日本橋から日光にいたる道はいくつもあった。その中で最も公式な道が五街道の一つとして制定された日光街道である。現在の国道でいえば4号線なのだが、江戸時代南千住までの街道は上野を通らず、三越前あたりで4号線と分かれ、「大伝馬本町通り」を経て浅草へ通じていた。そのルートは日光街道だけでなく、同時に奥州街道であり、水戸街道でもあった。

日光街道:日本橋から千住、草加、幸手、小山、宇都宮を経て日光・鉢石宿に至る。

日光街道の他に、日光(実際には今市まで)に至る街道として6つの日光脇街道があった。

1.日光御成街道(岩城街道)
江戸城大手門を出て、筋違見付けで中山道に合流し、しばらく中山道をたどったあと、本郷追分でわかれ、ひとり本郷通り−北本通り(国道122号線)を北上し、赤羽岩淵で荒川をわたって川口宿にはいり、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手を経て日光街道に乗った。本郷追分から幸手までを「御成道」あるいは「御成街道」とよぶ。岩槻城に通じる道であるため岩槻街道ともよばれた。

2.壬生通(日光西街道)
日光街道の小山の先、喜沢で西に折れて壬生を通り楡木で例幣使街道に合流する。芭蕉は室の八島によるためにこの街道を選んだ。

3.日光例幣使(れいへいし)街道
家康を祭る東照社が宮となった翌々年の正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで、日光に例幣使(朝廷が毎年神への捧げ物−幣帛(へいはく)−を奉献するための勅使)が派遣された。一行は50人ほどの行列を組んで4月1日に京都を出発し、中山道を進んで、倉賀野(群馬県高崎市)から例幣使街道に入った。復路は日光街道−東海道が使われた。楡木で壬生通りと合流し、今市で日光街道に合流する。

4.日光東往還
水戸街道の向小金新田を起点に、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城を経て雀宮で正式の日光街道に合流する。宿場は山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功と10ヶ所設けられた。

5.会津西街道
会津西街道は、会津藩が藩用道路として整備した街道で、会津若松、大町札の辻から大内峠、山王峠を越えて三依水生植物園、鬼怒川温泉地帯を通り、藤原、大原、高徳、大桑を経て今市に至る。約130kmの街道で現在の国道121号にあたる。別名「南山通り」ともいう。今市−大桑間には杉の二重並木が残る。また、10の宿駅の1つ大内(福島県下郷町)には、当時の家並みや屋敷割がそのまま残っており、国の伝統的建造物群保存地区に選定され、観光地として名高い。

6.日光北街道
日光北街道は、奥州街道の大田原から分かれ、矢板−玉生−船生−(鬼怒川)−大渡−轟を経て、今市で日光街道に合流する。奥州から日光に入るに、宇都宮経由に比べかなりの近道となった。芭蕉は日光から奥州街道に戻るのに、大渡からこの日光北街道に入って大田原を目指した。



旧街道:大伝馬本町通り

旧街道を歩き始めたが両側はオフィスビルがならぶだけで室町仲通りのような店屋がない。週末のため通りは閑散としていて街道の趣などすこしもないのだ。

すぐに、両側のビルの入居者に「○○製薬」が多いのに気がつく。そういえばのっけから東京薬業会館があった。どうやらここは大阪でいう道修町のようである。昔、薬問屋が軒を連ねていたのであろう。日野商人の出店もあったのではないか。とにかく近代的なオフィス街で、街道の雰囲気は微塵にも感じることができなかった。すぐに昭和通りにでる。上を首都高速上野線が走っている。

人形町通りをそのまま北に進み、江戸通りの小伝馬町駅を通り越したところ辺りに十思公園がある。この周辺は江戸時代、全国最大の伝馬町牢屋敷であった。長州藩士、吉田松陰も井伊大老による「安政の大獄」でこの地で処刑された。公園には、江戸幕府最初の公認「時の鐘」が移設されている。煉瓦造りの鐘楼が釣鐘にあわない。

昭和通り全体に、無骨な屋根をかぶせたような高速道路の下を、くぐって渡ることができない。地下歩道にもぐると、ホームレス居住用のダンボールが転々とトンネル壁に並ぶ、異様な光景に出くわした。幸いに、すべての住民は出払っていたからよかったものの、壁にもたれてうずくまった10数人のホームレスから、うつろな視線をなげかけられたら、とても50mの地下道を通りぬける勇気をもたなかったであろう。

昭和通りの向こう側にでると、薬業関係の企業は蔭をひそめ、雰囲気が一気に街道臭くなってきた。早々に左手に趣のある会社が構えている。今年今月に立ったばかりの真新しい社碑を見ると、「小津商店」という伊勢商人であった。すぐ先にも「銀杏堂」、「江戸屋」という、建物こそ新しいが二軒の暖かな店が並んでいる。その前の近代的なホテルギンモンド東京の道路際に「旧日光街道本通り」と彫られた御影石碑が立っていた。区のものではなさそうで、この通りの商店街の寄贈によるものであろう、左右の面で、「この地」を大いに宣伝している。薬問屋街から木綿問屋街に移ってきたようだ。

徳川家康公江戸開府に際し御伝馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大伝馬町と称された。
江戸名所図絵や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は将軍御成道として繁華な本街道であり木綿問屋が軒を連ねて殷賑を極めた。

