日光北街道



今市−大渡船生玉生高内矢板薄葉大田原

いこいの広場
日本紀行



今市

この街道は、日光山参詣道として開削され元和3年(1617)寛永13年(1636)の二回改修され、東照宮参拝道、物資輸送路また奥州諸大名の東照宮巡拝に利用された。その行程は約40kmあり、今市ー大渡ー船生ー玉入ー高内(幸岡)ー矢板ー沢ー薄葉ー大田原、間をいう。

これは矢板長峰公園周囲に残る旧道に建てられた説明板に書かれているものである。普通、目的地を街道名にする例にならえば、奥州街道からの分岐点大田原を起点とし、今市に向って歩くのが本筋だが、芭蕉の足跡をたどる関係で、ここでは逆の方向に歩くことにした。

起点が今市といっても、日光街道の春日町交差点から北にでている道(国道121号)は会津西街道で、大谷川を渡り右に分かれて会津西街道の旧道にはいり、大谷向をしばらく行ったところの追分で日光北街道(国道461号)が始まっている。二又の左手前方には会津西街道の杉並木が見える。日光北街道に並木はなく、すぐに東武鬼怒川線の踏切がある。

国道461号には日光街道七本桜交差点に出るバイパスが造られているので、この本道を通る車は多くない。のどかな道はやがて豊田三叉路でバイパスと合流して国道らしくなり、芹沼集落を通り過ぎていく。沿道には地蔵、馬頭観音、庚申塔などの素朴な石造物が点在し、旧街道の趣が濃い。やがて県道279号の広い道と交叉して轟集落に入る。県道を北にむかうと、芭蕉が遠回りしていった川室に出る。

トップへ


大渡
 

轟の集落を抜けると、最初の宿場大渡にいたる。大渡宿は枡形をなしていて、芭蕉は曲の手丁字路の左方向からやってきた。右に曲がった所に長い大谷石塀をめぐらせた大きな屋敷が現れる。仮本陣で問屋を勤めていた大貫家である。宿場の中央辺りに多くの石仏、石塔類が集められている。この通りには大谷石を使った住宅が多い。国道街道筋の町並みにしては店屋がすくない気もした。国道沿いで道一杯に大型車のいきかう道であるのに、昔の趣きを湛えて静かさを感じさせる不思議な街だった。

宿場の東外れに「右宇都宮、左白川」と刻まれた道標があるとのことだったが見落とした。二度目の曲の手を左におれて鬼怒川に向う。

大渡橋の手前に「船場亭」という茅葺の風情あるドライブインがある。残念ながら定休日で店は閉じていたが、「鮎の塩焼き」と「松尾芭蕉の渡船場」の幟が元気よくはためいていた。芭蕉が来たときは水量の少ない時期で仮橋がかけられていて、渡し船には乗らなかった。

トップへ


船生 

大渡橋からながめる初冬の鬼怒川の風景が素晴らしい。川を越えると、日光市から塩谷町に入る。地名は「船場」。丁字路を右折して直ぐ先に右手から細道がでている。坂を下って路地をたどっていくと、「聖徳太子」の石塔や旅籠風の建物があったりして、渡し場に通じていた旧道のようである。道は民家の間を通って堤防に突き当たる。橋の下側で、向こう岸に「船場亭」の茅葺屋根と「松尾芭蕉の渡船場」の幟がみえる。二筋にわかれてながれる鬼怒川の渡し場がこのあたりにあったのだろう。

道はまもなく船生宿にはいっていく。昔は大きな宿場町だったようで、街道に沿って長い町並が続いている。「船生小学校」バス停の後ろにかっての本陣を思わせる立派な門構えの旧家が建っていた。問屋は現在郵便局になっている手塚家であるが、古い建物は見当たらなかった。宿場のなかほど佐貫入口バス停の先から南にでている道は、日光街道の石那田(六本木)一里塚とを結ぶ船生街道である。

トップへ


玉生
 

芦場新田の塩谷町立幼稚園をすぎ、道が左に大きくまがる三叉路の左手に林道が出ている。坂道をはいっていくとピンクのリボンがとめられた木の隣りに丸みを帯びた自然石の道標がある。安永4年(1775)という古い道しるべである。
      
 「右 うちゑ道  左 大多ハラ道   玉生村立」
氏家は奥州街道の宿場で、鬼怒川から利根川、江戸川を経て江戸まで通じる舟運の起点であった阿久津河岸を経営していた。大田原は日光北街道の終点である。

