芭蕉が自宅の釣月庵(ちょうげつあん)に引きこもって書き上げた処女作「貝おほひ」を産土神上野天満宮に奉納し江戸に旅立ったのは寛文12年(1672)春、芭蕉29歳のことであった。

芭蕉は
小田原町(現室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の家に身を寄せた。小田原町は本船町、安針町と共に日本橋魚河岸市場を形成し、魚問屋が軒を連ねる繁華の地に住みついた芭蕉は日本橋商人と交友を広めていった。その中で後ほど芭蕉庵を提供する小田原町魚問屋杉山杉風とも懇意になる。 延宝2年(1674)春に伊賀上野へ初の帰郷、つづいて延宝4年(1676)6月20日には二度目の帰郷をしている。

桃青は日本橋を拠点として俳壇における地歩を固めていき延宝6年(1678)には俳諧宗匠として独立した。その翌年(延宝7年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠み上げたのが次の句である。

  発句也松尾桃清宿の春

その句碑がト尺宅跡地の
鮒佐玄関前にある。

延宝8年(1680)37歳の時、芭蕉は宗匠の地位を捨て侘びと風雅を求めて杉風からもらった深川村の番小屋に移り住む。天和元年(1681)門人の李下が芭蕉一株を贈ったところ芭蕉は見事に茂って、近所の人々はこの小屋を「芭蕉の庵」と呼んだ。桃青はこのころから「芭蕉」を名乗るようになる。

深川村は慶長元年(1596年)摂津からやってきた深川八郎衛門が干拓したものである。干拓者の姓をとって村の名とした。一帯は漁村で、魚の生け簀があった。幕府の魚御用商人であった杉山杉風(鯉屋市兵衛)が、その生け簀番小屋のひとつを芭蕉にゆずった。浜ではアサリがよくとれた。アサリの出し汁をご飯にぶっかけたものが深川めしとして名物になった。深川不動、深川江戸資料館付近に深川めしを食べられる所が多い。

天和2年(1682)12月、江戸駒込大円寺の大火(八百屋お七の火事)で芭蕉庵が類焼、半年ほど甲斐に逗留した後江戸に戻る。そんな中天和3年(1683)6月20日郷里の母が死去したというしらせを受けた。同じ年の冬、万年橋畔の船番所近くに新庵ができあがった。

新庵で春を迎えたものの、漂白の思いやまず8年ぶりに郷里に向かって旅立つこととなった。母の墓参を兼ねる旅でもあった。その思いつめた心情を芭蕉は
「野ざらし」と書き下した。それから5年後、旅の集大成としての奥の細道の旅に出る時、前文でこんなことを回顧している。「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず、・・。」「いづれの年」とはおそらく母の死から野ざらしの旅を決意するまでの1年間のころではなかったかと想像する。



旅立ち

資料1

千里に旅立て、路粮を包まず。「三更月下無何に入」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。

 
野ざらしを心に風のしむ身かな

 
秋十年却て江戸を指す故郷  

 
貞享元年(1684)8月、41歳になった芭蕉は隅田川のあばら屋を立つ。いつもなら大好きな仲秋の名月観賞にでかける季節なのだが、今年ばかりは風の音がちと違って寒い思いがするのだった。私は思いつめているのだよ。今度の旅では骸骨を野辺にさらすことになるかもしれないと。

  野ざらしを心に風のしむ身かな

江戸に出てきてから12年になる。故郷に向かう旅というのに、かえって江戸が恋しくなってしまう。でも私は決めたのだ。漂白の旅を住処とすると。

  
秋十とせ却て江戸を指す故郷

芭蕉は隅田川を渡って日本橋に出、東海道を上る。芭蕉庵から日本橋までどこを通ったか。一番の近道を探ってみよう。現在の箱崎地区の首都高速6号高架下を箱崎川が流れていて芭蕉庵の目の先で隅田川と合流していた。箱崎川と日本橋川の交差点に
行徳河岸があって千葉方面への水運の拠点になっていた。芭蕉はその行徳河岸で船をおりたか、あるいはそのまま日本橋まで行ったと思われる。

