奥州街道(4)



白沢氏家喜連川佐久山八木沢大田原
いこいの広場
日本紀行
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白沢

道は真っ直ぐにのびた県道125号(宇都宮氏家線)を行く。宇都宮−白沢間をとくに「白沢街道」ともよぶ。竹林町あたりには時々旧街道の名残を偲ばせるような枝振りのよい松の木や旧家をみることができる。119号線を越えた海道町では、塚状に整備された桜並木が現れる。松や杉も混じっているようだ。並木は外側に連れ沿う歩道を、車道の喧騒から遮断して、ゆったりとした田園の風景のなかに取り込んでいる。おりしも暮れなずむ時刻であった。

やがて河内町、稚児坂にさしかかり、なだらかな丘陵を越えていく。坂道を下り始めたところの右方高台に
白沢地蔵堂があり、堂前の小庭に、絵本仕立ての説明板が立てられていた。
今から約900年前の出来事です。鎌倉時代(建久年)源頼朝の命を受け伊沢家景が奥羽総奉行として鎌倉より東北に向かう途中白沢稚児ヶ坂(高崎製紙工場西側)で子供が病気になり亡くなりました。その子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。それから900年もの間、この地蔵堂は白澤南自治会(昔は上岡本村)の人々によって守られてきました。

形が漢方の薬種を砕く器具(薬研)に似ているとことから、
「やげん坂」と呼ばれている坂をくだり終わった辺りで町が現れ、道はT字路にぶつかった。左に曲がれば白沢宿に入り、右へ行けばJR東北本線の岡本駅に通じる。日も暮れホテルを探す時間になった。白河の宿にはビジネスホテルがありそうもない。「宿屋ならあるけど、ホテルはねえー。岡本駅までいけばありますよ」という地元のおばさんのアドバイスを受け、岡本駅前交差点角のビジネスホテルにありついた。
翌日。栃木銀行の駐車場に車をとめて朝の白沢宿を散策する。通りは掃き清められたように清潔で、両側に用水が豊かに流れ、白髭神社入口の前には水車が静かに回っていた。清らかで静かな町――似たような風景をどこかで見かけたことがある。湖北、国友の里だ。


郵便局は、本陣を勤めた白沢村の庄屋、宇加地家宅にある。前の歩道に、白沢宿場の生い立ちと、宇都宮から白河までの街道案内地図を記した説明板が立てられている。作成者はお決まりの教育委員会ではなく、白沢宿場保存会だ。大谷石の鳥居を構えた村社の白髭神社の他、めぼしい史跡がないなかで、水車を設け用水に鯉を放ち各戸に屋号札を掲げるなど、自治的な町づくりのひたむきさが伝わってくる。
江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道の第一宿としておかれたのが白沢宿でした。宇都宮で日光街道と分かれ、白沢宿から白河宿まで23里(約90キロ)が10宿で構成されました。16世紀以前は純農村でしたが、宿のルーツは関が原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めにさかのぼります。すなわち徳川家が鬼怒川を渡るとき、その案内役をかって出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と上岡本村庄屋の福田家でした。その功績が認められ戦いの後両村共同で白沢宿という名で往還宿を構成することが許され、慶長14年(1609)には、町割も完成し両家は御用を勤め問屋になっています。天保14年(1843)には本陣1、脇本陣1、旅籠屋13軒を数えていました。白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。明治18年奥州街道が現在の国道4号線に移り、おかげで現在の宿のおもかげを今にとどめています。白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存していくため、むらづくり事業を契機に、用水掘りに鯉を放流し環境美化に努め、後世にその歴史を伝えていきたいと思います。   昭和62年3月吉日   白沢宿保存会

道なりに右折し、小さな橋を渡ったところの三叉路を直進して
西鬼怒川を渡り、鬼怒川の堤防まで車をすすめた。堤防のどこかに渡し跡があるはずだ。左側は進入禁止の柵がある。堤防を越えて作業道路を下っていくと、行き止まりは工事現場となっていた。引き返して、広々とした田圃の中につけられた農道を東下ヶ橋まで進む。このあたりは白沢河原とよばれる地域で、かっての川筋だったのだろう。