ゆるい地蔵坂を登りきったところで、左の旧道にはいり、変電所の裏側を通っていく。山際に古道が残っているがその先は民家の敷地で消失している。バス通りとの合流点に「芭蕉通り」の石標がたち、向かい側にも道標などの石碑が並んでいる。  
「東 道下原荻の目金枝」  「北 倉掛幸岡矢板」  「南 芦場船生今市」
鈎形の関係で矢板が北方向になっているが、本筋では90度右に回転して、矢板方面は東、今市方面は西と読むことになる。

すぐ先の路地を左にはいっていくと、草むらと化した屋敷跡地の奥に「芭蕉一宿の跡」の記念碑が寂しそうに建っていた。曽良が「玉生に泊まる。宿悪しきゆえ、無理に名主の家入りて宿かる」と記している、その名主玉生家の屋敷跡である。隣接してある、池と祠と小山を配した庭園も荒れるにまかされていた。

曲の手の手前に米倉を改造したという和気記念館が宿場町の雰囲気作りに一役買っているようだ。右に曲がり役場がある中心街をとおりすぎ家並みを抜けていく。

景色がおおきく開け左遠方に高原山の青い山並みが美しい。高原山系の一つ釈迦ケ岳の中腹に、日本で一番美味な湧水が川となって流れ出ているという。全国利き水大会で常に第一位を占めている尚仁沢湧水だ。そもそも「全国利き水大会」という存在を知り、「尚仁沢(しょうじんざわ)湧水」の名をおぼえたのは、郷里に近い滋賀県東近江市永源寺にある「京の水」に出会ったときだった。二位の「京の水」を上回るライバルとして、ひそかにあこがれてもいた。ただ、ここから10kmもありそうだから徒歩で寄り道していくわけにもいかなく、断念した。


トップへ


高内   

旧街道は国道にもどり、坂道の峠付近で左手に道標をみて、矢板市にはいる。峠をおりたところに「たてば」というドライブインがある。
立場とは宿場間に設けられた休み場である。旧道はその先右手の山中に入り倉掛峠を越えていく。山際にたつ電柱に、矢板市役所による熊警戒のポスターが貼ってあった。「一人で山に立入らない。 山に立入る場合は、頻繁に物音や声をだしながら歩いてください。 クマに出会ったら…・」。三つ目のケースは想定しないことにした。
旧道入口は少し先の右手にある。落ち葉でうもれた山道を見て逡巡したが、すこし中の様子をうかがうことにした。出ないような気もするが、進むにつれ出てくる気にもなってくる。

100mほどはいったところで、私有地の囲いの中で伐採作業の手を休めている二人の男性を見た。
「峠を越えていこうと思うんですが、クマは大丈夫でしょうか」
先輩格のおじいさんが、聞こえないからもっと近くに来てしゃべれ、と手招きをした。
事情を話すと、地元のクマ退治の話をしだして肝心の意見をいってくれない。
「もう冬眠にはいっているでしょう」と水を向けると、
「最近はエサがすくないから、まだ冬眠できないんじゃないか」と真顔で答えた。
もう一人の若い男性はだまったまま、ニンジンかジャガイモの皮を剥いていた。煮物の準備をしているようである。
おじいさんとは話がはずんで、「ここで休んでいけ」という。
休憩は辞退して、最後にもう一度たずねてみた。
「クマはでると思いますか」
「大丈夫だよ!」
「ジャー、いってみますか」
背中を押してもらって決心をつけた。

垂直にのびる杉林のなかを進み峠にさしかかる。途中、市役所のアドバイスに従って、歌うのも場違いな感じがするし、ワンワンとほえるのも恥ずかしいから、ウメキとも叫びともつかない声を出しながら歩いた。もし高見盛が土俵で声を出すことを許されるなら、腕をふりちぎるときに発するであろうような音声だったと思う。

左に建っている二基の石碑を手早く撮って、切通しの山道を競歩風に急いだ。
やがて無事里に下りてきて車道に合流した。終わってみるとリスクをおかした山道は1kmもない短いものだった。合流点の道標を確認して、国道にもどる。