日本橋河岸界隈には杉風やト尺など知り合いが沢山居て、おそらく多くの人に見送られたのではないかと思う。奥の細道に随行した曽良のような有能な秘書でなく今回同行するのは大和国竹内村出身の千里という門人で、よく世話をしてくれるが、詳しい行程を記録するという気のきいたことはしなかった。したがって道筋、宿泊先、日程等は奥の細道に比べるときわめて大雑把である。野ざらしを覚悟の旅だからそのほうが却ってふさわしいのかもしれない。

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箱根越え

資料2

関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。

 
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

何某千里と云けるは、此度道の助けとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の交深く、朋友信有哉、此人。

 
深川や芭蕉を富士に預行  千里


品川藤沢小田原と大雑把に通り過ぎて、天下の難所箱根峠をなんとか登り詰めた。江戸から小田原まで、箱根駅伝の距離約110kmを参考にすれば、芭蕉は3日目に小田原に着いたものと推定する。箱根8里を越えるのにまる一日、4日目の宿は三島沼津に取ったのではないか。

翌日は天気に恵まれず富士どころか箱根外輪山の山並みも見えなかった。それもまた一興だと苦し紛れの一句を詠んだ。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

芦ノ湖畔から国道1号を南に進み左手に出てくる杉並木に入っていく。東海道としては唯一の杉並木だそうだ。静かな並木道を通りぬけると国道の反対側に関所資料館と
箱根関所の跡がある。復元された番所には表情を変えない役人が正座していた。厳しいことでしられる箱根の関所だが芭蕉は難なく通り過ぎた。

箱根峠を越える。ロマンを抱いてたどりついた峠だが、標高846mの標識がある他、ガスステーションと閉鎖されたコンビニをみただけの、あっけない頂上感であった。

箱根峠を越えると伊豆の国に入り一路箱根西坂を降りていく。
富士見平で国道を横切る角に東京上野の家具センターが建立した巨大な長方形の芭蕉句碑が立っていた。

芭蕉が富士山を見損ねたのはこの場所であったのか、それとも関所手前の芦ノ湖畔であったのかしらないが、富士見平とあるからここからも富士が望めたのであろう。私の場合、箱根であれだけくっきりと見えた富士がここからは見えなかった。方角をまちがっっていたか、それともかすかにかかる薄雲の向こうに隠れていたのか。見えないのも一興という気分にはなれない。

芭蕉はここで同行者千里を紹介して、思いやりがあって信義深い人物だとほめている。
千里は
竹内街道終点である大和竹之内の出身、芭蕉と一緒に自分も帰郷しようという計画であった。芭蕉にほめてもらって千里も一句を返している。

  深川や芭蕉を富士に預行  千里
     

見えない富士こそ面白い、とつれない芭蕉に対し、深川芭蕉庵での翁の生活は富士に預けることにして旅をしよう、と千里は富士山を持ち上げた。富士の姿は宝永山が左右の稜線の間に入る箱根から沼津の間が一番美しいとされる。延宝4年6月に二度目の帰郷をした際芭蕉は富士を詠んだ二句を残している。共に富士の美しい円錐形に魅せられた

  富士の山蚤が茶臼の覆かな

  雲を根に富士は杉形(すぎなり)の茂りかな


沼津からを経て吉原に至る。吉原と次の蒲原宿の間を富士川が流れていた。


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富士川 

資料3

富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。

小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、

 猿を聞人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝父に悪まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。


