仁連(にれい)

山田十字路で県道54号と交差する。交差点の北東角のブロック塀窪みに大きな石碑が隠れていた。史跡ではなく
歌碑のようで、表面には「筑波嶺の男女の 流れ 千代かけて 渡し結ばむ 縁のかけ橋」と刻まれている。裏面には八俣(やまた)村の発起人の名が連ねられている。40名ほどある発起人の中で「鈴木」姓が圧倒的に多かった。八俣(やまた)村は明治22年(1889)、山田村・東山田村・北山田村・谷貝村・長左衛門新田が合併して成立した。地理的には筑波山のほぼ真西約30kmにある。歌碑建立の由来は記されていない。粋人の記念碑か。

左手に立派な長屋門を構える農家がある。右手にも長い塀を巡らせた民家があって屋敷林の大木は街道の目印として十分に空高く聳えている。

街道は直角に右折して仁連の旧宿場街に入っていく。街道をはさんで右に東漸寺、左に妙厳寺がある。

すぐ先左手に塀で囲まれた奥に四脚門が凛として構えその背後に
鈴木本陣跡の家がひっそりと建っていた。無人のようすである。右手の曲屋は式台を備えた立派な玄関で本陣の風格を留めている。当主は山田十字路にあった歌碑の発起人鈴木氏の一人であろう。

街道は県道17号を北上して三和庁舎西信号の先で諸川に入る。

トップへ


諸川

諸川小学校周辺に一里塚があったというが痕跡はない。諸川信号で交国道125号を横切ると諸川旧宿場街である。
左手
向龍寺には室町時代の板石塔婆が多数残されている。

その先信号丁字路前後の200mほどが宿場の中心だったのか、土蔵をふくめた古い家並みが続いている。

右手
染谷商店は大正7年の創業で黒漆喰壁の重厚な蔵店である。「下総国諸川 米穀肥料」と金文字屋根看板が老舗を誇る一方で、一階のガラス戸に貼られた「英会話教室」「留学相談無料」の張り紙が時代の変遷を象徴していた。

左手奥まったところにある中村家が諸川宿本陣を勤めていた。住宅はモダンな建物で本陣の面影は留めていない。

街道沿いの電柱に
「小林藤兵衛商店」の看板が掛かっている路地の奥に長屋門が立ちはだかっている。左手には土蔵が建ち長屋門の内部をうかがうと広大な屋敷が続いていた。脇本陣の小林家住宅である。清酒茂ろ川の蔵元だったが廃業した模様である。街道に面して立ち並ぶ重厚な黒壁蔵造りの店舗と立派な門塀の奥に小林家の本宅屋敷がある。

小林家の道向かいに構える「昔しょうゆ」の幟を立てた格子造りの
大橋醤油店は江戸末期創業の老舗である。趣きある店の中をドア越に覗こうとしたら自動ドアが開いて、半被を着た女店員から「いらっしゃいませ!」と元気な声がかかってあわててしまった。

小林家の横の三和諸川郵便局も蔵造りである。小林家の蔵の一棟なのかもしれない。

その北隣にも薬医門に長い塀をめぐらせた屋敷がある。古河市との合併当時の三和(みわ)町長
舘野家である。間口も奥行きもながい広大な敷地である。ここまで通ってきた日光東往還の宿場のなかで諸川のこの一角は突出した存在感を示していた。

西仁連川手前右に旧道がのこる。右手に大きな記念碑と大洪水位石標が地中から頭だけを出している。県道17号で宝来橋をわたると結城市に入る。右手に残っている旧道はすぐに県道に合流する。

トップへ


武井

橋を渡ると七五三場(しめば)集落である。七五三(しめ)は注連縄に由来する。珍しい名だ。坂を上った丁字路角に
馬頭観音がある。かなり痛んでいてよく読めない。

七五三場はしっとりとした感じのよい家並みである。左手、音楽教室の看板を掲げた家は立派な門塀を構えている。その先の民家は大きな煙だしを乗せた土壁造りの趣きある建物が目を引く。

公民館のあるバス停脇に3基の石塔がならんでいる。右は七五三村女人講中による延命観世音塔で、中央は寛政6年(1794)建立の十九夜供養塔が平成11年に再建されたもの。左の大きな石碑は不明。

