今様奥の細道 

5月8日-13日(新暦6月24日-29日)



多賀城-塩釜松島石巻登米一関平泉
いこいの広場
日本紀行
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資料21

かの画図にまかせてたどり行ば、
おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。

壷碑 市川村多賀城に有。
 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。

「此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣朝修造而。十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、 羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。


多賀城

5月8日(新暦6月24日)

仙台に4泊した芭蕉と曾良は翌日、多賀城・塩釜をめざして芭蕉の辻から塩竃街道を東にむかった。鉄砲町を経て最初の宿場原町に入る。宿場の東端、原町3丁目の交差点に大きな道標が建っている。「苦竹の道しるべ」として知られる嘉永6年(1853)の古いもので、東西南北に行先と距離が刻まれている。ここを北に向かう道が塩釜街道である。「北 塩可満松嶋 六里十五丁 三里十九丁」とあり、松島までが6里15丁で、塩釜までは3里19丁というのであろう。

街道は県道8号仙台松島線(利府街道・石巻街道)に合流する。このあたりは
案内というところで、茶店の湯豆腐で人気があった。比丘尼坂を越え今市宿をぬけて七北田川に架かる今市橋を渡ると、正面に東光寺がある。参道入口に「おくの細道」と刻んだ大きな石碑が立つ。東光寺の前の道を西に400mほどいくと右に二股道がでている。その右側の道が芭蕉が「おくの細道」とよんだ道である。

当時は山際に開かれた棚田のあぜ道で、沿道の農家では特産品の
十符の菅(とふのすげ)が栽培されて、十符の菅で編んだ菅菰が珍重された。今は坂道の西側は山で、東側は宅地化されて民家がつづき、菅が生え茂る景色は過去のものとなった。坂道を上りつめた先は、山の谷間にわずかに棚畑がのこるだけである。東光寺の前にもどり、そこから東に向かう。この道も奥の細道といわれることがある。

今市橋から二つ目の信号で、右斜めに旧道に入る。古い建物が並んでいて、原町や今市よりも宿場らしいたたずまいである。岩切郵便局の隣に趣ある古い二階建ての建物がある。その角で、塩釜街道から
旧石巻街道が北に分かれている。安永3年(1774)の道しるべがあり、「右 塩釜道、左 松島道」と刻まれている。芭蕉は岩切から塩釜街道をたどって多賀城跡へ向かった。

市川橋で砂押川を渡ると、道は新旧二手に分かれる。右側が現県道35号で、左側が塩釜街道旧道である。その間に
陸奥国府多賀城があった。芭蕉は壷碑に直行したようで、道筋でいえば新道をとったことになる。多賀城は奈良時代の神亀元年(724)に大野東人(おおのあづまひと)によって陸奥国府として造営された。小高い丘の頂上に1辺約1kmの築地塀で囲まれ中央に政庁が置かれた。延暦21年(802)坂上田村麻呂が胆沢城を築くまでは鎮守府も置かれ、東北地方の政治・軍事の中心をなしていた。辺り一帯には土塁、礎石、石段の痕跡が残っており、遥か古代の陸奥国から吹いてくる風を感じることができる。

政庁跡から南に丘を下り、塩釜新道を横切たところに
多賀城碑(壷碑が建っている。多賀城碑は藤原恵美朝臣朝猲の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑である。今は四面格子の覆い堂内に納められているが、芭蕉がおとずれたときは野ざらしに放置され、石は苔むしていたようだ。多賀城跡も現在のように発掘保存された状態でなく、草木がしげるなかにようやく土塁や礎石の痕跡を見出すのが精一杯ではなかったかと思われる。それでも古に思いを馳せて芭蕉は感激の涙を流したのであった。

多賀城周辺にはほかにも歌枕があった。芭蕉は一旦塩釜の宿にチェックインしてからそれらを見に出かけた。



末の松山

資料22

それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。

五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、 籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。
其夜目盲法師の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。