富士川鉄橋の手前渡し場跡付近に水神社があり、境内には渡し場跡碑、常夜燈、道標、庚申塔などが集まっている。

芭蕉が富士川のほとりに捨て子を見つけたのはこの辺りか。一句を詠んだ後、食べ物を投げ与えて通り過ぎた。アフリカで餓死寸前の少女をじっとみつめる禿たかの写真でピューリツアー賞を受賞した報道カメラマンのことを思い出した。後日、なぜ彼は子供を救わなかったのかと、道徳家から非難を浴びた。戦場カメラマンがいちいち負傷した兵士に構っていたら仕事にならない。富士川のエピソードが事実であれ創作であれ、芭蕉はこの旅で蕉風を確立することにのみ関心があった。

野ざらし紀行随一のセンセーションを巻き起こした一句であるのに、それに縁る句碑が一つも見当たらないのは不思議というほかない。富士駅前の公園に文学碑があるそうだが、ぜひ子が捨てられそうな富士川渡し跡あたりに立ててもらいたい。

富士川の急流を渡って振り返ってみると白雪をかぶった富士がその神々しいまでの姿をみせていた。

沼津から蒲原、由比を経て興津までおよそ40km。当時の一日行程である。5日目の宿は興津だったと思える。

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大井川越え

資料4

大井川越る日は終日雨降ければ、

 秋の日の雨江戸に指折らん大井川 千里

馬上吟

 道のべの木槿は馬に食はれけり


興津から江尻(清水)府中(静岡)丸子を経て
宇津の谷を越えて岡部−藤枝まで40km足らず。島田まで行くのはちょっときつい。芭蕉は藤枝で泊まったとしよう。国道1号でいえば藤枝が日本橋からおよそ200kmの地点である。一日40kmなら5日目で来られる距離だが、峠や川越えを考慮すれば6日目の宿泊所として妥当なところであろう。

実は次の島田宿には塚本如舟という知人がいた。塚本如舟は元禄のころ
川庄屋を務めた名家であり、俳人でもあった。元禄4年(1691)10月、長らく近江に滞在しての帰り道、芭蕉は初めて如舟の家を訪れている。

  
宿かりて名を名のらする時雨かな  馬方はしらじ時雨の大井川

次に元禄7年5月芭蕉最後の旅の途中、島田で大井川の川止めにあい再び如舟邸に4日間も逗留している。

  
さみだれの雲吹きおとせ大井川

晩年懇意にしていたらしいが、野ざらしの旅のころはまだ知り合いでなかった。

明日の大井川越えを控えて二人はすこし緊張していた。夜が明けると心配していたように雨降っていた。江戸の人々は日にちを指折りかぞえて、今日は大井川あたりか、雨に降られているのではないかと話しているのだろうなと千里は思った。二人が島田で川止めを食らったのか渡りを決行したのか千里の句からは読み取れない。

大井川は駿河と遠江の境をなす大河である。江戸時代、治安防衛の観点から架橋や渡船が許されず、川越えは、肩車や輦台で行われ、日常的な降雨でも川止めとなるなど、東海道一番の難所と言われた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われたものである。

そんな大井川に明治の初め、対岸の牧ノ原とを結ぶ全長900mのすばらしい
蓬莱橋がかけられた。平成になって「世界一長い木造歩道橋」としてギネスに認められた。腰高のスラリとした橋脚線美を見事な直線にならべ川をまたいだ壮大なラインダンスを想像した。

川をわたると金谷宿である。駅のすぐ裏手の長光寺に芭蕉の句碑がある。

  道のべの木槿は馬に食はれけり


「意識・心情の深さから、平凡な事柄に深遠な悟りにも似た禅機的心象を感じる」と難しい解説文があった。それほど深刻に考えなくても。

ムクゲの花は一日で落ちる。何をしなくても突然ポトリと落ちるのだ。なおこの句の原型となった句が久居で詠まれている。延宝4年(1676)6月、二回目の帰郷の折に久居で詠んだ句で、「道のべ」でなく、「道ばた」であった。つまりムクゲの一句は野ざらし紀行でのオリジナルでなくて、たまたまここに挿入した。あるいはたまたまムクゲを見て8年前の一句を思い出した。ムクゲの花は日本どこでも見られるためこの句碑は各地にある。

