日光街道 2



杉戸−幸手栗橋中田古河野木間々田
いこいの広場
日本紀行
日光街道1
日光街道3
日光街道4


杉戸

杉戸町に入った直後、左手歩道に駐車場のスペースを設け、そこに地球儀のモニュメントが設置されている。この地点が北緯36度線ぴったりらしい。

下本村のシェル・ガスステーションの先で旧道は左に入り静かな集落の中を進む。途中左手に沿いの
九品寺境内に日光街道の道しるべがある。寺といっても無人のようで、墓地だけが残されている。小堂の横に、1784年に地元堤根の村人によって立てられたという庚申塔を兼ねた道標があった。東面に「右江戸 武州葛飾郡幸手領堤根村、北面に「天明四辰戊十一月吉日 松伏領新川村 石工 星野常之」、西面に「左日光」、南面には「青面金剛」と刻まれている。台座には「不」の字の几号水準点がみられる。政府が行う国土測量の基準点の一つである。

杉戸宿手前の堤根二又で旧道は左に入る。杉戸町役場を越えたところの清地交差点で古くて広大な屋敷があった。文政5年(1822)年創業という、清酒「杉戸宿」の
関口酒造である。堂々たる店構えだけでなく、通りに面して武家屋敷のような門や塀を構えた大邸宅である。


関口酒造のある交差点から左側に橋が見える。50mほど歩いていくと
大落古利根川がのんびりと秋の柔らかな日差を受けて流れていた。水辺の草は刈り込まれて川の姿は寒々としていたが、両側の岸が土と雑草のままでセメント色の見えないところが好きである。大落古利根の懐かしい風景に魅せられて、旧道に戻るのを忘れて堤防の細い道を進んでいった。


旧道の
「本陣跡前」という交差点にでた。車をとめて本陣の跡を探すが遺跡も標識も見当たらない。銀行前の歩道に「明治天皇御小休所阯」の石碑がたっているがどうもそれではないらしい。角で煎餅を焼いている菓子屋(林屋)のおじさんに聞くと、中から奥さんがでてきて詳しく教えてくれた。100mほど北に行った右手に、一本の大きな松の木陰に長瀬家の古風な門が保存されていた。雨ざらしの標柱に残るかすかな筆跡は判読できない。奥は近代的な民家である。


東武動物公園駅近くの浅間神社境内に
芭蕉の句碑があるというので探しに出かけた。地図を開けると、香取、八幡、厳島、稲荷、熊野など神社は多いが浅間の名が見当たらない。東武線の線路をわたり大落古利根川にかかる河原橋をわたったところで、おじさんに聞いた。

「このへんに浅間(あさま)神社はありませんか?」
「ああ、浅間山(せんげんさん)ね。あそこだよ」

堤沿いの一画に自然石を寄せ集めた手作りの岩山が築かれている。周りに2つの小さな祠があって、それぞれには厳島神社や稲荷神社とあるが、浅間神社と書かれた建物がない。
浅間神社はその岩山自体であって、頂上に「富士大権現」と彫られた石がそれを物語っていた。地図上でこの場所を一つの神社名で示すのは悩ましい仕事であったろう。多くの自然石の一つに芭蕉の句が彫られている。

 八九間 空で雨ふる 柳哉 はせ越

葦がしげる古利根川はじっと静まりかえって緑の流れを湛え、土手には花を終えて種をふくらませたひまわりが残暑の光を楽しんでいる。誰が植えたのか、ムクゲやコスモスの花が神社の前庭を飾っていた。

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幸手

旧日光街道は杉戸高野台をすこしすぎた所から、左にまっすぐ伸びている道である。昨年ここで右の4号線をたどって、志手橋が追分だと思っていた。旧日光街道が国道4号と分かれ
御成街道に合流する途中に幸手南公民館があり、その正門に上高野村道路元標が保存されているが、文字はほとんど読めない。倉松川に架かる志手橋の手前南1丁目交差点で旧国道4号と合流し、左におれて幸手宿の町中へ入っていく。交差点脇の電柱には昭和22年の大洪水の浸水位を赤線で記していた。地上よりの水深は1mを越し、利根川の洪水は埼玉東部一帯を水浸しにした。