右手に見える一軒農家に通じる細道を試みて、堤防を乗り越えると、果たして河岸に、小雨に濡れて半ば倒れかかった十字標識が潜んでいた。
「鬼怒川渡し跡 白澤 氏家」とある。川は霞んで寂しそうだった。これまで風景に興味を示さなかった妻が、はじめて私のカメラを取りあげて川の景色を撮りはじめた。レンズが雨にかからなければよいが…。

堤防の上を強引に進んで、鬼怒川にかかる阿久津大橋の西袂にでた。橋を渡って氏家町に入る。

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氏家
 

氏家は白河から発する奥州街道をはじめ原方街道と関街道、また会津若松からは会津西街道と会津中街道が集る交通の要衝である。さらに、阿久津河岸は、鬼怒川→利根川→江戸川と、江戸まで通じる舟運の起点でもあった。この地は氏家姓のルーツである。鎌倉時代、勝山に築城しこの地を支配した宇都宮公頼が、この地名をとって「氏家氏」を名乗り全国氏家姓の始祖となった。

川の東岸に氏家の一里塚があると聞いて、橋下の砂利道をさまよっていると河川敷公園の後ろの土手に、一本の木立と大きな石が見えた。雨に艶だされた石面には「川の一里塚」とあって、街道一里塚ではなかった。位置的にはちょうど白沢側でみた渡り跡の対岸にあたる。

橋の上流が
阿久津河岸跡である。民家の路地をすこし分け入ったところに船玉神社がある。舟形の境内で、舳の部分に祠があるという。左側奥の常夜灯は基部に「左江戸道、右奥州道」と彫られ、道標を兼ねていた。大通りにもどって、上阿久津交差点を越えて路地を進むと奥の方に与作稲荷がある。社のわりには広い敷地を有している。この界隈はかって旅人や参詣者相手の休憩、宿泊、遊興の場として賑わいを極めていたという。

通りにもどり氏家宿に向かって堂原まで進むと、昔、満願寺があったという右奥の林の中に
将軍地蔵がある。そうめん地蔵とも呼ばれる。フラッシュが必要なほど暗い林の中にひときわ目立つ赤帽子に赤まいかけ姿の地蔵が雨に打たれていた。説明板には、あるとき将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたこと、またあるとき、悪い山伏がお坊さんに素麺を強要したこと、などが互いの脈絡なく記されている。とにかく、奥州街道の道中安全にご利益があるので有名となった。

道をさらに進むと左手に
勝山城跡・ミュージアム氏家への入口標識が出てくる。鬼怒川崖上に築かれた勝山城の跡地は、駐車場を備え、公園としてよく整備されている。城山を順路に沿って歩いていく。右手に、河川敷を利用した鬼怒川河川公園を見降ろす。雨にかすんでいても、「道と川百選」に選ばれた場所だけあって、無機質なビルや電線に犯されずに広がる川の流れと遠方の山並みの風景は、十分な美しさを提供してくれた。 

本丸跡は高い土塁に囲まれた円形の空き地である。「水戸の冬桜」が肌寒い秋雨の中でまばらに花をつけていた。深い堀跡にかかる木橋を渡ると、左手に縄文時代の配石遺構が、また正面には順路の最後を受け持って近代的なミュージアムがまっていた。平成5年にオープンした市営ミュージアムで、博物館と美術館からなる。展示はよく企画されて充実していて、居心地のよい施設である。

ミュージアム入口の筋向かいから東方に出ている細い道が旧道である。のんびりと広がった田園地帯の農道を進むとほどなく、国道4号に出くわす。見通しが利かないうえに信号も横断歩道もない。首をいっぱいに伸ばして双方の車の流れが途切れる瞬間を待って一息に国道を横切るのは一仕事だった。