仙石線多賀城駅の西方、鎮守橋で砂押川を渡り最初の信号で右の路地に入る。宝国寺の墓地の裏側に数本の黒松の大木がみえる。古来より歌に詠われてきた
「末の松山」である。住宅地の高みに忽然とあらわれる老松は意外性に富む。墓地は芭蕉のころからあったようだ。本来ならば風情ある景観になじまない墓の存在も、芭蕉は末の契りの象徴ととらえて、歌枕をけなすようなことは言わなかった。

そこから100mもない距離に住宅に囲まれた
「沖の石」がある。住宅街の真ん中にとりのこされた水溜りの様で、中の島を形作っている岩も窮屈そうにみえた。昔はここまで海岸線がきていたのであろうかと思ったが、意外にも芭蕉のころから沖の石は百姓家の裏にあったという。池中の岩は、確かに普通の平凡な庭石ではなくて、荒波よせくる断崖の岩の面持ちである。ただ周囲の景色が末の松山以上に無粋であった。芭蕉も野田の玉川と沖の石に関してはノーコメントでとおしている。

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塩釜

資料23

早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎奇進」と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そヾろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳名今に至りて、したはずといふ事なし。誠「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と云り。
日既午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。

5月9日(新暦6月25日)

旧塩釜街道の北側の一森山に陸奥国一宮塩竈神社がある。社務所の前にひろがる日本庭園は紅葉の盛りで、そのなかに葉をすっかりおとして寒々とした四季桜が梅のような花を枝いっぱいにつけていた。遠くには塩釜の港が見える。多賀城が国府であった時代、塩釜の港はその国府津であった。また、この地が陸奥国内での製塩の中心地でもあったことなどが、塩釜神社の由来の背景をなしている。塩釜宮町で一泊した芭蕉は翌朝一番で塩釜神社に詣でた。

塩釜神社は二本殿にその拝殿、別宮本殿とその別宮拝殿という、三本殿二拝殿という他に類例をみない社殿構成をとる。境内にある古い燈籠のなかでも本殿右手にある、文治3年(1187)7月10日の日付が刻まれた
鉄製の燈籠は、奥州藤原三代秀衡の三男忠衡(泉三郎)の寄進によるものである。文治3年、藤原秀衡が急逝したのち、二男泰衡は一旦義経をかくまうが、頼朝の激しい圧迫に屈して義経を急襲した。これに対し、弟の三男泉三郎忠衡は最後まで義経に忠義を尽し、2年後の文治5年、義経の自刃した後兄泰衡によって攻め殺された。大の義経ファンである芭蕉がこの燈籠に5百年の思いをはせて感激したこと、いうまでもない。

芭蕉は昼頃船に乗って塩釜を後にし、湾内を遊覧して松島に渡った。観光桟橋からは何隻もの「芭蕉丸」あるいは「芭蕉コース巡り」と銘打った観光船が松島との間を往復している。松島までは海岸に沿って国道45号で陸路を旅する人もいた。


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松島

資料24

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。


雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

      松島や鶴に身をかれほとゝぎす  曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。
十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。


松島湾に260もの大小さまざまな島が浮かぶ。松島は天橋立、安芸の厳島にならぶ日本三景の一つとして名高い。芭蕉は何よりも松島を楽しみにしていた。船からながめた多様な島々の様子を愛情あふれることばで細やかに描写している。芭蕉は気分が高まってその夜は寝付けなかったらしい。曾良は一句を作ったのに私はなにもつくれなかったと、芭蕉にしてはめずらしくしおらしい態度である。自分の身を引いて客体に対する意識を高めようとした作家芭蕉のしたたかな計算であろう。

芭蕉にかぎらず、松島に着いた人がまず向かうところは
瑞巌寺である。平安時代初めの天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が建立、延暦寺と比肩すべきという意味で延福寺と命名され平泉藤原氏の外護を受けた。戦国時代に衰退していたものを伊達政宗の治世になって伊達家の菩提寺として再建され、このとき名も瑞巌寺に改められた。奥州随一の禅寺である。国宝の本堂内を一方通行に流れて各部屋の障壁画をのぞいて回る。すこし後戻りしようとして係員にしかられた。