横山町問屋街
はほとんどが繊維・呉服関係の問屋だ。週末に店をあけているところは小売もしている店だろう。大阪にも南久宝寺町といって現金卸問屋がひしめく通りがある。父の仕入れについていったものだった。
一筋北を覗くと「横山新道問屋街」とあり、店はみんな閉まっていてひっそりとしていた。問屋街もおわりに近づいたころ、横道に異様な光景をみた。ビルに掛かる看板のほとんどが「エトワール」である。100年以上の歴史をもつわが国初の現金卸問屋だそうだ。馬喰町から横山町にかけて「エトワール村」と言わんばかりであった。

浅草橋

大伝馬本町通りがおわると大きな浅草橋交差点に出る。江戸通り(6号線・水戸街道)と靖国通りがぶつかり、東に向かって京葉道路(14号線・千葉街道)が出ていく。両国橋を渡ると墨田区である。

江戸幕府は江戸城の外堀(飯田橋から隅田川までが神田川)、内堀に沿って36の門を設け番人を常駐させて府内を出入りする者を監視(見附)させた。浅草橋には奥州・日光街道への出口として浅草御門・浅草見附が置かれた。寛永13年(1636)のことで、橋を渡った左側に石碑がある。他に筋違橋門(万世橋−中山道)、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門(甲州街道)、赤坂門(大山道)、虎ノ門等36ケ所の見附などがある。

ここから駒形にかけて沿道には吉徳、久月をはじめとする人形や、花火、玩具などを売る店が多い。現代の玩具メーカー、バンダイも街道沿いにある。秀月は2004年民事再生法を申請し、目下再建中である。

ここから一つ下流の柳橋まで、神田川は船宿に係留する屋形船でひしめき合う。夕方になれば一斉に隅田川に出て行くのか。南岸は柳が植え込まれ水辺の風情を引き立てる。柳橋は神田川が大川(隅田川)にそそぐところに架かる、短いグリーンの鉄橋である。橋のほとりに「小松屋」の看板をかかげた舟宿がひっそりとたたずまい、柳を背にした軒先で女主人が座布団を繕っていた。反対側の岸にはおなじく
「小松屋」という佃煮屋がある。ほおずきを鉢ごとぶら下げて風鈴の飾りにしている。歩道に一台のバイクが乗り上げられている。欄干にはかんざしの浮き彫りが並んでいる。川でボートを操るおじさんがカメラに振り向く。これらが互いに干渉することなく平和に溶け込んでいる空間がここにあった。

吉原が人形町から浅草田圃に移ってからは、柳橋が遊客の足の便を助ける拠点になる。客は猪牙(ちょき)船といわれる小さな船で隅田川を上り、今戸の山谷堀で降り、日本堤を歩いて吉原大門をくぐっていった。江戸時代の後半には柳橋自身も、深川、新橋、品川、新宿などにならぶ花街となって賑わった。多くの芸者が深川から流れてきた。幕末・明治になっても
柳橋芸者は江戸っ子気性がつよく旧幕府派や日本橋界隈の老舗の旦那を相手にした。他方、新興の新橋(現在の銀座七・八丁目あたり)には、薩長土肥の下級武士や成り上がりの新政府高官の集まるところとなり、芸者も進取の気風が強かった。英語を話す芸者もいたという。結局、政府高官や新興の政商を取り込んだ新橋が勝負に勝った。

今でも伝統を重んじる横綱審議委員会は(両国の近くということではあるけれど)柳橋の老舗料亭亀清楼で開かれているという。単なる想像だが昔は芸者も侍っていたのではないか。委員に女性が選ばれた今、これからも料亭での会議を続けていくのかどうか。亀清楼の前を進んでいくと右手に
石塚稲荷神社がでてくる。鳥居前の門柱に刻まれているのは「柳橋芸妓組合」と「柳橋料亭組合」だった。夜にでもなれば今でも着物姿が行き交うのかしらん。

蔵前

亀清楼の前の細道を隅田川に沿って北に向かう。錦絵にもある
首尾の松の子孫が残っているという。首尾の松はその姿・形よりも、隅田川をかよう舟人にとって目印に格好な実用的価値の方が高かったように思える。

橋袂は工事の最中で、蔵跡の石碑も金網の目にレンズをつっこんで撮ったものである。最大広角にしたのだが縦が全部入りきらなかった。

途中、道は蔵前工業高校にさえぎられて岸にはでられず、結局日光街道にもどらねばならない。江戸時代、その校舎敷地内に各地から送られてくる米を揚げる船着場があって、幕府直轄の米蔵がならんでいたことだった。今、蔵前橋にいたる大通りの北側に小さな小屋風の白壁蔵がチョコンと建っている。博物館でも教育委員会が建てたものでもなく、そこで操業する都下水道局が気をきかせて建てたものであった。

道向かいの店先に人だかりをみつけた。「江戸文化道場」と書かれた看板が好奇心をそそる。歩道でたむろする人たちは
「どぜう」料理を待つ客だった。四辻の一角をしめる蔵造りの存在感あふれる建物である。空腹をおさえてそのまま通りすぎた。

