今様奥の細道 

4月20日−5月1日(新暦6月7日−6月17日)



旗宿白河−矢吹−須賀川日和田(安積山)二本松(黒塚)
いこいの広場
日本紀行
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資料12

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

 
卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

旗宿

4月20日〜21日

白坂泉岡から道を東にとった芭蕉と曽良の二人は、ウグイスが渡る谷間のやわらかな新緑に、那須湯元から酷使してきた脚をいくらかでもなぐさめたことであろう。6月の日永とはいえ、陽はかげりはじめていたころだった。

泉岡からでた道は途中で二つに分かれる。左を行けば金堀を経て「庄司戻し」近くの関山入口分岐点に出る。右をたどれば、和平を経て直接白河の関跡近くに出る。芭蕉はどちらを行ったかは定かでない。

私は結果的に、その間を行ってしまった。金堀で、直進する道と、和平に南下する道が分かれている。その丁字路角に和平方向を指して「白河関跡」という標識があったように思う。それに従ったまでだった。又そちらのほうが山にはいっていく趣が強く、なにかがありそうな予感もした。果たせるかな、道中の峠付近で、「おくのほそ道」の石標を見た。左の谷あいには、ゆるやかな棚田の風景も見える。

橋をわたって旗宿の町にはいる。芭蕉はここで宿をとり、翌日、待望の白河の関跡をみにでかけたのだった。

白河の関

芭蕉と曽良は関の明神と思われる古びた社を目にしたものの、ついに関所の跡を探し出すことは出来なかった。白河の関は古来から謎とロマンに深くつつまれた存在である。

元祖白河の関は、蝦夷南下の防御を主な目的として置かれたもので、太平洋側の勿来関(菊田関茨城−福島)や日本海側の念珠関(新潟−山形)とともに奥羽三関といわれたものである。4世紀につくられたと考えられており、義経や頼朝も通っていった、東山道・鎌倉街道の要衝にあった。その後、結城氏の支配になってから白河の中心地が西に移動するとともに、交通も旗宿の古道から西方の奥州街道に移り、そこに新たな白河の関が築かれたと考えられている。

時はすぎ江戸時代になると、古い白河の関がどこにあったか知る人もいなくなっていた。寛政12年(1800)、白河藩主松平定信は、地形等から判断して旗宿の地に関跡地を確定し、その場所に
古関蹟碑を建立した。その後昭和にはいって発掘調査が行われ、古代の関所遺構が確認されたという。定信は碑の前をながれる小川こそが、白川だという。ほとりに水芭蕉がさいていた。

古関蹟碑傍の石段をのぼっていくと、何百年も年輪を重ねた杉木立の中に白河神社が鎮座し、辺りには古歌の碑をはじめとして、石碑や説明札が散在している。「幌掛の楓」は、源義家が安部貞任追討(前9年の役)のため、白河の関を通過する時、この楓に幌をかけて休憩した場所。「旗立ての桜」は、治承4年、源義経が、平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、旗揃えをした時この櫻に源氏の旗印を立てたところ。ほかに、「矢立の松」というのもあった。

空堀の窪地は関所跡遺構の一つであろう。「白川」を南にたどっていくと、白河関の森公園にいたり、付近に「かたくり群生地」の立て札があった。季節はもう済んでいたがただ一輪、スミレを大きくしたような可憐な姿がのこっていた。公園の広場に芭蕉と曽良のブロンズ像がたっており、台座に芭蕉と曽良の句が刻まれている。卯の花もさがそうとして、ハッと暦のちがいに気が付いた。卯の花の季節には1ヶ月早すぎる。

右:
風流の初やおくの田植うた  芭蕉
左:
卯の花をかざしに関の晴着かな  曽良

芭蕉が訪れたのは、松平定信が古関蹟碑を建てた時より100年以上も前のことで、東山道の旗宿界隈を歩き回ったが、結局関跡はみつからず、ただ、木々深い沿道の風景のなかに、古歌の情趣をかき集めるしかなかった。

