資料12 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良 |
旗宿
4月20日〜21日
白坂泉岡から道を東にとった芭蕉と曽良の二人は、ウグイスが渡る谷間のやわらかな新緑に、那須湯元から酷使してきた脚をいくらかでもなぐさめたことであろう。6月の日永とはいえ、陽はかげりはじめていたころだった。
泉岡からでた道は途中で二つに分かれる。左を行けば金堀を経て「庄司戻し」近くの関山入口分岐点に出る。右をたどれば、和平を経て直接白河の関跡近くに出る。芭蕉はどちらを行ったかは定かでない。
私は結果的に、その間を行ってしまった。金堀で、直進する道と、和平に南下する道が分かれている。その丁字路角に和平方向を指して「白河関跡」という標識があったように思う。それに従ったまでだった。又そちらのほうが山にはいっていく趣が強く、なにかがありそうな予感もした。果たせるかな、道中の峠付近で、「おくのほそ道」の石標を見た。左の谷あいには、ゆるやかな棚田の風景も見える。
橋をわたって旗宿の町にはいる。芭蕉はここで宿をとり、翌日、待望の白河の関跡をみにでかけたのだった。
白河の関
芭蕉と曽良は関の明神と思われる古びた社を目にしたものの、ついに関所の跡を探し出すことは出来なかった。白河の関は古来から謎とロマンに深くつつまれた存在である。
元祖白河の関は、蝦夷南下の防御を主な目的として置かれたもので、太平洋側の勿来関(菊田関茨城−福島)や日本海側の念珠関(新潟−山形)とともに奥羽三関といわれたものである。4世紀につくられたと考えられており、義経や頼朝も通っていった、東山道・鎌倉街道の要衝にあった。その後、結城氏の支配になってから白河の中心地が西に移動するとともに、交通も旗宿の古道から西方の奥州街道に移り、そこに新たな白河の関が築かれたと考えられている。
時はすぎ江戸時代になると、古い白河の関がどこにあったか知る人もいなくなっていた。寛政12年(1800)、白河藩主松平定信は、地形等から判断して旗宿の地に関跡地を確定し、その場所に古関蹟碑を建立した。その後昭和にはいって発掘調査が行われ、古代の関所遺構が確認されたという。定信は碑の前をながれる小川こそが、白川だという。ほとりに水芭蕉がさいていた。
古関蹟碑傍の石段をのぼっていくと、何百年も年輪を重ねた杉木立の中に白河神社が鎮座し、辺りには古歌の碑をはじめとして、石碑や説明札が散在している。「幌掛の楓」は、源義家が安部貞任追討(前9年の役)のため、白河の関を通過する時、この楓に幌をかけて休憩した場所。「旗立ての桜」は、治承4年、源義経が、平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、旗揃えをした時この櫻に源氏の旗印を立てたところ。ほかに、「矢立の松」というのもあった。
空堀の窪地は関所跡遺構の一つであろう。「白川」を南にたどっていくと、白河関の森公園にいたり、付近に「かたくり群生地」の立て札があった。季節はもう済んでいたがただ一輪、スミレを大きくしたような可憐な姿がのこっていた。公園の広場に芭蕉と曽良のブロンズ像がたっており、台座に芭蕉と曽良の句が刻まれている。卯の花もさがそうとして、ハッと暦のちがいに気が付いた。卯の花の季節には1ヶ月早すぎる。
右: 風流の初やおくの田植うた 芭蕉
左: 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良
芭蕉が訪れたのは、松平定信が古関蹟碑を建てた時より100年以上も前のことで、東山道の旗宿界隈を歩き回ったが、結局関跡はみつからず、ただ、木々深い沿道の風景のなかに、古歌の情趣をかき集めるしかなかった。
誰もが、白河の関と都との距離を、春秋半年の時間にして象徴する。都からここまでの遥けさだけではない。むしろここからはじまる異郷地に対するロマンの方が、芭蕉の心をつよく捉えていたのではないか。芭蕉は「ここからこそが本当の旅立ちだ」と自分に言い聞かせている。万感の思いに浸りながらも、結局芭蕉はここで一句も創らなかった。
すでにあまりに多くの歌人が詠いすぎていたことへの抵抗だったのかとも思う。能因法師などは、行ってもいないのに
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関
などと、創作した。実証主義の芭蕉にとっては耐え難い虚飾に聞こえたにちがいない。
古歌碑(平・能因・梶原氏) 村上帝の御代(946〜966)平兼盛が、奥州下向の時、この関を過ぎ 「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白川の関はこえぬと」と歌に寄せて都をしのんでいる。 白河の地名は「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」という能因法師の歌で広く世人に親しまれている。 注: 能因法師(橘永ト(ながやす))は若くして和歌を藤原長能に学び、また漢文学にも精通し30才の頃出家して諸国行脚し、至る処で和歌を詠じ、その和歌は鋭く透徹したものが多い。平安時代で、御冷泉天皇の永承年間60余才で没した。今より凡そ920年前である。 文治5年(1189)源頼朝が、奥州征伐の折、ここを過ぎ白河神社に奉納したが、その時梶原影季一首をものして 「秋風に草木の露をはらわせて、君がこゆれば関守もなし」と詠じて頼朝の勧賞に預かったという。 ◎関跡地内の碑を拓本することを禁止 管理者 |
