真を自分でもとってみたかったのか、自分の写真を撮ってほしいのか、あるいはただ一緒に遊びたかったのか。無垢な少女は怪しむことをしらない。誘拐しようと思えばたやすいことだ。

撮影の被写体から気をそらせるように私は体の向きを変えた。後ろの木陰から母親なんかが現れて変に誤解されそうできがきでない。
「一人で遊んでいるの」「そう、クモの巣をとっているの」
「ああ、そう。もうおそいから帰ったほうがいいよ」
しばらく私のまわりをうろついていたがやがて彼女は付近の木の枝にかかっているクモの巣を探しにでかけた。
彼女の姿がとおざかるのを見届けてやおら目的物の撮影にとりかかった。男のほうは見ただけで機械づくりであることがわかる先のくびれた単純な円柱形をしていた。女のほうは機械で彫るのは難しいほどいりくった、めずらしい形をした自然石だと思われる。

街道にもどって本来の宿場町散策をはじめる。左手の島貫家住宅は石塀のなかに石倉、土蔵をならべ重厚な薬医門をかまえた大屋敷で、母屋の板壁も古い歴史を感じさせるたたずまいである。この宿場の本陣だったということでもなさそうで、どういう経歴なのか知らないがこの宿場一番の旧家にみえた。

近江商人 内池家

右手に味噌醤油を扱う「(有)内池平蔵商店」と大きく書かれた一枚板看板が見え、奥に土蔵があった。店の中をのぞきこんでいると奥さんがでてこられたので話をきいてみた。
「近江商人にゆかりのあるという内池家はこちらですか」
「うちは分家の分家の分家でして。本家はもうちょっといった『近江屋』さんです」

本家の「近江屋」は布団店で、店の構えは今風だが、門や土壁の塀、その内側からのぞく白壁の蔵にはかっての豪商の風格がうかがえる。
その数軒北にもまた内池家があった。米穀店だ。松川をわたってすぐ「内池工業」をすでに見てきたし、また月の輪大橋をわたったところに大きな「内池醸造」の工場も見た。分家関係はよく知らないが内池家が今も瀬上で大きな勢力をもっていることをうかがわせた。

内池家の祖は蒲生氏郷の家臣にはじまるといわれている。日野には現に「内池」という地名が残っている。織田信長の開いた安土城下にいた初代内池宗十郎は八幡に移り屋号「米屋」を創業した。4代目宗十郎の弟与十郎が八幡で分家し、瀬上本町に「近江屋与十郎店」を出店して酒・醤油を商った。元禄12年(1699)本町から荒町に移転し呉服・太物を扱うようになったのが、現在の「近江屋寝具店」の起こりである。

また、おなじく、八幡で分家した初代与十郎の次男、内池三十郎は福島大町に出て、反物・呉服・薬などを扱った。文久元年(1861)、7代内池三十朗徳房は福島から瀬上に転じ、そこで醤油・味噌の醸造を始める。月の輪大橋のたもとでみた「内池醸造」の創業であった。

本家、分家をとわず、内池家は学者・文人を輩出する家系で、特に8代当主で「中興の祖」とよばれた内池与十郎永年(1763〜1848)は、衰退した内池を再興し足守藩御用達商人を勤めるなど実業手腕を発揮したのみならず、隠居してからは国学者本居大平門下となって、瀬上・桑折を中心とした古学、歌道の知識人結社「みちのく社中」を主宰した。多数の著書を残しているが、なかでも天保9年(1838)、永年が定めた
『内池家訓』55カ条は近江商人の規範としてよく知られている。

芭蕉は福島東部にある信夫文知摺観音を訪ねたのち、奥州街道にもどらず山口村をきたに進んで月の輪の渡しで瀬上宿にで、そのまま瀬上但馬屋の角を左折して現在の県道155号をあるいて飯坂の医王寺へ向かった。雷神社の前を通り過ぎると水路沿いの私道入口に「史跡足守藩陣屋跡入口」の白い標識が出てくる。瀬上小学校の北方、宮代地区に備中足守藩の代官が居住した
瀬上陣屋が設けられていた。現在は斉藤家の敷地内にある。前庭に入っていくとちょうど庭先でカヤの実を乾している奥さんにであった。頻繁に観光客が訪れるようで、手馴れた口調でカヤの実の食べ方を説明したあと、石碑のある裏庭に案内してくれた。

石碑の向こうに樹齢300年をこえるカヤの巨樹が高さ20mをこえる威勢を誇っていた。目通り周囲は5m近くの巨木だ。
「切り倒して碁盤をつくれと主人はいうのだけれど…・」
と、不満とも本音ともつかないつぶやきをもらした。カヤの木は堅いながら弾力性に富んで、碁石を打ったヘコミを元に戻す力を持つという。使うにつれて淡黄色からしぶい飴色に変わり風格を帯びてくる、まさに碁盤にうってつけの材質なのだそうだ。上等の一枚柾目カヤ盤なら百万円以上もする高級品だ。
「100面は作れますね」と、つい調子にのってしまった。
碁盤のサイズは45cmx45cmx20cm。柾目で50面は取れそうだ。5千万から一億円という計算になった。杉ではこうはいかないだろう。つぶやきが出るのもわかるような気がする。