ところどころに昔の面影を残しているが、宿場町をテーマにした町つくりにはなっていない。権現堂という桜の名所があるだけに商店街は桜の花をあしらった飾り付けがしてあった。幸手の町を通り抜け、右に曲がって国道4号線に合流する手前に
正福寺がある。

境内のすぐ左手に、数段に盛り上げたピラミッド状の石仏塚が威圧的な眼差しを投げかけているようである。大木を支える築山の麓に
「日光道中」と彫った大きな四角柱の石道標があった。街道筋に建てられていたものである。

正福寺の正面、曲がり角の道端(幸手市北2−1−9)に、
幸手一里塚の跡をしめす案内板がたっている。一般的な一里塚の説明の後に、明治初期までこの道の両側に塚があったことを記してある。

すぐに出てくる三叉路を左にとるのが旧道(県道65号)だが、そのまま進み、桜の名所で名高い
権現堂桜堤によっていくことにした。国道4号を突っ切ってまっすぐ東に進むと権現堂という場所にでて、中川(庄内古川)にさしかかる。上船渡橋をわたると茨城県五霞町である。江戸時代、渡良瀬川と合流した利根川は、栗橋の利根川橋南方から開削された権現堂川を通って、江戸川に導かれていた。権現堂川が下総と武蔵の国境だった。その後、北川辺町の南に新川通を掘ると同時に、五霞町の北にまっすぐな赤堀川を開いた。二つの川は、利根川河川緑地公園から関宿まで、利根川を一直線につなげた。もともと利根川の北にあって茨城県に属していた五霞町は、そのまま新利根川の南に取り残されたのである。後にこの逆の例を北川辺町でみる。

上船渡橋の埼玉県側から北におよそ1kmにわたって桜並木の堤が延びる。関東でも指折りの桜の名所で、特に土手の東側に整備された菜の花畑とのコントラストで知られている。春の景色はみごとであろう。

2005年4月、その景色を見にやってきた。3月26日から4月10日まで、幸手桜祭りである。県道371号線沿いの専用駐車場に車を止め、満開の桜がトンネルをなす土手に上がる。桜の黒っぽい幹枝と淡桃色の花の隙間から目の覚めるような黄色が覗かれる。堤と中川の間を埋めるのは一面の菜の花畑で、桜堤を引き立てるためにわざわざ造られた。あと1週間もすれば、主役は菜の花に交代する。

堤と菜の花畑に挟まれた土手の斜面では花見客が弁当を広げていた。カメラマンたちは堤の上よりも菜の花畑の周囲に多い。誰も、下半分を黄色につぶして、上半分に桜色と空色を配する構図にするのだが、明るい黄色ばかり勢力がよく、主題の桜の影が薄い。桜の色は淡くて、目立たせるのが難しい花だ。

堤の北端近くに「権現堂川用水記念碑」に並んで、
「順礼供養之碑があった。

権現堂堤の上には、順礼供養塔と順礼供養之碑が建てられている。享和2年(1802)6月、長雨のために水位が高まった利根川はついに決壊し、人々は土手の修復にあたったが、激しい濁流に工事を進めることが出来ず手をこまねいていた。その時そこを通りかかった順礼親子がこれを見かねて、自ら人柱を申し出、逆巻く流れに身を投じたという。するとたちまち洪水はおさまり、修復の工事が完成したという。
 これに対し、順礼親子が工事は無駄だといったのに怒った人夫たちが親子を川に投げ込んでしまったという説もある。どちらが本当か分らないが、順礼供養塔は、人身御供になった順礼親子を供養するため、昭和8年に建立されたものである。また、順礼供養之碑には、明治、大正の有名な日本画家結城素明の筆による母子順礼の姿が刻まれている。  昭和63年3月   埼玉県  幸手市 

桜堤を右手にみて国道4号にもどり、権現堂川に沿って北にむかう。
正福寺横の三叉路で左に折れた旧道は内国府間(うちごうま)で4号に合流し、岩槻渋江から出た県道65号はここで終わる。中川を渡ってすぐに左の小道に入っていく。田園地帯に点在する民家を通り抜け、外国府間(そとごうま)交差点をすぎたところで道が二又にわかれ、その分岐点に古い道標があった。右つくば道、左日光道とある。選挙のポスターが興ざめだった。

左の農道を進んでいくと雷電神社にぶつかる。300年以上もの歴史をもつ社だったが3年前不審火で焼失し、翌年再建されたばかりの新しい建物だった。境内に、破れかかった皮から真紅の実がのぞいているザクロの木が印象的だった。国道の土手下の道を突き進んでいくと土地は幸手市から栗橋町にかわる。