  道端の木槿は馬に喰われけり
 
ここから箱根、鈴鹿峠についで東海道三大難所と言われた中山峠を越える。

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小夜の中山

資料5

廿日余の月かすかに見えて、山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚。


 馬に寝て残夢月遠し茶の煙

今朝早く宿を出た時にはまだ空には21日の月が残っていた。数里を馬でやってきたがまだ、鶏の鳴き声が聞こえてこないとは、すごいことである。1里1時間として朝の2、3時頃に宿を出たのか。ちなみに藤枝から中山まで約20kmであって、大井川をすんなり渡れたとすれば時間と距離の関係が成り立つ。ただしそんな早朝から渡し場が営業していたかどうか。月齢と日付の関係について詳しくはないがもし今日が8月22日だとすれば芭蕉が江戸を立ったのは8月15日で、仲秋に出たことになる。

金谷宿をぬけ
金谷坂の石畳を登り切り合流してくる車道をすこし戻ったところに明治天皇御駐輦阯の碑と芭蕉句碑がある。石は丸形の自然石で中央よりやや左に奇妙な一対の突起がある。腫れ物か、あるいは土偶の乳房か。

  
馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟

諏訪原城跡の先で今度は菊川坂の石畳を下る。江戸時代からの石畳で石に丸みがあって表情が愛らしい。菊川の里は小夜の中山を控えたひなびた山里である。江戸時代は日坂と金谷の間にあって間の宿として栄えた。古くは鎌倉時代から利用されていた古い宿場町である。静かな菊川の里を静かに通り抜ける。細い坂道を登っていき短い林をぬけると両側に茶畑がひろがる急坂が続く。右手に、島田・掛川市境を示す標識が立つ。

これからたどる歌枕小夜の中山は多くの歌人によって愛された。それらの歌碑が旧東海道の道端に点々とある。長い坂を上りきると峠辺りに徳川家康ゆかりの久延寺が建つ。関ヶ原に向かう家康を掛川城主山内一豊はこの寺に茶亭を設けてもてなした。小屋におかれた丸石が有名な「夜泣き石」の一つである。一つということは他にもあるということで、本物は国道1号「小夜の中山トンネル」東口小泉屋の裏に置かれている。では久延寺にあったのはなにか。伝説を守るために同じような形をした丸石をどこかで調達してきたというしかない。小泉屋と久延寺は夜泣石をめぐって所有権確認訴訟で争い、久延寺が負けたという事実が残っている。

久延寺の隣にある扇屋では久延寺の和尚が伝説の主人公お石の子供を育てるときなめさせたという
子育飴を売っている。扇屋の斜め向かいが小夜の中山公園になっていてそこに巨大な西行の歌碑がある。

  
年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山

集落をぬけ沿道は再び明るくなる。右手遠方の
粟ヶ岳の斜面に「茶」の一字が山肌に茶木で書かれている。左右、小夜の山中は今や見渡す限りの茶畑で、峠をこえてからは快適な遊歩道である。道は下り坂となり左手に佐夜鹿一里塚跡が現れる。説明板には日本橋から元禄ベースでいくと52里目、天保ベースでは54里になると、面白い。時につれ道は変遷している証拠である。

左に
芭蕉句碑。金谷宿長光寺にあった句と同じである。

  
道のべの木槿は馬にくはれけり

白山神社の先で道が二又に分かれ、街道は左に進む。左に馬頭観音をみてその先200mほど行ったところの右側に
「妊婦の墓」が、左側には「涼み松」がある。延宝4年6月下旬芭蕉二度目の帰郷の折、向かいの松の木の下でしばらく休んだ。そのとき西行を意識して詠んだ句である。旧暦6月下旬といえば今の8月初旬、一番暑い時期である。芭蕉も小夜の中山で西行なみに命なりけりであったことを言いたかった。

