佐倉(成田)街道(2)



大和田(八千代)臼井佐倉酒々井成田寺台

いこいの広場
日本紀行

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大和田(八千代)

国道296号線は大和田新田を通り過ぎる。ここが大和田宿の場所だが、旧街道の香りはかすかにただようものの、宿場街であった痕跡を求めることはできなかった。後で知ったことだが、大和田新田の信号をこえてすぐに左にはいる道がある。東葉高速鉄道八千代中央駅の西側をとおって城橋で新川をわたり米本城下へ通じる道である。この丁字路角に立派な道標があった。都合により今、市立郷土博物館の前庭に保管されている。説明板によれば、いずれは元の位置に戻るらしい。

隣村の萱田(かやだ)にある長妙寺に、なぜか江戸の大火で火あぶりの刑となった八百屋お七の墓があった。白山円乗寺のお七の墓に比べて規模がおおきく、また黒御影石の墓碑をはじめ新しい。なんでも、お七は現在の八千代市に生まれ、江戸本郷の八百屋徳兵衛に養女として迎えられたのだという。天和3年(1683)、火あぶりの刑に処された時、実母はこれを悲しんで密かにお七の遺髪を受け取り、長妙寺に運び、妙栄信女の戒名を授与された。

道は下り坂となって谷間を流れる新川を横切っていく。途中、大和田坂の左手の小高い森に
時平神社があった。大和田にはここのほか二か所に同じ時平神社がある。祭神の藤原時平(871〜909)は平安前期の公卿で、時平が左大臣のとき、右大臣菅原道真を失脚させ九州大宰府に流した実力者である。当地には「昔、治承年間、藤原時平の子孫、藤原師経、師長一族郎党が難船して久々田(習志野市菊田)に漂着し、のちに深山(船橋市三山)に移り、二宮神社の神主として定着した」という伝承がのこされており、当時この地方に広大な荘園を領有していたのであろう。

新川をわたった下市場で成田街道は国道16号線と交差する。左折1.5kmほどいったところに郷土博物館がある。先ほどの道標をはじめ、館の内外に多くの石碑類が保管されている。本来の場所に残しておいてほしい気もするが、エジプトやギリシャの美術品の多くがパリやロンドンに残っていることを思えば、ましかと思える。オシドリ伝説が伝わる近くの
正覚院に立ち寄った。新川に近接して土塁、空堀の跡がのこる中世の館を思わせるたたずまいである。

国道16号をさらに北にいくと米本城址に至る。千葉氏の家臣である村上国綱、綱清父子が16世紀半ば中世の館跡に築いたが、寿命は短く、里見軍にやぶれて落城した。周囲には上宿、中宿、下宿という地名がのこっており、かって城下に宿場があったことをうかがわせる。

成田街道にもどって勝田台駅前を通り過ぎると佐倉市にはいる。県道155号線が右に出る井野交差点手前に、昔「林屋」という茶屋があった。今は「アメニティハイム21」というマンションの一階をかりて中古車ディーラーが店を開いているがその正面に車にはさまれるようにして常夜燈や道標が身を寄せ合っている。林屋は近くに湧く清水を振舞って客に喜ばれた。

なかでも当時の佐倉城主加賀守が愛飲するところとなって、いつしかその清水は
「加賀清水」と呼ばれる余蘊あった。マンションの手前の路地をはいって付き合ったところに小さな親水公園が設けられている。水に動きがみられないようであり、今も清水が湧き出ているのかわからない。

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臼井

大和橋で新川をわたって勝田台、志津駅を通り過ぎても町並みはますます郊外住宅地の様相を深めるだけで、街道筋をはずれているのではという不安はユーカリが丘のエレガントでファンシーな駅前スカイプラザを通り抜ける頃には最高に達した。都心から離れるにつれてますますモダンなベッドタウンが開発されている。上座公園を過ぎ、坂を下って手繰橋を渡ったところで国道296号をはなれ、左の旧道に入ってようやく気分が落ちついた。ひどい渋滞から開放されたせいもある。

