日光街道 4



徳次郎−大沢今市鉢石日光
いこいの広場
日本紀行
日光街道1
日光街道2
日光街道3


徳次郎

街道は宿場をでて、大谷石造りの蔵が残る街並みを真っ直ぐ進み、松原三町目で国道119号に乗って北上する。上戸祭(かみとまつり)から
雑木並木がはじまる。並木の外両側が一段高くなった遊歩道になっており、桜、モミジ、イチョウ、杉、ケヤキなどが渾然として並べられているようだ。次々に変わる赤、緑、黄の彩りが目を飽きさせない。木々の間をツツジやアジサイの潅木が埋めている。

宇都宮文星短大前の手前に、日本橋より28里の
上戸祭の一里塚がある。石垣の塚に大きな木が一本、典型的な一里塚の風情だ。

並木はやがて杉が目立つようになってくる。野沢町に入り、細い流れの釜川に架かる弁天橋を渡ると交差点の左角に、唐風の山門を構えた
光明寺がある。山門にセンサーがついていて、捕まるとご詠歌を聞かされる仕組みになっている。光明寺は将軍日光社参の時に休息所となった場所で、寺の前には立場茶屋があった。

寺の向う側から東に200メートルほど入った亀田家の前庭に
静桜の原木があるという。静御前が義経を追って奥州に向かう途中、義経の討死にを知り、涙にくれた静は、一本の桜を野沢の地に植え、義経の菩堤を弔ったのが静桜の名の起こりといわれている。原木を接ぎ木したものが、僅かに栗橋町の静御前の墓所と平泉の数箇所に存在する。

宇都宮インター入口の高架下をくぐると下川井町に入り、東北自動車道の手前に江戸から29番目の
高谷林一里塚がある。道の両側に残っていて、東側には大きな杉と標柱が建ち、西側の塚には桜とヒノキが植えられている。いままで五街道を歩いたところでは、日光街道が最も多く、しかも自然な形で一里塚が残されている道である。

東北自動車道を潜り抜けると「下徳次郎」のバス停がある。「郎」は「ら」と読む。宿場は日光に近い方から上、中、下に分かれた合宿である。町並みの写真でもとおもったが沿道には住宅と店舗が散漫に続いているという風で、町としての形をみることができなかった。

山王団地入口バス停丁字路の左側並木土手の先端に、植え込みにかこまれた小さな道標がある。「大谷道」「下徳次郎宿」と刻まれている。昔ここから左折して大谷観音へ通じる道があった。いまはしばらく行って国道293号に合流している。

その国道293号が日光街道を横切る徳次郎交差点のすこし手前の左手奥に、小豆色したトタン屋根の小さな
薬師堂が見える。お堂の脇に三基の石塔がならんでおり、その右端の馬頭観音の台座には「右山道 左氏家・白沢道」と刻まれ、道標を兼ねていた。氏家・白沢は宇都宮につづく奥州街道の宿場で、左とは日光街道を宇都宮にもどることを意味する。右の山道とは日光山方面ということになる。

信号直前の左側の路地入口に、根元からぽっきり折れた小さな道標がよこたわっていた。傷跡はまだ新しい。首を横にし縦にして「x神社入口道五丁」、「田中道」と読み取れた。

大きな徳次郎交差点辺りは中徳次郎宿の本陣と問屋場があったというが、面影は全く見い出せない。その中で、日野屋という屋号を見つけた。近江商人関係の酒店チェーンの可能性が高い。日野屋の側道をはいっていくと、広々と視野が広がり秋色に染まった豊かな田園風景を見ることが出来た。この類の風景を私は見飽きることがない。

中徳次郎宿のはずれに2本の大ケヤキが
智賀都神社の鳥居にかわって参詣客を出むかえる。2本の大欅は樹齢700、樹高40mという大木である。街道歩きをはじめてつくづく思うのは日本人の心の中にある大木に対する崇敬の念である。石・木・滝に対する宗教的なセンティメント感覚は自然信仰の根源をなす情念であろう。今までにその多くを実証的に体験した。