誰もが、白河の関と都との距離を、春秋半年の時間にして象徴する。都からここまでの遥けさだけではない。むしろここからはじまる異郷地に対するロマンの方が、芭蕉の心をつよく捉えていたのではないか。芭蕉は「ここからこそが本当の旅立ちだ」と自分に言い聞かせている。万感の思いに浸りながらも、結局芭蕉はここで一句も創らなかった。

すでにあまりに多くの歌人が詠いすぎていたことへの抵抗だったのかとも思う。能因法師などは、行ってもいないのに

  
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関 

などと、創作した。実証主義の芭蕉にとっては耐え難い虚飾に聞こえたにちがいない。

古歌碑(平・能因・梶原氏)
村上帝の御代(946〜966)平兼盛が、奥州下向の時、この関を過ぎ
 「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白川の関はこえぬと」と歌に寄せて都をしのんでいる。
白河の地名は「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」という能因法師の歌で広く世人に親しまれている。
  注: 能因法師(橘永ト(ながやす))は若くして和歌を藤原長能に学び、また漢文学にも精通し30才の頃出家して諸国行脚し、至る処で和歌を詠じ、その和歌は鋭く透徹したものが多い。平安時代で、御冷泉天皇の永承年間60余才で没した。今より凡そ920年前である。
文治5年(1189)源頼朝が、奥州征伐の折、ここを過ぎ白河神社に奉納したが、その時梶原影季一首をものして
「秋風に草木の露をはらわせて、君がこゆれば関守もなし」と詠じて頼朝の勧賞に預かったという。
◎関跡地内の碑を拓本することを禁止   管理者

高ぶる思いはシルクロードにも馳せていった。西域に至るシルクロードの白河の関はどこなのか。敦煌か、もっと手前か。芭蕉は地の果てまでつづく熱砂のタクラマカン砂漠を瞼のうらに描きながら、乾ききった遠大な砂の細道に足を踏み入れる覚悟をした。ローマには平泉にも劣らない輝かしい浄土が待っている。

旗宿を出た芭蕉は、白坂へもどる道と関山へ向かう道の追分手前で、三本の若葉まじりの桜の木にしばし見入った。咲き終わった花びらの残骸をまだ枝いっぱいに残している。木陰に
「桜霊碑」が建っている。ここは治承4年(1180)、源義経が兄の挙兵を知って平泉から鎌倉に馳せ参じる途中、佐藤庄司基治がわが子、継信と忠信を見送った場所である。佐藤兄弟は義経に献身の忠誠を尽くした。兄弟の墓は両親とともに福島医王寺にある。義経の大ファンであった芭蕉はまた佐藤氏一家にも熱い思いを抱いていた。詳しい話は医王寺で語ろう。

旗宿で関跡を見つけられなかった欲求不満が、芭蕉を
関山登山というハードワークに駆り立てた。高さ600mあまりの小山ではあるが、草鞋での山道は十分に険しい。頂上に満願寺があり、その山門跡地に源頼義が立てたという「下馬碑」がある。「下馬」は弁慶の筆によるものだという人もいる。ともかく、義経も弁慶を従えてここまで参詣したとのことだが、馬にとっても大変な仕事だったろう。そのことを私は北側の車道をたどる旅で体感した。

さて、芭蕉が関山登りにこだわったのは、満願寺参詣よりも、もしかすれば山の頂こそに関所があったのではないか、という一抹の期待であった。道のりは曽良の記録によれば、「籏ノ宿ヨリ峰迄一里半、麓ヨリ峰迄十八丁」とある。

私は山の反対側にまわり、関辺から、二枚橋集会所の前にある「関山登山口」にたどりついた。そこが1丁目である。5丁目までは順調に車が登った。そこに登山者用の駐車場がある。もちろん、そこから上も幅は狭いが車は禁止されていない。ただし道の勾配はきつく、加えて路面は採石場からかき集めたような角張った粗砂利が大盛りに撒かれていて、土に食い込んで落ち着いた砂利の表面に余分な砂利があふれている。途中、車輪が空転して、車内にゴムを焦がした臭いが入ってきた。やむなく駐車場までバックして、5丁目以降をあるくことにした。安全のためには、車で登るべき道ではない。

