司馬遼太郎は近江のなかでも、もっともひなびた「湖西のみち」を最初に選んだ。
かって湖西は滋賀郡を含んでいた。なぜか滋賀郡は大津と合体して、今は、湖西は高島郡のみからなる。高島郡は広い。北は在原集落から南は白髭神社までが高島郡である。中心は琵琶湖に出っ張った安曇川の三角州で、残りは比良山系の山といってもよい。琵琶湖側が安曇川町で山側が朽木村となる。安曇はあづみともよばれ古代の海人族の名前であった。ほかにも渥美、熱海、厚海、安積、海積、阿曇とも書く。これらの名をもつ土地はいずれも海岸にあり、漁業を生業として、農耕民族とは一線を画していた。海のような琵琶湖に海人族が住みついてもふしぎではない。

他方、山側の朽木村では熊や竹林を相手に生活する人々がいた。この人々も里の人達とは離れて棲んで、縄文人の末裔ではないかと思ったりもする。安曇川に沿って魚・農・猟の三種族が棲み分けていたと思うと古代の縮図を見るようで興味がつきない。思えば湖東の愛知川についても同じことが言えるかもしれない。河口の新海は漁業で、八日市、愛知郡は広大な農村地帯で、永源寺の上流、小椋は木地師の集まる山の民の地であったのであろう。

湖西は中山道や北国街道といった基幹街道からはずれた、いわば滋賀の裏日本のような立場に甘んじていた。しかし歴史的にはずいぶんと古い土地である。前方後方墳の発祥地ではないかと報じられた熊野本古墳群は新旭町は饗庭台地にある。大陸、恐らく朝鮮半島との交易を握っていた有力者の墓だといわれている。また河内王朝が途絶え越前国から迎えられた継体天皇(在位507‐531)の父が、現在の高島郡安曇川町の生まれといわれている。その墓と思われる古墳時代後期に属する前方後円墳古墳(鴨稲荷山古墳)も発掘された。

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海津大崎

丸子船の大浦の漁港から岬を南下し西側に出たところが「海津大崎の岩礁」として名高い琵琶湖八景の名勝のひとつである。奥琵琶湖の一部だが行政区分上は湖北の伊香郡でなくて湖西の高島郡に入る。湖中に突き出た岩と深い緑色の湖面は局部的には美しいが広がりやダイナミズムに欠ける。海津大崎は桜の名所としても有名で、4kmにわたって600本のソメイヨシノがつくる桜のトンネルは見事らしい。おしなべて近江、あるいは近江に限らず日本の風景は春と秋にかぎる。夏は緑だけで色彩が平淡である。

琵琶湖の漁師の戸田さんは桜の季節になるとここで船花見をする。その素晴らしさを、戸田さんの本『わたしは琵琶湖の漁師です』(光文社新書)から引用させていただく。

こんなとこ、船でいってええんかいな。気が引けるな」
そう思うくらい、湖面一面が隙間のないピンク色なんです。桜の花びらが織った絨毯を、ゆっくりゆっくりかき分けながら微速前進する。船が桜の絨毯を分けると、そこから青い湖水が顔を覗かせる。上のほうからは、桜の花びらがチラホラ風に乗って舞ってくる。天気も上々とくれば、もういうことはありません。

自ら「これなんか船を持っているから味わえる楽しみで―」と認めているように、車で来た観光客にとっては船花見に興ずる人たちは海上で扇をかざして手招きする平家の女御を見逃すほどに悔しい光景であろうと思われる。

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在原集落 

海津から西近江路とよばれる161号線を5kmほど北上したところに在原口という標識があって細い山道が左に出ている。入口に落石注意という警告がある。天候不順の日や冬は閉鎖されるという山中の曲がりくねった一本道を、川に沿ってよろよろ登っていくと、峠らしき場所が急に開けて数十世帯ほどの集落に出た。瓦葺きの家に混じって約30棟の古い茅葺き屋根の民家が群集している。道路沿いの空き地に車を止めて早朝の余呉湖で味わった開放感を再び楽しむ。観光客は他にいない。

