犢橋宿は寛永期(1624〜1644年)に形成された宿場であり、家康の鷹狩りの頃にはまだなかった。宿場としても長さが200mに満たない小宿であったが、それでも九十九里の海産物を江戸へ運ぶ商人や花島観音、長沼観音などへの寺社参りの旅人などで賑わった。2軒あった旅籠には飯盛女もいたという。
県道沿いには旧家と思われる蔵付の家が残っている。表札には「家号花島佐平治」とあった。
街道は長沼信号の一つ手前の手押し信号で花見川区犢橋町から稲毛区長沼町に入る。交差点左手に二基の庚申塔がある。左は天和3年(1683)の建立という古い物で、下部に三猿が浮き彫りされている。右の新しそうな庚申塔は同じく三猿が彫られているが「道祖神」と刻まれている。
この交差点で街道を離れて南に300mほど入った右手に御瀧神社(御瀧権現)がある。昔ここに小さな滝があって、家康が喉の渇きをいやしたと伝えられている。右隣の空き地には菊の紋章を付けた数台の右翼宣伝カーが並んでいた。
そのまま道を南に進み、信号交差点を右折したところの「千葉北高前」バス停の道向かいに「奥之院馬頭観世音」の神額を掲げた石鳥居が建つ。その奥に駒形奥の院が鎮座している。多くの絵馬が奉納されている。「婿養子になってくださる方とご縁を・・・・」、「○が希望の大学に合格しますように・・・」と、祈りは子を思う親の切なる願いであった。
伝承によれば元和6年(1620)、3代将軍家光が東金からの帰り道、この地で愛馬が傷ついて死んでしまった。この愛馬を葬り供養するために建立されたのがこの堂であるという。
長沼交差点で国道16号を渡った左側歩道上に小さな地蔵が立つ。享保12年(1727)の造立で素朴な浮彫像である。
交番の隣に駒形観音堂と駒形大仏がある。駒形大仏は元禄16年(1703)に造立されたもので、高さ2.4mある。長らく露座であったが平成9年に酸性雨による溶解を避けるため屋形が建設された。駒形観音堂は大仏開眼入仏に際し同年、馬頭観音を本尊として開基されたものである。
街道左手に立派な医薬門をかまえ黒板塀をめぐらせた旧家(渡辺家)がある。
左手にマルハンという大きなパチンコセンターが見えてくる。その敷地の西隣路傍左手に子安観音の祠が、右手長沼交通の敷地内には庚申塔がある。庚申塔の左面には「下総国長沼新田道行」、右面には「宝永六年十月廿三日」と刻まれている。
街道(県道66号)はその先、長沼原町交差点で住友重機工場の北側に沿って左に反れていき、旧道はここで途絶する。旧道はこの工場敷地内とそれに隣接する陸上自衛隊下志津駐屯地を南東にまっすぐ横切って県道64号鎌池交差点の西方につながっていた。その間、県道66号で六方五差路信号を右折し、県道64号を右折して鎌池交差点に至る。自衛隊駐屯地で稲毛区から若葉区に移っている。
金親
鎌池交差点から再び東にむかって真っ直ぐな旧街道が再開する。総武本線踏切で南北双方から電車が近づき、踏切上ですれ違うというめずらしい瞬間を見ることができた。
踏切を渡った右手あたりに焼塚があった。街道を造成する時、直線を見通すため塚上から狼煙を上げたり、白旗を掲げて直線測量を補助した。また一里塚としても親しまれていたという。
街道はゆるやかな起伏を繰り返す下総台地をとおりぬける。概して北側には森林がのこり、南側は新しく造成された住宅地がひろがる。街道の左右に大学から小学校にいたるまで、学校が多い気がした。
やがて街道は両側に林が広がる御成公園に上がってきた。その東端に一段と高く盛られた塚がある。提灯塚といわれる一里塚である。御成街道造成の際、この塚上の大木に昼は白旗、夜は提灯を提げて目印にしたところから提灯塚と呼ばれるようになった。塚は街道の両側にあったようだが、左側に塚の名残はみられなかった。焼塚からの直線距離を地図上で測ってみると一里よりはながい4.7kmあった。この街道の一里塚は、ほぼ4.7kmごとに置かれたようである。
街道は里山の風情が残る金親町に入る。右手の大きな農家、左手には漆喰が一部剥がれた土壁の長屋門がある。古街道筋の雰囲気が漂う家並みが続く。田野造園の向かい、田野家の前に高札場があった。今は垣根に囲まれた庭でしかない。