予定外の寄り道に汗をながし、17丁目の駐車場にたどりついた。そこに下馬碑がある。また、反対側には「硯石方面」という立て札が、さらに狭くて曲がりくねった登山道を示している。芭蕉が登ってきた道である。そこから観音堂まで最後の1丁分を上る。峰まで18丁という曽良の記録は正しかった。あたりには
奥の細道碑、観音像、鐘楼があり、見晴らしもよかったが、関跡を思わせるものはない。

足を砂利にすくわれつつ、駐車場にたどりついた。終わってみると、ちょっとした登山気分の爽快感がここちよい。

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白河

関山を下り、芭蕉はどのみちを通って白河の町にはいったのか定かでないが、旧道らしき道筋をもとめると、棚倉街道をたどったものと推測できる。棚倉街道は水戸から発し棚倉を経て白河まで、水戸街道と奥州街道を結ぶ主要な脇街道であった。白河近辺では、現在の棚倉街道である国道289号の北側にそって西進し、引目橋で藤之川をわたり合戦坂(こうせんざか)から北にそれて宗祇戻しの追分をすぎ、その先、本町で奥州街道に合流していた。合戦坂は戦国時代の天正7年(1579)5月17日、白河結城義親の軍勢が、関山方面より白河へ侵攻してきた常陸佐竹義重の軍を迎え撃った古戦場である。
芭蕉は関辺から棚倉街道を北上し、その間、藤沢の
白川城跡にもよっていったのではないか。

棚倉街道からはすこし東にはいった小高い岡に白川城跡がある。鎌倉時代に築かれた代表的な山城である。文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原を攻めたときの戦功により、下総の結城朝光が白河の地頭に任ぜられた。その孫、祐廣が正応2年(1289)下総結城から移ってきて、本拠の館を築いたのが白川城の始まりといわれている。ここにも白河市の木である赤松が、優雅な姿をみせていた。


白河の町に入る手前に、
石川街道と棚倉街道の追分があり、菓子屋の横の三角地帯にいくつかの碑が集っている。道標は「右たなくら(棚倉) 左いしかハ(石川)」とある。芭蕉句碑は読めないが、説明板に「早苗にも我色くろき日数かな」だとあった。

主役は
「宗祇戻し」の碑だ。室町後期の連歌師宗祇が、白河での連歌興行に参加するため、都から駆け付けたとき、ここで綿を背負ったかわいい娘に出会った。軽い気で「この綿は売るか?」と声をかけたところ、

  
阿武隈の 川瀬にすめる鮎にこそ うるかといへる わたは有りけれ

と、軽くいなされた。宗祇は地方の小娘の機知にひどく自信を喪失し、歌会に出ずにこの場所から引きあげたという。

なお、「このわた」は、私が鮒寿司についで大好きな、海鼠(なまこ)の腸。「うるか」は鮎の腸だそうである。綿(わた)と腸(はらわら)をかけてある。
もうひとつなお書き。
宗祇が白河についたときは既に歌会は終了していて、少女にあわなくても彼は帰る予定だったという、冷めた説もある。
曽良の日記には別のエピソードが記されている。「このわた」のほうがずっとおもしろい。

矢吹

4月21

芭蕉と曽良の二人は、白河市内の中町で一件用事をすませて、一気に4里の道を矢吹までいそいだ。矢吹では泊まっただけで、どこに泊ったかもわからない。次の記述は須賀川からはじまっている。

  「矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里」

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須賀川

4月22日〜29日

資料13

とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。

 
風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ。

此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、
   栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

 
世の人の見付ぬ花や軒の栗

4月22日(1日目)

矢吹を発って、久来石(きゅうらいし)をすぎると笠石の宿場を通って行く。このあたりを鏡石またはかげ沼ともいい、沼が多かった。その低湿地には古来から蜃気楼現象がまま起きていたことが伝わっている。芭蕉はそのことに興味があったらしい。「かげ沼と云所を行に今日は空曇て物陰うつらず」

鏡田かげ沼町に史跡として保存されている
「鏡沼」、別名「かげ沼」は、街道から西に直線距離にして3kmほども離れたところにある小さな池である。沼一つをみるための寄り道にしては効率が悪い。芭蕉はそこへは行っていないと思う。
ところで、矢吹町から須賀川市にかけての湿地帯を指して、かげ沼あるいは鏡沼の里という呼び名もあった。旧街道はそのなかを通っている。人伝えにきいて期待していた蜃気楼は残念ながら発生しなかった。