車を降りるや故郷に帰ったような安らぎを感じた。村人の姿は見えるが声は聞こえてこない。時間が止まったような錯覚におそわれそうである。ジーンと途切れることのない耳鳴りのような蝉の声に、ギースチョンとキリギリスが間をおいてアクセントをつける。濃淡のみの緑にむかって立ちつくしていると、キリギリスのアクセントさえも耳鳴りの一部に組み込まれて現実か幻覚かの区別が定かでなくなってくるようであった。
遠い昔この不思議な感覚に身をまかせていた暑い夏の日を思い出す。確か盆をすぎると、蝉の声は連続的なミンミンゼミからあわただしくも寂しげなツクツクボーシにかわるのだった。

どの家にも花が咲き乱れている。山から流れ出る溝の水は透き通って目が覚めるほど冷たかった。 村の半分は茅葺きの家である。ある茅葺きの家の前庭で老婆がひとりしゃがみこんで黙々と何かをつまんでいた。豆のさやをもぎっているようでもあり、細かな種をより選んでいるふうにもみえた。両膝が頭よりも上に出ていて、脚の間から顔がのぞいている、アクロバットかヨガでみるような異様な姿勢であった。人の気配を気にするでもなく、彼女は10分ほどの間、脚間の顔を上げることがなかった。

旅行案内の本によると、平安時代の昔、歌人在原業平がこの地に住んだことがあるという。山裾には墓もあるらしい。住んだからにはこの地の歌の一首くらい残しておいてもよさそうに思えるが、業平が近江を詠んだ歌は次の一首しか見当たらない。

 
思ふことありて、志賀にまかりて

 
世の中をいとひがてらに来しかども 憂き身は山の中にざりける(後撰)

なんとなく思わせぶりな歌であるが、山の中の候補地は多そうだ。在原業平は惟喬親王に仕えて親しかったらしいがその線を求めると永源寺の蛭谷方面に向かう。何らかの落人が住み着いた里である可能性は高い。なつかしさを呼び起こす村ではあった。


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鯖街道

今津から高島郡の朽木をめざす。かっては奥琵琶湖に劣らぬ秘境の地であった湖西にも琵琶湖周遊道路が整備された。移動が便利になったばかりか湖岸に沿ったのどかな近江の風景が満喫できる素晴らしい道である。サイクリング用の道が並行している。今津の浜は4kmにもおよぶ長い松並木に囲まれたやさしい砂浜で、琵琶湖周航の歌にも出てくる。近くにその歌の記念碑があった。大正6年6月、小口太郎が今津の旅館で琵琶湖周航の歌を発表したらしい。

303号線を西にとる。しばらく行くと辺りの風景は急に山深くなって、若狭小浜に通じる古道を偲ばせる。その一方で、路上の交通量は意外に多くトラックが盛んに往来する。殆どはそのまま直進して小浜へ行くのであろう。代替交通手段のないこの道は今も健在であった。

保坂で左折して鯖街道に入るや私の前後から車の姿が消えた。二車線の舗装道がひっそりと続き、両側は高く垂直にそびえる杉ばかりである。道が高まって峠らしき所にさしかかると、にわかに雲が低く下がって雨が落ちてきた。5分も進むとまた焼き付けるような夏の日差しにもどる。

信長が若狭から落ち延びて来たときの道は一車線の幅もなかったことであろう。今見る杉は途中から下の枝がきれいに切り払われてるが、400年前は生えるままにまかせていたに違いない。昔の鯖街道の面影をしのぶには今の暗さを数倍にもする必要がある。

京都市と敦賀市を結ぶ西近江路(国道161号)が湖西を南北に縦断している。その西方に鎌倉時代の13世紀初期の頃、若狭の小浜から京の出町柳まで、80kmにおよぶ若狭街道がつくられた。その名も愛らしい花折峠を越えて、大津を避けるようにして直接京都の大原へ出る。西近江路が湖西の表街道とすれば若狭街道は湖西の裏街道である。