高ぶる思いはシルクロードにも馳せていった。西域に至るシルクロードの白河の関はどこなのか。敦煌か、もっと手前か。芭蕉は地の果てまでつづく熱砂のタクラマカン砂漠を瞼のうらに描きながら、乾ききった遠大な砂の細道に足を踏み入れる覚悟をした。ローマには平泉にも劣らない輝かしい浄土が待っている。
旗宿を出た芭蕉は、白坂へもどる道と関山へ向かう道の追分手前で、三本の若葉まじりの桜の木にしばし見入った。咲き終わった花びらの残骸をまだ枝いっぱいに残している。木陰に「桜霊碑」が建っている。ここは治承4年(1180)、源義経が兄の挙兵を知って平泉から鎌倉に馳せ参じる途中、佐藤庄司基治がわが子、継信と忠信を見送った場所である。佐藤兄弟は義経に献身の忠誠を尽くした。兄弟の墓は両親とともに福島医王寺にある。義経の大ファンであった芭蕉はまた佐藤氏一家にも熱い思いを抱いていた。詳しい話は医王寺で語ろう。
旗宿で関跡を見つけられなかった欲求不満が、芭蕉を関山登山というハードワークに駆り立てた。高さ600mあまりの小山ではあるが、草鞋での山道は十分に険しい。頂上に満願寺があり、その山門跡地に源頼義が立てたという「下馬碑」がある。「下馬」は弁慶の筆によるものだという人もいる。ともかく、義経も弁慶を従えてここまで参詣したとのことだが、馬にとっても大変な仕事だったろう。そのことを私は北側の車道をたどる旅で体感した。
さて、芭蕉が関山登りにこだわったのは、満願寺参詣よりも、もしかすれば山の頂こそに関所があったのではないか、という一抹の期待であった。道のりは曽良の記録によれば、「籏ノ宿ヨリ峰迄一里半、麓ヨリ峰迄十八丁」とある。
私は山の反対側にまわり、関辺から、二枚橋集会所の前にある「関山登山口」にたどりついた。そこが1丁目である。5丁目までは順調に車が登った。そこに登山者用の駐車場がある。もちろん、そこから上も幅は狭いが車は禁止されていない。ただし道の勾配はきつく、加えて路面は採石場からかき集めたような角張った粗砂利が大盛りに撒かれていて、土に食い込んで落ち着いた砂利の表面に余分な砂利があふれている。途中、車輪が空転して、車内にゴムを焦がした臭いが入ってきた。やむなく駐車場までバックして、5丁目以降をあるくことにした。安全のためには、車で登るべき道ではない。
予定外の寄り道に汗をながし、17丁目の駐車場にたどりついた。そこに下馬碑がある。また、反対側には「硯石方面」という立て札が、さらに狭くて曲がりくねった登山道を示している。芭蕉が登ってきた道である。そこから観音堂まで最後の1丁分を上る。峰まで18丁という曽良の記録は正しかった。あたりには奥の細道碑、観音像、鐘楼があり、見晴らしもよかったが、関跡を思わせるものはない。
足を砂利にすくわれつつ、駐車場にたどりついた。終わってみると、ちょっとした登山気分の爽快感がここちよい。
白河
関山を下り、芭蕉はどのみちを通って白河の町にはいったのか定かでないが、旧道らしき道筋をもとめると、棚倉街道をたどったものと推測できる。棚倉街道は水戸から発し棚倉を経て白河まで、水戸街道と奥州街道を結ぶ主要な脇街道であった。白河近辺では、現在の棚倉街道である国道289号の北側にそって西進し、引目橋で藤之川をわたり合戦坂(こうせんざか)から北にそれて宗祇戻しの追分をすぎ、その先、本町で奥州街道に合流していた。合戦坂は戦国時代の天正7年(1579)5月17日、白河結城義親の軍勢が、関山方面より白河へ侵攻してきた常陸佐竹義重の軍を迎え撃った古戦場である。
芭蕉は関辺から棚倉街道を北上し、その間、藤沢の白川城跡にもよっていったのではないか。
棚倉街道からはすこし東にはいった小高い岡に白川城跡がある。鎌倉時代に築かれた代表的な山城である。文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原を攻めたときの戦功により、下総の結城朝光が白河の地頭に任ぜられた。その孫、祐廣が正応2年(1289)下総結城から移ってきて、本拠の館を築いたのが白川城の始まりといわれている。ここにも白河市の木である赤松が、優雅な姿をみせていた。
資料13 とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。 風流の初やおくの田植うた 無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ。 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、 栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。 世の人の見付ぬ花や軒の栗 |
資料14 等窮が宅を出て五里計、桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。 |