駒形橋交差点に出た。角に朱色の鮮やかな駒形堂がある。駒形の地名は吉原の高尾太夫と仙台藩主、伊達綱宗とのロマンスで有名になった。めでたく身請けされたという話の一方で、実は高尾には神田の紺染職人、島田重三郎という情人がいて、嫉妬に狂った殿様に隅田川の舟中で切り殺されたという話も伝わっている。高尾が詠んだという
「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の本意は定かでない。芸に優れ才色兼備の伝説的吉原美人は春慶院に眠っている。

今日は三社祭りである。「三社さま」とは、
土師中知(はじのなかとも)檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)の三人を祭神としている浅草神社の愛称である。駒形橋から江戸通りと川堤の間の狭い道を歩いていると子供のにぎやかな声が近づいてきた。神主が先導して父兄同伴の子供御輿である。列の中に割り込んで2、3枚子供たちの写真を撮った。

「浅草寺縁起」によれば、推古天皇36年(628)、檜前浜成、竹成兄弟が江戸浦(隅田川)で漁をしているとき、投網の中に1体の仏像を発見した。これを持ち帰って土地の名士であった土師中知に見てもらったところ、聖観世音菩薩の尊像であることがわかり、土師中知は自ら浅草寺にそれをお祀りした。浅草神社(「三社権現社」)はその3人を祀る。
 


浅草 

東武浅草駅を出ると左手が吾妻橋、右に神谷バーがある。前の通りが雷門通りで、西に向かって歩くとすぐに浅草寺境内のメインゲートである雷門に着く。見慣れた大きな提灯がある。この門は実は100年近くないままだったのを、パナソニックの創始者松下幸之助が見かねて再建を寄進したものである。両脇にたくましい風神・雷神の二神がいるのだが、徹底的に金網に守られていて、取り付く島がなかった。裏に女性らしき像がある。一旦あきらめた金網越しの写真に挑んでみた。

門をくぐると仲見世通りである。江戸時代にタイムスリップしたみたい。上野にはこのような一角がなかった。天海だの家康だの、あるいは西郷だの彰義隊だの、上野では歴史や宗教や政治が付きまとった。浅草にはそれがない。そもそもが漁師が拾った観音様から始まった。寺社は庶民のものである。それに芝居小屋のメッカでもあり、上野よりも粋だった。維新の戦争にも巻き込まれなかった。仲見世の一軒一軒を見て歩く。面白い。店先を飾る浮世絵に違和感を感じない。人形町甘酒横丁よりも10倍は古い。その上に多彩である。外人観光客が上野よりも圧倒的に多い。


文禄3年(1594)隅田川に千住大橋が架けられてから、南千住に至る現在の吉野通りが開かれ、言問橋西詰め交差点
浅草追分とよばれるようになった。それまでは、このあたりから橋場の白髭橋にかけていくつかの渡しを通って隅田川を越えていた。なかでも一番よく利用されていたのが竹屋の渡しである。対岸には由緒深い三囲神社があって、その堤から眺める川ごしの待乳山は絶景であった。ちょうど山谷堀が隅田川に流れ落ちる場所に竹屋という船宿があった。今は水門跡にホームレスのテントが並ぶ惨めな光景に変わり果てた。

待乳山は昔天狗坂とも呼ばれた小高い丘だったが、山谷堀を埋めるために丘が削られた。それでも
待乳山聖天は低湿地の浅草にあっては見渡しのきく風光明媚な名所として知られ、今でも人気がある。20段ほどの石段を登ると、色あざやかな線香の煙が築地塀に向かってたなびく静寂な場所に出る。一流の観光地でありながら俗化を避ける気分がうかがえて、気が安らぐ。それでいてご利益はお金と夫婦和合という、極めて世俗的であるところも親しめる。お金は巾着が、夫婦和合は二股大根が象徴する。二本の二股大根を横に並べるのではない。4本の脚が交差するのである。「ラストタンゴ・イン・パリ」の1シーンを思い出させる。

待乳山聖天と言問橋の間は隅田公園になっていて戦災碑のほか、滝廉太郎の花の歌碑などがある。しばらく吉野通りを離れて、川沿いの旧道を歩いていくことにした。道路の両側は家内工業の家が多い。今戸神社で招き猫のクローズアップを撮ろうとしていたとき、横から女性の声がかかった。
「招き猫の写真を撮っておられるのですか。よろしかったら中へ入ってこられませんか。たくさんありますから。」
手招きに応じて社務所に入った。玄関にひな壇が設けられ、壇上には大小、白黒の招き猫が肩を寄せ合って並んでいる。

橋場

プラタナスの並木が色づき始め、わずかながら落ち葉が道を飾っていた。しばらく行くと柳の並木が西の方向に出ている。今吉柳通りという。柳並木はまだ根岸の柳通りほどではないようだった。ところどころで路地に入ることにしている。表通りからは隠されている下町情緒を発見するためである。格子戸、板塀などが目標なのだが、今日は意外なものを見つけた。江戸の風物ではないが、貴重な昭和のなごりである水道ポンプである。角度や距離を様々に変え、路地のひと隅でひとしきり自分の時間を楽しんだ。