左路傍に木の標識があり、田圃のあぜ道を指して
「お伊勢の森」とある。農家の隣りにこんもりとした森が見えた。近寄って説明板の由緒のほどを読んだが、あまりたいしたことはなかった。すぐ先に東北本線の踏切りがある。名前がつけてあって「旧奥州街道踏切」と宣言しているのはありがたい。こちらは国道とは対照的に、一直線に伸びる線路上には物影一つ見えない。それでも青信号の踏切りで一端停止する規則になっている。思わず、最近目にした新聞記事を思い出した。60代後半のベテラン弁護士が今夢中になって取り組んでいる仕事が、この交通規則の撤廃だった。彼の言い分はこうだ。
全国数万とある踏切りで、遮断機の上がった青信号を信用して、一時停止せずに渡って電車にぶつかった事故は聞いたことがない。恐いのは停止直後のエンストだ。特に田舎の踏切りは見通しがよくて左右1km向こうの様子までわかる。電車の姿も見えないのになぜ、止まらなければならないのか。踏切りのむこうの草陰からやおら警官が出てきて反則切符を切る。このばかげた規則による国家的経済損失はxx億円である。アメリカでもドイツでもこんなルールはない。そのために踏切り事故が多いという統計もない。アメリカ人にできて日本人にできないことはないはずだ。

金儲けにもならない、誰かに頼まれたわけでもない、ただ反論の余地のない明白な不合理に挑戦している、実直そうな弁護士の顔写真を思い出して微笑んでしまった。

農道は古町で、すこし広い道(大谷道)にぶつかり、その手前右の道端に地蔵にまじって
古い道標がある。「右(西)江戸海道、左(南)水戸かさま(笠間)、下だて(下館)、下づま(下妻)」と彫られている。( )書きは著者。左方向の目的地はにぎやかだが、確かに南にくだればいずれは茨城県に行く。この辺が宿場の南端で、木戸番所が建っていた。

丁字路を左折し、R293を横切って氏家宿に入って行く。町は白沢よりもずっと大きく、それだけ雑然とした印象を受ける。黒須病院前バス停の前にある茶色のレンガの
平石歯科医院が本陣跡だと、資料にあったが見逃した。氏家駅東入口交差点の右手に光明寺がある。石山の頂上にいる青銅造不動明王坐像はミュージアム氏家に保存されている木造坐像を原型としたものだ。通常は廃棄されるべき原型が残っている例は珍しいらしい。 顔の表情は仁王よりも恐ろしくて迫力があった。

さらに進むと上町信号交差点の
追分に出る。直進するのが会津街道で、すぐに西街道と中街道に分かれている。右折して東に向かうのが旧奥州街道である。左にまがって駅に通じる商店街はなぜか「KONPIRA STREET」(琴平通り)とある。


薬王寺の前を通りすぎてしばらく行くと左に大きな屋敷が現れた。
旧滝澤邸という現役の居宅である。滝澤家は明治時代に紡績で財をなし貴族院の議員にもなった名家で、明治25年、氏家で陸軍大演習が行われた際に明治天皇の休息所として増改築されたものが残されている。街道沿いに黒々と続く長大な長屋門と格子塀は江戸時代の武家屋敷を思わせ、塀越しにそれとなく誇示する素振りの蔵屋敷の洋風望楼は明治の粋を感じさせた。滝沢家だけでなく、この近所には大きな屋敷が集っている。

狭間田交差点の100m手前右手に
一里塚の標識が出ている。伊藤家宅のブロック塀の内側に、盛土と小さな祠がある。門を入り、声をかけたが誰もいない様子だった。祠に近寄って写真を撮らせてもらった。右の写真は、通りから塀越しに撮ったもの。500mほど行くと市ノ堀用水路を越え、道路標識に「右折が喜連川」と出てくる。右へ折れて行くのは293号線で、旧街道はそのままの道を進んで行く。どちらを行っても喜連川に着く。町の名が氏家から喜連川に変わる。

弥五郎坂と名づけられた、旧街道の香り漂うなだらかな坂を進むと、左手に丸みをおびた三体の石が並んでいる。道祖神と二十三夜供養塔と、なにかだ。その筋向こうの高台に石段を挟んで「古戦場」の標識と、「松尾弥五郎供養碑」が立っている。駆け上がると奥に祠があって、「早乙女坂古戦場跡」の詳しい説明板が建てられていた。薄暗い木立の向こうには畑地と雑木林がひろがっている。

坂はしだいに急になって、峠が間近かそうだ。右に獣道が延びていて入口に旧奥州道の案内杭が倒れていた。数歩、雨で濡れた落ち葉を踏みつけてみたが、足元は緩んで、先が見える様子でもない。若くて晴れた夏の日であれば、旧碓氷峠を越えた調子で進んでいたかもしれないが、今は奥に分け入る勇気がなかった。