本堂右にある
庫裡も国宝である。切妻の大屋根に袴付入母屋造りの大きな煙出をのせた形が珍しい。こけら葺四脚門の中門、重厚な薬医門の御成門など、それぞれに見ごたえのある建物であった。帰りは長屋のようにつづく天然洞窟群の前を通っていく。その前に各地の札所から集められた千住観音石仏が順序良く立ち並んでいた。

瑞巌寺から海岸に出て、
五大堂をたずねる。波に削られた湾曲の岩島に、橋げたの間に海面がのぞく「すかし橋」で渡ると清楚ながら華麗なお堂が建っている。大同2年(807)坂上田村麻呂が東征の折に毘沙門堂を建立した後、慈覚大師円仁が瑞巌寺守護のため五大明王を安置してから五大堂と呼ばれるようになった。島は堂を背負うだけの大きさしかない。堂を一周してまたすかし橋をおもむろに渡って海岸に戻った。

最後に
観瀾亭による。この建物は、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がこの地に移したものである。2室からなり四方縁をめぐらした東北唯-の純桃山建造物である。観月の亭として「月見御殿」とも呼ぱれる。戸を開け放した一室では茶がふるまわれ、すずしげな顔つきをした観光客が茶碗を手に海に向かって正座していた。紅葉がみごろであった。

芭蕉は他に雄島などを見て瑞巌寺近くの宿に泊まった。

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高城~石巻

5月10日(新暦6月26日)

資料25

十二日、平泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。

芭蕉は朝宿をたって一路石巻をめざした。奥州街道沿いにあるはずの「あねはの松」や「緒だえの橋」などをたずねるつもりが、道をまちがえて石巻に出たとあるのは文飾である。二人は高城宿から日本橋より100番目の一里塚をみて山道を通り抜け小野宿にでた。道を間違えたとすれば左(あてら)坂から鳴瀬川にでるまでの人気ない山道のどこかであった可能性はある。

小野宿の「正寿司」の手前で左折して功岳寺門前の小野の追分にいたった。そこで気仙街道が分岐する。石巻街道はそこから南東方向に山裾の道をたどって三輪神社の西側で国道45号に合流していた。

次の宿場矢本に向かう。鹿妻駅の手前で左の旧道にはいり、第二下村松踏切をわたってそのまま国道45号をななめに横切って直進する。笠松、一本杉をへて中田から矢本宿にはいる。入口の鉤の手であっただろう道筋に鎌倉時代の古い板碑、愛染院跡標柱とともに、歴史の道(奥の細道)案内板が立っている。矢本は低湿地が開発された新田地帯で、街道はまっすぐにのびている。

芭蕉はこの新しい宿場町を歩いているとき、喉が渇いて苦しくなった。家ごとにお湯を乞うたが、皆ひややかだった。それをみかねた通りすがりの侍に援けられてようやく喉を潤すことができた。それのみならず、親切なその侍は今夜の宿まで紹介してくれたのである。石巻駅近くの石巻グランドホテルの敷地に住む四兵へ(四平衛)の宅だった。住吉地区にも近いにぎやかで便利なところである。
その日のうちに市内散策をすませることにした。

石巻は江戸時代、南部藩・伊達藩・一関藩・八戸藩の米の積出港として
旧北上川の河口に開けた港町である。石巻から江戸まで千石船が米を運んだ。河口をみおろす小高い丘は、鎌倉・室町時代の葛西氏が城を構えた石巻城址で、現在は日和山公園となっている。 山頂には鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)のほか、公園内には奥の細道ゆかりの地として芭蕉と曾良の像が建っている。

芭蕉はここから金華山を見渡せたというが、金華山はその方向にはなく、また牡鹿半島の上にみえるほど高い山ではない。

帰り道に、宿に近い住吉公園によった。
「袖の渡」の歌枕でもある。源義経が藤原秀衡を頼って平泉へ向かう途中、ここから船に乗って一関に向かう時、船賃の替わりに自分の片袖を船頭に与えたという。

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石巻~登米

5月11(新暦6月27日)