橋場2丁目の中ほどに赤い幟がはためく不動があった。密教系の寺院は赤い色彩ですぐに判別できる。

数分歩いたところで
白髭橋に出る。かっては「橋場の渡し」があり、千住大橋が架かるまでは、奥州.日光街道はこの橋場の渡しを渡って常陸国に出ていた。江戸時代は、風光明媚な処で、根岸と並んで寮(別荘)が建てられ、文人墨客が多く住んだところである。明治時代の政治家三条実美別荘だったという「対鴎荘跡」の碑があった。肝心のその別荘は白髭橋架橋工事に伴い多摩市連光寺に移築されたとある。根岸と橋場の大きな違いは、団子や豆腐料理などの老舗がここにはなかったことであろうか。もっとも対岸には言問団子などがあるとは聞いているが。

もう一度浅草追分にもどり本来の奥州街道筋である
吉野通りを歩きなおす。すぐ左手に宮内庁ご用達「宮本卯之助商店」がある。太鼓、御輿など祭礼用具の専門店である。中にはいると二人の女性が店員になにか注文をしていた。鼓か笛か。いずれにしても別世界の雰囲気がした。

再び山谷堀を横切る。ここにかって吉野橋がかかっていた。緑の帯状の公園を吉原の方面に少し歩いてみた。広い通りにでるところに
「山谷堀橋」の碑がある。三ノ輪からここまで、堀にそって日本堤が築かれた。山谷堀橋の左手に大きな三叉路がありここで、三ノ輪から吉原を通って来た土手通りと、吾妻橋西から出て浅草寺の東側を通ってきた馬道通りとがぶつかっている。

吉野通りにもどると東浅草1丁目交差点である。左におれて一路南千住をめざす。途中、バッハやボルガといったちょっと気になる喫茶店の前で立ち止まった他は
泪橋まで快調な足取りであった。明治通りと吉野通りの交差点が泪橋である。むかしここを思川が流れていた。ここから北のほうに東武線の高架線路がみえる。小塚原刑場は目の先である。この辺りで囚人や見送る人たちの泪が流された。今は交差点の東南角に、「交心」と書かれたパブが暖かい色彩を放っていて、悲しさなど微塵もない。

南千住 

吉野通りをコツ通りともよぶ。江戸時代、最も人の往来の激しい東海道品川宿の先、鈴ヶ森と日光街道千住宿の手前、小塚原に刑場が設けられた。犯罪者を処罰された犯罪者の骨が沢山埋められているという、少々不気味な由緒のある場所である。
それが刑場に由来する歴史的事実であったとしても、人を寄せるべき商店街の名として、宣伝するようなことでもなかろうという思いであった。

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千住 

「千住」は「センジュウ」でなくて「センジュ」と読む。千手観音に由来するとか、平安時代のころ千寿村といわれていたとか、足利将軍義政の愛妾千寿が生まれた土地だとか、いずれもこの地は「せんじゅ」に由来している。千住は南の東海道品川宿、西の中山道板橋宿、甲州街道新宿と並んで、江戸の4宿の1つに数えられた。

南千住駅から西に1ブロック行くと旧街道に出る。右折して北に進む。GWの連休なか日とあって閉めている店が多い。電柱にぶらさがる「コツ通り商店街」という看板が気になり、目的地の素盞雄神社につくまで「コツ」のことばかり考えていた。旧道と国道4号線の交差点にある交番の前に大きな
素盞雄神社の看板がありよく目に付く。いかにもいたずらそうな須佐之男命のことはさておき、ここに矢立ての句碑があるというので寄ってみた。下部に芭蕉の絵も彫ってある。文字、絵ともに浅彫りで、写真には映りにくい。

「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。行春や鳥啼魚の目は泪 はせを翁」

神社をでて北に進むとすぐに
千住大橋だ。2005年3月、修復工事で綺麗になった。下りの一方通行である。上り車線は隣接して段違いの別の橋(新千住大橋)があった。橋は思ったより短かい。

千住大橋は文禄3年(1594)徳川家康によって架けられた隅田川最初の橋である。名をたんに「大橋」とした。66年後の1659年、明暦の大火を受けて江戸市域を隅田川の東へ広げるために2番目の橋が架けられた。これを「大橋」と呼んだため千住の方を「千住大橋」と改称した。なお、3番目の橋は1695年の「新大橋」である。その後2番目の「大橋」が「両国橋」と変わったため結局「大橋」はなくなった。「なんとか『大橋』」はたくさんある。

2005年、新旧の千住大橋下堤防をつなぐ小橋が架けられた。名付けて
「千住小橋」。南の荒川区でなくて北側の足立区に属する。橋の下だから、ホームレスに狙われやすい。不法占拠を防ぐために、毎日夜間は鍵がかけられる。それまでしてここに小橋を設けたのは、この付近の水中に重要な遺跡が残っているからであった。伊達政宗が提供したという千住大橋オリジナルのコウヤマキ杭である。3個のブイがその位置をしめし、小橋からうっすら、杭の姿を見ることが出来る。橋の下からの眺めも一興だ。

橋を越えた左側に入舟乗り場の看板がでている。釣船乗合の出船案内もある。屋形船の使用例は意を尽くしていた。

「接待、謝恩会、クラス会、同窓会、新年会、忘年会、展示会、各種イベントの打ち上げ会、お花見、花火、カラオケ大会等…」

その裏側の空き地が
大橋公園で大きな奥の細道行程図や矢立初の碑が立っている。芭蕉はここで見送りの人と別れた。

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やっちゃ場跡      

橋からの傾斜が地表に消えて行くところに足立市場入口交差点がある。金属製の道標が立っていて「日本橋から7km」とあった。歩いてたった2時間か――もっと遥かな距離であると思っていた。