ここからのぼっていく細い坂道は成田街道の内で最大の難所といわれた所で、臼井台とよばれる印旛沼を望む台地の東側に臼井宿場が形成された。坂を上りきった丁字路正面に文化3年(1806)に建てられた道標がある。左側面に「西 さくば道」、正面に「右 成田ミち」、右側面に「左 江戸みち」と刻まれている。周囲は新しい住宅街で旧道の気配はないが、ここまで上ってきた道が江戸道で、ここを右折していく道が成田道、つまり旧成田街道の道筋であることが確認できた。

左200mほどのところにある実蔵院をみ、逆戻りしてすみれ保育園の路地をはいって
雷電為右衛門の碑をたずねた。
妙覚寺の境内に身長2mもの等身大の史上最強名大関雷電が立っている。当時はまだ横綱という位はなく大関は力士の最高位だった。生涯記録は幕内21年間32場所で、254勝10敗、勝率96%というからすごかった。雷電は信州のうまれだが、巡業か成田詣での途中でこの宿場に立ち寄ったとき、甘酒お茶屋の娘おはんを見初めて結婚した。晩年はしばらくここにも住んだという縁で、建てられたものである。

台地の頂上に
臼井城址がある。14世紀中頃千葉氏の一族臼井興胤の代に城の基礎がおかれたと伝えられる。臼井氏は12世紀はじめから、16代にわたって約450年間、この地の領主であった。その後臼井城は原氏や徳川家康の部将酒井家次の居城となったが、文禄3年(1593)の火事によって城郭は焼失してしまった。
城跡は本丸、二の丸を中心として、空堀、土塁等を残している。印旛沼をみおろす位置にあって、入日の景色が素晴らしいという。

「城嶺夕照」として臼井八景の一つに数えられる名勝である。

  
いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡
 
急な坂を下りて国道296号線に合流し、左にすすむとすぐに中宿の丁字路にぶつかる。左角に臼井町の
道路元標と「明治天皇臼井行在所」の碑が集められている。このあたりが宿場の中心地だったのだろう。道路元標の説明は福島市でみたものよりもさらに詳しい。

「明治6年に新政府は諸街道の正確な延長を調査するため、道路里程調査を行った。東京は日本橋、京都は三条橋をもって、国内諸街道の元標とし、各府県へ里程を示す木標を立てるように命じた。やがて大正11年には内務省令で、道路元標の設置場所、規格、材料まで細かく規定し、各市町村の枢要な場所に元標が設置されるに至った。尚、この元標は道路新設のため、向かって右側約7米の地点より現在地に移設されたものである。」

現道路元標の向かって右側が町の中心地だったということは、宿場は296号沿いではなく、県道64号に沿っていたものと思われる。

中宿交差点から京成電鉄の踏み切りを渡った三叉路に
道標と石仏が並んである。文化3年(1806)道標の正面には「西 江戸道」、右側に「南飯重生ケ谷道」、東側に「東 成田道」とある。文化3年といえば雷電碑付近にあった道標とおなじ建立年だ。ここより船橋方面を江戸道といい、ここから成田方面を成田道とよぶ慣わしもおなじだ。右隣の石碑には仏像の下に「さくら道」と彫られている。左の道標より古いもので、当時は「成田道」でなくて「佐倉道」とよばれていたことは興味深い。

この道標の前を左折してすぐ右の坂をあがった場所に時宗光勝寺がある。「臼井八景」の一つで「光勝寺の晩鐘」として知られている。

  
けふも暮れぬ あはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん


国道はゆるやかな上り坂をなし、やがて竹林のきり通しにさしかかる。江戸時代ここに江原刑場があった。左の藪中に南無妙法蓮華経と彫られた大きな供養碑が建っている。南千住小塚原刑場がそうであったように、ここでも佐倉藩の蘭方医が刑死者の遺体解剖を執行した。

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佐倉

佐倉道の国道296号は鹿島川をわたっていよいよその目的地、佐倉城下町にはいっていく。右手に大きく入口を構えるのは田町門跡から国立歴史民俗博物館に通じる道で、城はその奥の鹿島台地に鹿島川とその支流高崎川を外堀として築かれた。起源は、後期戦国時代築城半ばで廃された鹿島城にさかのぼる。これとは別に、下総の支配者であった千葉氏が千葉から居城をこの土地に移して本佐倉(酒々井)に本佐倉城を築いた。そこが佐倉街道の終着点になる。