  
命なりわずかの笠の下涼み

その先にも芭蕉の句碑がある。

  
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

金谷石畳の終わりにあった句碑と同じ句だが、場所的にはこの小夜の中山の方が原作地に近い。

その先の左手に
「夜泣石跡」の標柱が立つ。広重の絵にあるように夜泣石は街道の真中に置かれて旅人の哀れを誘っていた。明治元年になって明治天皇の行幸に際し、邪魔になると道の脇に退かされた。久延寺が引き取り、東京の博覧会に出品された後、訳あって小泉屋が買い取った。説明板にある「現在の位置に移る」とあるのは久延寺でなく、小泉屋のことである。

すぐ右手に広重の絵碑「小夜の中山峠」がある。この場所で描かれたとされるが左方の谷側は見晴らしがあって遠くに富士の山のような峰がえがかれている。実際の風景は左側は見通しがきかない林になっている。ところで
広重の53次の元絵は司馬江漢だったという説がある。江漢の描いた小夜の中山は坂の勾配といい沿道の風景といい現在の風景とあまり変わっていないように見える。ただ一点、両者とも道の真中に夜泣石を描いていることを除いては。

難所小夜の中山を締めくくるのは「二の曲り」とよばれる曲がりくねった急な坂である。坂を下ると国道、旧国道を横切って日坂(にっさか)集落の旧道に入る。日坂の里から朝茶の用意の煙りが細く上がっているのが見える。日坂は小夜の中山の西坂に由来する。東海道で三番目に小さい宿場だった。

ここで芭蕉の紀行文は一挙に伊勢まで飛ぶ。名古屋地方には門人、知人が多くいたはずだが、彼らとの接触は後回しにしたらしい。伊勢参宮だけは済ませて一日も早く故郷に戻りたいという里心に支配されていたようだ。
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伊勢までの標準ルートだけ示しておく。

朝早く出て小夜の中山をこえ
日坂、掛川を経て袋井に着いた頃は日が暮れていたのではないか。
袋井は品川宿から数えて27番目の宿駅に当たり、東海道53次ぎのど真ん中にあたった。切がよいので22日の夜はここに泊まることにする。

23日は袋井から見付宿を通りぬけ天竜川を渡る。浜松の城下町を経て舞坂宿から浜名湖を渡っていく。対岸には
新居関所が待っていた。6時までには入らなければならない。袋井からここまで10里なのでここに泊まる。

24日は白須賀二川吉田御油を経て
赤坂で泊まることにした。新居から8里ほどでちょっと短かめだが、ぜひここに泊まりたかったのだ。

ここの関川神社の鳥居横に私の句碑がある。8年前二度目の帰郷の折詠んだものである。

  
夏の月御油よりいでて赤坂や

夏の月の出ている時間の短さは、なんと御油から赤坂の間を過ぎる時間に過ぎない。御油宿から赤坂宿までは1.7kmと、東海道53次のなかで最も短い区間であった。

赤坂宿には多くの旅籠が飯盛女を抱えていた。どの旅籠にしてもいいのだけれど、一番大きく今も営業を続けている
大橋屋に泊まることにしたい。明治の初めまで旅籠伊右衛門鯉屋とよばれた旅籠兼女郎置屋であった。提灯といい出窓の板といい、いかにも古びていて気に入った。

 
御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い  御油や赤坂吉田がなけりゃ親の勘当うけやせぬ

と歌われたように、吉田、御油、赤坂の三宿は飯盛女の多いことでしられていた。

25日は爽快な気分で昨日の遅れを取り戻しつつ 藤川岡崎池鯉鮒(知立)鳴海宮(熱田)と50kmほど頑張った。

藤川宿には紫麦が栽培されていて、芭蕉が詠んだ句として碑を建ててもらっているが、彼はいつ詠んだものか記憶がはっきりしていないという。

  ここも三河 むらさき麦の かきつはた

宮では
七里の渡し場近くに宿を取った。寝る前に明日どちらにするか決めなければならないことがある。いよいよ伊勢路にはいるのだが、その出発点である桑名まで、行き方が二つあるのだ。一つはここから船で7里の海路を3時間ほどかけていくか、それとも佐屋街道で6里余り歩き、そこから船で3里の船旅をするかである。