街道は北南茂呂で県道124号と交差する。すぐ左手道端に
二基の石碑がある。ともに何だかよくわからない。

資料によると右手に一里塚跡があるとのことで注意して歩いていったが、結局何も見つからなかった。

右手にしもふさ東部CCをみて県道54号を横切る。この交差点は「大戦防」という。意味ありげな名だが、昔は「台仙坊」「大仙坊」などと書かれていたものが、明治時代に現在の当て字がつかわれるようになったとか。この場所は小高い丘で、かって南西角に「遠見の松」があった。樹齢350年、高さ20mの大木は街道の目印となっていたが昭和33年老朽のため伐採された。

武井集落にはいっていくが家並みは概して新しい。宿場の中心は
泰平寺跡の前あたりで高札があった。現在は街灯に「武井公民館」(武井集落田園都市センター)の標識がかかる一角に地蔵、十九夜塔がブロックで囲まれてある。半鐘が立つ路地をはいっていくと旧泰平寺墓地に戊辰戦争で戦死した二人の官軍兵士の墓がある。「官軍」の文字が認められるが他は判読しがたい。その墓以上に立派な墓が「武井家」、「斉藤家」の先祖代々墓である。武井家は本陣、斉藤家は問屋を勤めた家柄である。

武井家宅は公民館の道向かいで長いブロック塀が廻らされた広い敷地である。建物は新しく本陣往時の姿を感じさせるものはない。

問屋の斎藤家は武井上(ふじや前)バス停隣りに長屋門を構えている。門は太い白木材が使われ、打ち込まれた鉄鋲が歴史を感じさせる。

集落の北端近くで左の路地をはいっていくと、切り開かれた土地との交差点に
「歴史街道鎌倉街道」の立て札を見つけた。左におれて鎌倉街道を道なりにすすむと集落の西縁に出た。農道を南にたどっていくと熊野・香取神社にたどりついた。

鎌倉街道の標識にもどり北に進むと畑の向こうに
大日如来堂が見える。近づくためには鎌倉街道からすこし県道側にもどった十字路を北にはいらなければならない。かろうじてアクセスが残された程度に孤立している。


トップへ



結城

県道を北に向かい田間集落にはいる。右手に豪壮な長屋門を構えた家がある。池田家住宅で裏にまわってみると門や白壁土蔵がみられ大きな屋敷である。

上生集落にはいるろ右手竹やぶにこんもりとした土のふくらみがみえる。一里塚跡で、板切れが落ちていた。どうやら
一里塚跡を示す朽ちた標識のようであった。

すぐ先左手のゴミ収集所前に二基の
十九夜塔が並んでいる。如意輪観音の思惟ポーズがいかにものどかで、風景に溶け込んでいる。

作ノ谷交差点で県道292号を横切る。角に
岩崎家の堂々とした長屋門がある。黒漆喰塗りで重厚な造りだ。重要建造物であって不思議ないようだが特段の説明板もなかった。 

国道50号を横切り旧道は城南小北交差点からすぐ先で県道17号を左に分けて右手の吉田用水に沿って結城宿にはいっていく。大橋町交差点で用水路を離れJR水戸線の踏切をわたる。右手の
称名寺は鎌倉時代の開基で結城家初代朝光の菩提寺である。室町時代のものといわれる山門をくぐると左手に結城朝光の墓がある。参道両側に建っていた石燈篭が倒壊していた。東日本大震災がここまで及んでいる。

街道は突き当たりを右折して結城宿内を巡る。角に構える清酒
「武勇」蔵元保坂酒造の見世蔵は江戸末期の建築である。煉瓦煙突も健在で、周りをまぶしく光る白壁の酒蔵が取り巻く。壁、屋根ともに新しく見える。

結城は古い建物が多く残る町であるが、多くは明治時代のもので蔵造りの商家も川越ほどには重厚でない。結城紬の問屋として財をなした豪商の見世蔵が多い。結城宿場めぐりはこれらの蔵めぐりと言ってよい。

駅前通りとの交差点手前左手に明治41年築の会津屋本店、交差点を右におれたところに甘酒を売る
秋葉糀味噌醸造は天保3年(1832)の老舗だが建物は道路拡幅のため正面間口を一間半切り取られた悲運を負う。