豊臣秀吉の小田原攻めで、北条派であった千葉氏の本佐倉城も落城、やがて徳川家康が江戸に開府した後、老中土井利勝が慶長16年(1611)に佐倉に封ぜらる。土井利勝は家康の命で鹿島城跡に大規模な
佐倉城を完成させた。土井利勝は24年間在位し、その後古河藩に転封して大老の職に上がりつめた。以来佐倉城は、小田原や川越と共に徳川譜代の有力大名が城主として封じられた。それらの中には老中など幕府の要職についた人物が多く、「老中の城」ともいわれている。中でも堀田氏は5代126年間続き、幕末期の藩主堀田正睦は日本を開国に導いた開明的な老中として有名である。オランダ医学を藩に導入したのも正睦だった。

城は明治の初めに天守閣をふくめてすべて取り壊された。北側に昭和58年国立歴史民俗博物館が開設され、本丸を含む南側は城址公園として整備され、市民に憩いの空間を提供している。本丸には、天守閣・銅櫓・角櫓があり、一の門・二の門・三の門・大手門がほぼ一直線上に配置されていた。本丸跡には子規の句碑がある。明治27年(1894)本所−佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉にやってきた。

 
常盤木や冬されまさる城の跡

公園の散歩道は三の門跡、大手門跡を通り過ぎて宮小路にでる。丁字路に佐倉の総鎮守、産土(うぶすな)の麻賀多(まかた)神社がある。社殿は天保14年藩主堀田正睦公が再建したもの。正面の道を「武家屋敷」の標識にしたがって道なりに坂をおりて袋小路の裏側にまわると閑静な鏑木小路にでる。このあたりに
武家屋敷がならんでいた。明治になってもそのまま軍人屋敷として使われた。

現在三軒の屋敷が並んで保存されている。手前から「川原家」、「但馬家」「武居家」で、それぞれ禄高に応じた居住の制に従い、大・中・小屋敷を代表している。居住の制は建坪の広さだけでなく、門・玄関・畳の種類まで決められていた。たとえば門は大から小へ、「長屋門」、「腕木門」、「木戸門」と格が下がる。また畳表は大・中は座敷に近江表、そのほかは七嶋表、小屋敷は座敷でも近江表は許されなかった。近江表は近江八幡の特産品である。

河原家の古色深い台所で、皿にのせられた二匹の秋刀魚だけが、青い背に焦げ目をのこしてやけに生々しかった。

寄り道をさきにすませた。旧街道の宿場入口にもどる。国道296号は国立歴史民俗博物館入口交差点を通り過ぎ、市役所下三叉路で右折して坂を上がっていくが、旧道は三叉路手前の巴屋菓子舗の前で濠にそって右にはいり、すぐに左折して茅葺屋根の民家がのこる田町をすすみ、坂を上がって市役所前で国道と合流する。海臨寺のまえあたりから並木町にはいり、宿場町の面影が色を濃くしていく。

吉田書店をすぎて新町丁字路交差点で旧街道は直角に左折する。丁字路の正面に電柱や現在の道路標識にまじって石柱の佐倉町道路元標がたっている。直進してつぎの丁字路を右に入ったところが、さきに城址公園から下りてきておとずれた麻賀多神社である。直進する新道も、左折していく旧街道もともに国道296号とあるのでややこしい。どちらかにできないか。ここから次の鉤形がある佐倉新町局あたりまでが宿場の中心街であったと思われる。京成・JR佐倉両駅のほぼ中間にあたり、いまも新町通りは一番の繁華街のようだ。中ほどに「仲町」の旧町名標があった。