石巻から一関街道登米をめざす。途中これという歌枕がなく単調な一日になりそうだ。四平衛宅からすぐ東を通る県道33号にでて、石巻バイパスとの交差点をこえた次の十字路を左折して住吉中学校の北側をとおっていくと、右手に旧北上川の流れがみえてくる。ここから川沿いの道を北上し、愛宕山の東麓を通過して鹿又にいたる。ここで旧北上川は西方向に大きく湾曲しているが、もともと北上川の流れは西からそのまま東進して追波湾にそそいでいた。それを石巻湾へ付け替えたものである。

天王橋手前の堤防に大小の石碑が横なぐりの雪をうけて寒さに耐えていた。明和元年(1764)銘の庚申塔、天保5年(1834)の金毘羅大権現碑など、ここが古い道筋であったことを伝えている。天王橋で旧北上川をわたり、飯野川橋で現北上川をわたって左岸に出る。芭蕉が旧北上川を渡ったときは新北上川はなく柳津までは陸続きであった。その後現北上川の開削工事で飯野川から柳津まで芭蕉も通った古い道の多くが消失した。

新旧両北上川にかこまれた巨大な中洲のような
桃生(ものう)地区は、8世紀半ばの対蝦夷前線基地となっていたところである。724年に多賀城が築かれて以来徐々に前線は北上し、759年には桃生城が築かれた。近くの涌谷で日本ではじめて金が発見され、蝦夷の土地がますます注目を集めていた頃のことである。多賀城から胆沢城完成の802年にいたるちょうど中間にあたる。

桃生城跡のほぼ真東の位置に
北上川大堰が設けられている。そのすぐ下流の堤防に芭蕉公園があって、「奥の細道」に述べられている「心細き長沼」についての説明板が建っている。北上川が開削される前、北上川大堰の上流辺りに幅300m、長さ1.5kmの細長い大きな沼があった。そこの地名をとって「合戦谷(かせがい)沼」とよばれていた。今は北上川の一部に吸収されてしまったが、山の狭間に深いよどみをつくってかっての沼の面影を宿しているように見える。

新北上川の開削口、気仙浜街道と一関街道との交差点手前に小公園が造られていて「松尾芭蕉ゆかりの地」と題したパネル板と、そばには立派な「おくの細道の碑」が建てられている。その脇を通って国道から山にむかって一本の道がでている。両側には切り出された木材が山積みされて、その奥に明耕院の甍がみえる。

芭蕉はその道をやってきたのだという。明耕院の山門を黒門というのだろう。傍に樹齢400年という榎がそびえたっている。門前の道はさらにつづき雪がのこる杉木立の山中へ消えていった。芭蕉がそこから出てきたからには、その山道はずっと南の方向につづいていたはずである。

柳津の町を通る。家並みは新しくもなく古くもない。街を出ると堤防をはしる国道の東側に旧道が残っていて、田舎の集落をいくつか通り抜けて登米大橋の手前で国道にもどった。大橋にいたる日根牛(ひねうし)堤防には約2kmにわたる桜並木がつづいている。

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登米~一関

5月12(新暦6月28日)

橋を渡った右手の土手に
「芭蕉翁一宿之跡」の碑が建っている。石巻を出た芭蕉はここで一泊した。
予定していたところに断られ、検断の庄左衛門宅に頼みこんで泊めてもらった。土手からは白壁の土蔵がならぶ登米の景観をみることができる。登米の町は今でこそ明治村と呼ばれて多くの武家屋敷蔵造りの商家がのこる観光の町になっているが芭蕉の頃はなにもなかったのか、町をみて歩いた形跡もなく翌朝そそくさと旅立った。

米谷大橋が見えてくる辺りで北上川は大きく蛇行している。やがて錦桜橋の西方で国道346号(西郡街道)と交差し、まもなく街道はこれまで沿ってきた北上川と別れ土手を下りて北西の方向に進んでいく。中田町上沼集落にある
弥勒寺によった。役の行者により7世紀ころ草創されたという古刹である。弥勒寺寺山の東山麓にのこるのんびりした旧道をたどり、国道をよこぎって長根集落をS字状にぬけて国道にもどると、まもなく粧坂で宮城県登米市から岩手県一関市に入る。