22日の夜は須賀川本陣の等躬宅に泊まった。相楽等躬は結城氏を祖とする武門の出、須賀川では問屋、本陣を勤める名士で、須賀川俳壇の重鎮でもあった。商用で江戸に出向いたとき芭蕉と親しくなった。宅はNTT須賀川支店の場所に、墓は
長松院にある。好意に甘えて、そこで7泊8日間も逗留した。日別の行動をみてみよう。

4月23日(2日目)

昼過ぎまで等躬宅に居り、夕方
可伸庵を訪れる。場所は等躬宅から数軒南の裏通りに近いところ、NTTの裏にあたる。今は公園風に整備され、『奥の細道』の文学碑、そこで詠んだ芭蕉の句碑、そして4代目の一本の栗の木が揃えられている。可伸はそこで世を厭い静かに隠棲していたのであるが、何を慕われてか、芭蕉がたずねてからは、庵のみならず、一本植えていた栗の木までが有名になってしまった。

  
世の人の 見付けぬ花や 軒の栗

芭蕉は、そんな栗の木をみつけてうれしかったが、隠者でなくなった可伸はどう思ったか。

帰りに近くの徳善院・八幡社・岩瀬寺に寄っていった。両寺は明治の初期に廃寺となり、八幡社は神炊館神社に合祀された。芭蕉記念館のある場所が
「奥の細道 八幡社 岩瀬寺跡」である。

4月24日(3日目)

昨日約束していたとおり、可伸庵にあつまって七吟歌仙を催した。芭蕉が歩いた新暦6月上旬はちょうど田植えの時期だったようで、等躬の家でも田植えの日だった。白河の関を越して以来、芭蕉は、街道傍の田圃で歌を歌いながら田植えする早乙女たちの姿に、目を楽しませてきたことであろう。可伸庵では、その印象を詠んでみた。

  風流の はじめや奥の 田植え唄

なお、私の旅はそれより1ヶ月も早いゴールデンウィークのときであったが、遊行柳のあたりから、やはり田植えの風景を連日目にしている。ただし、小型のトラクターがあのなよなよとした苗を傷もつけずに手際よく植えつけていく、機械の妙技に感じいるばかりで、早乙女の姿も田植え歌も想像の世界でしかなかった。それでも一度だけ、二本柳宿の先の方で、一人の女性が黙々と手で苗を植えつけているのを見ることが出来たのは幸いである。1ヶ月の違いは、芭蕉の時代よりも地球が温まったからか、and/or、早稲種の品種改良によるものか。

4月25日(4日目)

「主物忌、別火」

簡潔な曽良の記録には感心する。等躬の物忌の日で、飲食や運動を控え、心身を休め清める日である。等躬は飲食の火も別に切り出した火を用いるほどの徹底ぶりだった。戒律の厳しいユダヤ教の一派では、安息日の土曜日は日没まで断食するほか、テレビ、車、電気などいっさいの文明から離れた生活を送る。それとよく似た習慣で、酒飲みの休肝日を文化的に高めたようなものであろう。客としても主人に習っておとなしくしている他ない。

4月26日(5日目)

「小雨ス」

雨にふられた。

4月27日(6日目)

「曇。三つ物ども。芹沢の滝へ行」

芹沢の滝へ行った。一時採石のために荒れ果てたが、最近になって整備された。滝の傍に、須賀川の女流俳人、市原多代女と、彼女と親しかった山辺清民の句が刻まれた句碑が建つ。

  往古の五月雨の滝これぞ此  市原多代女
  
  五月雨を田に引瀧の水かさ哉 山辺清民


水源は鏡田地内の蒲の沢地で、池の水があふれだすと滝が活気づくという関係にあった。山から雨水を集めて流れ出るというのでない。訪れた時は、石積みは乾ききっていた。説明板の住所をみて思わず唇をゆるめてしまった。
ここは「須賀川市 五月雨1294」。
雨に飢えている滝のせつない思いが伝わってくる。 
ここに至る道順は普通の地図ではわかりにくい。芭蕉記念館の親切な女性の助けがなければ、来ていなかったかもしれない。

