今様奥の細道 

4月1日(新暦5月19日)



鹿沼小倉−板橋−今市鉢石日光
いこいの広場
日本紀行
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資料5

卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。


鹿沼


鹿沼の楡木で、例幣使街道(国道293号)と壬生通(国道352号)が合流する。分岐点にはガードレールに守られて古い道標が残っているが、「右 中仙道 左 江戸道」と刻まれた文字は摩耗がはげしい。

奈佐原、樅山(もみやま)を経て鹿沼市内に入る。芭蕉が宿泊したと伝えられる光太寺に至る横道を見過ごして、Uターンのために止まった所は
仲町屋台公園だった。隣には古い鉄商家がある。広場には屋根を二層に重ねたほどの低い二階建てで、白壁土蔵造りの「仲町屋台会館」がある。入ってみると、部屋の全スペースを占めてこの町自慢の白木彫刻屋台が展示されていた。繊細な木彫り彫刻で飾られた豪華絢爛な屋台だ。下野彫師の第一人者で、日光五重塔の彫物方棟梁であった人物の作だという。

1ブロック引き返し、三叉路を西にとり、東武日光線のガードを過ぎるあたりに「ひかり幼稚園」の案内札がでてくる。光太寺の経営する幼稚園である。山の中腹にある本堂の左側には
「芭蕉の笠塚」が小高く盛られ、「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られた墓碑が建っている。芭蕉がこの寺に着いた日は朝から小雨が続いていた。翌日の日光詣でにそなえて、江戸からもってきた雨漏りのする古笠を捨て新しい笠に替えた。芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養したのが「笠塚」である。
次の二句は芭蕉がこの地で詠んだものとされる。当時光太寺は無住であり、
つく者もいなかった。

 
鐘つかぬ里はなにをか春の暮れ
 
入相のなにも聞こえず春の暮れ

小倉(こぐら)−例幣使杉並木街道起点


鹿沼から黒川に架かる御成橋(壬生の手前にも同じ名の橋があった)を渡って121号を北へ5キロほど進むと小倉(こぐら)で今市市に入り、待望の杉並木の景観が現れてくる。これまでの古代田園風景から、近世街道風景に窓の画面が切り替わった。並木の起点に「例幣使杉並木街道」の標柱と、松平正綱の嫡男正信が建立したという並木寄進碑が立つ。

「下野国日光山山菅橋より、同国同郡小倉村・同国河内郡大沢村・同国同郡大桑村に至り、二十余年をへて、路辺の左右並びに山中十余里に杉を植え、もって東照宮に寄進し奉る 慶安元年(1648年)4月17日、従五位下松平右衛門太夫源正綱」

文挟を経て大きな板橋交差点に出る。東西に新しい道路が工事中だった。地図をみると、そこを右折して東に進むと日光宇都宮自動車道の大沢ICに通じ、さらにすすむと日光街道杉並木起点の大沢にでることができる。交差点をすぎて左直角にまがるところで、「近江屋ラーメン」と書いた大きな看板が目にはいった。場所は交差点を西にいった方向だった。

道は急に山中に入り、杉の木立がいっそう物々しい。いよいよ杉並木も佳境にはいる。杉の根もとは道の歩行者よりも高い。もともと街道の並木部分を盛り上げて造成したのか、もとは平だった並木道の道路だけを次第に掘り下げた結果なのかしらない。

左に道がでる丁字路右手に
地震坂の立て札がある。管理者が日光東照宮であるところがおもしろい。国道は政府でも杉並木は日光山ということか。昭和24年12月の大地震で杉並木が地すべりして街道ごと西に移動してしまった。いわれてみると道はいびつに左にねじれ、車道の上下線が二筋にわかれ、並木道の東側土手が西側より高い。

合流したのち中央線がなくなる最狭隘部を最徐行して歩く。二つの国道番号を付けた標識のあたりから日光道の下を通る区間が結構な上り坂になっている。昔はさらに急な難所だったようで、
十石(じっこく)坂と呼ばれている。日光東照宮造営の時、大石鳥居を運ぶ人夫たちに食べさせた米が十石に及んだ。