一本木の街道沿いに
金華山公園という小丘があり行人塚や奥の細道パネルが建っている。そこに描かれた「芭蕉・曾良の足跡マップ」には、これから通る涌津の宿場から花泉駅の裏側を通って金沢宿にぬける旧道の道筋が示されていた。

やがて、街道は平地におりて涌津の集落に入っていく。東北本線の花泉駅から1kmほど手前が元宿場町であった。街道沿いには海鼠壁の蔵や、明治調の洋風石造りの建物など、往時の古い家並みが残っている。中でも海鼠壁の正面に旭日の彩色絵と鶴亀の浮き彫りをほどこした珍しい店蔵が目を引いた。国道は涌津郵便局のまえで旧道風に鉤の手に曲がっていくが、そこを逆に直進して花泉駅にむかう道筋がある。「芭蕉・曾良の足跡マップ」で示していた旧道がそれであることを忘れていた。


花泉駅前をかすめ金流川(かなれがわ)をわたると県道48号との丁字路に「宿場町金沢(かざわ)入口」の看板が立っている。右側の路傍に丸石の道標がおかれているが、文字はまったくよめない。「道、右ハいしのまき、 左ハうすきぬ」と刻まれているようだ。看板のある丁字路を左折して金沢宿にはいる。右手の大きな宿場案内板が建っていて当時の宿場町絵図が描かれている。

郵便局のところを右折して宿場をでる。水路を渡ったところを右折して金沢宿の北側を迂回してきた国道342号にでる。一関街道はここを左折して西に向かい、大門の三叉路を右にとって一関へでた。また単に奥州街道にでるなら、三叉路を左にとって有壁宿へでるのが近道である。芭蕉はそのいずれもとらなかった。この日は合羽も通るほどのひどい雨で金沢宿の西方にある川が増水して渡れなかったからである。やむをえずそのまま北上して山越えの道をいくことにした。今地図を見ても一関街道をよこぎる大きな川はみあたらないが、街道の南をながれる有馬川でも洪水をおこしたのだろうか。

飯倉をすぎて、五合田の曲がり角に
芭蕉行脚の碑が立っている。リンゴの直売店が建つ十字路をこえてすこしいくと右手に大平不動尊の小さなブロック造りの祠があり、その道向かいにも芭蕉行脚の道の標柱が立っている。やがて細田の大きな十字路にさしかかる。バス停には「牧沢集会所前」とある。直進する「流通団地」行きの道路と左折する道路の間に、左斜めにのびる二本の道がある。山間にはいっていく右側がいかにも旧道らしい雰囲気をたたえているが、途中の古老に聞いたところでは、この道は「奥の細道」ではなかった。元の十字路にもどり、もう一つの斜め道をいく。集落をでたところで、結局左折していった車道に合流した。

矢ノ目沢集落の西端を北上して国道284号を横切る。角に「日本の道百選 奥の細道 沢」と書れた大きな標柱がたっている。交差点をわたるとすぐに「矢ノ目沢」バス停十字路があり、ここにも手前に標柱と、左に曲がったところに「芭蕉行脚の道」碑がある。この交差点をまっすぐに進んでいき「ニコニコハウス」という福祉施設の前にきて、道は行き止まりのようにみえるが、その建物の裏側についている細道をたどると、関ヶ丘住宅地を見下ろす崖縁にでる。崖下の住宅団地におりる坂道は「道百選」に選ばれたときに整備された。降りたところに碑と説明板が建っている。

関ヶ丘住宅団地の西端の道をすすんでいくと、まもなく馴染みある「奥の細道」標柱がたっていて、そこから丘を下っていく旧道が残っている。このあたりが「カッパ崖」と呼ばれている地域である。崖下で沢川沿いの車道に合流するところにも「奥の細道」の説明板が建っていた。そこから芭蕉は、まっすぐ「富士通ゼネラル」の横を通って一関駅西口にでた。その道筋は駅や線路によって失われている。

