今様奥の細道 

3月29日(新暦5月18日)

 

野木間々田小山飯塚室の八島壬生

いこいの広場
日本紀行
次ページへ
前ページへ

資料4

室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。



小田(小山)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢(喜沢)ト云所ヨリ左ヘ切ル。 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、小クラ川(現思川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカヽリ、室ノ八嶋ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。  (曽良随行日記)



野木


古河横山町柳通りからの旧道が国道4号と合流する手前の森に鳥居を構えた参道入口がある。社は500mもあるかと思われる長い参道の奥にひっそりとあった。木々が鬱蒼として境内は薄暗く空気までもがなんとなく重そうだ。

野木神社は、1600年前の仁徳天皇の時代に建てられ、1200年前の坂上田村麻呂の東征のときこの地に移されたという大変古い神社である。現在の神殿は、文正2年(1819年)古河藩主土井利厚により再建された。境内には、坂上田村麻呂が凱旋したときに植えられたという公孫樹(大いちょう)があるが、何代目のものとも書かれていないのは樹齢800年のオリジナルのイチウの木か。

歩道を歩いていくと、大きな民家のブロック塀の前に「日光道中野木宿」の案内板が立ってある。門の標札に「熊倉」とあるこの場所が元本陣だった。
野木宿は車で通れば2、3分で通りすぎる小さな宿場である。目立った史跡等もなく、歩いて注意深く探す必要がある。

左に入る路地角に、高さ50cmばかりの小さな石標をみつけた。かがみ込んで読むと「是より大平」とある。奥の細道とは関係なさそうだ。



間々田(ままだ)

芭蕉は2日目の宿をここでとった。間々田は駅前に観光案内所もない静かでちいさな町である。日本橋と日光のどちらからも11番目の宿で18里にあたり、ちょうど日光街道の中間点にあたる。この宿場の目印は
旧跡「逢(あい)の榎(えのき)」である。地図にはなく、偶然目にはいった「さやま酒店」の地酒の看板が教えてくれたものである。店の奥さんに聞くと、幸い歩いて1分の距離にあった。マルマンホームセンターのある交差点から北に20mいった東側に、民家の庭の端を借りてあった。

毎年この地を通る例幣使が中間地点の目印にと、この宿の入り口に「間(あい)の榎」を植えた。「間の榎」はいつしか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになった。

栗原電器店を越えたところ、駐車場の横の細い道をはいったところの青木家が間々田宿の
本陣跡である。青木さんは2代にわたって学校の先生をしているとのことだった。青木家の門を撮る。通りに面した場所に、まだ木地も新しい本陣跡をしめす立て札があった。内容は本陣の一般的説明で、場所がこことも、青木家がそうだったとも書かれてはいない。


すぐ先を左に曲がってかなり奥にはいったところで
間々田八幡宮の鳥居が見えた。奥の方から子供たちの声がする。中に入っていくと本殿前に一人前の土俵ができていた。周りは父兄応援団が取り巻き、屋台は開店準備中である。子供相撲大会の日だった。

間々田八幡宮は蛇祭りで知られている。毎年5月5日に行われている間々田の蛇祭りは、長さ20m近くの藁で作った蛇体を子供たちが 「蛇がまいた(ジャガマイタ)、蛇が巻いた、4月8日の蛇が巻いた」と囃しながら練り歩き、各町内の蛇が間々田八幡宮に集合し、神事や蛇の水のみ行事を行い各町内に散会する。本来4月の花祭りの日に行われていたが、いつしか「子供の日」の祭りになった。田植え前の雨乞い行事であった。

トップへ


小山(おやま)


間々田を過ぎて粟宮会所前交差点角に「近江屋ラーメン」が立派な店を構えている。旧道はすぐ先の二又道を右にとる。町に入る。大きそうだ。

駅ビル内の観光案内所で詳しい市街地図をもらった。部屋に結城紬が展示してある。茨城県結城とは隣り合わせの関係にあり、30分も東に行けば「結城の道」があるはずだ。

旧道沿いの市役所の駐車場に
「小山評定跡」があるという。一回りしても見当たらない。玄関からでてきた若い職員に聞いてみた。
「ここのはずです。私も見たことがありませんので、この機会に…」と、彼は書類を脇のしたに抱え直し、一緒についてきた。
標柱の後ろの石に彫られた由来書によると:
慶長5年(1600年)7月、徳川家康は会津の上杉影勝を討つべく小山に到着。このとき石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌日この地で軍議が開かれた。これを「小山評定」という。評定には家康、秀忠を中心に、本田忠勝、本田正信、井伊直政、福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らが参集したという。関が原の戦いの1年2ヶ月前のことであった。