静かな下り坂にかかる。一山を越えれば喜連川だ。
峠も越えて里に向かうころ、左に句碑(歌碑)を見た。降りたところは桜の名所で、「早乙女の桜並木」の標識がたってある。道なりに進んで河畔に着くと大きなしだれ桜が1人寂しく立っていた。

右に折れて川沿いを進むと橋のたもとの十字路に出る。東南角に大きくてわかりやすい道標があった。
「右江戸道 左下妻道」とある。江戸道とは江戸に向かう奥州街道のこと。左にとると奥州街道からわかれて古道下妻街道を南下する。

川の名前は荒川。橋は連城橋。向こう岸に喜連川(きつれがわ)の宿がある。旅半ばの体安めに、今夜は温泉に浸かる予定だ。

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喜連川 

喜連川は源平合戦で武功のあった塩谷氏、その後の足利氏と800年にわたり中世から江戸時代まで続いた城下町の宿場である。「喜連川」という川はない。宿場町は南に荒川の清流を配し、西に城山を盾にした落ち着いた城下町である。山の南裾、荒川のほとりに湯が出た。湯元近くに民宿がある他、山の中腹にかんぽ(簡易保険)と国民年金の保養センターがあるだけで、温泉地特有のけばけばしいホテルはない。観光バスが誘導する大規模な土産物店も見かけなかった。
一軒の民宿を訪ねた。
「部屋はありますか」
「あることはあるけど、温泉じゃないよ。温泉に入りたければここに泊まって向かいの
もとゆ温泉に入るか、ちょっと行って年金やかんぽの保養センターに泊まるかだね」
他に客はなさそうで、なんだか一組のためにこれから料理の準備をするのが面倒そうな顔つきだった。

結局、「お丸山」とよばれる城山の西側にある国民年金保養センターに落ち着いた。二食付き一人8120円。簡保より2000円以上も安い。年金資金の無駄遣いとしてやり玉に上がっている大きな施設である。いずれ無くなる運命にある。 

翌朝。昨日の肌寒かった秋雨は通り過ぎて、空は透き通るように青い。保養センターから山を登りきって、頂上の城跡を訪ねる。この区域全体を
「お丸山公園」という。駐車場周辺には展望台、孔雀園、児童公園、日帰り温泉など、総合レジャー温泉的な景色だが、一歩、城跡の遊歩道に踏み入れば、展望がひらけて眺めがすばらしかった。公園の片隅にちいさな仲睦まじい夫婦姿の道祖神がいる。

段状の城跡地から下りにかかると、深い堀切りに鉄橋が跨いでいる。
「やっぱり、古びた木橋じゃないとね」

山の西側に降りる。路地を入って行くと武家屋敷のような家並みが続き、塀に沿って小さな堀が設けられている。飲料・灌漑・防火などの多目的用水として作られたもので城の中まで通じていた。清流には丸々と育った錦鯉が放たれている。

御用堀の一筋外側の通りは荒川の堤防下である。ここにも
「寒竹囲い垣」という喜連川の見所がある。笹の生垣だが、密生する笹の性質を利用して、板塀のような維持費が要らない利点に目をつけた藩主が奨励したという、格別の由緒をもつ。

橋の上から川の上流風景をもう一度見た。見違えるように空は晴れ渡って、はるか遠くに日光連山や那須連峰の眺めまで見通せた。

宿場通り自体は1kmもない小さな町だ。鉄道からも国道からも離れてあることが古い町並みを保存するのに貢献したといえる。その意味で白沢宿に似ている。

本町信号を過ぎた右手奥に喜連川藩主足利家代々の墓所
龍光寺がある。足利尊氏が諸国に開基した安国寺の一つが前身で、その後龍光寺と改称された。風格を備えた白木の門を構えて、藩主14代の墓が整然と立ち並んでいる。境内にうっかりすると見落とすくらいに控え目な道祖神がいた。肩を抱きあい前で手を組み合って、先ほど城山公園でみた仲良し夫婦とそっくりだ。