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一関・平泉

駅前交差点の東脇に「芭蕉の辻」と「日本の道百選“おくのほそ道”」の記念碑が設置されている。豪雨のなか夕方に一関宿にたどりついた芭蕉は磐井橋袂の金森家に二泊している。金森家は地主町で代々造り酒屋を営んでいた一関きっての大地主であった。堤防に「明治天皇御行在所跡」の碑が建っているところからそれなりの格式をもった豪商だったのだろう。二泊もした一関だのに、芭蕉は「戸伊摩(登米)と云所に一宿して、平泉に到る」と、まったく素通りの気分である。曾良がようやく、両日共に「宿ス」とだけ記しているだけで、これも愛想がない。二人の心は石巻をたったときから平泉にあって、登米も一関も必要に迫られて宿泊した宿場町以上の意味をもっていなかった。翌朝、天気も回復して平泉日帰り旅行に出かけていった。

資料26

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

  夏草や兵どもが夢の跡

  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

  五月雨の降のこしてや光堂


5月13日(新暦6月29日)

奥州街道の宿場町である山目を経て平泉に入る。芭蕉が寄らなかったところをまずみてしまおう。平泉駅前の信号を左折して500mほどの所にある毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、奥州藤原氏二代基衡(もとひら)の時代に多くの伽藍が造営された。堂塔は40を数え中尊寺をしのぐほどの規模といわれている。建物は焼失したが大泉が池を中心とする浄土庭園がほぼ完全な状態で保存されている。毎年5月の第4日曜日には「曲水の宴」が行われ平安時代の優雅な情景が再現される。

本堂近くの境内には「夏草や兵どもが夢の跡」を刻んだ句碑が二つ並んでいる。左の小さい碑が芭蕉の真筆といわれ、右の碑は文化3年(1806)に地元俳人たちによって建てられたものである。

毛越寺からさらに西へ数キロいったところに達谷窟(たっこくのいわや)とよばれる名勝がある。坂上田村麿創建の霊蹟で褐色の岩窟に建てられた毘沙門堂は異彩を放っている。坂上田村麿は窟に立てこもる屈強な蝦夷を征伐した。曾良は「タツコクガ岩ヤヘ不行」と記している。すこし離れているからであろう。

平泉に着いて二人は奥州街道に沿って中尊寺に向かったと思われる。芭蕉が「秀衡が跡は田野に成て」と、平泉散策の第一歩を記したのが伽羅御所跡だった。右手に立つ伽羅御所跡の標識にしたがって路地をはいっていくと三差路角の生垣に解説板が立っている。伽羅御所は三代秀衡、四代泰衡が居住した館であった。周囲は住宅と畑があるのみで、遺構は見当たらない。説明文だけ引用しておこう。

この付近は「吾妻鏡」にみえる「伽羅御所(きゃらごしょ)」跡であります。「無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号す。秀衡が常の居所なり。泰衡相継ぎて居所となせり」と、記されています。藤原氏三代秀衡は北方の王者と言われ、兄頼朝に追われた源義経を温かく迎えます。秀衡の亡き後鎌倉の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命にそむいて義経を討ちます。 しかし鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにありました。 文治5年8月(西暦1189年)、頼朝は28万4千騎という大軍を持って平泉を攻めます。 住む人も居なくなった平泉は、その後野火などによってさすがの栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せ、800年の歳月はわすかに内濠の跡や、土塁の一角をとどめるのみであります。元禄2年5月(西暦1689年、平泉の滅亡から500年にあたる)『奥の細道』を旅した芭蕉が「秀衡が跡は田野となりて」と嘆き、「夏草や兵ものどもが夢の跡」の句を詠んだ。平成7年 4月  平泉町観光協会

街道にもどりすぐ先の広い道を右にたどると今度は大規模な発掘調査が行なわれ多くの遺構・遺物が発見された国指定史跡、
柳の御所跡に至る。北上川のほとりにあって無量光院の東側に位置する。藤原氏が政務をおこなった政庁、平泉館(ひらいずみのたち)跡と考えられている。建立時期はあきらかではないが、寺院の無量光院・居所の伽羅御所・政庁の柳御所を含めて平泉の町を最終的に整備した三代秀衡の事業であったと思われる。日が傾いた跡地には焚き火の煙がたなびいていた。