すぐ先で再び、民家の脇に残っている「戸方坂」の旧道を上がっていく。坂を越えると「鞍掛松」の史跡がある。「○○の松」という類のものだ。
国道にもどり、その先かなりながい道のりを歩いていく。色あせた褐色の雑木林に小屋がひっそりとたたずむ。いのしし料理を食わせる小屋風の食堂が林間の街道に野趣を添えている。

坂道をおりて田園がひろがるところで、幸岡の十字路に出る。簗目(やなめ)川を渡った袂に橋供養塔と交通安全の観音石像が建っている。
幸岡集落の「公民館前」バス停の前から左斜めにでている旧道を上がっていくと、曽良が「鷹内」と記している高内宿である。坂上から火の見櫓が見下ろしている。誰も通らない静かな集落である。宿場の終わりの坂道に面した家は、申し合わせたかのように石垣の上に大谷石を積み重ねた塀を廻らせている。石の黒ずみぐあいまでそろっているように見える。

坂道をくだるとそのまま農道をすすみ、東北自動車道の高架をくぐって宮川の橋のたもとで国道に合流する。前方には矢板の町が広がりを見せている。

トップへ


矢板 

旧道は本来、国道の位置にもどらずに高内宿からまっすぐに北東に伸びていたのではなかろうか。旧道はまもなく国道から広い農道を左にはいり、カントリーエレベーター先の十字路で右に直角におれて矢板市内の本町郵便局の十字路に出る。カントリーエレベーターの角には、土地区画整理事業記念碑とともに、寛政3年の古い道標と、近辺の旧日光北街道の位置を書いた説明板が立っている。日光北街道と、氏家にいたる会津中街道がこの付近で交差していた。日光北街道の高内宿方面をふりかえると、道は途中で田圃のなかに消えていた。「高原山10景」の標識も立っている。遠くに、玉生からながめたよりもはるかに低い位置で、灰青色の山並みが横たわっている。風景をレンズに納めようとしているとき、自転車に乗ったおばさんがマスクをつけて颯爽と横切っていった。

矢板の宿場があったという上町の通りを歩いているが米屋などいくつかの昔風の店構えをした建物をみるだけで、さびれた裏通りという感じが強い。江戸時代終わり頃の街道は本町郵便局で右折して矢板家住宅の前を通って本町交差点を東におれる道筋であった。矢板家はその前身を坂巻家といい、矢板宿の問屋を営んでいた。いずれにしても本町郵便局が宿場の西口で、一回曲の手を経て扇町交差点を東口にしていたようである。矢板家住宅は見ておくべきだった。

扇町の矢板中央高校手前に小さな稲荷神社があって、その境内に芭蕉の古い句碑がある。句はこの土地と関係ない。

旧街道は扇町交差点から国道でJR東北本線の陸橋をわたり、階段で橋から降りて長峰公園の北西縁に沿って坂道を上がっていく。右手の林越しに広い墓地が付き合って見え隠れする。途中、右に下っていく一見旧道風の細道が2、3箇所あるが入ってはいけない。やがて道が三つにわかれる地点にきて、中ほどに旧街道の案内板が立っている。冒頭引用した日光北街道の概要は、ここに書かれていたものである。実に要を得た記述であった。

その左に見える人の歩かない山道が旧道である。倉掛峠をすこし小振りにしたほどの峠道をこえていくが、公園に隣接した小山の山道であるから、クマのことは心配しなかった。山道のおわるところに出てくる二又を左にとって、材木置き場の横をまわって地蔵の横で国道4号に出る。

国道4号は現在の奥州街道で、現在の日光北街道である国道461号が野崎まで相乗りしている。旧日光北街道は国道4号を横切ってその東側に走っている県道52号に移る。この道は旧奥州街道の佐久山宿に通じる街道で、つぎの沢宿で旧日光北街道とわかれていく。

新旧2街道、都合4本の道筋をおっているからややこしいかもしれない。


トップへ


 

ゆるやかな切通しを越えると眼前は田園風景がひろがり、遠くを新幹線が横切っている。このあたりは沢・土屋地域で、江戸時代に開拓された不整形の田圃を整備した記念碑が建っている。沢三叉路を直進して新幹線をくぐり、道なりに右にまがっていくと沢宿にはいる。道の両側に清らかな水が流れ、松が植え込まれた品のよい家並みがみられる。曲の手に左折する角に生駒神社があって、かって沢宿は馬市で賑わっていたことを伝える大きな記念碑が建っている。