大木の脇に二宮堰の案内板があった。街道からはずれて農道をたどっていくと、日野屋の脇からのぞいた風景が再現し、水路に沿って歩いていくと、公園風に整備された
二宮堰にたどり着く。寒々しく清冽な水流は、田川で分水し宝木用水となって、徳次郎・宝木地区を経て宇都宮市中心部に供水している。誰もいない小公園でしばし足を休め、ミネラルヲーターを補給し、余命僅かとなった赤茶けた広葉と語り合った。

上徳次郎宿の町並みに入る。下・中・上の合宿のうち、ここがはじめて継ぎ立てをはじめた。ただしその面影を嗅ぐことは難しい。上徳次郎宿を抜けて行くと、葉が落ちて黒っぽい枝だけを伸ばした見晴らしのよい桜並木がつづき、船生街道の分岐点に日本橋より30里目の
石那田(六本木)一里塚がある。土盛りの中心に一里塚の標識だけが突っ立った楚々とした塚である。宇都宮以来、一里ごとに几帳面に一里塚が現れる。

田川に架かる田川大橋を渡り、その先左手に石那田八坂神社の新しい社殿がある。林をぬけたところの右手土手に男根を祀った祠があるというので、駆け上がって覗いてみたが中は空っぽだった。もう、この情報は賞味期限切れとしよう。

石那田のバス停にくる。大谷石造りの蔵の前で、おばあさんが何かの実をほぐしていた。冬の光が終日左からさしてくる関係で、基本的に街道の左側の歩道を歩いている。だからというわけではないが、歩道の景色が並木街道以上にすばらしかった。画面の右側は種類こそちがえ、高さの整った樹木が屏風のように壁をなし、左には歩くにつれて黄色びた日差しをうけてさまざまな景色が展開していく。刈り取られた田圃であったり、葱を植えた野菜畑であったり、晩期のリンゴ畑であったり、単に雑木林であったり、あるいは青々とした竹林であったりした。

上小池にはいったころ、赤衣をまとった「お願い地蔵」が現れた。街道の向こう側には新渡神社(にわたり)神社がみえる。その先の民家に31番目の
上小池一里塚があった。標識もない民家の庭先のわずかな土盛りが目印である。

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大沢


街道は日光市に入った。まだ今市市山口と書いた交通標識も残っている。組織の合併が隈なく完了するには時間がかかるものだ。山口の先で旧道は右の杉並木に入る。別れ道の二股角で交通の便が良く、並木に隠れて人目を避けた一等地を「杉並木寄進碑」とラブホテルが共有している。

日光の杉並木は徳川家譜代の家臣松平正綱・信綱父子が寛永2年(1625)から20数年をかけて紀州熊野から取り寄せた20万本余りの杉苗を、日光街道16.5km・例幣使街道13.2km・会津西街道5.7kmの三街道の両側に延長35kmにわたって植えたものである。約1万3千本の杉が現存し、世界一長い並木道としてギネスブックに掲載されている。老獪な松の木とちがって垂直に伸びた杉はなんとも実直な立ち姿である。

大沢交差点からしばらく並木は途切れる。この辺りが大沢宿だが、町並みは宿場の面影をとどめていない。他例にならって、郵便局あたりが宿場の中心だったのだろうと想像しながらあるいていくと、ふたたび杉並木が現れた。やがて水無地区にはいり、
32里目の水無一里塚にであう。左右ともに塚があり杉が生えていることになってはいるが、歩道の土手の一部ともみえる塚も、杉並木の中での一本の杉も共にアイデンティティに欠け、案内札が立っていなければ気付かなかったであろうと思われた。

ジョモガスステーションの手前から「下森友」のバス停ちかくまで、杉並木は車道からそれて昔のままの状態で残されている。道の両側に山水がながれ、土の道は杉の落ち葉でやわらかい。車道の並木のようにがっしりとした石垣もなく、自然に任せたままの旧街道だ。前後に人の気配もなく、でまかせになにか歌っていたようだ。先があかるくなって、並木道を出るのがつらかった。並木の切れ目に標識が立っていて、並木街道が3種類の地域に区分されていることを知った。特
別保護地域−保護地域−一般地域である。数段に石垣が組まれ、並木が整然とそろっている区域が特別保護で、やや不揃いで土手も低い道が単なる保護地域であるらしい。一般地域とはまさに保護されていない部分で、私有地が入り込む余地がある。私が一番気に入った未舗装の道は意外にも一般地域だったような気がする。