街道のすぐ先、左手に残る
無量光院跡に人だかりがあった。測量する人、地面を掘り返す人、土を運ぶ人、ただ傍観する人。未だに発掘調査は完了していないと見える。この広大な跡地は三代秀衡が宇治平等院鳳凰堂をモデルに極楽浄土を北の地に再現しようとした跡である。

街道がJRと接近してきたあたりで、右におれて義経終焉の地
高館をたずねる。子供のときに見た中村錦之助の牛若丸以来の義経ファンであるから胸の高まりを禁じえない。芭蕉もそうだったろう。なだらかに曲がる北上川を見下ろす高台で、悲劇の武将源義経はその波乱の人生を終えた。忠実な弟分として偉大な貢献をしながら兄の恨みをかって、疎まれ貶められた末に攻められた。誤解か、歴史の必然か、それとも政子の陰謀か。義経はその出生から最期まで、謎と伝説に包まれた人物であった。義経堂にいる人物は必要以上に眉がながく、口ひげも福笑いの部品のように単調で、とてもあの義経とは思えない。中村錦之助の牛若丸はじつに美しかった。初恋の人に出会うべきか、永遠の夢の中にしまっておくべきか。芭蕉は世の無常に涙を落とした。

   夏草や  兵共が 夢の跡

中尊寺道踏切のそばに芭蕉も寄った
「卯の花清水」がある。竹樋から清らかな水が流れ出ている。その上に「この地に湧水があって、卯の花清水と命名しておりましたが、後年水が枯れ今は水道を使用しております。 平泉町」との立て札があった。水がだめでも卯の花はと、「夏は来ぬ」を思い出しながら、その場にいたおばさんに訊ねると、「白い花だよなあ。もう終わったのじゃあ」とあたりを見回してくれた。曾良の句碑がある。

  
卯の花に兼房みゆる白毛かな

踏切をわると国道4号に合流する。これまでの古の風景とは変わってここは観光門前町である。合流点三角地帯に竹垣に囲まれて大きな墓碑が立つ。
武蔵坊辨慶の墓である。弁慶はこの場所に葬られて五輪塔が建てられたという。墓石自体は塚上の松の根元にある小さな石である。五輪塔の一部であろう。

いよいよ平泉黄金文化の本丸、
中尊寺をたずねる。毛越寺とおなじく慈覚大師の創建になるもので、奥州藤原氏初代清衡によって堂塔伽藍が建立され奥州平安仏教の中心として繁栄した。鬱蒼とした杉木立の中を月見坂とよばれる参道を登っていく。この道は古代の東山道の道筋といわれており、中尊寺の奥から衣川関に降りていた。芭蕉が「衣が関」と記した場所は月見坂の入口あたりと考えられている。山中の広大な境内に多数のお堂や歌碑が見られる。西行はここを二度も訪れた。

中尊寺は毛越寺とおなじく慈覚大師の創建になるもので、奥州藤原氏初代清衡によって堂塔伽藍が建立され奥州平安仏教の中心として繁栄した。覆堂内にある
金色堂は天治元年(1124)の造立で、中尊寺創建当時のままの優美な姿を伝えている。金色堂が覆堂(鞘堂)によって保護されるようになったのは室町中期のころで、昭和40年(1965)には新覆堂が完成した。旧覆堂は経蔵の北側に保存されている。

旧覆堂のそばに芭蕉の像と文学碑が建っている。芭蕉は旧覆堂内に入ってまばゆいばかりの金色堂をみた。奥州の平泉に京の文化を花咲かせ、永久の浄土を実現しようとした藤原3代の夢の跡である。芭蕉は
衣川まで足をのばした後一関宿にもどり、翌朝奥州山脈を越えて日本海側にでる旅につく。行程としてはまだ半分も来てはいないが、奥州街道の北限をきわめて往路の旅を終えた気分になっているのではないか。


(2007年11月)
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