佐倉新町局をすぎ今津屋の角で左折して蘭学通りにはいる。途中、厚生園入口交差点を南に下りて
旧堀田邸によった。厚生園とは「佐倉ゆうゆうの里」にある老人ホームの名前である。広々として緑豊かな閑静な場所で、住人の姿を見なければ、高級マンションコミュニティと錯覚しそうである。その敷地の奥に、佐倉最後の藩主となった堀田正倫(まさとも)の屋敷が残されている。士族の邸宅らしく質素ながら美しい。日当たりの良い芝庭には赤い花をつけたサルスベリの木が多かった。

蘭学通りのなかほどに
三谷呉服店の新旧両店舗が道をはさんでいる。南側の古い三谷家住宅は明治時代の建築で、格子をだいた紅壁が町屋ながらしとやかな色気を感じさせる。その隣にたつ袖蔵は正座する実直な番頭の風であった。宿場中心街の新町通りにも三谷屋呉服店があったのをおぼえている。

そばにたっている「弥勒坂道蘭学通り商店街案内図」板に通り名のいわれが書いてあった。
揺れ動く幕末、この時期順天堂に学んでいた塾生は100人を越えていた。若き塾生は、江戸に新しい蘭書が入ったと聞くと、夜を徹して江戸に向かったという。ここ弥勒坂道は新しい文化と出会うために夢をいだかせた”蘭学への道”であった。

その蘭学通りの終わり右手に、冠木門をかまえているのが
佐倉順天堂記念館である。開明老中堀田正睦がオランダ医学を佐倉藩に導入しようと、当時江戸で活躍していた蘭医佐藤泰然を招き、天保14年(1843)蘭医塾と外科診療所をかねた順天堂が創設された。佐藤泰然は当時人気のあった華岡流とよばれる麻酔を用いる手術を危険として採用せず、無麻酔手術を行った。洋風の板張り治療室にはそのとき用いられた手術用具が展示されている。コテ、ノコギリなど、私の日曜大工用具よりも粗にみえる。それで麻酔なしに脚をゴリゴリ切られている患者と、患者の両手を押さえつけている門人の絵が壁に掛けられている。ながくみていると膝のあたりがさむくなった。

佐倉訪問のフィナーレとして、
「ふるさと広場」へ足をのばした。鹿島川にそって西印旛沼まで下っていく。鹿島川は千葉市緑区を起点とする排水河川だそうだが、水の汚れはきづかないほどだった。はじめは印旛沼からでている灌漑用水だと思っていた。川が沼に流れ込む地点にオランダ風車がのんびり羽根をまわしている。前に広がる畑にはコスモスが満開だ。この週末はコスモス祭りで大勢の人出出賑わっていた。河口には屋形船が出入りして観光客で繁盛しているようだった。

今日の主役は駅前にある観光協会で借りた自転車だ。限定範囲の移動には、車と徒歩の折衷ものである自転車が最高だと思う。駐車場を気にしなくていいし、徒歩よりも時間と疲労を節約できる。坂道を考慮して、最初からギアをロウにセットしてあるようだ。平地はペダルが軽すぎてイライラするくらいに遅い。自転車は所定の場所に4時までに返せばよい。品の良いおばあさんが一人で事務室を管理していた。

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酒々井(しすい)

成田街道は佐倉順天堂記念館の先の本町交差点を直進して、印旛郡酒々井町の本佐倉にはいっていく。バス停「本佐倉」の先の細道を左にはいって道なりに1kmほど坂を下っていくと小山の麓に出る。すそを逆時計回りに1/4周ほどたどると
本佐倉城跡入口に至る。本城跡は文明年間(1470年代)、千葉輔胤が築き天正18年(1590)豊臣秀吉により千葉氏が滅ぼされるまで9代、百有余年間にわたる下総守護千葉氏の戦国時代の居城であった。土塁、空濠のほか枡形跡ものこっており国指定史跡として保存工事が進行中であった。 

旧道は上元佐倉で国道296号に合流する。このあと成田まで、街道はほぼ国道51号に沿ってすすむが、酒々井の宿場は手前の県道137号に沿ってあった。上宿の八坂神社から農協あたりにかけてが宿場の中心地だったようで、今も白壁土蔵造りの旧家が数軒並び、静かな町並みをみせている。