4月28日(7日目)

今日出発して、名所だからと勧められた乙字ケ滝(石河の滝)に向かう予定だったが、雨のため阿武隈川の水かさが増し、徒渡りが難しいといわれ、明日に延期することにした。昨日みた芹沢の滝のイメージを基礎に、明日見る予定の石河の滝を詠んでみた。

  さみだれは 滝降りうづむ みかさ哉  翁

この日は、少し宿場の北方を散歩して、
十念寺と諏訪明神ヘ参ってきた。十念寺には、芹沢の滝の句碑で出合った須賀川女流俳人、市原多代女が建てた「風流の初やおくの田植うた」の句碑がある。市原多代女は加賀の千代にならぶ女流俳人で、宮の辻に彼女の記念碑が作られている。彼女は大の芭蕉ファンで、芭蕉の句碑を建てることに熱心だった。

十念寺西側の崖下に
「下がりの清水」と呼ばれる湧き水があって、一説によるとそのかすかな流れが「すか川」の起源だといわれている。また、その付近の下り坂が奥州街道/東山道だったという話があって、寺の敷地の外側を一周してみたが、見つからなかった。十念寺にもどり、庭を掃いていたおばさんにたずねてみた。
「さあ、どこでしょう。そこを右に曲がった坂道を下がり坂といいますが…」
寺の西側にでている市民会館への標識にしたがって、一方通行のせまい坂を下ると、途中民家の庭先に石碑のようなものを見た。寺の裏側の崖下が民家の裏庭になっていて、そこに2、3の古い石碑にならんで、水槽と樽が管でひいて来た山水を受けている。管が崖の石垣に突っ込んだ形をしているため、単なる地下水かもしれない。

4月29日(8日目)(新暦6月16日)

空は青く晴れあがって、長居をさせてくれた等躬に別れをつげた。曽良は滝への行程を詳しく記している。直接滝の上流にきて、そこで渡れば余程近いのだが、増水でわたれず、やむをえず一旦1kmほど下流までくだって、そこの
田中の渡しで南岸に出て、滝まで岸づたいに上がることにした、という。

車で行くと、大町六軒道を東南に下り、国道118号線を南下すればそのまま乙字ヶ滝上の赤い橋に至る。芭蕉の足どりをたどろうとすれば、果樹園のひろがる前田川地区を通って男滝橋をわたるしかない。田中の渡し跡はわからなかった。川の南岸はサイクリングロードになっているが、「現在は中止」とあって、農家の車が田植え作業でいそがしく出入りしていた。

乙字ヶ滝は、川幅全体にわたって「乙」の字形に陥没してできたもので、ナイアガラのように、高さよりも幅にその景観を頼っている。したがって、滝つぼにおちる轟音の恐さはなく、すぐ下流で釣り糸をあやつれる安心感がある。数人の釣り人、家族連れのハイカーが河原で連休を楽しんでいた。そのあたりは常滑になっていて、普段の水量であれば歩いて対岸まで渡ることができる。岸には不動堂と芭蕉の句碑がある。聖徳太子の像もあった。「軒の栗庭園」でみた、ロータリークラブ寄贈の芭蕉と曽良の像がここにもある。

須賀川から日出山までの大いなる迂回

芭蕉は須賀川から郡山へいく前に、奥州街道からすこしはずれて守山へ寄る計画をたてていた。そこへ乙字ヶ滝見物という予定外の行程がはいったため、順路を変更して、徹底的に阿武隈川の東側をとおっていくことにした。大まかには現在のJR水郡(水戸−郡山)線沿いを北上することになる。
芭蕉記念館でもらった地図のマーカー跡をたよりに、二人の跡を追って行こう。
滝から川岸のサイクリングロードをたどって、男滝橋の東にもどる。途中、田の畦道をぬける方法もあったが、農家の人の迷惑にもなるので止めた。