その先に豪壮な長屋門が二軒ならんでいる。共に石井家で旧金親村の名主を勤めた家柄である。道向かい大宮神社入り口に御成街道の説明板が建っていた。
金親は次の中田宿と継ぎ立て業務を分担し、相宿の役割を果たしていた。
御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37km)、道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、慶長18年(1613)徳川家康が東金への鷹狩を第一の目的に、佐倉藩主土井利勝に命じて造らせたものである。家康の命令を受けた利勝は、沿線96ケ村の名主を召集して村ごとに工事区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれている。街道沿線には、ここ大宮神社から船橋方向へ約500mのところに、直線工事を見通すために造った提灯塚や、ここから東金方向へ約300mの左側の奥まった所に金光院という正応2年(1289)に創建したと伝える薬師如来を本尊とする真言宗豊山派の名刹があり、家康が東金への鷹狩の際に立ち寄ったと伝えられている。金光院から東金方向へ更に約700m行ったところを左に入ると将軍家の宿泊所兼休息所に使用した御茶屋御殿跡がある。平成2年3月 |
御殿跡から直線の街道を進む。両側の畑地は江戸時代、左には御林が、右手には馬放し場が広がっていた。二股を右にとって林の中、S字形の坂を下る。「富田入口」信号で県道66号を横切り平川に架かる中田橋を渡ると、中田宿のある小さな稲葉集落に入る。今も街道沿いには数軒の民家があるだけで、当時は旅籠屋や茶屋などもなく町場は形成されなかった。
中田宿は慶長19年(1614)家康が東金辺に鷹狩りに来たとき以来、人馬継ぎ立て業務を行ってきたが、多くの人馬を要する場合には隣村の金親がその業務を補助した。問屋は幕末に名主をしていた弥八が勤めていた。この弥八は、現在の杉山文江家であり、屋号を下棚といった。集落に入って左手二軒目が杉山文江宅である。道向かいの「デイサービスのどか」は杉山弼宅(屋号「自転車屋」)で、弥八時代の問屋場跡である。
家並みの東端に真光寺があり、その入り口付近に高札場があった。街道の南側から集地集落に行く道が出ていて丁字路になっている場所である。そこには郷蔵があり、村人たちがこの蔵へ年貢米などを納めていた。
日蓮正宗真光寺はもとは真言宗の寺院で、本乗寺と称し、寛文12年(1672)に堂宇が造営され日精上人によって改宗、開基された。本殿は平成元年に改築された新しい建物で、勾配のきつい大屋根がひときわ目立つ。建物の殆どが屋根ではないかと思われる建築物である。
集落をぬけ坂を下ると鹿島川である。まことに下総台地は上り下りの連続だ。広範な森林台地を切り通して道が造られ、林を開いて住宅が建てられた。富田集落はそのような印象を強く与える。人工の屋敷林なのか天然の雑木林なのか、区別がつかない。
富田新田バス停付近に椎の古木があって、そこに一里塚があったという。葉をすっかり落とした大木があるが、常緑の椎ではない。今は椎の古木も塚もなくなったのであろう。
富田集落は金親にも似た雰囲気があって、緑豊かな情緒ある家並みをみせている。
仲田家の大きな長屋門は街道と並行ではなくやや斜交いに構えているのが面白い。門の半分はガラス窓の部屋になっていて、生活の匂いがもれてくる。窓の様子からみると子供部屋のようだ。
袖ヶ浦CCを右にみながら坂を下り、千葉市から八街市に入るところで道は大きく左に曲がっているが、御成街道は直進し雑木林の中を台地に上るようになっていた。当時、この登り坂はかなりな急坂であったため、家康は駕籠をおり、馬に乗り換えて登ったという。台地上から一望できる下総の壮大な景観に家康はいたく感動を覚えた。そこからこの坂道を「風景谷(ふがさく)の険」と呼ぶようになった。
迂回道の坂途中に八街市による「御成街道跡」の説明板が立っている。「風景谷の険」には触れていなかったが、「この後ろの山林中にわずかに昔の面影を止める地区があり、市指定文化財(史跡)に指定されている」とある。金網で通行止めされている背後の藪中であろうか。史跡であるならアクセスを確保してもらいたい。