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栗橋

農道のような細い道はやがて弁天堂のある
小右衛門一里塚にたどり着く。江戸から14番目、56kmにあたる。現在、塚の上には字堤外(現・権現堂川)から移築されたという弁財天堂が建てられている。そこから土手をかけ上がり国道4号に出、すこし行った所に再び左に入る旧道がある。入口の目印は「栗橋第一劇場」というストリップ劇場である。車が数台とまっていた。こんなところで経営は成り立っているのかしらん。

旧道沿いの右手民家の庭奥に
会津見送稲荷がある。会津藩士にまつわる言い伝えがある。
再び国道にもどり、加須ICからきた125号線との大きな交差点をすぎたところで左に降りて、ようやく栗橋宿に入る。坂を下りきり栗橋の宿への入口右手に
炮烙(ほうろく)地蔵がある。この場所は関所破りの重罪人を火あぶりの刑にした処刑場で、地元の人が処刑者の供養のために地蔵を祭った。南千住の首切り地蔵のような存在と考えればよい。ただ、首切りと火あぶりの違いがある。堂の中は暗くてよく見えない。格子の隙間にレンズを突っ込み一枚記録写真を撮ってみた。炮烙とは素焼きの平たい土鍋のこと。地蔵の足元に写っている。

栗橋宿は町の堤防に最も近い部分にあたる。利根川の渡船場があった交通の要所ばかりでなく、日光街道の栗橋関所は、東海道の箱根関所、中山道の碓井関所と並ぶ重要な関所であった。今は駅から離れた存在となって通りはもの静かで、旧家というよりも廃家が目につく。昼時でもあったので食堂をもとめて駅に向かった。町全体がまだ盆明けのけだるそうな余韻につつまれている。

栗橋駅の手前に義経の愛妾、
静御前の墓があった。淡い色彩で静桜と優雅な女性を描いた大きな標札やケース入りの墓石の他、いくつもの石碑や鳥居までもがそろった立派な墓所である。

彼女の伝承にはいくつかあり、主に義経との間にもうけた子供のこと、鎌倉での舞いのこと、そして没した経緯と場所の点で違いが大きい。

京都府丹後、磯の禅師の娘として生まれたことには異論がない。丹後の田舎から禅師である母とともに京都へ上がって静は祇園の白拍子になった。白拍子とは辞書には「遊女」とある。仏教をよくした親の娘と、白拍子という職業との関係が感覚的に理解しがたい部分ではある。美人のうえに舞いがうまかったのだろう。そんな彼女を源義経が見そめた。静は側室となって男子を産んだ。

ここから運命がわかれる。


1.帰郷説(丹後説)
義経は頼朝に吉野に追われ、子供はそこで殺されてしまった。悲しみのうちに静は磯に帰り、故郷で若い命を終えた。

2.鎌倉移送・帰還説
義経とともに落ちのびたが、静は吉野山で捕らえられ鎌倉に送られた。頼朝・政子の命令で鶴岡八幡宮にて舞を舞う。その後義経の息子を産むが、子は即日殺された。静は都に帰ることを許されたが、その後の消息は不明。

3.被略奪・出家説
ついていこうとする静が義経に諭され従者と都に帰る途中、その従者に金品を奪われる。一人山中に取り残されたところを山僧に捕われ鎌倉の源頼朝のもとに召し出された。政子が静に鶴岡八幡宮で舞うことを命じたところ、義経を慕う心を歌に詠んで舞った。頼朝は立腹し殺そうとするが、政子がそれを諌め、静は髪を下ろすことで許された。その後静は都のあたりで生涯を閉じたという。

4.身投げ説(大和説)
奈良県吉野郡吉野町菜摘に、絶望の静が身を投げたという「静が井戸」がある。

5.思案説(常陸説)
茨城県猿島郡総和町下辺見に、静が義経の死を知り橋のたもとで思案にくれたという「思案橋」がある。その後静はこの地で息を引き取った。栗橋町伝承はこの線上にある。