結城地方の総鎮守、健田須賀神社をみて浦町交差点を直進、突き当りを左折した先の信号交差点右手に結城町道路元標がある。反対角に不動尊堂と二十三夜塔がある。この通りの見世蔵並は圧巻だ。最初が明治中期建造の
キヌヤ薬舗である。庇下の板看板に「六神丸」の名を見つけた。日野からやってくる薬屋が置いていく常備薬で、私も子供の頃服用したものだ。小粒だが苦い漢方錠剤である。元祖亀田家は甲賀出身の近江商人で、京都で呉服商を営んだ後薬業に転じた。

隣りは結城随一の豪商、
結城紬問屋奥順の店舗と見世蔵である。明治40年創業、屋号は2代目社長奥澤順一の名から来る。つむぎの館も奥順の所有である。最近結城紬はユネスコ世界無形文化遺産に指定された。一筋北の通りからつむぎの館に入る。奥順の土蔵、「鳩子の海」の舞台となった離れを含む数棟からなるコンプレックスで、土産売りや草木染め・はたおりが体験できるコーナーもある。ザーッとみてまわるだけにした。

ここからすこし離れているが結城が城下町でもあったことから城跡を見ていかねばなるまい。結城小学校前から県道204号で川をわたり右にカーブしたところの左手に、
玉日(たまひ)姫の墓なるものを見つけた。親鸞の妻となった女性の墓で、立派な宝篋印塔が建てられている。

城跡は公園になっており何の遺構も残っていなかった。

街道にもどる。旧道は大町交差点を右折して結城宿を北にぬけていくが、交差点をそのまま西にすすんで追分道標と結城酒造を見ていくことにした。

道は木町交差点で曲尺手になっている。木町の名はここに木戸があったことに由来する。つきあたりの毘沙門天山門脇に二基の石燈篭があって、左の燈篭台石には
「向、水戸海道」、右には「 右 小山 左 さかい」と彫られている。水戸海道と小山をあわせて水戸―小山間の結城街道を意味し、境は日光東往還を指している。ところでここの燈篭も頭の部分が砕け落ちて痛々しい姿であった。

小山道にはいった右手に安政時代創業の老舗
結城酒造がある。裾を朽ちらせた縦板塀が古い歴史を感じさせる。屋根が大きくブルーシートで覆われ職人が痛んだ主屋を修理中であった。煉瓦煙突がその後ろに何事もなかったように頭を出している。

大町交差点にもどり県道35号を北に向う。
次ぎの交差点角にある渡辺菓子店、向かいの福井薬局ともに趣きある建物である。福井薬局の漆喰壁が大きく剥がれているのも地震のせいだろう。

街道の両側に建つ蔵造りの建物は
中澤家の店舗と主屋である。中澤家はこの地の大地主で肥料を商った後結城紬の卸商として栄えた。

小さな曲尺手の先に立派な楼門を構える
安穏寺がある。天平宝字年間(757〜765)に下野薬師寺の祚蓮律師が開祖といわれる律宗の古刹である。室町時代初期の応安4年(1371)に結城家8代直光が源翁心昭を会津示現寺から招き禅宗に改修し中興開山した。源翁禅師は、九匹の狐が化けた那須野ケ原の殺生石を砕いて石にこもる妖狐のうらみを封じたことで知られる。それ以降石を砕く槌をゲンノウと言うようになった。

左に分岐する県道147号、右におれていく県道35号とわかれて旧道はそのまま直進して細道にはいる。神明神社の向かい、水川商店の裏手に
一里塚が残っている。個人所有の畑地になだらかな盛り土が認められた。

道は新しい住宅街を通り抜けて水路沿いのフェンスで行き止まりとなっている。その先をみると水路の右側に土の道が続いている。これが旧道だろう。水川商店まで引き換えして県道147号に出、神明橋を渡ってすぐに右に分かれて吉田用水沿いの道をとる。300mほどすすんで用水をわたり先に見た土道をいく。右にも用水(結城用水)があらわれその間を縫う細い道だ。土手道のようでもある。結局車道に出て左折、神明橋で分かれた道に合流した。どうやら考えすぎでこの道は旧道ではなさそうだ。

トップへ



多功

五叉路を右折して県道146号に合流、栃木県小山市に入る。

大規模な工業団地を通り抜ける。やがて小山市から下野市に入り田園風景が広がるようになる。県道44号をよこぎって仁良川地区に入る。ここに秋田佐竹藩の陣屋があった。陣屋跡は右手、ブロック塀内のプレス工業仁良川寮だという。街道からは普通の民家の家並みを見るだけである。