この道は、また「鯖街道」と呼ばれ、戦国時代から江戸時代にかけて、若狭の海でとれた鯖がこの道を通って京へ運ばれた。小浜で塩付けされた鯖は一夜あけて京につく頃ほどよい塩加減に仕上がった。また土地の名産として「鯖のなれずし」がある。平安時代から作られてきた保存食である。後ほど昼飯に食うことにする。

同じ年の秋にもこの道を通った。妻との二人旅で、琵琶湖大橋から北上し小浜まで紅葉の鯖街道を完走する旅であった。南より朽木に入る手前10kmくらいのところで突如安曇川沿いに一軒食堂が現れた。手書きと思われる看板が目にはいった。「活きガニ」「鯖ずし」「イワナ」と、私の食欲を強引に誘惑する。赤い炭火に鯖が焼かれ煙が立ち昇り、道路ぎわではドラム缶のような鍋から盛んに湯気が立ち上っていた。湯気のほうは活きガニを茹でているところだ。清流安曇川の上流には幻の魚と呼ばれる「イワナ」が棲息する。

食堂に入ってイワナをたのむと、店の主人は水槽で泳いでいる岩魚を二匹取り出して、前庭の炭火コンロの上に乗せた。鯖ずしも頼んだが出てきたのはバッテラだった。鯖のなれずしは毎日あるようなものではないと、店の女将が事務的に説明した。岩魚の身は、箸でつまむと崩れそうなほど繊細で、淡白で上品な味である。鮎のような臭さがない。岩魚の骨は熱燗にいれて「骨酒」として再び味わう。ほんのり体を温めた後の小浜までのドライブはきわめて滑らかなものであった。

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朽木村

安曇川町と高島町の西側一帯が、福井県境まで続く広大な朽木村と呼ばれる地域である。行政単位として県下に残る唯一の「村」だ。朽木が歴史にあらわれるのはおよそ1000年前からで、奈良時代、朽木谷から「朽木の杣(そま)」を東大寺の建築用材として筏で搬出した記録が残っているという。平安時代には「朽木荘」という荘園があった。

この秘境の地に豪族朽木氏が鎌倉時代から明治維新まで隠れ住むように生きてきた。室町時代、京より落ちのびてきた足利12代将軍義晴と、後にその子義藤をかくまっている。
時代はすこし下がって織田信長が越前の朝倉義景を攻めていた最中、浅井長政の謀反を知り羽柴秀吉にしんがりを勤めさせて敦賀より一挙に京へ逃げ帰ったのは鯖街道を通ってのことであった。手柄を挙げようならできたものを、この時も朽木氏は落ちのびる人間に手をさしのべた。

深い杉林をくぐって朽木の村に入ると気が抜けるほど明るかった。溝を流れる山の水が町中を縫っていて、溝に沿ってプランターに植えられた花が見せつけるように並んでいる。街灯までもベゴニアで飾り付けられていた。花の好きな人たちである。
丸八百貨店という白抜きの石看板をはめ込んだ、明治の建物のままの3階建て洋風百貨店が今も店を開いている。朽木村の銀座5丁目のシンボルといったところであろうか。

新本陣という標識のうしろには倉庫のような空虚な建物が並んでいるだけで、内には誰もいなかった。窓をのぞくと商品を取り除いた陳列棚や台がそのままに放置されていた。最近閉じたものと思われる。

隣のレストランで昼食をとることにした。代表的なメニューとして、「イワナ」と「熊なべ」と「ボタン鍋」とある。美味さはさておきいかにも山深さを感じさせて面白い。メニューの中から栃餅入りうどんと、鯖のなれずしを選んだ。鮒ずしとの違いをみたかった。鯖と鮒の大きさの違いを思えば当然であるが、鯖ずしの切り身は鮒ずしよりも大きい。 薄くスライスしたものが5切れ、1切れ100円という計算である。