鬱蒼としてそびえていた杉並木がいくぶん疎になってきて明るさがましてきた。
やがて壬生通り最後の
室瀬一里塚が現れる。杉の根もとの土盛が他よりやや大きいという程度の塚で、標識がなければ分からないかもしれない。



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今市

杉並木がとぎれたところで今市市内に入り、例弊使街道は宇都宮から来た日光街道(国道119号)と合流する。分岐点には赤いキャップに赤いよだれかけ姿の大きな追分地蔵が足組みして瞑想にふけっていた。丸彫り石地蔵の坐像としては東日本有数の巨像だという。境内の一角に
「右 かぬま 左 うつの宮道」と刻まれた道標がある。
 
今市の市内に
二宮尊徳の墓がある。報徳二宮神社の前庭に、薪を背負って本を読む二宮金次郎の像がある。小学校でもめっきりみかけなくなった。子供がまねをすると交通事故になりかねないとか。単に彼はまじめで親孝行で勉強好きな子だっただけでなく、大人になっても農村の復興をたすけ農民の生活改善を指導した思想家・社会運動家でもあった。最後まで質素倹約をうたい、自分が死んでも墓を建てるなと遺言した。神社の裏には墓石のない土盛りだけが残っている。

市街地が終わり本格的な杉並木が始まろうとする手前に
瀧尾神社がある。ここから野口までの杉並木街道は車両禁止で、車道は並木の西側をつかず離れずに走る。途中の駐車場で車をおりて近辺の砂利が敷かれた並木道を散策することになる。この辺が日光杉並木のベストスポットと思われる。戊辰戦争時の弾痕跡が残る杉の大木(砲弾打ち込み杉)や、オーナーの名札がつけられた大木が聳えならんでいる。並木の東側は杉並木公園として整備されており、並木との間には日光山地からの伏流水を集めた清楚な流れがさわやかであった。

野口で遊歩街道は国道にもどり、風景は次第に俗っぽくなる。関東最大の観光地日光市内に入った。



鉢石

中鉢石町が宿場の中心だったのだろうか。日光市役所の向かい側を入り込んだところにかって鉢石宿本陣を勤めていた高野家がある。その庭に芭蕉句碑があるというので、玄関で許可を得て入らせてもらった。新旧二つの句碑が並んでいる。碑文は判読しがたいが側の案内板によると、あらたふと木の下闇も日の光 とあり、大日堂跡あらたふと青葉若葉の日のひかり の初案だそうだ。

日光街道の最終宿が鉢石宿である。芭蕉が泊まったという上鉢石町の右手路地を少し入ったところに「史跡 鉢石」の標柱が建ち、鎖に囲われてその鉢石があった。今は三ツ山羊羹本舗の管理・所有とある。伝承によればその昔、日光山開祖・勝道上人が托鉢の途中、大谷川(だいやがわ)岸辺のこの石に座って日光山を仰いだところから、この石が「鉢石」と呼ばれるようになったという。

大谷川を渡る寸前右手に天海上人像が空の彼方を見据えている。天海は天台宗の僧で、徳川家康に気にいられ関東に天台宗の一大勢力を築いた。川越喜多院が彼の本拠地である。家康の死後、久能山から遺骨を日光に移し東照宮を創建した。自信に満ち怪僧を思わせる天海の銅像は、一回り太らせたロダンの「バルザック」にも似ていた。



日光山   

資料6

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

 
あらたうと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

 
剃捨て黒髪山に衣更 曽良

曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。

廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。

 
暫時は瀧に籠るや夏の初

大谷川の清流に朱色の蔭をおとす神橋を左手にみて、いよいよ東照宮である。
広い参道にしばらく立ち尽くして、遠い記憶をたどってみた。確か中学の修学旅行で来たはずだ。説明を受けながら左甚五郎の彫刻を見学したはずだが…。大学時代にも、日本橋から徒歩でここまでたずねてきたはずだったが……。なにもよみがえってはこなかった。旅の記憶とはこの程度のものなのか。