街道沿いに重厚な長屋門や四脚門を構える農家が見られる。

仁良川下公民館の周囲には
宝篋印塔や十九夜塔、薬師堂が集められて集落の古い歴史を感じさせる一角をなしている。

満福寺の山門左手に樹齢300年といわれる椿の大木がある。3月には無数の花を咲かせるという。さぞかし壮観であろう。

右手に愛宕神社をみて道は鍵の手状に折れていく。この先薬師寺南信号で新4号バイパスに分断され、先の二股で旧道が復活する。左の旧道をすすみ突き当たりを右折して県道146号にもどる。

薬師寺集落の中ほど、信号丁字路を右にはいったところ、薬師寺小学校の北側に
龍興寺がある。白鳳8年(680)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院である。安政7年(1860)再建の本堂脇には樹齢500年樹高20mというシラカシの大樹が茂り、その下に道鏡塚がある。説明板は極めて道鏡に対して極めて好意的であった。歴史では平城京の終焉をもたらした怪僧とされている。

県道に戻る。郵便局手前右手に薬師寺村道路元標があった。
県道310号との交差点手前左手に立派な門塀を構え、まるで大名屋敷のような野口家邸宅がある。薬師寺村では春と秋に馬市が行なわれ、はるばる奥州から馬主が馬を曳いて集まってきたという。
野口家とその道向かいの大門家はかっての馬問屋だといわれる。

交差点から400mほどすすむと右手に薬師寺八幡宮、左手に安国寺
薬師寺跡がある。このあたりは古代東山道の道筋である。東山道は下野国府から東にすすみ、ここで北に方向転換して次ぎの駅家、田部駅(上三川町上神主)に繋いでいた。日光東往還がほぼその道筋に近い。

薬師寺八幡宮は9世紀にまで遡る古社で、現在の社殿は寛文2年(1662)に再建されたものである。彩色豊かで古さを感じさせない。天喜4年(1056)源頼義が奥州追討の途中に立ち寄って戦勝を祈願した。

下野薬師寺は奈良の東大寺、九州の筑紫観世音寺の戒壇院と共に日本三戒壇と呼ばれている。
六角堂はその戒壇跡だとされる。広い敷地には回廊が復元されていた。下野の古代を偲ばせる土地である。

県道を一路北上し、下野市薬師寺から河内郡上三川町多功に入る。この道は古代東山道の道筋に当っている。下多功信号で国道352号を横切る。下多功バス停の後ろに大きな
長屋門がある。この街道では実に多くの長屋門を見かけた。

街道が右にまがったさき右手に宝光院がある。

その先左手に建つ門構えの家が
本陣兼問屋を勤めた谷中家住宅である。

谷中家の直ぐ先の信号を右に行くと左手、石橋ゴルフガーデンの標識が立つ路地をはいると駐車場脇に
多功城跡がある。1248年、宇都宮頼綱の四男宗朝によって築城された。 以降多功氏を名乗り15代にわたって宇都宮氏を支えてきた。土塁や堀跡が残っていたがゴルフ場建設のために城の遺構の大半が破壊された。石碑の足元にわずかに石垣の残骸が置かれている。

街道にもどり県道をひきつづき北上する。沿道風景はしだいに市街化してくる。天神町で道幅が広くなる。左にはいるとJR東北線石橋駅だ。天神町をすぎるとまた地名は多功にもどり道は細くなる。石橋駅入口近辺だけ広くしたようだ。

街道は線路にかぎりなく接近してシーボン工場の先で地下に下りて信号を左折、JR 東北線・新幹線をくぐって日光街道(国道4号)に出る。200mほど北にすすんで星宮神社の向かいを右折すると線路際から復活している旧道に交差する。その十字路を左折し、パチンコ屋イクサムの駐車場縁を通り抜け左にまがって国道4号(旧日光街道)に合流する。

目の前を北関東道が横切っている。合流地点は日光街道でいえば石橋宿と雀宮宿のほぼ中間点にあたり、辺りに家並みもない。道標も案内板もなく、街道踏破の達成感が沸いてこない。

下総台地の官牧地、利根川東遷の原点、結城紬のふるさと、古代東山道跡等、日光東往還には古の風景が目立たぬ姿で残されている。結城を除き、控えめな度合いは北に進むほど強かった。

(2011年1月)

トップへ 前ページへ

日光東往還(2)



仁連−諸川武井結城多功
いこいの広場
日本紀行

前ページへ