佐屋街道は寛永年間、徳川家光のときに整備された。陸路佐屋まで来た旅人は佐屋湊で渡し船に移り、佐屋川を下り木曽川、揖斐川を横切って桑名に達した。この間約3里あり、7里の渡に対し3里の渡と呼ばれた。風や潮の干満によって航路が変わる7里の渡しよりも安全で短く、船旅に弱い旅人や女子供は3里の渡しを好んだ。


今回は急ぎの旅であるので直接ここから伊勢湾を渡ることにする。なお芭蕉は元禄7年5月25日最後の帰省の際、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭に泊まっている。そのときの句が刻まれた句碑が水鶏(くいな)塚として建っている。

  
水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊 はせを 


桑名に上陸したのは26日の昼前であった。ここに
伊勢神宮一の鳥居が建っている。参宮道の第一歩である。ここから伊勢神宮前まで21里余り。28日には伊勢に着きそうだ。四日市の先、日永で東海道と分かれて伊勢街道に入る。追分に伊勢神宮第二の鳥居があった。伊勢街道はそこから神戸(かんべ)白子(しろこ)、上野、津、雲出(くもず)、松坂、櫛田、小俣(おばた)の8宿を経て伊勢神宮外宮門前町山田宿に至った。

桑名から8里ほど来た
白子で日が暮れた。白子は伊勢参宮道の宿場町であると同時にその湊は伊勢商人の流通拠点として特産の染型紙や伊勢木綿が江戸に送り出された。宿場街には廻船問屋型紙問屋の豪勢な町屋が軒を並べている。豊かな町のようだ。

27日。上野から芭蕉が若い頃仕えていた藤堂藩の津城下を通り抜け、雲出から小野古江の渡しを渡り小村縄手を行くと、やがて月本追分にさしかかる。右に行くのは、伊賀越え奈良街道である。伊賀と伊勢街道を結ぶ伊賀街道の脇道として古くから利用された。右角に伊勢街道最大の道標がある。天保13年(1842)の建立で、四面に「月本おひわけ」「右いがご江なら道」「右さんぐうみち」「左やまと七在所順道」と刻まれている。伊勢参りを終わったら故郷へはこの追分から奈良道を通って帰るつもりである。

六軒町と市場庄町にかけて、東海道関宿にも匹敵するすばらしい家並みが続いている。切妻・連子格子造りに庇を大垂で隠した古い家並には屋号札が掛けられて、昔の街道風情が感じられる。

阪内川をわたっると松坂である。蒲生氏郷が作り上げた城下町で一緒に移住してきた日野商人の影響を受けて松阪商人が育っていった。大きな町で、ここで泊まってもよいのだが、白子からここまでは36km。あと1里分頑張って櫛田で泊まることにしよう。

28日。いよいよ伊勢外宮まで3里余りである。斎宮の町を通り過ぎる。古代、天皇が即位する度に皇族の未婚女性の中から選ばれた斎王が伊勢に派遣されて伊勢神宮に仕えた。といっても平常は斎宮に滞在して、伊勢神宮に参宮したのは年に3回しかなかったという。斎王制度は天武3年(674)に始まり建武3年(1336)後醍醐天皇が廃止するまで約660年間の間に63人の斎王が選ばれた。それに随行した多数の女官の中には、望郷の涙に暮れたものも多かった。