市役所に車をおいて、祇園城址まで歩く。
公園の西側を思川が流れる。観晃橋にたつと川幅は意外に広い。思川は黒川、姿川を支流とし、古河市三国橋の上流で渡良瀬川に合流する。思川と日光街道に挟まれた祇園城は平安時代、藤原秀郷によって築かれた。城の守り神として祇園社を祭ったことからその名がある。15世紀ごろから小山氏歴代の本拠となり、江戸幕府成立後は本多正純が3万石で城主となったが、元和5年(1619)に正純が宇都宮に移封となったことにより廃城となった。
入口に石垣だけが残る城跡公園で、石段を登ると思川の眺めがよい。ハンバーガーをほおばる2人の女子高生、木陰で休む数人の中年男性、そして朱色の祇園橋が十分な距離をおいてそれぞれの領分の安寧をむさぼっている。あたり一帯は蝉の天下だった。

JR踏切りを越えて大きな交差点の北西角地奥に観音堂がある。堂の右手前にならぶ地蔵の台座に彫られた「右奥州海道、左日光海道」という文字を撮るのが目的だった。ここでいう「日光海道」とは、芭蕉が通った「日光壬生通り」(=「日光西街道」)のことをいう。この地蔵はもともと
喜沢の追分にあった。

街道をしばらく行くと静林幼稚園の向かい側に日枝神社に通じる参道がある。国道4号を横切って続く草深い道を50mほど分け入ったところに樹齢400年以上、高さ30mを超すという3本の巨大なケヤキが現存している。幹の皮は象の肌に似ていた。

このすぐ先の5差路で奥の細道は奥州街道と別れ、西に曲がって壬生通りをたどって行く。どちらを通っても日光へはたどり着けるが、芭蕉は室の八島を見たかった。

壬生通は日光西街道とも呼ばれ、日光街道(奥州街道)の喜沢から北西に折れる街道で、飯塚、壬生を経て楡木(にれぎ)で日光例幣使街道と合流し、今市で日光街道と結ばれる。

壬生街道(県道18号線)は早々に小山ゴルフコースの真中を突っ切って進む。その7番ホールの奥に壬生街道最初の
「一里塚」が残っていた。林の中に倒れそうな標柱が1本、地面はわずかながらに盛り上がっている。一里塚というより墓のようだ。




飯塚

扶桑丁字路交差点を左折し、半田橋で姿川をわたる。二股を右にとり県道18号が真直ぐにのびている。二股の根もとから右に出ている細道はいかにも旧街道の風情だが単なる農道のようだ。

まもなく右手の塚上に七面大明神、左手に妙典寺がでてくる。飯塚宿の入口である。飯塚宿は、承応3年(1654)に伝馬宿になった。集落のすぐ西を思川がながれ、かっては河岸として賑わった。今はほとんど宿場の面影すらない。わずかに門構えや屋根の立派な家が散見される。

ガスステーションのおじさんに宿場について話をきくことができた。ガスステーションのすぐ南隣、よろずやの前の谷田貝宅が脇本陣だったという。本陣については数軒手前、街道左手の空地になっているところが鈴木家跡地だそうだ。別れ際に「あそこを芭蕉が通っていった」と、すぐ先の台林寺の方向を指差した。曾良が
「飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、小クラ川(現思川)川原ヲ通リ」日記に記していることを知ってのことだろう。

台林寺と天満宮が隣合ってある。決して広くはない庭に工夫をこらして趣ある庭園に仕立ててある。庭師の仕事というより住職の愛情あふれる思い入れを感じさせた。芭蕉の足跡を期待して天満宮の北隣の道を入ってみたが、河原におりるところで道は藪に閉ざされていた。

飯塚にはいると2つの古墳への標識がでてくる。1つは摩利支天尊古墳という前方後円墳で、他の1つは琵琶塚古墳という。摩利支天尊古墳前の駐車場にはこの付近の史跡・古墳案内図が建てられていた。「しもつけの国風土記の丘」と名づけられたこの辺り一帯は、大小の古墳群や下野国分寺跡、国分尼寺跡、飯塚一里塚、紫式部の墓、博物館などをまとめた広大な歴史公園となっている。奈良の郊外をおもわせるような古い匂いが漂う里だ。芭蕉は室の八島以外眼中になかったらしく、これらを見向きもせずに思川に沿って道を急いでいた。