宿場のおわりで県道52号は右に曲がって佐久山に向う。芭蕉は反対の路地にはいって箒川にでたのだが、県道をすこしあるいて、左手にみえている観音寺に寄って行くことにした。黄金の観音が冬の斜陽をうけてさらに輝いてみえる。本堂のある境内も手入れがゆきとどいていてきれいだった。庫裏の裏庭に曽良の句碑がある。

  
かさねとは八重撫子の名なるべし

ここから大田原に着くまで、「かさね」の名はくりかえし見ることになるであろう。

芭蕉のあとをおいかけて、沢の集落を通り抜け箒川の土手にでた。川に架かる橋の名は「かさね橋」。親柱代わりの自然石に蕪村の絵の銅板リリーフがはめ込まれていて、「かさね」をビジュアルに認識することができる。橋の中央で矢板市から大田原市に入る。日が傾きかけていた。


トップへ


薄葉 

この橋から先は大田原にいたるまで、広域農道が一直線につづいている。そしてその道が江戸時代に開かれた日光北街道なのである。直線的な現代の国道に対して、在所を通る旧国道(その多くが旧街道の道筋)は曲がっているのが常であるのに対し、日光北街道のこの部分はあきらかな例外をなしている。広漠とした那須野ヶ原を突っ切るのに、曲がった道筋を考える必要がなかったのだろう。ちょうどアメリカの大平原を突っ走るルート66のように。「かさね」のエピソードにふさわしい絶好の情景が広がっていた。

薄葉の集落を通り過ぎる。右手に広大な敷地に立派な四脚門をかまえ、白壁土蔵をいくつも配した屋敷がある。玉生を出た芭蕉が薄葉の旧家で昼食をとったといわれているが、その旧家かもしれない。高性寺の樹高20mもある大きなカヤが目に付く。700歳をこえる古木である。

道ばたには開墾記念碑や馬頭観音にまじって、豚供養碑というめずらしいものを見た。いずれも那須野ヶ原の昔の情景を髣髴とさせる史料である。その情景の核に「かさね」がいるのはまちがいない。


トップへ


大田原 

大田原市の実取の領域に、北から那須塩原市一区町が2kmほどの街道部分だけを占領している。街道の北側は整然と区画整備された圃場が広がっているところを見ると、市の主導でこの区域が開墾整備された際に、その南端にあたる街道も整備事業に組み込まれていたのであろう。一方、地図を眺めるかぎり、大田原側は整備がなされていない形状である。

薄葉からその那須塩原市一区町に入る直前に、曽良の句碑がある。句はもちろん「かさね」。昭和51年建立の新しい碑である。
旧日光北街道は那須塩原市にはいるや通り名を「なんじゃもんじゃ通り」に変える。標識には「町道幹1−14号線」とある。おそらく、2kmたらずの一区町区間限定町道名ではないか。

一区町内で広域農道ライスラインと交差する。その先、小さな十字路の右脇に下の部分が埋まった道標がある。「南無阿弥陀仏」の両側に「右日光口 左ひやり口」、裏側に「文化五辰三月」とあった。1808年の古いものだ。ひやり口とは俗称っぽいが、このあたりに冷たい湧水が出ていたとのことである。

その先右手に通り名の由来となった「なんじゃもんじゃの木」が赤い鳥居の傍に立っている。その昔、水戸黄門がこの地を訪れて、この木の陰で休息をとった折、供の者に「この木はなんじゃ」とたずねたところ、誰もわからなかったことから「なんじゃもんじゃ」と名付けられたという。正解はハルニレ(春楡)の木だそうだが、葉をすっかり落とした裸木では、いわれてもわからない。黄門も冬にきたのではないか。

道は再び大田原市にはいって沿道に家が建ちこみ、景色から那須野ヶ原の「かさね」が消えていった。振り返ると日が沈みつつある。残るはこの道の新街道国道461号との合流点、さらには旧奥州街道との合流点を確認するだけである。

国道400号バイパス(本道は金燈籠交差点を通る)を越えると、道幅が激減し住宅街の中を通りぬけるただの道に様変わりする。ライトをつけた車が行き交う国道との合流点手前に、旧日光北街道を確認する最後の道標が立っていた。右に曲がってすぐの神明町交差点で、右からきた奥州街道の旧道と合流する。ここが奥州街道からわかれて日光へ向う日光北街道の本来の起点である。


 (2006年12月)
トップへ