小俣宿を通り抜け宮古橋を渡ると宮川の堤防に突き当たる。土手に上がると川に向かって石畳が続き桜(宮川)の渡し場がある。堤防の桜並木は満開であった。

宮川をわたると道は急に狭くなった感じがして、沿道の家もそれにともなって間口がせまく込み合った家並みである。神域に近づいたせいなのか、圧倒的に妻入り家屋が目立つ。

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伊勢

資料6

松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をとどむ。

腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢をかけて、手に十八の玉を携ふ。僧に似て塵有、俗に似て髪なし。
我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事を許さず。

暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほの暗く、御燈処々に見えて、また上もなき峰の松風身にしむ計深き心を起して、

 
三十日月なし千年の杉を抱あらし

西行谷の麓に流有。をんなどもの芋あらふを見るに、

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ


其日のかへさ、ある茶店に立寄けるに、てふと云けるをんな、「あが名に発句せよ」と云て、白ききぬ出しけるに、書付侍る。

 
蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す

閑人の茅舎をとひて

 
蔦植て竹四五本のあらし哉


8月28日に伊勢に入った。
ここでは松葉屋風瀑の屋敷で10日ばかり泊めてもらうことになっている。松葉屋風瀑とは伊勢神宮の御師と呼ばれる神職兼観光プロモーターで庶民におかげ参りを勧誘していた。桜の渡しで出迎え参宮者に宿を提供することも仕事のうちであった。大世古地区周辺には御師の屋敷が800軒もあったという。松葉屋もそんな中の一軒だった。

29日に半月ちかくの旅の疲れを癒した後、早速30日には外宮、内宮を参拝している。滞在中の足取りについては詳細がわかっていない。文脈から推測するに先に内宮にでかけたようである。

外宮から小田橋をわたり内宮への1里余りの道は古市街道ともよばれ、途中にある古市は江戸の吉原・京の島原と並ぶ三大遊廓で知られ、全盛期には妓楼70軒、遊女1000人を数えたという。特に
油屋・備前屋・杉本屋が古市の三大妓楼として有名だった。内宮参拝を目前に遊んだ不届き者もいただろうが、多くは参拝を済ませた精進明けの楽しみだった。

宇治橋を渡ろうとした時大鳥居の前で神官に止められた。僧の格好をしていたために神前に入ることを許されなかったのである。当時、神宮は仏徒を忌避して拝殿まで入れず、別に設けた僧尼拝所から遥拝させた。内宮の僧尼拝所は風日祈宮橋を渡ったところにあった。

しかたなく来た道をもどり外宮にお参りしたときは日が暮れていた。月末の30日とて月はなく闇に包まれた神宮の森には、樹齢千年とも思われる杉の巨木がそびえ立っている。

  
  三十日月なし千年の杉を抱あらし


9月にはいったある日、朝熊山の麓にあるという西行谷を尋ねていった。西行は二見の安養寺に住んだのち、この西行谷の小庵に移ってきた。その後江戸時代のころまで庵は神照寺として尼が住んだ。今は県営陸上競技場の裏手に看板があるのみだが、川向こうの奥には小さな滝が落ちており、わずかながらその雰囲気を偲ぶことはできる。その川べりで芋を洗う女たちを見た。幻視だったかもしれない。芭蕉は常に西行を意識している。

  
西行谷の麓に流あり。 をんなどもの芋をあらふを見るに、

   
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

西行ならば、きっと芋洗う女たちに歌を詠み掛けるだろう。
昔淀川河口の江口の里で西行と遊女の間で歌のやり取りがあった。今芭蕉は芋を洗う女を見て、情況を重ね合わせた。遊女と芋を洗う女とは情緒の面で天地の違いがあるが、芭蕉はそんなことは構っていなかった。