4号線からそれて、東京都中央卸売市場の横を斜めに延びる道が旧街道である。2004年12月、市場入り口の一角に、芭蕉の石像と日光道中道標を据えた「千住宿奥の細道プチテラス」が完成した。千住のひとたちの「日光街道・宿場」と「芭蕉・奥の細道」に対する愛着は並でなく、この町全体を包む大気の色といってよい。

旧街道の千住河原町に属する部分が旧千住宿の市場跡で、そのころ問屋の店先でかけあうせりの声が「やっちゃ やっちゃ」と聞こえてきた。今でも「やっちゃ場」と言えば千住市場のみならず、むかしの市場を指す。民家の玄関先に昔の問屋名を示す看板が多数掲げられている。やっちゃ場は戦国時代の昔に、周辺の農民や漁民が野菜や川魚を持ち寄って街道の両側にひらかれた青空市場から始まった。1594年隅田川に千住大橋ができると青物と川魚を扱う江戸の正式な市場になった。江戸には、ほかに神田と駒込にやっちゃ場があった。

やっちゃ場通りのほぼ半ば、京成電鉄のガードをくぐってしばらくいくと左手に
「千住宿歴史プチテラス」という表示の門構えがあり、その奥まったところに白壁の蔵が見える。この蔵は後ほどみる4丁目の横山家の蔵を移築したもので、区民ギャラリーとして利用されている。中には当時の貴重な写真も展示されている。最近新しい芭蕉句碑が建てられた。

 
鮎の子のしら魚送る別かな 

仲町

やっちゃ場通りをすぎると千住仲町に入る。その北詰と千住1丁目の南端
との交差点に3個の石標があるはずだった。まず、仲町側の交差点西角の電柱の傍に高札場跡を見つけた。札の辻ともいわれる町の繁華街の跡である。柱は低く、しゃがみこまねば文字を撮れない。
おなじ仲町側東角にあるべき
一里塚跡はビルの入口らしきところにとめてある数台の自転車に隠れるように、小さな石柱が卑屈にしゃがんでいた。邪魔をしていた自転車の1台をすばやく除けた。後ろにある自転車も動かそうと思ったが、どうも他人の財産に手をつけるようで気がひけて、どうにもならない背景の記録写真を撮ってきた(右)。その後、同じ場所の車道沿いにツツジを添えて付け替えられた。わかりやすい(左)。

残りの一つは1丁目側にあり
「千住宿 問屋場 貫目改所跡」とある。これはちかくの店のおばさんが教えてくれた。
「何か知らないけど、あそこの電信柱のよこに石があるよ」

千住宿場通り

1丁目から北に5丁目まで、およそ1kmの街道筋は、千住宿の中心をなしていた。今は歩行者天国になっていて、甘納豆屋、佃煮屋、あんみつ、など古いたたずまいの店が残っている。銭湯もある。

2丁目と3丁目の境が駅前通りである。3丁目にはいったところ、左側に
「千住宿本陣跡」の標柱があるはずだったが、またしてもすぐにみつからない。しばらくいって、店のおじさんに聞いた。「あそこの100円ショップのとこだよ」

4丁目に吉田・横山という2軒の旧家がある。左手にあるのが千住絵馬屋、吉田家でガラス戸越しに見える看板が江戸の風情を残している。家の前に足立区教育委員会による説明書きがあった。

吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口(じぐち)行灯や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋である。……縁取りした経木(きょうぎ)に、胡紛(ごふん)と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。……」

右手にあるのが紙問屋「松屋」の横山家で、その蔵はプチテラスに移築された。二階の縦格子が美しい。
同じく、説明立て札があった。

「宿場町の名残として伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。……広い土間、商家の書院造りといわれる帳場二回の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。……」

北千住、宿場町通りを北にぬけると、4丁目と5丁目の境の大きな交差点にでる。ここで水戸街道は奥州・日光街道と分かれ、右(東側)の細い道に入る。ここにかっては「水戸海道」と刻まれた古い道標があったが、現在は足立区立郷土博物館(大谷田5-20-1)の中庭に保管されている。


交差点の南西角に立派な板垣家の邸宅があった。
旧日光街道は直進して50mほど先、名倉医院の手前を左におれて国道4号に合流し、千住新橋で荒川を渡っていく。なお、名倉医院の前をそのまま直進して土手にぶつかる道は、日光街道よりも古い下妻街道で、日光街道の東方を北上して喜連川で奥州街道と再び交わる。荒川以北の街道は千住で江戸に向かって一束に束ねられた。

コンクリート堤防に挟まれた隅田川にくらべれば荒川は開放的で明るい。橋の上を五月の風がさわやかに渡り車の排気ガスは気にならない。橋の真中に道標があり
「日本橋まで9km」とある。つまり千住大橋をわたってから宿場をとおりすぎるまで2kmということだった。そんなものかもしれない。橋の上からしばらく真昼の川面を眺めていた。広々とした両岸の河川敷では野球練習場に遊ぶ若者がいる。川辺で釣り糸をたれる一団の頭上には鯉のぼりが泳いでいた。ボートと水上スキーの一組が川を上下している。もう水は緩んでいるか。