現在の御成り街道をあがるとバス停名が「風景谷」だった。右手の台地上は黒々とした畑地が広がりその背後に林が視界を遮るように連なっている。旧道は右端の林中に痕跡を残すのみで、あとは開墾によって完全に消滅した。このあたりは昔、野馬の放牧地である「小間子牧」であり、その中を御成街道が通っていた。明治7年(1874)に、佐賀藩の士族や窮民を救済するために鍋島氏(佐賀藩主)の家臣であった深川亮蔵がこの地を購入して開墾した。
旧道消失部分を迂回するため、「沖十文字」交差点で県道289号を南に下る。600m余り進んだところ、左手に「お成街道跡」の標識が立ち、県道に対してほぼ45°の角度にむいて旧道の道筋が示されている。右は田中モーターズで、左は車置き場のうしろに空き地が広がっていた。
そこから二つ目の十字路を左折すると左手に墓地があらわれ、道が右に曲がっていく。そこが旧道の復活地点で、曲がり角に「御成街道跡」の標識がある。
街道はふたたび波打つ大地を上がり下がりしていく。江戸時代はこの険しい起伏する難所に「蛇田谷(へびたさく)」だの、「馬渡しの険」といった名前をつけて恐れた。説明板等がなく、どの低地が蛇田咲谷で、どの高みが馬渡しの険なのか、わからない。
そうこうしているうちにまた下り坂に差し掛かった。 左手に「ロック技研工業」のオフィスがあった。右手に塚上の膨らみが認められる。上砂一里塚で、説明板があった。御成街道に築かれた一里塚で現存しているのは提灯塚と椎の古木であるとあった。椎の古木を見逃したのか。また、「それぞれの塚の距離は約4.7kmである」と断言しているのが興味深い。
街道はようやく平らな場所に出た。左右に畑地が広がる。水田をほとんど見ない。このあたりを太郎坊(たらんぼう)といい、天正10年(1582)、小間子吉田の原の戦の跡地である。東金城主酒井小太郎と土気城主酒井胤治父子が椎崎城主椎崎三郎軍の侵入を防いだところから「太郎防」との地名がつき、後に「太郎坊」になった。
一里塚から1kmほど進んだ所の十字路を左折して小間子馬(おまごうま)神社に寄った。正式の名を「八街太郎防大津東町分霊小間子馬神社」といい、当地「太郎防」と、勧請元滋賀県大津東町の地名を冠した珍しい社名である。教育委員会の説明板のそばに氏子一同により建立された立派な神社創建百周年記念碑がある。ここには「小間子」に関する説明があった。小間子は佐倉七牧の一つで、明治維新によって鍋島家の所有となったとある。鍋島家の所有は風景谷からここまで及んでいたのだろうか。
街道にもどり、畑中の一本道を50mほど進むと右手に池が現れる。今は道を隔てて産業廃棄物処理場があり、池の周りは金網に囲まれているが、昔は景勝の地であったといい、家康も駕籠からおりて休憩し、この池の水をビンダライ(髪を整える時に水を入れる小さなタライ)に入れて顔を洗ったり、髪の乱れを直したりしたといわれる。よってこの池をビンダライ池と呼ぶようになった。
街道は林をぬけ畑地をとおりぬけて千葉東金道路をくぐり、県道301号を横切って細い道にはいっていく。舗装が途切れ林の裾を縫う土道になったところで東金市に入っていく。
東金
旧道は国道409号に出て右折。滝交差点からは県道301号となり、600mほど行った所で、左にカーブしていく県道と分かれて右手に直進する土道がある。分岐点には案内板と石仏を祀った小さな祠がある。御成街道はここで二手に分かれていた。左の県道をいくルートが裏道とよばれる旧道筋で、右の細道が表道とよばれる旧本道である。案内板には終点の東金御殿に至る両ルートの道筋が詳しく描かれ主要な史跡が示されている。
祠をのぞくと小さな道祖神が祀られ、「是より下 東金道 是より上 左倉道」と刻まれている。左側面にも「是より西 江戸道」と刻まれているようだが確認しなかった。「下 東金道」とはこれから歩こうとする表道を指し、道中におあし坂、油井の一里塚跡、十六石殿を見て終点東金御殿跡の東金高校に至る5kmほどの旧道最終区間である。