下森友交差点をすぎてすぐ右手に
来迎寺がある。参道で、右ひざを立て、薄目をひらいて微笑みかけている石仏は妙に色気があった。

森友の信号で再び国道を左にわけて、旧道は右に入っていく。先ほど以上に深い鬱蒼とした杉並木が続くが、道は舗装道路であるばかりでなく、一車線の車道でもある。並行して走っている国道の右側車線と同じ方向であるが、どのような使い分けをしているのかよくわからない。

杉並木街道をしばらくあるいていると、左手に「桜杉」と呼ばれている杉があらわれた。杉の割れ目に落ちた桜の種が育ったもので、桜が杉に寄生しているようだ。花が咲いていればもっとおもしろいだろう。国道にでて見たほうがよくわかる。
森友地区をでていよいよ今市領域にはいる。地名は七本桜。国道461号との交差点手前右手に33里目の
七本桜一里塚がある。通称「並木ホテル」とよばれている。根元に大きな空洞ができていて、大人4人が泊まれそうだとか。 カルフォルニアでは家が一軒建てられそうな巨木の穴を見た

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今市

杉並木がとぎれたところで今市市内に入り、中山道から来た例弊使街道と合流する。分岐点には赤いキャップに赤いよだれかけ姿の大きな追分地蔵が足組みして瞑想にふけっていた。丸彫り石地蔵の坐像としては東日本有数の巨像だという。境内の一角に
「右 かぬ馬 左 宇つの宮道」と刻まれた道標がある。今市宿は日光に通じる道がすべて集まる交通の要衝として栄えたが、戊辰戦争で全焼し、今その面影をもとめることは難しい。左に創業天保13年(1842)という古い板看板をかかげた渡辺佐平商会が、白壁土蔵とともにわずかに往時の趣を残している。

道向かいを入ったところに
二宮尊徳の墓がある。報徳二宮神社の前庭に、薪を背負って本を読む二宮金次郎の像がある。小学校でもめっきりみかけなくなった。子供がまねをすると交通事故になりかねないとか。単に彼はまじめで親孝行で勉強好きな子だっただけでなく、大人になっても農村の復興をたすけ農民の生活改善を指導した思想家・社会運動家でもあった。最後まで質素倹約をうたい、自分が死んでも墓を建てるなと遺言した。神社の裏には墓石のない土盛りだけが残っている。

裏街道の雰囲気がただよう神社前の道をそのまま西にすすむと右手に室町時代の古刹、
如来寺がある。山門をはいって思わず感嘆のうめきをもらしてしまった。左手の一画が赤一色に染まっていたのだ。朱色の小堂、赤前掛けをつけて居並ぶ地蔵、空と地はモミジ葉が塗りこめている。このアンサンブルは年に2週間ほどしか見られない。今年は紅葉が遅れていて幸いだった。

街道に戻り春日交差点を過ぎていく。右にでていく国道121号は会津西街道で、大谷橋をわたったところで、日光北街道が東に分岐している。「今市宿市縁ひろば」を過ぎ、市街地が終わり本格的な杉並木が始まろうとする手前に
瀧尾神社がある。ここから野口までの杉並木街道は車両禁止で、車道は並木の西側をつかず離れずに走る。この辺が日光杉並木のベストスポットと思われる。戊辰戦争時の弾痕跡が残る杉の大木(砲弾打ち込み杉)や、オーナーの名札がつけられた大木が聳えならんでいる。並木の東側は杉並木公園として整備されており、並木との間には日光山地からの伏流水を集めた清楚な流れがさわやかであった。

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鉢石


旧街道は野口で国道にもどり宝殿交差点の先で志渡淵(しどぶち)川にかかる筋違(すじかい)橋を渡ったところで、短い旧道にはいる。入口からすぐ左側に
異人石がある。明治の頃1人の外国人が毎日ここに腰掛けて並木を観賞していたそうだ。かなりの肥満体の臀部にあったおおきな窪みである。