6.奥州錯誤説(信州説)
吉野から奥州へと旅立った静が、信州松本付近で「奥州はどこか」と尋ねたところ、地元民は美麻村の「大塩」を「奥州」と聞き違えて「それはその先の東山中にある」とおしえた。大塩にたどりついた静はそこが奥州でないとわかって落胆し付近の薬師寺で力尽きて死んだ。この薬師寺に静御前の墓があり、大塩には静御前の杖が根付いたとされる「静の桜」がある。

7.母子悲話説(讃岐説)
香川県木田郡三木町での話。建久2年(1191)12月20日母が転落して68才で死亡し、静は翌3年3月14日侍女琴柱に見取られて24才で生涯を閉じた。母の墓は井戸川橋の東側にあり、静の墓は三木町下高岡の願勝寺と、三木町井戸鍛冶池西堤防の側にあり、琴柱もこの横に眠っている。

8.美人入水説(陸奥説)
福島県郡山市にある静御前堂由緒。
文治5年(1189)3月28日22歳の春、静は「美人ヶ池」に身を沈めた。

2005年の大河ドラマは「義経」である。
強く美しく時代を駆け抜けたひとりの男がいた。この男をめぐって女たちの羨望と、男たちの嫉妬が怒涛のように渦巻いた。この男の名は『義経』
静(石原ひとみ)の最後もはっきりするであろう。


小さなプラザ風の一角に数件の店があり、「定食」の看板がでている唯一のレストランに入った。右は洋酒のボトルをならべたバー風で、奥は寿司カウンターのようだった。左側の座敷にあがり「ランチ定食」を注文した。私は「刺身定食」、妻は「てんぷら定食」、刺身もてんぷらもたっぷりある。ワタリガニの味噌汁と充実した漬物の盛り合わせがついてともに750円。安くてうまくて食べきれなかった。

利根川の堤防下、三叉路の一角に
八坂神社がある。大きな藤の木の一枝に花がわずかに生きていた。そこから道路をよこぎり堤防の下にでると右斜めに関所跡が見える。栗橋関所はもと「房川渡(ぼうせんわたり)中田・関所」とよばれ、日光街道が利根川を超える要所にあって「利根川通り乗船場」から発展した。東海道の箱根、中山道の碓氷とならぶ重要な関所であったという。元の位置は現在の堤防の内側、利根川のほとりにあった。堤を這い上がり利根川にでてみる。日本を代表する大河の一つを間近に見る。流れをほとんど感じない池のような川面だ。水門の支柱に歴代の洪水水位が記されている。

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中田


利根川橋を渡り終えたところで国道4号と分かれ、堤防から左に降り下った曲がり角に
中田関所跡の標柱がある。説明板によると「当地と対岸の栗橋の川の流れの部分を房川といい、ここに房川渡中田関所が設けられた。やがて関所は対岸の栗橋側に移された」とある。関所の廃止後も、渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。

旧道が再びはじまり、大きな交差点を渡ったところに
中田宿跡の説明板が立っていた。

光了寺は昔は伊坂(現栗橋町)にあったが、利根川改修のため栗橋からこの地に移転してきた。ごみひとつ無く掃き清められたこの寺に、静の遺品の舞衣(まいぎぬ)の一部や、鏡、守本尊などが残されている。大河ドラマに出てくるかもしれない。

JRの踏切りを渡り茶屋新田地区にはいると、両側の幅広い歩道に若い松並木が整備されていた。昔、この辺は
中田の松原と呼ばれた見事な松並木が続いていた。近年、一部の区間であるがその景観を復元する努力が試みられた。10年もすればたくましい姿に成長していることであろう。


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古河

利根川橋で埼玉県を去り栃木県小山市に入るまでに、茨城県の最西端をかすめ通る。ここに古河という利根川、渡良瀬川、思川水運の拠点として、また城下町として栄えた大変古い魅力的な町がある。

古河の地は万葉時代から川とのかかわりが深かった。駅前にある歌碑の裏側には、万葉集巻14あずま歌のなかから2首を訳付で紹介している。付近に渡りがあったのだろう。場所は古河だがテーマは愛である。表側に彫られているのは最初の歌であった。二つ目の歌は雀神社の裏にある。

 
逢はずして行かば惜しけむまくらがの 許我こぐ船に君も逢わぬかも
(逢わないで行ったら惜しい。古河の渡しを漕ぐ船のなかでせめてあの人にあえないものか)