森が終り、開放的な田園がひろがるところに
下野国分尼寺跡がある。入口に淡墨桜の大木が立って、その背後は150m四方に及ぶ伽藍跡である。国分寺とともに8世紀の半ば天平、聖武天皇の時代に建てられた。国分寺には塔があるが尼寺に塔は認められなかった。

国分尼寺からの道が県道18号に戻る角に大きなホテルがでてきた。平屋かせいぜい2階建てのブティックホテルのようだった。真っ直ぐに走る県道の両側にこぶのような盛り上がりがでてくる。
飯塚一里塚は、道の両側に塚が残っている貴重な例だとされている。行き交う車も少なく道路を自由に横断して写真を撮ることができた。植えたばかりの苗木が暑さにまけて弱々しい。30年もすれば立派な塚に成長しているだろう。

いよいよ室の八島のある惣社に向かう。芭蕉は、思川と黒川との合流地点にあったという惣社河岸から船で渡った。地図をたよりにその合流地点を求めて、惣社へ向かう道路と壬生街道をつなぐ車道を東西南北に直進、旋回を繰り返したがどうしてもたどり着かなかった。ある橋のたもとの、道の行き止まりは栃木刑務所だった。

新保橋の手前で車を止めて上流をみやると、左右から流れが合っている。これが2つの川なのか、川中島の端なのか、判別できない。ともかくここからさほど遠くない地点で芭蕉は思川をわたった。

トップへ


室の八島

竹薮と杉木立が同居した薄暗い森の中に、崇神天皇のころの創建とされる古い大神(おおみわ)神社がある。境内にはいるや、湿り気のきいた大気と粉くさいカビの臭いが頬や鼻にまとわりついて、強烈に古い世界に紛れ込んだ気分におちいった。その境内に、さらに薄暗い雑木や笹薮の生い茂った池が掘られ、そこに石橋や朱塗りの橋でつないだ8つの島を配置した。それぞれに、子供ひとりがうずくまれる程度の小さな筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、熊野神社、二荒山神社、香取神社を置いた。ここが「室の八島」である。2、3を除いて同じような造りであって、名前を見ずに撮った写真がどの神社なのか今となっては判らない。

薮蚊が飛び交う池は黒々とした水を充たし、鯉が島を巡って遊泳している。昔はこの池からたちのぼる水蒸気がかまどの煙に見えた。常に煙がたっていたのであれば、池が温泉であった可能性がある。ともかくも、室の八島を詠むときは、煙にちなんだものにする習わしができた。

鮮赤色の鳥居が構える八島への入口に芭蕉の句碑がある。

 
糸遊に結びつきたるけふりかな

歌碑もある。

 煙たつ室の八島にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける 大江匡房
 いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは 藤原実方
 暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八島も都ならねば 藤原定家
 ながむればさびしくもあるか煙たつ室の八島の雪の下もえ 源時実朝
 東路の室の八島の秋のいろそれともわからぬ夕けふりかな 連歌師宗長

煙にこだわる本当の理由は池の水蒸気なんかではなく、神話にある。この大社の主人公、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)という女性のことを知らなければならない。彼女は浅間神社の主でもあって、富士山を守る女神である。火や煙に関係が深い。

大神(おおみわ)神社について

社伝によれば、大神神社は、倭大物主櫛玉命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト。以下「
大物」とよぶ)を主祭神とし、木花咲耶姫命(主人公。以下「花咲姫」)、瓊々杵命(ニニギノミコト。咲耶姫の夫。以下「ニニギ」)、大山祇命(オオヤマズミノミコト。咲耶姫の父。以下「大山」)、彦火々照命(ヒコホホデリノミコト。咲耶姫の子。以下「火照」)を配神とする神社で、創建は神武天皇からかぞえて10代目の崇神天皇のころとされる。

崇神天皇の皇子豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)が東国平定のときに、大和国三輪山(奈良県桜井市)に鎮座する日本最古の神社、大和国一之宮三輪明神・大神神社の分霊を奉斎し、民の平安と戦勝を祈願したことから始まった。神社は、1584年に焼失したが、三代将軍徳川家光が復興させた。その時寄進した杉の苗木一万本が現在の森である。大正15年(1926)になって大改修が行われた。