すこし進んだ左手奥の石階段上には、あばれ神輿で知られている
喜連川神社がある。社を取り囲む竹林が美しかった。階段をおりて細い路地を左に進むと金のシャチホコを戴いた近代砦のような大手門が現れる。ここは江戸時代の喜連川藩足利氏の館があった場所で、現在は町役場などの官公庁コンプレックスがある。市役所といっても遜色のない立派な建物だ。

大手門の前の細道を左にすすむと警察署にでて、そのまま真っ直ぐ行くのがどうやら旧道のようだ。道は途中でとぎれるがすぐに復活して御霊宮のそばを通り、やがて専念寺を過ぎたところで114号に合流して大きな台町三叉路に出る。正面の三角台地の道路沿いに
「右奥州街道 左在郷道」と刻まれた道標がある。在郷道とは、ほぼ内川に沿って北上し、片岡で国道4号線と合流している道だ。114号線は右に曲がり内川を渡って佐久山へ向かう。

のどかな田園風景の中を進むうち、南和田で右からの25号線と合流し、曽根田地区で
下河戸丁字交差点にさしかかる。右に曲がったところに、こんどは大きな夫婦道祖神がいた。顔の表情は少し違うが、ポーズは先に見た2例と同じだ。一つの典型なのだろう。傍に天皇御幸の際の記念碑が建っている。江川という小川を乗り越えて、道がおおきく左に曲がりきったところで、「源氏ホタル生息地入口」と書かれた看板に出会った。ホタルはカワニナを餌にして育つ。カワニナは清く冷たく細い水の流れにしか棲まない。滋賀県山東町が有名である。

1kmほど右へ入って行くと、改めて
「源氏ボタルの里」の標識が、真っ直ぐ行っても右に曲がって行ってもよい、と示している。刈り取りの終わった田圃が丘陵に挟まれ、道路の下方に広がっている。蟹沢という山里集落らしい。ホタルの里は引田川に沿ってあるのか。

付近に「25メンバーズ倶楽部琵琶池コース」というゴルフ場があるが、その琵琶池は白鳥の飛来地として知られている場所でもある。114号にもどって進んで行くと、ようやく喜連川町と大田原市との境界に来た。喜連川の領地は広かった。境界の手前、手塚家の畑の中に
一里塚跡がある。戦時中、防空壕として使われたとのことで形は崩れてはいるが塚の面影を偲ぶことはできる。
                 
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佐久山

14号線は丁字路で48号線に受け継がれ右へ曲がって佐久山宿へ向かう。
48号と52号線との合流点角に「知ってっけ佐久山」と題した大きな絵入りの案内地図板が立っていた。「知ってるか?」という意味?
メモ代わりに地図をデジカメで撮るのだが、液晶画面に再生しても小さすぎて、その場では役立たない。再生画面を拡大する機能があれば、ヒットすると思うけれど。

ほどなく48号は52号線と合流するが、旧道はそのまま交差点を通過して左に曲がりながら坂を下る。坂の途中左手奥まったところに
観音堂があり、六地蔵をはじめ石碑などが一列に行儀よく並んでいる。観音堂の前には上半分が朽ち落ちた水準点識標があった。水準点そのものは立て札の足元か背後にあった石碑に刻まれているのだろう。標札をみただけで納得して、現物を確かめなかった。

坂を下り左旋回が終わると、先ほど分かれた48号線に合流する。そこが佐久山宿の入口にあたる。佐久山宿は大田原市内、大田原は那須与一の出身地である。文治3年(1187)与一の兄、那須泰隆が、佐久山に城を築いて村が起こった。わずかに土塁のもが残る城跡は御殿山公園として、佐久山小学校の裏手にある。通りはひっそりとして、薬屋の数だけが目立った。なかでも矢木沢家の標札を掲げた大邸宅は、「運用膏」と彫られた古めかしい木看板が唐破風の屋根をかざして、往時の豪商ぶりを偲ばせる。

宿場町のほぼ中央に、那須与一を画いた公衆トイレと奥州街道を示す道標を設けてある。共にまだ新しい。その横道を入って行くと、
「佐久山のケヤキ」として知られる大木がある。推定樹齢約800年という古木で、説明板にとよると「南側の根はほとんど腐っている」らしい。樹高約22m、目通り周囲7.5mで、宇都宮の新町のケヤキよりも低いが周囲はいい勝負だ。