鮒ずしには橙色の子が詰まっており発酵した飯は外側にそえてあるが、鯖の腹腔には子にかわって塩飯がつめられていた。面積にして95%が飯で鯖の身は周囲に皮ほどについているのみである。塩焼きや味噌煮でなじんでいる、鯖のあの豊かな身はどこにいったものか。塩水魚と淡水魚の違いから来るのか、あるいは塩鯖のなれずしということなのか、塩味がやたらにつよかった。

東京に帰り、近江八幡で土産に買った鮒ずしを賞味したが、やはりこれにかなう馴れずしはない。

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旧秀隣寺庭園

朽木の中心から車で3分ほど南に下ったところに興聖寺がある。境内にある旧秀隣寺庭園は有料となっているので本堂の受付を訪ねると、頭を青々とさせた住職の息子らしき青年がパンフレットをくれた。それは司馬遼太郎の『街道をゆく』からの引用から始まっている。


かっての朽木氏の檀那寺で、むかしは近江における曹洞宗の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裏それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎない。

国友でみた文学碑とちがって、この一文が特段賞賛の言葉でもなければ、名文といったものでもないにもかかわらず、さも大事そうに司馬の言葉を引いている。パンフレットの説明によると1237年、近江守護佐々木信綱が京都で宋から帰洛した曹洞宗開祖道元禅師に謁し、承久の乱で戦死した一族の供養を朽木の里でおこなうことを願い入れた。禅師はこの時、付近の風景が伏見深草の興聖寺に似て絶景だと喜び一寺の創建を奨めたという。開基佐々木信綱は宇多天皇の直系でその曾孫義綱が氏を朽木と改めた。

旧秀隣寺庭園は足利庭園ともよばれ朽木氏が1528年、12代将軍義晴のために作ったといわれている。面積は234坪で、比良山系と
安曇川を借景し、池泉回遊式で池の中には鶴と亀の島を配し、楠の化石の石橋がしつらえてある。この年の夏は近年にない猛暑で雨が殆ど降らなかったらしく、池の水はたえだえの体であった。
庭は想像していたよりずっと小さかった。その庭に小宇宙の空間を感ずるには、竜安寺の石庭に対すると同じくらいのイマジネーションを必要とする。

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藤樹書院跡

朽木から東にもどり安曇川町の中江藤樹書院跡を訪れる。近くに藤樹記念館や藤樹神社等もあり、さながら一帯は藤樹村である。道筋の家並みは落ち着いていて国友の里で見たような立派な門構えの家が多かった。朽木とおなじく家の前の溝には山の水が流れ、小さな魚がすばしこく泳いでいるのが見える。子供のころ網ですくっては真鍮の洗面器に飼ったものであった。

藤樹書院跡の前の溝には網で区切った場所に色とりどりの鯉が放たれていた。池の鯉ならぬ道端の溝の鯉を見るのは初めてだった。江戸の時代からそうであったのか、後日の人寄せのためであるのかは知らない。小説『中江藤樹』(童門冬二)によると小川村(現在の安曇川町)の漁師が師に寄贈したものとなっている。柵を設けなくても鯉は逃げないとその男は言っていたが、さて。

書院自体は慎ましい大きさで、15畳の間には直筆の「致良知」の書を始め衣類、書籍など藤樹ゆかりの遺品が展示されていた。道路沿いの庭の片隅に、一人で手入れをするのに手ごろな程度の藤棚がある。藤樹の名の由来が書かれた札が立ってあった。すべてがこじんまりしている。