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草加

草加の宿は浪人、
大川図書(ずしょ)によって開かれた。あるとき鷹狩にきた将軍秀忠の命を受けて、千住と越谷の間の沼沢地を土、柳の木、茅、葦などの草で敷き固め新しい道を築いた。秀忠はこれを喜びこの地を「草加」と名づけたといわれている。住吉2丁目の新道沿いに大川家の屋敷があり、東福寺に図書の墓がある。

草加宿は、南は草加市役所前の交差点に建つ地蔵堂付近から北は神明神社あたりまでで、この間、新道を避けて旧日光街道が残されている。深川をでた芭蕉は初日の宿をここに求めた。ただしそれは『奥の細道』上の創作であって、実際はそのまま春日部まで行ったらしい。

草加駅東口のロータリー北側に待ち合いコーナーがあって、そこにかわいい少女がせんべいを焼いている像がある。少女の名を
「おせん」という。よくみると襟のついた洋服姿である。女の子が親しそうに平成のおせんの顔を見上げていた。

おせんは、草加宿の茶屋で旅人相手に団子を売っていたが、売れ残りの団子の処分に困っていたところ、茶屋で休んでいた一人の旅人がアイデアを提供した。「どれどれ。団子をうすくのばして乾かし、焼いてみてはどうかな。それだと腐らないし、持って歩ける」。おせんは勧められたとおりに焼いて店に出したところ美味しくできあがり、おせんの「堅餅」は人気商品となった。いつしか草加せん餅という名物に成長する。

せんべいの作り方、おせんのことなどもっと詳しい話を知るには松原団地駅東方の草加市文化会館へ行くとよい。着物姿のおせんに会える。また、
歴史民族資料館にはせんべい、草加宿に関する資料、大川家住宅の復元模型、往時の農機具などの展示があって興味深い。

地蔵堂からしばらくいくと1丁目の角、黒ずんだ旧家の北側に、草加神社の標柱がある。草加神社は旧南草加村の鎮守で、昔は氷川神社と称していた。さらに進むと右手、埼玉りそな銀行の前に、
「日光街道 葛西道」と彫られた標柱がでてくる。草加駅前通りとの交差点の東北角には高さ50cmばかりの小さな「道路元標」が座っている。被写体があまりに低いので、車道にあぐらをかいてしゃがみこんで撮らねばならなかった。

交差点からほどなく、右手に
八幡神社のコンクリートの鳥居が出てくる。鳥居の後ろは細い路地で、よく手入れされたプランター植えの花々で飾られていて、おじさんが網戸を洗っていた。絵に出てきそうな下町の風景である。正面奥には一対の獅子石像が出迎える。神社の敷地内、拝殿の南側に接して町内会館らしき簡素な建物があり、その二階の開かれた窓から女性コーラスの歌声が聞こえてきた。声色からして熟年層と思われる。滝廉太郎の「花」だった。

3丁目交差路の西南角に
三丁目橋親柱が建っている。草加宿は6丁に分けられ、3丁目に橋が架かっていた。現在、橋はなく親柱だけが残ったものである。隣接して身丈ほどの木柱に、「ふるさとの森、歴史民族資料館」とあったのでその方向に歩いていったが、駅前の商店街裏通りに入り込むだけでそれらしきものが見えてこない。フォローアップの案内もなくあたりをウロウロしたあげく土地の人にたずねると、まだ2、300m先だという。入りくんだ住宅密集地の300mは遠い。もうすこし気のきいた案内表示が欲しい。

東福寺の参道の向かいに
「おせん茶屋」がある。駅前の少女の名にちなんで名付けられた公園で、街道沿いに茶店風の休憩所があり、大きな「日光街道」と書かれた標柱が建てられている。奥の広場には高札を模した掲示板や草加宿の絵地図などがあった。
      
長い参道の終わりに四脚門切妻造りの山門が構える東福寺は草加宿の開発者、大川図書が創建したものである。本堂の彫刻欄間はみごたえあるものだった。鐘楼の柱にも彫刻がほどこされている。六地蔵や御影石の五輪塔がならぶ広い墓地に大川図書の墓がある。
      
いよいよ草加宿が終わろうとする旧道と新道の分岐点付近に、草加宿の総鎮守として天照大神を祭神とする神明神社がある。その北側、伝右川の脇に
「おせん公園」となづけられた狭い一画があり、柳の枝に囲まれた密やかな公園にはせんべいに見立てた巨大な石碑が建っていた。大きな文字で「草加せんべい発祥の地」と彫られてある。

記念碑をあちこちに建てるのはいいのだが、なにか計画性に欠ける感じがしてならない。例えば、川辺のせんべい型石碑と、駅前のおせん像を、旧道沿いのおせん茶屋の敷地に集めて、そこを「おせん公園」としないか。公園であるならせめて50歩ほどの散策できるスペースが欲しい。芭蕉の史跡展望公園でも思ったことである。

おせん公園前の新道を横切ると芭蕉像や望楼が建つ
「札場河岸公園」にたどり着く。ここの芭蕉の顔は史跡展望公園の芭蕉より表情があってしまっている。

ここからおよそ1.5kmにわたって綾瀬川に沿った
松並木の遊歩道が整備された。もともと草加宿が日光街道第二の宿となった時、街道沿いには松が植えられ、「草加松原」、「千本松原」として知られていたものである。
一時60数本まで減少したらしいが、現在約600本にまで復活した。最近この遊歩道は「日本の道百選」に選出され、記念に矢立橋の南側に埼玉県を型取った日本の道百選顕彰碑が建てられた。