その日の帰り道、古市のある茶店に立ち寄った。多分国登録有形文化財の
麻吉ではないかとかってに想像している。寄棟懸崖造りの木造建築で崖下から六層階競り上がり、それぞれの建物が複雑に渡り廊下でつながっている。芸妓30人を抱える大料理店である。どこにいても三味線の音や嬌声がもれ聞こえてきたことであろう。別世界の風情である。そこの女将の名を「蝶(てふ)」といった。蝶はその茶屋のもと遊女で主人の妻となった。蝶が言うに、先代の女主人「鶴」も遊女上がりで、宗因が立ち寄った時に一句を頼んだら葛の葉のおつるがうらみ夜の霜という句をくれたのだという。彼女が「わたしにも名を詠み込んだ発句を作ってください」とねだってきたので、芭蕉としても断ることはできなかった。

  蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す
 
蘭の香が、薫物をしたようにうつり香となって蝶の翅が芳しい。

伊勢での滞在も10日近くになってきた。そろそろ締めくくろうと9月上旬のある日、気になっていた閑居する人の草庵を訪ねていった。行ってみると蔦の生えた貧しい庵で、芭蕉庵よりも貧祖である。 竹が4,5本ばかり生えている藪を秋風が吹きぬけていった。


  蔦植て竹四五本のあらし哉

9月7日、芭蕉は松葉屋風瀑宅を辞しここから一路故郷伊賀に向かった。8月28日から9月7日まで、足掛け10日の滞在であった。

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伊賀上野
 

資料7

長月の初、古郷に歸りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てとのみ云て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たりと、しばらくなきて、

 手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

伊勢から伊賀上野への道は伊勢街道をたどり、月本追分で左にとって久居に出る伊賀越え奈良街道が近道であった。その後五百野で津から出ている伊賀街道に合流する。

伊勢から
久居宿まで10里足らず。ここに一泊することにする。9月7日の夜である。8年前二回目の帰郷の折にここで詠んだムクゲの一句が立派な碑となっていた。野ざらし紀行で「道ばた」を「道のべ」に変えて使わせてもらっている。

  
道端の木槿は馬に喰われけり
 
9月8日、いよいよ故郷まで最後の1日。ちょうど久居から伊賀上野まで10里の道のりである。五百野三軒茶屋で伊賀街道に合流する。立派な道しるべが建ってあるものだ。

長野峠をこえて下り道の途中に猿蓑塚公園がある。自分の将来を先食いするのもなんだが、元禄2年(1689)9月、「奥の細道」の旅を終え伊勢参宮の後故郷上野へ帰る途中にこの山中で詠んだ句の記念碑を建ててもらう事になっているのだよ。 初しぐれ、猿も小蓑を欲しげなり といって自分でも傑作の一つだと思っている。

峠を越えてすばらしい家並みが残る平松宿を通り抜け平田宿で一休みする。上野にはいる前に
中之瀬峡谷というちょっとした難所を通る。この1kmほどの渓谷沿いの細道に20近くの磨崖仏が彫られている。荒木の里をぬけると故郷上野である。8年ぶりの帰省であった。

「芭蕉街」と書かれた標識が並ぶ町の大通りを歩くのはかなり気恥ずかしかった。この町にとって私は単なるヒーローを越える存在で、神様に近いのだよ。ここから遠くないところにある私の実家で、とにかく草鞋を脱いで足を洗った。9月8日の夕方。伊勢での10日を除くと江戸を発って以来どこにも内緒で寄り道や逗留をしていないことが証明できてうれしい。

私の書斎、釣月庵もそのままだ。その晩は身内の者が集まって母を偲んだ。この8年の間にみんな髪が白くなっている。兄が守り袋を解いて母の遺髪を見せてくれた。ただ熱い涙がこぼれおちるだけだった。

     
手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

翌日近くの松尾家菩提寺である愛染院に出かけ母の墓に参った。いろいろな句碑があるが、昨夜詠んだばかりの一句はまだ碑になっていないようだ。

芭蕉庵を出た時は野ざらしの旅などと悲壮がってみたが、それは伊勢に着くまでのことで、墓参をすませた今はルンルン気分に近い。どこへ行くか、実家で休んでいる間に考えることにしよう。

(2012年5月)
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