JRの線路に近づき、左手の田圃の中にポツンと立っていた、市野関地区の
「灌漑沿革碑」の写真を撮っていると、南の方から電車の警笛が聞こえてきた。現われたのは灰緑色した二両編成である。至近距離でズームを構えていると、車中の客の顔までみえた。一瞬の出会いだが、電車の写真を撮るのは楽しいものだ。一両の都電でも、それなりのかわいさがある。これが黒煙をもうもうとまいあげ、雄叫びをあげながら突進してくるSLであれば、どれほどの興奮をもたらすものか、わかるような気がした。

小作田

線路を越えたところで、左にまがって坂道をのぼっていく。市野関公民館のまえをS字状にまがった先の丁字路を右にとる。まっすぐいけば川東駅にでるが、旧道はそれではないらしい。をのぼり、市野関と小作田を分ける峠で、福島空港に通じている県道63号の高架をくぐる。坂を下って大福寺の角を北にすすむと、古町という閑静な住宅街をとおる。このあたりが小作田宿場の中心だったのだろう。交差点を直進して、道なりにすすみ、荒町でJRの踏切を越す。小作田集落をぬけ、阿武隈川の堤防沿いに走っている二列の未舗装道路にでるが、川に近い外側はサイクリングロードのようだ。手前側の道を右折して、堤防を左に、田園を縦断する水郡線を右に見て下小山田地区を北にすすむ。早稲田の村で奥の細道は線路に急接近し、そこで、また電車と出合ってしまった。

美しい日本の里

それからしばらく、もらった地図に挿入された「八流の滝」と「芭蕉の辻」の文字にかくれて、肝心の道順がわからない。結局雲水峰大橋の手前の県道を180度にまがり、山間の峠道をこえて小塩江(おしおえ)郵便局の交差点に出た。ここから先は比較的わかりやすい道すじで、素晴らしい田舎の景色が惜しみなく展開する。
日本の原風景がなくなりつつある、といわれる危惧が実感してこない。県道233号と小塩江中学校前でわかれ、塩田地区でその貴重な風景をディジタル情報として保存した。

湯ノ川地区の県道293号手前で、須賀川市から郡山市に入る。岩作で水郡線第一唐松踏切をわたる。もちろん無人踏切で、信号機柱に「おねがい」のプラスチック板がとりつけてある。
「おねがい 踏切警報機の故障にお気づきの方は左記へお知らせください 水戸信号通信指令(089)227−4386」
踏み切りの真ん中に立って、直線に延びる線路を遠近法で撮る。しばらく待っていたが電車は来てくれなかった。

田圃の真ん中につくられた丁字路を左におれ、谷田川をまたいで国道49号に合流する。陸橋のある合流点は田村町岩作字穂多礼。神社につけてもおかしくない美しい名前ではないか。合流手間の路傍に道標がある。西側は読めなかった(彫ってあったかな)が、いわずとも、郡山だとわかる。国道の反対側は小高い丘になっていて、
岩城街道の古道が残っている。岩城街道とは会津中通りの郡山と陸前浜街道の岩城(いわき)を結ぶ道で、山越えの多い険しい道だそうだ。現在の国道49号線にあたる。

守山

いよいよ岩城街道の宿場町、守山にはいる。円通寺の前を左にはいり、枡形のなごりを残す道をとおって宿場町をぬける。途中、木材を扱う立派な家が目についた。宿場の家並みが途切れるあたりで、左手に田村神社への参道がでている。芭蕉はここの問屋を訪ねた後、
田村神社に参詣した。石段の傾斜は急で、しかも一段が高い。中央に手すりが設けられているのも、そのためだろう。上り詰めると目の前に巨大な朱色の長屋門があらわれて、なぜか大太鼓が吊り下がっている。左右の舞台は神楽殿だろう。芭蕉はここでいろいろな社宝をみせてもらったらしい。小祠がいくつもあって由緒深い趣がつよくうかがえた。