公園内に、綾瀬川が舟運に利用されていたころの
舟着き場の石段が再現されている。河岸の所有者の屋号「札場」がそのまま河岸の名になった。

遊歩道には道路をまたぐ橋が二つ架けられてある。矢立橋と百代橋で、名はいずれも「奥の細道」からとってきた。矢立橋の階段に愛嬌のあるタイル絵がはめこまれている。

百代橋の南詰付近には「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」が刻まれた橋名碑が、また北の袂には「ことし元禄二とせにや 奥羽長途の行脚 只かりそめに思いたちて……」という、草加の章段が彫られた芭蕉文学碑が建っている。

そこで草加松原の遊歩道が終わる。遊歩道は芭蕉三昧だった。

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蒲生


遊歩道から堤に沿って北に進むと、松並木はまだ樹齢10年程の若い桜並木に移る。1990年ころ、川の西岸に沿って数キロの桜並木が整備された。桜並木が国道4号線を横切るまでに綾瀬川を渡るいくつかの橋がある。そのうちの一つが蒲生大橋で、昔は大橋土橋といって綾瀬川をまたいで日光街道を足立郡(草加側)と埼玉郡(越谷側)につないでいた。足立郡側のたもとに高浜虚子の句を彫った銅版がはめ込まれている。

 舟遊び 綾瀬の月を 領しけり

橋をわたった埼玉郡側にこんもりした木の陰に隠れるように愛宕神社が座っている。ここが
蒲生の一里塚で、埼玉県内では日光街道に残る唯一の一里塚である。ヤマブキ色のコスモスが満開だった。橋のたもとでおじさんについて散歩するコリーがいた。鎖をつないでいない。
「かわいいですね。まだ小さいな。2歳くらいかな」
「6歳です」

一里塚の南側に古い二階建ての建物と、大谷石造りの蔵がならんでいる。藤助酒造の主家と蔵で、その道向かいに、同家の寄贈によって復元された藤助河岸が、綾瀬川水運の全盛時代を語り継いでいる。説明板によれば、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、この河岸で高瀬船に積み替えられて東京に出荷されたという。今、河岸は格好の釣り場となっていて、老若入り混じった釣り人が我慢大会を展開していた。

一里塚の前の道を北に進むとやがて蒲生本町交差点の手前右手に清蔵院が出てくる。山門の中央を見上げると金網に覆われた竜の彫り物があった。標札によると、山門は寛永15年(1638)の建立で、日光東照宮造営に動員された関西の工匠が建てたものだろうという。欄間の竜は左甚五郎の作とも言い伝えられ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことからこれを金網で囲ったという。金網のせいで由緒ありそうな龍の彫刻はよく見えなかった。

その三叉路で、草加市役所手前で別れた国道4号線と再会する。一里塚からここまでの道を
「蒲生茶屋通り」といった。昔、綾瀬川を高瀬舟が忙しく行き来していた時代、藤助河岸に集まる農民、商人、舟人、旅人などをもてなす茶屋が並んで、活況を呈していた。

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越谷

越谷市街の手前瓦曽根で旧国道を逸れて左の旧街道に入る。交差点の東側に
照蓮院が見える。創建は定かではないが、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤の子長慶が、天正10年(1582)武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居し、千徳丸の早世後照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝えられ、秋山家墓所には「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が立っている。

旧市街地の商店街を北に進む。いくつかの人形店がめにつく他、古い土蔵や縦格子造りの商家も散見され、特に中町には宿場町の面影が濃く残っている。越谷産業会館前で今も荒物を営む鍛冶忠商店は屋根からひさし暖簾まで黒々とした店構えだ。隣の塗師屋は、黒漆喰土蔵の袖蔵を配して二階と一階の千本格子が見事に美しい。これだけの街並みを残しながら、北千住や草加のように宿場を意識した街造りの様子がみえないのは不思議だ。越谷は芭蕉との絡みにかけているからでもあるまい。

宿場の北端を元荒川がながれる。右には旧国道(県道49号)がわたる
元荒川橋が見える。その下流に、休息がてらの素敵な周遊散歩コースをみつけたので紹介しよう。元荒川橋と500m下流に架かる宮前橋の間の元荒川両岸を一周する。元荒川橋を除いて、車はほとんど通らない。人もあまり歩いていない。そこに寺社旧跡と中州の水鳥サンクチュアリーが準備されていて、足の疲れと気分を安らげるには格好の場所だと思う。

まず南岸土手を歩いて
越谷御殿跡をたずねることにした。途中、川中の木舟に黒子のような鵜が空をみあげた恰好でビタとも動かずにとまっているのを見た。片足を上げるか首くらい振るだろうとこちらも足を止めてみつめるのだが、一向にうごかない。上空をカラスが飛び交っているので、カラス脅しのカカシではないかと思い始めた。時間にすれば5分くらいだったろうか、ようやく右の一羽が水面まで首をのばして嘴を突っ込んだ。水を飲んだのか、魚を捕ったのかわからない。300mm望遠でも物足りないくらいの距離があった。鵜をみるのははじめてである。