帰りがけに玄関をのぞいて奥さんに礼をいい、ノートに記帳していると隣の部屋から温和そうなご主人がでてこられた。内池家と近江商人の話をしだすと、「内池さんは学者さんです」と、昔の話を知っておられた。

街道の道がわずかに曲がっている所が宿の北詰めにあった枡形の跡で瀬上宿はここでおわる。飯坂温泉から流れてきた摺上川にかかる幸橋を渡る。西空はシルエットになった信夫山の上に日が落ちつつあった。

福島市から伊達郡伊達町にはいる。

新町交差点を左にはいった福源寺に
義人斉藤彦内の墓がある。寛延2年(1749)のこと、大凶作にかかわらず増税を課してくる代官に対し長倉村組頭斉藤彦内、鎌田村猪狩源七、伊達崎村蓬田半左衛門を主導者とする16800余名の農民が一揆にたちあがった。免租の目的は達したが、多数の農民は捕らえられ、彦内はじめ、源七、半左衛門の3名は翌年産ヶ沢の刑場において斬首された。この地方にはあちこちに彼ら三名の義人を顕彰する碑をみることができる。水戸街道では助郷一揆の例をみてきたが、奥州街道では年貢一揆だ。特に寛延2年の大凶作はひどかったようで、同じ年に、幸いに無血一揆に終わったが、本宮仁井田でも積達騒動がおこっていた。

田町で道が右にまがる角にある薬師堂の横にも三人義人の碑が建っている。

長岡の町を進んでいくと右手に、緻密につまれた赤レンガの高塀をまわし同じ深赤色の瓦をのせた堂々たる薬医門をかまえた屋敷をみた。宿場ではないので本陣でもなければ問屋でもない。豪農か豪商、あるいは医者の旧家であろうか。かならずしも古色をみせるわけではないが、長いレンガ塀が印象的で、端正なたたずまいが町並み全体の風景に品格を与えている。

国道399号線を渡り、潤野川を渡って桑折町に入る。白河以来つかずはなれずによりそってきた阿武隈川はこれより東に離れていって、岩沼手前の槻木で再会する。

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桑折(こおり)

産ヶ沢川を渡った左手に、寛永三義民顕彰碑がある。むかしこの付近に刑場があって、三人が斬首された場所である。

道なりに進み、宝積寺の前で左にまがるあたりが桑折宿の入り口であった。宝積寺は一軒の民家にすぎない建前で、畑の奥に小さな地蔵と色とりどりの風車が並んでいる。庭先をすすみ火伏不動尊の横を通っていくと、その奥に諏訪神社の広い境内に出る。本家信州の諏訪大社から譲り受けた巨大なアスパラガスのような御柱(おんばしら)が二本、天をついて立っていた。御柱とは、枝をはらい樹皮をはがされた樅の大木が6年ごとに山肌を曳き落とされる、天下奇才の一つ御柱祭りの主人公である。たち姿は凛として垂直であった。

道は丁字路にぶつかる。左にまがると湯野街道(県道124号線)で、飯坂温泉に至る。芭蕉は逆に、飯坂温泉からこの街道をたどって桑折に入ってきた。

交差点の左角に当地の領主桑折氏一族の菩提寺である
桑折寺がある。優雅な形をした唐門形式四脚門の山門は、町の西側にある西山城跡の門を移したものである。境内はひろくはないが、野草の好きな人が住んでいるとみえて、庭にはいくつものめずらしい花がさりげなく植えられていた。みな素朴で花びらの小さなめだたない花が多い。イングリッシュガーデンの趣を感じさせる植え込みだった。以前から撮りたいと思っていた「ホトトギス」の花を見つけて、ひとしきり遊んできた。

寺の前の湯野街道を西に200m程行くと、下万正寺(しもまんしょうじ)地区に入る。見落としそうな細い標識にしたがって民家の私道にはいっていくと、竹垣にかこまれた一角に伊達氏の
始祖伊達朝宗の墓がある。自然石を無造作に置いただけの質素な墓だ。桑折は仙台藩主伊達氏発祥の地である。伊達朝宗は常陸入道念西と称して常陸国伊佐荘(茨城県下館市)に住んでいたが、源頼朝の奥州攻めに従い文治5年(1189)8月、阿津賀志山に藤原国衡の平泉軍と戦い、その時の功によって信夫、伊達の地を賜わり伊達を称した。西山城を築き居城とした。伊達氏15代当主、春宗は天文の乱(父子の内紛)をおさめると、居城を桑折より山形の米沢に移し、西山城を廃城とした。独眼龍で知られる仙台初代藩主伊達政宗は春宗の孫で、17代伊達家当主にあたる。

桑折は奈良時代、東山道の宿駅(伊達駅)が設置され、行政を行なう郡家が置かれていた古い土地柄である。桑折(こおり)の名も「郡」からきた。江戸時代に入って幕府領となり当地には代官所が置かれた。桑折はまた、近くに日本三大銀山(佐渡の相川、但馬の生野)の一つ、半田銀山をひかえ、羽州街道との分岐点でもあったため交通の要所としても栄えた。明治以降も伊達郡役所が置かれ、この地方の政治経済の中心地であった。