 
まくらがの許我の渡りのから楫の 音高しもな寝なえ児ゆえに
(古河の渡しを行く船のから楫の音のように噂がとどろきわたるよ。共寝もせぬあの娘のことで)    
まくらが=枕香、枕にしみ移った香(広辞苑)

室町時代、京の幕府は関東の出先として鎌倉に関東公方を置いた。1455年、足利成氏(しげうじ)の代になって管領上杉氏および幕府と対立し、成氏は鎌倉をおわれて古河に移った。以来、
古河公方として五代目義氏まで130年余りを統治する。江戸時代にはいり古河藩主は11家がめまぐるしく交代したが後半になって土井家で定着した。

中田から国道4号を進み原町交差点で354号を左に行ったところに、昭和50年に開園した面積約21平方mの広大な
古河総合公園がある。歴史と自然を融合させた立派な公園だ。2000本ともいわれる花桃林は一面に落ちている朽ちた実を踏みつけて歩かねばならなかった。3月20日から4月上旬まで開かれる古河桃まつりはさぞかし多くの人出で賑わうのだろう。公園内には、最後の古河公方義氏の墓、旧中山家・旧飛田家という17−18世紀の民家、古河公方館跡、田船が浮かぶだけの静まり返った御所沼、鮮やかなピンクの花をつけた古代(大賀)ハス池、花菖蒲田など、家族で一日を過ごすに十分な場所である。ここでキノコとトンボとミズスマシの写真を撮った。まずここで、古河の第一印象をよいものにさせた。

原町交差点に戻って国道4号を市中に向かって進んでいくとまもなく右手に青いフェンスの内側に高くそびえる榎の大木が見えてくる。古河第二高校の敷地にある
古河一里塚である。学校正門前に駐車して、グラウンドの中へ遠慮がちに入っていった。グラウンドでは女子ソフトボール部員の元気な掛け声が飛び交っている。先生も1人練習に加わっていたが、外野の向こうに見える闖入者を怪しむ様子でもなかった。このごろは、原則として許可を得なければ学校敷地内に入れなくなってきている。

市内

古河市内に入る。台町の路地角に「御茶屋口」と彫られた石碑がある。昔古河藩は、日光参拝の歴代将軍を、古河城入城の際この入口に茶屋を置いてもてなした。路地を入っていくと鮒の甘露煮の老舗「ぬた屋」、古河歴史博物館、そして長い黒壁塀に囲まれた鷹見泉水の武家屋敷である
鷹見泉石記念館にたどり着く。鷹見泉石(1785〜1858)は古河藩主土井利位(としつら)に仕えた家老で優れた蘭学者でもあった。藩主利位が大坂城代として赴任中、大塩平八郎の乱を鎮圧した人物で、また早くから開国論を唱えて幕府に咎められ、この地に隠棲した。紅葉しつつある木々や竹に囲まれて端正な邸宅が落ち着いた佇まいを見せている。右奥に今は珍しいつるべ井戸があった。井戸は塞がれていて、上半身だけを見た感じではあるが、白木の滑車と縄が周りの景色にしっとり溶け込んでいる。

記念館の裏側に初代古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したという
長谷観音がある。日本三大長谷寺の一つとして紹介されているが、奈良県桜井と神奈川県鎌倉の長谷寺は不動のものとして、第3番目については秋田、福岡、茨城など各地で主張が違う。

旧道にもどり、駅前大通り入り口の古河宿場の中心街に高札場址と本陣址の石碑を見る。本町1丁目の交差点で街道は左右に分かれ、日光街道は左に、筑波街道(国道125号熊谷−佐倉)は右に進路をとって行く。古い造りの太田屋旅館の前を通りすぎると、木のベンチを従えて立派な常夜灯を兼ねた石道標が立っている。
「左日光道 右筑波道」と大きな文字が彫られていた。もとは、先ほどの交差点にあったものである。道路向かいに、店先を派手な青色に塗り染めた荒物屋があり、その看板には大胆な書体で「ないものはナイ」とある。見覚えのある表現だ。川越で近江商人の足跡を訪ね歩いていたとき、「ナイモノハナイ」と掲げた近亀時計店があったのだ。荒物屋に共通の宣伝文句であろうか。

道標の先の十字路を右折(車は逆一方通行で進入禁止)して、
横山町「よこまち柳通り」を北上する。数軒の古い商家と整備された歩道に柳の木がよく似合う魅力的な商店街であるが、土曜日の午後という時刻を考えると、人通りの少ないのが少々気になった。