相生町で街道の杉並木がおわる。JR、東部の駅から神橋までは旅館や土産物屋などの古い建物が並ぶ門前宿場街である。多くの温泉街でみられるような猥俗さが感じられないのは日光という天下の名勝の門前であるからだろうか。かといって、宗教臭さもなく両者が適度に中和されてほどよい観光宿場町をなしている。

中鉢石町が宿場のちゅうしんだったのだろうか。日光市役所の向かい側を入り込んだところにかって鉢石宿本陣を勤めていた高野家がある。その庭に芭蕉句碑があるというので、玄関で許可を得て入らせてもらった。新旧二つの句碑が並んでいる。碑文は判読しがたいが側の案内板によると、
あらたふと木の下闇も日の光 とあり、大日堂跡あらたふと青葉若葉の日のひかり の初案だそうだ。

芭蕉が泊まったという上鉢石町の右手路地を少し入ったところに「史跡 鉢石」の標柱が建ち、鎖に囲われてその鉢石があった。今は三ツ山羊羹本舗の管理・所有とある。伝承によればその昔、日光山開祖・勝道上人が托鉢の途中、大谷川(だいやがわ)岸辺のこの石に座って日光山を仰いだところから、この石が「鉢石」と呼ばれるようになったという。

街道の終わり、大谷川の手前に天海上人像が空の彼方を見据えている。天海は天台宗の僧で、徳川家康に気にいられ関東に天台宗の一大勢力を築いた。川越喜多院が彼の本拠地である。家康の死後、久能山から遺骨を日光に移し東照宮を創建した。自信に満ち怪僧を思わせる天海の銅像は、一回り太らせたロダンの「バルザック」にも似ていた。



日光山   

最近大改修を終えたばかりの濃朱色の神橋を左手にみて、いよいよ
東照宮である。広い参道にしばらく立ち尽くして、遠い記憶をたどってみた。確か中学の修学旅行で来たはずだ。説明を受けながら左甚五郎の彫刻を見学したはずだが…。大学時代にも、日本橋から徒歩でここまでたずねてきたはずだったが……。なにもよみがえってはこなかった。旅の記憶とはこの程度のものなのか。

見学は右手におおきな口をあけて観光客を飲み込んでいく輪王寺の黒門から始まった。ここで今夜薪能があると書いてある。幽玄な趣があるそうだ。私は失楽園の映画の中ですこし見ている。境内の正面には日光山中、最大の建築物だという、鮮やかな朱塗りの本堂(三仏堂)が居座っている。
足早に広場を一周し輪王寺を出て、杉に抱かれた表参道を急いだ。

石階段を登り、石鳥居をくぐると左に五重の塔が聳える。表門でチケットを渡す。見上げると両側に、豊かに彩られて大見栄を切っている仁王が立っていた。高野槙と銘打った杉の大木にならんで、猿の彫り物で有名な神厩舎がある。彩色過多のけばけばしさが目立つ東照宮の建物群の中で、厩舎の素朴で地味な容貌は好感がもてた。猿はみな丸顔をして、目も丸く体つきもまるめでかわいい。体毛はきわめて短かくてフサフサ感は全くない。

日光山最高の、あるいは日本最高の建築物とされる東照宮を見る。建築学的な構造解析はわからない。建物としての設計デザインには特別に奇抜なあるいは芸術的なところはないようにもみえる。東照宮ならびに回廊、唐門そして本堂など、本山一連の建築物を際立たせている物はそれらの過剰ともいえる木彫り装飾である。

余りに数がおおすぎてしかもそれらが高くて遠くにあるものだから、個々の木彫り彫刻の芸術的価値がどんなものか、なんともいえない。更にそれらが、鹿沼でみた彫刻屋台のような白木ではなく、青、赤、緑の三原色に白と金を基調とした極彩色である。白木、石膏、大理石、あるいは銅などの単色に馴れた目には、東照宮の彫刻群は眩しすぎた。

 (2006年12月)
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