1kmに満たない宿場通りを終わると街道は右折して大田原宿へ向かう。左手に正浄寺という大きな寺がある。

すぐ先で箒川にかかる岩井橋を渡る。橋の上から見る
箒川の眺めは、喜連川の連城橋からよりもいっそう峰が近くに見えて、川中には豊かな清流を塞き止めるように大掛かりなヤナが仕組まれていた。右土手に「○○観光ヤナ」の幟が見える。10台ほどの車が留まっている河川敷の店小屋をのぞくと、ちょうど昼時でもあって、数人の男が炭火を囲んでいた。鮎の塩焼きの温もりある香りが漂ってくる。

川を登って成長した鮎は、やがて産卵のために河口を目指して川を下る。流れの中に築かれた堤にそって一ヶ所に誘導され、竹網で組んだ簾にさしかかると水だけ落ちて鮎が掛かるという仕組みである。ヤナ漁は8月下旬から10月までが季節らしい。

吉沢地区に入り小さな交差点角に「
イトヨ生息地0.6km」の標識が立っている。左にまがって田圃の中を進むと右手に小さな茂みが現れた。中に加茂・大杉神社があり、その横を田谷川という細い湧き水の流れが続いている。イトヨは湧水のある所にしか棲まない。雄が巣をつくり、卵を外敵から守り、子育てもするという珍しい習性を持つ。透き通った湧き水の流れに身を任せる水草の隙間を覗き込んでみたが、魚の姿を見ることができなかった。ホタルと同様、イトヨも滋賀県湖北地方にいる。

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八木沢親園)

親園地区に入る。ここに大田原と佐久山を結ぶ間宿として、八木沢宿が置かれた。佐久山に「八木沢」という老舗薬問屋を見たが、あの姓とこの宿名とになんのつながりもないものか。この集落の起源を記した「町初碑」によれば、「三代徳川将軍家光の寛永年間(1624−1644)に奥州街道筋に八木沢部落が開かれたのが始まりで、国井与左衛門が代々名主役をつとめた」とある。高さ55cm、周囲93cmの自然石で表面に「此町初寛永四卯年」、裏面に「国井与左衛門」と刻された碑が国井宅の前庭にある。

敷地には樹齢200年を越す赤松の古木が優雅な枝振りを披露していた。案内板があって、「与一の里名木選 国井宅の赤マツ 選定理由 古木」と記されている。

国井家だけでなく、親園地区の街道沿いには長屋門を構えた立派な旧家が目立ち、佐久山との違いを感じさせる。

国井宅の道向かいの空き地に「旧奥州道中 親園」の道標と、
「史蹟蒲盧(ホロ)碑」の標識が立っている。小さな御堂の中を覗くとぎっしりと159文字の漢字が詰まった石碑が納められていた。寛政5年(1793)にこの地を治めていた代官山口鉄五郎の仁政と功績を讃えたものである。蒲盧の語源は、中庸第20章にある孔子の言葉「人道敏政、地道敏樹。夫政也者、蒲盧也」「人道は政に敏にして、地道は樹に敏。夫れ政なる者は、蒲盧の如し」からきているという。

小さくも豊かな田舎の家並みを通りすぎ、街道は徐々に現代の猥雑な沿道風景に染まって行く。大田原市内はもうすぐだ。


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大田原

48号は461号にぶつかって終わる。461号は芭蕉が日光からの帰りに通った日光北街道である。玉生を発った芭蕉は矢板、大田原を素通りして、黒羽まで直行した。
私はここで二足のわらじにはきかえる。奥州街道の大田原を見た後に、奥の細道を行く芭蕉をおっかけようと思う。

右に曲がると461号線は薬師通りと呼ばれ、左手奥に
薬師堂が現れる。狭い境内には幾つもの小規模文化財が集ってそれぞれに説明板があった。甲州屋旅館は古そうだ。裁判所の筋向かいの空き地に「本陣・問屋・高札場跡」の立て札があり、「旧奥州道中 大田原宿 下町」の新しい道標もあって、宿場跡であることを主張している。一風変わった荒物やの看板が目に入った。「いいものしか置かない」という。「無い物はない」といい、この業界はちょっと変わっているな。