道標の前を柳通りに入らずにそのまま進むと昔武士の居住区であった大手町に入っていく。スポンジ調のレンガ敷きの道づたいに
旧武家屋敷の土塀が延びる。一こまおきに格子窓が開けられたクリーム色の土塀を瓦葺きの屋根が覆い、内側にはうっそうとした木立が埋まっていた。ホテル山水をはじめとして、このあたりは格調の高そうな料亭らしき建物が多かった。

大手町の
正定寺(しょうじょうじ)に芭蕉塚があるというので寄ってみた。蝉の写真を撮りながら塚を探すが見当たらない。墓の掃除に来ていた婦人に聞いてみた。
「みたことありません。奥の左手に住職さんの家がありますから、そこで聞かれたらわかると思いますが」
安易な道を選んだことを恥じながら庫裏をたずねて呼び鈴を押した。紳士然とした品のよい住職がでてきて「中庭にありまして普段はお見せしておりません。写真でよければさしあげます」と、塚の写真に大きく説明文が横切っている絵はがき大の写真をくれた。

古河の町は楽しかった。去るまえにもう一ヶ所寄るところがある。そこから見渡す
渡良瀬遊水池の風景がカメラに絶好なのだそうだ。目印は雀神社裏手の堤にある万葉歌碑である。碑の歌は、駅前の歌碑裏側で紹介されていた2つの歌の内、表面に彫られていない他の一つであった。

 
まくらがの許我の渡りのから楫の 音高しもな寝なえ児ゆえに

さて、土手の高みに来て手をかざして見渡してみるが水の一筋も見えない。眼下に広がるのは古河ゴルフリンクスの芝ばかりだった。地図で確認すると、ゴルフコースの西側に渡良瀬川が流れ、遊水池はその向こうに広がっていた。超望遠レンズでもない限りここからは見えない。すでに芭蕉に遅れをとっている上に、更に遊水池までの寄り道をしていくべきかどうか、土手の上で腕時計を見つめながら、しばらく深い思案にくれた。

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野木

古河横山町柳通りからの旧道が国道4号と合流する手前の森に鳥居を構えた
野木神社参道入口がある。社は500mもあるかと思われる長い参道の奥にひっそりとあった。木々が鬱蒼として境内は薄暗く空気までもがなんとなく重そうだ。

野木神社は、1600年前の仁徳天皇の時代に建てられ、1200年前の坂上田村麻呂の東征のときこの地に移されたという大変古い神社である。現在の神殿は、文正2年(1819年)古河藩主土井利厚により再建された。境内には、坂上田村麻呂が凱旋したときに植えられたという公孫樹(大いちょう)があるが、何代目のものとも書かれていないのは樹齢800年のオリジナルのイチウの木か。


歩道を歩いていくと、大きな民家のブロック塀の前に「日光道中野木宿」の案内板が立ってある。門の標札に「熊倉」とあるこの場所が
元本陣だった。
野木宿は車で通れば2、3分で通りすぎる小さな宿場である。目立った史跡等もなく、歩いて注意深く探す必要がある。

左に入る路地角に、高さ50cmばかりの小さな石標をみつけた。かがみ込んで読むと「是より大平」とある。日光街道とは関係なさそうだ。今地図を見ると、その横道は思川に通じていて、渡良瀬水郷地帯を越えてはるか北方、栃木市と下都賀郡の境界に大平山を見つけた。JR両毛線の栃木から一駅手前の大平下が最寄り駅である。麓に大平山神社があるから由緒ある山であろう。そこまでの道の起点として、日光街道の野木宿があった。大平山は日光例幣使街道の富田宿からの寄り道コースになる予感がする。

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間々田(ままだ)

芭蕉は2日目の宿をここでとった。間々田は駅前に観光案内所もない静かでちいさな町である。日本橋と日光のどちらからも11番目の宿で18里にあたり、ちょうど日光街道の中間点にあたる。この宿場の目印は旧跡
「逢(あい)の榎(えのき)」である。地図にはなく、偶然目にはいった「さやま酒店」の地酒の看板が教えてくれたものである。店の奥さんに聞くと、幸い歩いて1分の距離にあった。マルマンホームセンターのある交差点から北に20mいった東側に、民家の庭の端を借りてあった。