同行の曽良が芭蕉に言って聞かせた神話は、概略次のようなことだった。宮崎市のサイトにかわいいイラスト付の系図があるから、参照するとわかりやすい。  

我が国の母なる女神天照大御神は、地上の国を治めようと三種の神器(勾玉、鏡、剣)を持たせて、孫のニニギを地上に派遣した。日向の高千穂峰に降りたったニニギが笠狭の岬に到ると、機を織る少女が迎え入れた。大山の娘の、磐長姫(イワナガヒメ)、花咲姫の姉妹である。 

ニニギは花咲姫の美しさにひかれ結婚を申し出た。この際、父親の大山は、花咲姫とともに姉の磐長姫も一緒に結婚させようとしたが、ニニギは姉のあまりの醜さに驚いて、1日で彼女を帰してしまった。ニニギと花咲姫は結ばれ、花嫁はその夜のうちに妊娠した。
「あまりに早すぎる。よその男とできてたのじゃないか」
ニニギは花嫁の貞操を疑った。
「不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずです。みてらっしゃい」
花咲姫は身の潔白を明かすために、かまどに入って出口を塞ぎ(無戸室)火を放った。燃え盛る炎の中で、花咲姫は無事に火照(海幸彦)、火遠理命(ホオリノミコト:山幸彦)ら3人の子供を産み落とした。

後日談だが、彼女は疑われたことをあとあとまで恨んで、それよりニニギを避けるようになった。ニニギは反省の念もなく、ちょうしよい歌を詠っている。古代から男は勝手だった。

 
沖つ藻は 辺には寄れども、さ寝床も 与はぬかもよ 浜つ千鳥よ
 (沖の藻草さへ浜辺に寄せられて来るというのに、寝床も与えられないのだな。浜の千鳥は)

古代、「やしま」は「かまど」を意味した。「やしま」が「八島」に変わって8つの島が築かれた。
また、「奥の細道」には「このしろといふ魚」に関する記述があるが、あまり感じのいい話でないので簡単に触れる。
「このしろ」とはニシン科の魚でコハダとも呼ばれ、焼くと人体を焼いたときの臭いがする。火の中で貞操を証した花咲姫をおもんばかって、大神神社はこれを禁忌した。

室の八島は奥の細道最初の歌枕(名所)の地で、芭蕉は非常に期待していた。しかし芭蕉は曽良から聞いたこの社にまつわる伝承のことだけを記しただけで、自らの感慨をなんら残していない。ここから、後世の芭蕉研究者によって、室の八島は低く評価されてきた。やれ社が古いだの、池に水がないだの、水蒸気なんか見えないじゃないかだの。あるいは空気がかび臭いとか、やぶ蚊が多くてやってられないとかいった苦情もあったのだろうと想像する。それに、伝承の中味がサディスティックで、決してロマンを誘う話ではない。そんなことも芭蕉の趣味に合わなかったのかもしれない。

私はまずまずの写真が撮れてそれなりに気にいった。とくに観光地化されていないのがよい。スカートやTシャツ姿ではとても長居できるところでないのも、結果的に俗化防止に役立っている。

トップへ


壬生

壬生町に入り一里塚をたずねる。榎が大きく育っていて、今までのなかでもっとも一里塚らしい。日本橋から数えて23里(約92km)にあたる。日も傾きカメラを納めた。芭蕉はこの日鹿沼まで行っていて、今日も追いつけなかった。

町内の旧街道は「蘭学通り」商店街である。19世紀の天保時代、二宮尊徳の主治医でもあり壬生藩鳥居家に藩医として仕えていた蘭方医斎藤玄昌にちなむ。斎藤玄昌は種痘を積極的に取り入れ予防衛生に献身した。また、解剖記録「解体正図」を残している。

町の北はずれで、18号は352号に移り、北関東自動車道のガードをくぐったすぐの交差点角にセブン・イレブンがある。店の裏側の田んぼに頭だけ出して隠れている金売吉次の墓を見に行った。源義経が追われて奥州平泉に下る際、同行していた金売吉次はここで病死したという。彼は奥州平泉に出る砂金を京で売りさばいて儲けた。

芭蕉もこの墓をみている。
 
 
 「壬生ヨリ楡木へ二リ ミフヨリ半道ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有」 (曽良)

数10メートル先の左側に
稲葉一里塚の榎がでてくる。日本橋から24里目の塚である。
壬生での仕事をここで終えた。

鹿沼市楡木でいよいよ例幣使街道と一緒になる。鹿沼の光太寺では芭蕉が待っていてくれるはずだった。

(2003年8月)
トップへ 前ページへ 次ページへ