中江藤樹は祖父に養われて米子、伊予に育ち、郡奉行になったが、27才の時近江に残る母への孝養を理由に脱藩し帰郷、村人を集めて学問を教えた。近代私塾の祖といわれる場所がここ藤樹書院である。官学朱子学に反発し陽明学に真理を見出した。日本の陽明学の始祖と呼ばれている。人の道の根本を「孝」とし「知行合一」を説き、人々はその徳をたたえ「近江聖人」と称した。その流れは大塩平八郎、佐久間象山、吉田松陰へと続いていく。

近江人という国民性(滋賀県民性)に対して、近江商人という実利主義的イメージを思索的雰囲気で中和した貢献は大きい。

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白髪神社

安曇川町を南下して高島郡もほぼ終わろうとする湖畔に近江最古の神社といわれる白髪神社がある。垂仁天皇の時代の創建といわれているから紀元前後の神話時代の話しである。祭神は猿田彦命で主に延命長寿の神で知られる。そもそも神社というものは古代朝鮮からきたものだといわれていて、白木、白子、白石、白山、白城、白髭神社などはすべて新羅神社の派生らしい。祭神によく出てくる素戔鳴命(すさのおのみこと)や天日槍(あめのひぼこ)など神話時代の神にも新羅からの渡来人が多い。

湖中に宮島の厳島神社を思わせる朱塗りの鳥居がたっている。夕日に映える絵が欲しかったのだがそれには二時間早すぎた。湖中の鳥居はもともと陸地にあったものが、1662年に高島郡を中心に起きた大地震(琵琶湖西岸地震M7.6)によって水中に陥没したものである。この大地震による県下の被害は甚大で、朽木の朽木宣綱はこの時横死した。彦根城や膳所城も傾いたという記録があるらしい。


161号線をまたいだ山手に本殿が建つ。これは豊臣秀頼と淀君が建立したといわれている桃山建築で国の重要文化財である。境内の奥の石段をすこし上がると与謝野夫妻と紫式部の歌碑があった。

 
しらひげの神の御前にわくいつみ これをむすへは人の清まる(鉄幹・晶子)

ぜんぜんおもしろくない。

 
三尾の海に綱引く民のてまもなく 立居につけて都恋しも (紫式部)

27歳の紫式部は996年の秋、越前の国司になった父藤原為時に伴って京を出、大津から船路で湖西を通った。途中、高島三尾の浜辺で漁師の綱を引く見馴れぬ光景に都の生活を恋しく思い出して詠んだ歌である。
一行は塩津の湊に上陸し、塩津山を越えて越前敦賀に入った。塩津山の道で目撃した庶民の苦しい生活ぶりに興味をよせて式部は歌を残している。

 
知りぬらむ往き来に馴らす塩津山 世に経る道はからきものぞと

10代で結婚するのが普通であった当時の27歳は、今では30代後半の感覚だろうか。厳格だった父のせいもあろう。彼女の内向的で気の強かった性格が男を遠ざけたのかもしれない。しかし、彼女はたどり着いた越前の武生には一年あまりいただけで、998年の春そそくさと単身京へ戻ってしまった。都で待っている中年の彼氏のもとに帰ったといわれている。いずれにしても田舎でじっとしていられる女性ではなかった。式部はその年の晩秋、またいとこにあたる藤原宣孝と結婚する。46歳の妻子ある男であった。一子をもうけた後、新婚を楽しむまもなく宣孝は当時はやっていた疫病にかかってあえなく死ぬ。式部は32歳の若さで幼児を抱える未亡人となった。その秋、式部は長編愛欲小説に着手する。

源氏物語は彼女の報われなかった青春時代と結婚生活の反動として書かかれたのではないか。気性のはげしい才女の欲求不満が見え隠れする。彼女とは石山寺で再会する。

芭蕉の句碑があるというので探していたら、車を止めた駐車場のすぐ側に立っていた。

 四方より 花吹き入れて 鳰(にお)の湖

この句は膳所の医師で芭蕉門人の一人、浜田珍夕の住居「洒楽堂」に招かれて詠んだものである。この句と高島とのつながりはよくわからない。

2000年8月)
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