金屋の渡し

当時、今の国道49号が阿武隈川をわたる金山橋はもちろんなかった。最寄の渡し舟場は、阿武隈川が大きく東に蛇行しているところにあり、
金屋の渡しとよばれた。田村町金屋の町の手前で左の地方道路をゆく。金剛寺の横を通って田圃のひろがる農道をゆっくりドライブして廻ったが、昔に川があった跡をおもわせるような景色にであうことはなかった。自転車に乗ったおじさんに、念のためたずねてみた。説明をする素振りをみせず、手招きで、着いて来いというしぐさをした。運転席の窓を降ろして、自転車についてゆく。先ほど車で廻った場所に来て、おじさんはおもむろに自転車をおりた。あたりは墓地で、一筋の用水路が通っている。やっと、おじさんの説明がはじまった。

「むかしは阿武隈川がここまで来ていたのだ。もうはなされて沼や草地になっているけどね。ここが渡し舟の発着場だった」

用水路に沿って墓場の奥に入り込むと、葦のしげる川筋にでた。水はみえないが、足元はゆるい湿地だ。墓地の対岸はアパートの建物が続いていた。草むらの写真を撮って私は満足だった。一人ではこられない所だったから。

国道にもどって、金山橋をわたる。須賀川から笹川をスキップして日出山で奥州街道にもどった勘定だ。芭蕉は黙々とその日の宿にいそいだ。

郡山

4月29日泊

   「日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ」(曽良)

須賀川から乙字ヶ滝をみての大迂回はかなりな強行軍であった。郡山で日がくれたので宿をさがした。知人もいないので、泊るだけの場所だ。宿場全体が小規模で、なんとなく貧弱でむさくるしい。泊った宿も同様だった。この宿場が福島県第一の都市になるなんて、芭蕉も曽良も想像だにしなかった。当時の都会といえば、白河と須賀川である。

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安積山(日和田)

5月1日(新暦6月17日)


資料14

等窮が宅を出て五里計、桧皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。

日和田宿の西方寺を過ぎたところの三叉路で左におれ、県道357号の坂をくだって家並みがきれたあたりに、右に出でる農道がある。前方にJR東北本線がよこたわって延び、その手前は一面の田圃がつづく。農道をたどっていくと、左のあぜ道に立て札が見えた。「安積沼跡」の説明板だ。大昔は一帯に沼が点在する低湿地だった。芭蕉がたずねたころは開拓が進んで大方田圃となり、沼はわずかに残っていたようである。今は一沼も見えない。

日和田宿を過ぎ、高倉に向かう途中に、万葉の古代から歌に詠われた代表的な歌枕の一つ安積山がある。今は公園として整備され、赤松に覆われた低い丘の西面の各所に、ゆかりの碑が建てられている。北側駐車場の端に、「山ノ井の清水」が細々と水脈をつないでいる。

  
安積山 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を 吾(あ)が思(も)はなくに (巻16の3807)

  
(山の井の清水は安積山の影を水面に映し、浅い井戸のように思われますが、とても深い清水なのです。
   私たちが王をお慕いする気持ちも、とても深いのですよ。)


聖武天皇が近江紫香楽(しがらき)に都を造営中のころ、葛城王(橘諸兄684〜757)が陸奥国に視察にやってきた。迎えた里長は娘の春姫に歌を詠ませたところ、王は大いに喜んで宴を楽しんだ。葛城王は、三年間の年貢を免除し、春姫を「安積うねめ」として帝のもとへ連れて行くことにした。

しかし春姫には次郎(太郎、という話もある)という約束をちかった許婚者がいたのだった。春姫を失った次郎は人生に絶望し、山の井の清水に身を投げた。都で帝の寵愛を受ける春姫だが、次郎のことはひとときも忘れることはなかった。数年後、おりから猿沢の池で月見の宴が開かれていたとき、池畔のしだれ柳に衣を掛け入水したと見せかけて、都をあとに遠路安積の里に向かったのだった。しかし里にたどりついた春姫は、次郎の死を教えられ、雪の降る夜道をたどって、彼女も同じ清水に身をなげてあの世に恋を結んだのである。

悲しい冷たい冬が去り、安積の里に暖かな春が訪れると、山の井の清水のまわり一面に、薄紫の可憐な花が咲き乱れていた。二人の永遠の愛が結ばれてこの花に変わったのだと、里人はその花を「花かつみ」と呼ぶようになった。