毎年この地を通る例幣使が中間地点の目印にと、この宿の入り口に「間(あい)の榎」を植えた。「間の榎」はいつしか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになった。

(以下は2004年10月の旅)

手打ちそば小川屋 小山市乙女2-25-16 

10月下旬の23日、夕食を乙女交差点(駅入口)角の蕎麦屋でとることにした。付近に見かけない大きな和風の建物が気にいった。車旅行とはいえ、けっこう歩いた。靴を脱いで汗をぬぐいだ後の熱燗の一杯はうまかった。二人で同じ○○御膳定食を食べている時、グラリと体が揺れた。酒を運んできてくれたおばさんが話しの中にはいってきて、しばらく地震談議がつづいた。
「震度は3くらいだな」
「この辺はめったに地震がないからねー」
「そうですか。このくらいの地震は草加ではしょっちゅうありますね。あっ、又きた」
「こりゃー、ちょっとしつこい」
「またきた。かなりしつこい」
「震源はどこだろう」
大将とおもわれるオジサンも出てきた。
「震度6。新潟県」

7時過ぎには地震もおさまり、客は私たちだけになって、話を切り替えた。
「乙女という地名、いい名前ですね」
「乙女の名前が気に入って嫁にきたの。この土地の人はみんな美人。外ものは全部ブス。ワッハッハ」
おばさんはどこから嫁いできたのかは言わなかった。
「日光街道を旅しているのですが、間々田の本陣はどこでしょうか」
給仕係りの若嫁さんが、夫と思われる若主人をよんできて詳細町内地図でていねいに教えてくれた。栗原電器店を越えたところ、駐車場の横の細い道をはいったところの青木家がそうだという。青木さんは2代にわたって学校の先生をしているとのことだった。蛇祭りで有名な間々田八幡宮の場所も確認できた。この二個所は明日朝一番で訪ねる予定である。

勘定をすませ立ち上がろうとした時、おばさんが「とくべつのをやるから」と調理場から一皿の小ぶりなイモの煮物を運んできた。暗赤色で、形は里芋のようである。口に入れて噛むとこんにゃくのような弾力があって、普通の里芋のようにクニャーとつぶれない。上品な甘さが飴のように食べた後も口に残る。
この色と甘さの秘密を当てよというのだ。妻は甘さは黒砂糖でしょうといったがおばさんはニヤニヤして首を振った。私は、この色は梅干しの赤さだといったが間違っていた。
「こんど来るまでに考えておきな」
こんどくるまで――と言われても・・・

翌朝。小山駅前ホテル柏を7時半に出て間々田の小川屋に戻った。
「一晩考えましたが、色は赤ワインでしょう。甘さの秘密はわかりません。味醂の甘さににていましたが」と書いた紙切れを郵便受けに置いた。薄暗い店内の片隅でひとりソバを打っていた若者が人の気配を感じて出てきた。事情を話し、紙切れを手渡した。「これから本陣と八幡宮へいく」というと、八幡宮は相撲に縁があって、
「シコふんじゃった」の映画のロケ地だという。
「ああ、見ましたよ。大学相撲部の話でしょ。女の子がマネージャーで。面白い映画でしたね」

昨夜言われたとおりに行って青木家の門を撮る。通りに面した場所に、まだ木地も新しい
本陣跡をしめす立て札があった。内容は本陣の一般的説明で、場所がこことも、青木家がそうだったとも書かれてはいない。

すぐ先を左に曲がってかなり奥にはいったところで神社の鳥居が見えた。奥の方から子供たちの声がする。中に入っていくと本殿前に一人前の土俵ができていた。周りは父兄応援団が取り巻き、屋台は開店準備中である。子供相撲大会の日だった。小川屋の青年はこのことを知っていたのだろうか。本当に子供がシコを踏んでいた。


間々田八幡宮は蛇祭りで知られている。毎年5月5日に行われている間々田の蛇祭りは、長さ20m近くの藁で作った蛇体を子供たちが 「蛇がまいた(ジャガマイタ)、蛇が巻いた、4月8日の蛇が巻いた」と囃しながら練り歩き、各町内の蛇が間々田八幡宮に集合し、神事や蛇の水のみ行事を行い各町内に散会する。本来4月の花祭りの日に行われていたが、いつしか「子供の日」の祭りになった。田植え前の雨乞い行事であった。

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