その名も「陣屋」という地区に、当時の
伊達郡役所の建物が残っている。役所の東側に桑折の陣屋があった。この建物は明治16年に建てられた、物見塔のある総二階左右対称の洋風建築で、明治洋風官衙の代表的な作品である。今は無人の建物で中は調度品もなくガランとした板間である。二階で半田銀山の特別展示会が催されていた。車で半時間程度のところに鉱山跡が保存されているが、羽州街道沿いにあたるのでその時見ることにする。

前庭に杖を手にした芭蕉が立っていた。足元の巨石には『奥の細道』から、「月の輪から飯坂温泉にとまり、桑折に出て伊達の大木戸まで」の抜粋を刻んだ大きな文学碑がはめ込まれている。

宿場は郡役所の正面から北に一直線に延びていた。道の両側の歩道は緑色のマットで舗装され、自由に駐車ができる。更に空き地を利用して町の無料駐車場が設けられていて、桑折はドライバーにやさしい町だ。

役所からすぐ右側に大安寺がある。中国風の鐘楼を兼ねた二階建て山門をくぐっていくと境内の隅に当地の歴史上有名な人物の墓がおおくおさめられている。裏の広い墓地には初代佐藤新右衛門家忠、4代佐藤左五右衛門宗明の墓がある。桑折の佐藤家は飯坂の佐藤庄司の子孫で、初代家忠は郡役として摺上川から延長10里におよぶ疎水を開削し、1000町歩の荒野を開田した土地の功労者である。農民の厚い崇敬をうけて西根神社に祀られた。4代目の当主佐藤左五右衛門宗明も桑折本陣を勤めた重鎮で、俳号を馬耳(ばみ)と名乗る芭蕉俳人であった。法円寺に「芭蕉の田植え塚」を築いた人物である。

大安寺から北に50m程行った左側に法円寺がある。芭蕉が須賀川の等躬宅で詠んだ「風流のはじめやおくの田植え唄」の句を、俳人「馬耳」が享保4年(1719)ここに埋め塚を築き田植え塚とした。須賀川のように、当時桑折には大勢の俳人がおり俳句が盛んであった。時代は異なるが、桑折の馬耳は須賀川の等躬のような存在である。塚のむかいにまだ作られて新しい芭蕉の坐像がおかれていた。

北町と上町の境に造り酒屋が風情ある店先を構えている。うしろに造り酒屋特有の高いレンガ煙突が立ち、白壁の土蔵がみえる。裏側にまわってみると、建物の白黒に、川の青色と柿の橙色がそえれれて一幅の絵をみる想いであった。

上町に入るあたりに木戸があり桑折宿の北門だった。交差点を左にはいると無能寺がある。紫の法衣をまとった住職が仏事を終えた客を見送っている。近づいてみると女性だった。本堂は新しそうだが、その前に傘状に大枝を張るみごとな松は樹齢400年をほこる老松だ。明治天皇巡幸の際「御蔭廼松」と命名された。

駅前の道をしばらく南下して線路の西側に出る。標識に従って
西山城址をたずねる途中、東北自動車道のトンネル前に大きなカヤの巨木があった。数匹の大蛇が一塊に空へよじ登る姿を想わせる巨幹は目をみはらせる迫力がある。根回り8.1m、目通り囲7.2m、樹高15mのカヤの巨木は県内随一のものだという。100面の碁盤が取れるかもしれないと考えた宮代の大カヤ(根回り8.8m、目通り囲4.6m、樹高21m)に比べてもその幹の巨大さがわかる。 

西山城は12世紀末、伊達氏の祖伊達朝宗が築き、15代春宗が米沢に移るまで居住した山城である。今はひっそりとして訪れる人も少ない。本丸跡まで道はつづいていたが車の幅もなさそうで、展望がきく山の中腹にあった説明板をみて引き返すことにした。半日のピクニックコースには手ごろな山道だろうと思われる。

この山の東麓を、佐藤新右衛門家忠が開いたという水路が走っているはずであった。車であたりをうろついていると水門のほとりで仕事をしている二人の男性にであった。
西根堰はどこでしょうか」
「これだよ」
手前から二つの流れが合流して水門に引きこまれていく。左からくるコンクリート水路が西根堰、右の自然体が産ヶ沢川。

羽州街道追分

桑折駅前通りから追分までの街道が止められて、その日は宿場のイベントがひらかれることになっていた。舞台が設営されて、若者が演奏の準備にいそがしくしていた。駅の前を通って迂回する。追分けを左に線路を越える道が旧羽州街道で、小坂宿・小坂峠を越えて七ヶ宿を経て出羽の国にでる。山形、秋田を経由して青森の油川で奥州街道と合流する。道端に近年建てられた道標があった。陸前浜街道を岩沼まで歩いたあかつきには、奥州街道・奥の細道と同時進行で、ここから羽州街道をはじめる予定だ。やはり紅葉の季節にしよう。

(2005年5月、11月)
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