2、3分でたどりつく公園の頂上は横に枝を張った赤松にかこまれた明るい広場で、3分咲きのつぼみを満載したツツジの潅木がその間を埋めている。街道沿いの入口付近に「花かつみ」の植栽記念碑があった。うしろに、まだ花をつけるには幼すぎる緑の細茎が数本しなだれていた。「花かつみ」とは何の花なのかという議論が専門家の間でながく続いた。一応の結論は「姫シャガ」ということで落ちついている。「シャガ」よりも花弁全体がうす紫色の、あやめに似た形の、小さな花である


「花かつみ」を探しているうちに日が傾いてきた。人に聞いても知らないというし結局みつからずじまいだった。すこし速度をあげて二本松の安達が原へ急ぐことにしよう。なんでも、気持ち悪いところらしいから、暗くなってからではまずい。

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二本松

安積山で花かつみを見つけることなく、失意の内に二本松までやってきた芭蕉は、ここで市内の観光もせずに、宿場を素通りして安達ケ原へ直行した。

安達が原(鬼婆伝説)

安達橋の下流にあった供中の渡しで阿武隈川をわたると、川岸の大きな杉の木の根元に「黒塚」と歌碑がある。

  みちのくの 安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれると聞くはまことか  平兼盛

ある日、紀州熊野の裕慶という僧が、岩手という老婆がすむ家に一夜の宿を求めてやって来た。慣わしとして一度はことわるが、「でも、奥の部屋だけは覗かないでください」といって祐慶を快くもてなした。裕慶は隙をみて奥の部屋を覗いてしまう。そこには切り刻まれた人間の死体が山のように積み重ねてあった。裕慶はこれこそ噂に聞いた鬼婆であると知りあわててそこを逃げ出す。老婆は覗かれたことを知って、裕慶を追いかけた。裕慶はもはやこれまでと、如意輪観音を地面に下ろし、一心に祈願した。すると尊像ははるか虚空に舞い上がると一大光明を放ち、白真矢で鬼婆を射殺してしまったのだった。その後、裕慶は塚を作り、鬼女を手厚く葬った。そこを黒塚という。

その鬼婆とはいったい何者か。答えは近くの観世寺にある。入場料を払って山門を入ると、左側に大小の岩がごろごろしている。それぞれに名札がさしてあり、いわくつきの体だ。中央にあるのがお目当ての鬼婆の住居だったとされる岩屋である。台形の巨岩におおきな笠石が多いかぶって屋根をなし、その間に岩手が住んでいた。蜘蛛が虫を待つように、岩手はそこで腹のおおきな妊婦を待っていたのだ。

平安時代、岩手という乳母が、主君の娘が口がきけないことに心を痛めていた。ある時、「妊婦の生き肝を食わせれば彼女の病気は治る」というお告げをきき、実の娘も主君も捨てて、遠き奥州安達ヶ原の岩屋に棲んで獲物を待った。20年後のある日、老婆となった岩手は、迷い込んできた妊婦を殺したが、その直後、手にしていたお守りから妊婦が自分の実の娘、恋衣(こいぎぬ)であることに気づく。ショックで発狂し、鬼女になってしまった岩手は、それから、旅人を殺しては生き血を吸う、「安達ケ原の鬼婆」として恐れられるようになった。

岩屋のそばに、芭蕉が腰掛けてやすんだという石がある。勇んでやってきたはずだのに、「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る」と、一句も残さず芭蕉の感傷は淡白だった。かわって正岡子規の句碑がある。

  涼しさや 聞けば昔は 鬼の家 

「鬼婆」の現代的解釈については、女性が女性のために書いた次の本が面白い。

『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』   光文社新書  三砂 ちづる




福島

5月1日(新暦6月17日)泊
「八町の目より信夫郡にて福島領也。福島町より五、六丁前の、郷ノ目村(福島市郷野目)にて神尾氏を尋ねる。三月廿九日、江戸へ参られた由にて、御内儀・母堂へ逢う。すぐに福嶋へ着いて宿す。日まだ少し残る。宿きれい也。」(曽良)

「宿キレイ也」とあり、
郡山とちがって、ここの宿はきれいだった。旅の印象が宿の良し悪しによって大きく左右されるのは昔も今もかわらない。

ここからは、次回の旅で。

(2005年5月)
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