越谷御殿跡は葛西用水(逆川)が元荒川と交差する場所にある。川筋は交差してもまさか水の流れまでが横切るわけではなかろう。北岸には水門があった。御殿については案内板にまかせる。早咲きコスモスの横に石柱が立っているだけだ。敷地は
元越谷宿本陣を勤めた会田家のもだった。用水にそって住宅地を奥にはいると左手に大きな会田病院がある。

 元荒川はここで90度に曲がって葛西用水と並行して南下する。市役所東の新平和橋は両川が眺められるオススメスポットだ。川にはさまれた土手はジョギング、自転車、散歩を楽しむ市民のいこいの場所になっている。葛西用水の西岸は柳並木がつづき、東川辺は花菖蒲のみごとな公園である。
 6月のある朝、花菖蒲の写真を撮りたくてやってくると、大勢の人だかりだ。6時半になると突如ラジオの音楽が放送され、朝もやの土手でラジオ体操が始まった。
なお、葛西用水は相模町で3方に分流され、元荒川は用水の一部を引き継いで、中島で中川に流れ込む。

朱塗の宮前橋をわたる。2年前に再建されたばかりで、車両通行禁止となっている。渡ったところから
久伊豆神社への500mほどもある長い参道が始まる。緑深い森の中を歩くあいだ、カラスと蝉の合唱・斉唱・輪唱のあらしが狂いまくった。セミはまさに命がけだから同情できるがカラスはどうしてこうも憎まれることばかりするのか。社殿の手前で回廊のような藤棚が池のほとりにくまれている。枝は東西20m、南北30mにひろがる樹齢200年の大老樹だ。5月初旬は濃紫のしだれ花で壮観だろう。

西隣に文明10年(1478)の開山となる
天嶽寺が朱色の砦門を構えている。古くは小田原北条氏の城砦であったといわれる。川辺の参道入口に庚申塔、道標供養塔などが5基ほど集められていた。「南こしがや 北 いわつき」と読めたが、北のもひとつがわからない。刻字を木の枝でなずって土をとり、手のひらで砂埃を落として撮ったのだが、ひらかなが読めないのではしかたがない。

旧街道にもどり、大沢橋で元荒川をわたる。街道は大沢商店街となって駅は「北越谷」に近い。ベッドタウンとして発展した北越谷と、JR武蔵野線との乗り継ぎ駅として利用客が多い新越谷の狭間にあって、本家越谷は分家より影がうすくみえる。

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春日部

春日部市内にはいって、武里駅南東の交差点手前に、松の大木が昔の松並木の生き証人のように立ち永らえている。歓喜院手前の大枝香取神社境内にあるものだ。

春日部市内、一宮交差点の北西角に
東陽寺がある。交差点をそのまま北上するのが4号線で、西におれていくのが旧道である。駐車するには4号線側から入るのがよい。深川を発った芭蕉はその日のうちにここまできた。日本橋より九里余り、およそ38kmの地点である。

境内の本殿前に、曽良の随行日記から
「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」の一節が刻まれた碑が建てられている。また、旧道側の山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」と彫られた標柱があった。山門前の入口には車止めかあるいは駐車防止のためか、標柱を隠すかのように柵が横たわっているため見逃す危険がある。

旧道は道幅も広く町並みも新しい店が多く古い面影がない。いぶかしげに車をゆっくり進めると、駅入口の粕壁東1丁目三叉路に白壁の堂々とした蔵造りの旧家(田村本店)が見えてきた。建物の正面左手の歩道には、昭和のシンボルのような赤い郵便ポストが目立っている。反対側には一個の石柱があった。車を止めて近づくと、天保5年(1834)製の古い道標であった。「東江戸 西南いわつき」とある。西南岩槻とは、日光御成街道に出る道なのであろう。この辺りが粕壁の宿の中心であったと思われる。

春日部駅入口交差点を過ぎ、新町橋西交差点を右折して工事中の新町橋で大落古利根(おおおちふるとね)川を渡る。

すぐに左折するとまもなく道が二手にわかれる。ここは旧関宿往還との追分で、右は小渕南交差点で国道4号と交わり、そのまま北上して関宿に至る県道319号である。左は国道4号に合流する。その分岐点手前に
小渕一里塚の跡地を示す石標があった。追分には「左日光道」彫られた道標がある。隣りにある小さな自然石には「左方阿ふ志う(奥州)道」と刻まれている。
この一角は長い黒板塀に囲われた屋敷に鬱蒼とした木々がしげり、旧宿場町の名残が濃い。

市内には東陽寺の他にもう一ヶ所、芭蕉の宿泊地と伝えられる寺がある。小渕交差点から100mくらい行った所の左側にある、
小渕山観音院という鎌倉時代の建立と伝えられる古刹である。70歳を越えると思われる老住職がゆったりと、桐色に白けた本堂の戸や板壁を雑巾でなでていた。

山門は金網で囲われ、その中で一人の大工が修理工事に汗を流していた。両側に仁王が立つ。肌は色褪せ、もがれた片腕が痛々しい。なぜか顔が怒りよりも苦痛に歪んでいるように見えた。畑とも庭とも区別がつかない一画に
芭蕉の句碑があった。

 
ものいえば 唇さむし 秋の風

芭蕉がここで泊まったことを示唆するような標識は見当たらなかった。

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日光街道 1



日本橋−浅草千住草加越谷春日部(粕壁)
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日本紀行

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