通りを東に進むとやがて上町交差点に出る。左角に、「旧奥州道中 大田原宿 上町」と彫られた最近の道標と、江戸時代の瀟洒な
金燈籠とが並んで立っている。この金燈籠は文政2年(1819)に町内安全・常夜燈として鋳造されたもので、昭和にはいり太平洋戦争で供出されてしまった後、昭和54年に再建されたものである。道標を兼ねた灯篭の台座には「上町 江戸 白川」と刻まれている。灯が袋の亀の甲模様を浮き上がらせて優美で艶のある姿だ。灯篭と松の木の影に隠れるように、後ろの塀にもたれて遠慮がちな芭蕉の足跡を見つけた。芭蕉とは喜沢で別れて以来、久々の再会である。

次の信号を左に折れて光真寺を訪ねる。山門を入った左には33の観音石仏が陣取り、その奥には唐風のひときわ朱色がめだつ大黒天が立ち、その右には、山の斜面を背にして大田原氏歴代の墓所がある。開放的で明るい境内である。

寺に隣接する
大田原神社には一対の大きな常夜燈があって、その説明板に、はからずも近江商人の足跡を見つけた。宝歴12年(1762)1月、近江日野商人中井光武が商売繁盛を祈願して奉納したもので、大田原を拠点として商圏を北関東・東北に拡大し、行商中心の商法から、店舗中心の形態に移行していった過程を示す貴重な資料であるという。大田原の商業史における中井氏の位置は高い。

中井氏の栄光を受け継いでいる企業を訪ねた。
鳳鸞酒造という。中井家に奉公していた同郷の脇村宗吉が、明治14年(1881年)に当地で酒造業を起こしたものである。酒名を故郷の「琵琶湖」とした。カウンターに展示販売用の酒やワインを並べた会社の事務所を訪ねると、女性社員が若い社長に取り次いでくれた。立ち話で済ませるつもりでいたのに、ハンサムで感じのよい5代目脇村社長は応接間に二人を招き入れ、同社の歴史を語ってくれた。
「『ルーツ』という本が出たでしょう。学生のころでしたが、私も自分のルーツに興味を抱くようになりましてね。すこし勉強したのです」
立ち上がった脇村社長は奥の本棚から分厚い本を取り出してきた。

『近江商人中井家の研究 / 江頭恒治著』雄山閣 昭和40年初版
     著者略歴 昭和2年京都帝国大学経済学部卒業 現在滋賀大学教授

脇村家に関する部分であろう、数カ所に紙切れが挟んである。
179ページにルーツの記載があった。脇村家と中井家とは遠戚で、中井家が仙台店を出したとき、脇村宗兵衛は5人の共同出資者の一人になっている。時は明和6年(1769)であるから、鳳鸞酒造創業の110年前からのつきあいだった。
「没落した中井家の酒造業を脇村が引き継いだのです」
「宇都宮で、お母さんがこちらから出られたという『近江屋酒店』さんに出会ってきました」
「会長の妹、私の叔母です。分家酒屋はみな「近江屋」を名乗るのですよ」
「では、宇都宮以外にも近江屋酒店さんが・・・?」
社長は手帳を取り出して読み上げてくれた。
那須町大字寺子・・・。佐久山に『島崎酒造』さんがあるのですが、あそこも日野の出身です。系列酒屋はみんな『日野屋』といいます。最近廃業されましたが…」
「佐久山は今日通ってきたところです。惜しかったなあ」

社長は本を抱えてコピー室に入り、数分ほどしてもどってきた。分厚い本から10数ページをコピーするのは手間だったことだろう。今夜の晩酌用に吟醸酒中瓶一本買って辞した。座り込んで話を聞けたのは幸いだった。このページをアップした翌日のこと、新聞を見て驚いた。社長は日経新聞記者とも会っていた。但し話題はワインである。