「御成街道 油井ルート」、「御成街道おあし坂入口300先」と記した標識が立てかけられている場所が旧道跡にあたる。県道がカーブする直前からみれば一直線の道である。
農業総合研究センターに沿って進んでいくと道は右に回り込むようにのびている。かっては直線だったものが付け替えられたものと思われる。林の手前に数軒の住宅が建てられている。その宅地をすぎたあたり右手に「御成街道 おあし坂入口→」の札が木に掛けられていた。
そこを通り越したところ茂みの中に祠があって珍しい石像が祀られていた。狐に跨った仏像のようで両肩から羽のようなものが浮彫で描かれている。髪は天に向かって立ち上がっている。道祖神の種類か。
入口にもどって藪のトンネルのような「おわし坂」を下り始める。V字形の深い切通しで坂は急である。街道終点間際になってやっと昔そのままの古道に巡りあえることができた。足元は落ち葉で柔らかい。下り傾斜に任せて自然と歩幅が大きくなる。「大足」がなまって「おわし」となった。距離にすれば200mほどの短い古道だったが、十分な満足感を得た。何よりも地理的にも季節的にも今ここには熊がいないという安心が大きかった。
山をぬけると明るい山里の風景が広がる油井の集落である。畦道の丁字路を右折する。まがり角に「御成街道油井ルート」の標識があった。
民家の手前の左手に「油井一本松跡」の立札がある。ここが7番目の一里塚である。8番目は裏道にあり、表道ルートの御成街道としては最後のものだ。数十年前まで高さ2mほどの塚があり、塚上に一本の黒松が植えられていた。ここから終点の東金御殿まで3.9kmとあった。
道なりにのどかな田舎道をゆく。国道126号に接する手前で左に折れて油井の集落内を進む。右手に油井公民館をみて再び国道に出そうになる。ここでも国道手前で左に折れ、S字形にまがっていくと左手に「御成街道大豆谷(まめざく)」の標識が立っていた。このあたりに十六石殿(じゅうろっこくどん)と呼ばれた早野家があるはずであるが、どの家かわからなかった。家康が東金に向かう途中に早野宅に立ち寄った。お茶を受けたお礼として、家康は宅地前の水田16石を与えたという。
表裏道の分岐点にあった説明図では、こんどこそ国道に出て台方三差路交差点の手前で左の旧道に入り、一路東金高校正門をめざすところを、また途中で左折してしまった。旧道風情の色濃い集落内の道をたどっていくと、厳島神社の前に出た。傍に大豆谷公民館がある。まだ大豆谷集落内なのだ。実はこの道が裏道で、そのまま南にすすむと国道に出て表道と合流することになった。
東金の中心部に向かって進むにつれ商店街の様相を呈しはじめた。「八鶴湖入口」の標識をたよりに左折すると大きな池の西端に出、左手に東金高校があった。
池中の出島に弁財天の堂が華を添えている。厳島神社とも書かれていた。高校の北側に本漸寺があり、入口付近に「東金城址」と「東金御殿跡」の説明板が建っていた。
東金城は高校の西側にあたる下総台地の崖上に築造された平山城である。酒井小太郎定隆によって、大永元年(1521年)に築かれ天正18年(1590)までの約70年、酒井氏五代の居城であった。酒井小太郎は「太郎防」の由来となった人物である。
築城と同時に酒井小太郎定隆は酒井氏代々の菩提寺として、金谷にあった本漸寺を城山の中腹に移した。墓地を通り抜けると城山を背にして、本堂のほかに小規模な寺町か宿坊街をおもわせるほどの建物が建ち並んでいる。
文禄3年(1594)に、本漸寺と最福寺の朱印地の水田の灌漑と、東金市街の防火用水確保のために八鶴湖が造られた。湖畔に明治18年創業の老舗料亭「八鶴亭」が建つ。建物は国登録有形文化財である。
そして慶長18年(1613)、家康の鷹狩のため、船橋御殿、御茶屋御殿と次いでここ東金城址の東端に東金御殿が建築された。三御殿の中では最も大きく、敷地坪数は6700坪と広大なものだった。家康が2回、秀忠が8回、家光が1回利用したとされる。その後、東金での鷹狩りは行われることなく、寛文11年頃に取り壊された。
御成街道もその後は九十九里浜と船橋、江戸を結ぶ商人と旅人の行きかう道となった。