見学は右手におおきな口をあけて観光客を飲み込んでいく
輪王寺の黒門から始まった。ここで今夜薪能があると書いてある。幽玄な趣があるそうだ。私は失楽園の映画の中ですこし見ている。境内の正面には日光山中、最大の建築物だという、鮮やかな朱塗りの本堂(三仏堂)が居座っている。
足早に広場を一周し輪王寺を出て、杉に抱かれた表参道を急いだ。

石階段を登り、石鳥居をくぐると左に五重の塔が聳える。表門でチケットを渡す。見上げると両側に、豊かに彩られて大見栄を切っている仁王が立っていた。

高野槙と銘打った杉の大木にならんで、猿の彫り物で有名な
神厩舎がある。彩色過多のけばけばしさが目立つ東照宮の建物群の中で、厩舎の素朴で地味な容貌は好感がもてた。猿はみな丸顔をして、目も丸く体つきもまるめでかわいい。体毛はきわめて短かくてフサフサ感は全くない。

日光山最高の、あるいは日本最高の建築物とされる
東照宮を見る。建築学的な構造解析はわからない。建物としての設計デザインには特別に奇抜なあるいは芸術的なところはないようにもみえる。東照宮ならびに回廊、唐門そして本堂など、本山一連の建築物を際立たせている物はそれらの過剰ともいえる木彫り装飾である。

余りに数がおおすぎてしかもそれらが高くて遠くにあるものだから、個々の木彫り彫刻の芸術的価値がどんなものか、なんともいえない。更にそれらが、鹿沼でみた彫刻屋台のような白木ではなく、青、赤、緑の三原色に白と金を基調とした極彩色である。白木、石膏、大理石、あるいは銅などの単色に馴れた目には、東照宮の彫刻群は眩しすぎた。

一つの形を創り出すのが芸術家で、そのパターンを模倣複製するのが職人……? 居並ぶ龍の彫刻をみながらそんなことを考えていた。同じ群像の表現でもロダンの地獄門とは根本的なところで違っている。

この過剰感は時として生理的な拒絶反応を引き起こす場合がある。
重々しい屋根付霊柩車、京劇の衣裳やメイキャップ、寺院や教会の祭壇、イコンなどの宗教画、御輿や山車、そして大晦日紅白のKとM。「豪華」はそのまま「美」とはならない。美は普遍だが、豪華は主観によって「醜」になりうる。

近頃この感覚の二重性をおもしろく感じている。
都会に住んでいたい一方で田舎暮らしをしてみたい。油絵もいいし水墨画もよい。ご馳走のあとの茶漬けもうまい。晴れ着も藍染めの浴衣も好きだ。仲間と飲み騒ぎたい反面、静かに一人でもいたい。それぞれ味が違うというべきで、濃淡両方を楽しめるのが幸せなのだろう。しかし、濃度が過剰になればあきらかに私は拒絶反応を起こす。他方、味が薄すぎて不満を感じることが最近少なくなった。

石垣と燈籠に挟まれて上新道を二荒山神社に向かう。二荒山神社は日光の原点で日光全山を境内とし、男体山を中心として西は中禅寺湖、華厳の滝、東は三街道の杉並木起点までをその領域に含む壮大な地主である。「二荒」の由来と「日光」との関係については次のような経緯があった。

天平神護2年(766)、勝道上人が修行に訪れたとき、神秘的で美しい山を見て「二荒山」と名付けた。二荒山は、「西域記」にある補陀洛山(ふだらくさん)から取ったとされる。その後、弘仁11年(820)に弘法大師空海が入山したとき、「二荒」を音読みにすると「にこう」と読めると、強引に「日光」と改称した。空海がなぜ「二荒」が気に入らなかったのかは不明である。東照宮とは対照的に二荒山神社は古色が強かった。

今夜はここで泊まる。明日は歴史からはなれて滝と湖の自然を楽しむ予定である。


(2003年8月)
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