街かど図鑑  栃木・大田原
栃木県北部の大田原市に、様々な果物の
ワインを造っている酒造会社がある。清酒「鳳鸞」の鳳鸞酒造(脇村光彦社長)だ。12月には7種類目となる巨峰のロゼワインを発売する。ワイン造りは需要が減退している本業の清酒を補うために始めたが、個性的な味が人気を呼んで、ワイン部門の売り上げは年7−8%伸びているという。巨峰のロゼワインは栃木県大平町産の巨峰を幅広く売り込むことを目指している。鳳鸞酒造は今年は4000本(1本=720ml)を製造・販売する。来年以降も続ける考えだ。ワイン製造を始めたのは2000年。大田原市の本社に「那須の原ワイナリー」というワイン醸造所を併設した。まず、一般的なブドウの赤、白、ロゼと県産イチゴのワインを製造。その後、ブルーベリー、ナシ、と種類を拡大してきた。ナシは現在県産100%で、ブルーベリーは県産と輸入品を利用している。主として栃木県内の百貨店、スーパーなどで販売している。オープン価格で実勢は1本1500−1800円が中心とみられる。2004年11月29日日経新聞より)

市内観光の最後は不思議にいつも城跡になる。車で龍城公園の中腹まで上がり、階段をのぼると高い土手に囲まれた
大田原城本丸跡にでた。土手からは蛇尾川(さびがわ)の細い流れが見下ろせる。春には土手の桜が美しそうだ。ところで、蛇尾川は大田原の上流区域で一部地下に伏して水無川となっているそうだ。yahooの地図では点線で示されている。事前に知っていれば、流れの消え入るところと再現する様を撮っておいたものを。

旧奥州街道は城と大田原神社の間を通って蛇尾橋を渡り、左折して72号線に入っていく。461号線は直進して黒羽に向かう奥の細道ルートである。

二本松地区のセブンイレブンの手前に、中田原一里塚がある。盛土は塚の名残りだ。

市野沢小丁字路交差点にくると「やおいち」青果・鮮魚屋の店先角に、
「記念物(史蹟)道標」の標識が立っており、大・中・小の石碑があった。いずれも古くて文字が読みづらい。この道標は奥州街道から棚倉街道(342号)に分岐する追分に設置されたもので、説明板には、左面に「之より左 奥殊道」右面に「之より右 たなくら」と刻まれているとあるが、どの石のことなのか、悩ましかった。

道標に混じって奥羽刑務所の看板が負けじとばかりに目立ちたがっている。「刑務作業製品展示即売所」へ「お気軽にお寄りください」とは、センス・オブ・ヒューモアか。刑務所への道をたどると、およそ6kmで白鳥の飛来地として知られる羽田沼に至る。途中、小滝には小滝城址もあるという。奥州街道でも奥の細道でもないが寄って行くことにした。

小滝城址の標識は道路沿いの農家の畑に急にでてきた。畑には、言われてみれば土塁と濠らしくも思える土のでこぼこと石のころがりがあった。庭には、りんごと柿の実がおいしそうにか細い枝にぶら下がっている。
「うまそうだな。ひとつもらおうか」
「ダメよ。なにゆってんの!」

刑務所の手前を左におれてしばらく行くと大きな
羽田(はんだ)沼が見えてきた。年配の男性ばかりが10人くらい、淵の柵に寄りかかって並んでいる。いたいた。沢山いる。それもいろんな種類の水鳥がいてそれぞれ勝手気ままに遊んでいる。監視小屋にはカレンンダーと水鳥の種類がわかる写真パネルが掛けてあった。カレンダーには日ごとに昨年と今年の白鳥の数が書き込まれている。オオハクチョウは特記されている。今年は1週間ほど前くらいに初飛来があったのだという。

一人のおじさんが車から茶封筒を持ち出して、写真を取り出した。見事な白鳥の写真である。ひとしきり写真談義になった。朝夜明け直後の撮影ばかりだという。赤い朝日が水面に映えて、まだ背景が暗い中を水鳥が離水、滑降を繰り返すのだそうだ。大きく羽ばたいて水面から離れる瞬間がメインテーマになっているらしかった。「そうですか。やっぱり」「よい写真を撮ろうと思えばそれなりに努力しなければ」「この近くに泊まる必要がありますね」「大田原でいいよ」

思う存分水鳥撮影を楽しんで、奥州街道に戻っていった。

棚倉追分まもなく、ライスラインという環状道路との市野沢交差点に、ひときわ目立つ大きな木がある。市指定天然記念物の
コウヤマキで、樹齢400年、樹高30m、周囲3.15mとある。だんだん、大木に慣れてきて感激しなくなってきた。依然として宇都宮新町ケヤキが最高記録保持者である。

(2004年10月)
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