宿場の終わりほどの下宿に酒々井小学校がある。その手前の丁字路交差点から一筋南に通行止めになっている細い路地を左に入っていくと、畑地に
「伝説酒々井の井碑」がある。伝説そのものよりもそれが記されている中世の古い板碑自体に価値があるように見受けられた。

小学校の前の林の中に
麻賀田神社がすずしそうにたたずんでいた。
道はそのあたりから下り坂になって、繁華な駅前地区に下りていく。旧道は宗吾入口交差点をこえて、駅前通りで京成方面に左折してすぐに右にでている路地に入り中川地区を通り抜けるようにすすんでいく。

道なりに歩く途中にいくつかの道標類にであい、旧道であることを確認させてくれる。消防第二分団の車庫前で国道と合流するが旧道はすぐ次の交差点で右にはいって坂にさしかかる。竹やぶの切り通しの上り道は大坂とよばれ、通行人の荷車を後押しする押し屋が活躍した場所であったらしい。

をのぼりつめたあたりから国道に隣接しながら800mにわたって
伊篠の松並木がはじまる。今は松もまばらだが、桜の木や雑木が両側の隙間をおおまかに埋め合わせ、また多くの石碑や供養等が散在していて成田旧街道の面影を十分に残していてくれた。

道はセブンイレブンの先で国道を斜めに横切り、路傍に古い石仏がたたずむのどかな田園地区を通り過ぎていく。篠山新田で国道51号に合流するとまもなく成田市境である。

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成田

成田ビジネスホテルの先で国道51号から右にそれて国道409号に乗り、並木交差点で51号と交差して、そのまま成田山参道の入口である
一本松に到達する。この三叉路から左に出ている道は宗吾街道とよばれ、酒々井とのほぼ中間点の西方にある宗吾霊廟に通じている。佐倉宗吾こと木内惣五郎は大飢饉で困窮する佐倉領の農民を救うため4代将軍家綱に直訴するにおよび、処刑された義民である。

JR成田駅をすぎたたたりから本格的な門前町の町並みがはじまり、ツートンカラーの街道は途中鉤型に左折しながら商店街をぬって、薬師堂前の別れ道に出る。右手のプチプラザに商売用の人力車が止まっておりその奥に小柄な和服姿の女性像が立っていた。当地出身の女流俳人で
三橋鷹女という。案内板にある俳句は彼女の風貌からは想像もできない刺激的なひびきをもつ。

  
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
  白露や死んでゆく日も帯締めて
  口中一顆の雹を啄(ついば)み火の鳥や
  千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き (遺作)


坂を下りきったところに
成田山新勝寺の一大伽藍が展開する。
天慶3年(940年)寛朝大僧正によって、開山された真言宗智山派の大本山である。朱雀天皇より平将門の乱平定の密勅を受けた寛朝大僧正は、弘法大師が敬刻開眼された不動明王を奉持し難波の津より海路を東上して尾垂ヶ浜(千葉県匝嵯郡光町)に上陸し、更に陸路を成田の地に至り、乱平定のため平和祈願の護摩を奉修し成満した。目下2年後の開山1070年を記念した大キャンペーンを展開中で、大本堂の修復のほか、すでに総門の建設工事が始まっていた。沿革、伽藍案内、不動明王ご利益、護摩、市川団十郎との関係、江戸深川出開帳のことなど、話題はつきない。

人通りのすくない出世稲荷の前に、立派な道標が建っていた。元は酒々井宿にあったものだが鉄道の開通により、ここに移設されたと刻まれた石碑がそばにある。
「右成田道」とあるが、目的地点で道案内していてもどうかと思う。ぜひ酒々井の街道沿いにもどしてあげよう。

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寺台

成田山の南山麓をぬって東参道をすすんでいくと国道51号線にでる手前に寺台宿があった。今は宿場の面影はなく、普通の商店街である。永興寺入口角に祠が二つ並んであり、手前にはそぼくな大日如来石像と庚申塔が祀られて、その奥の祠には延命地蔵がいた。

14世紀末創建の古刹、
永興寺は幼稚園を経営しているのか、本堂前は園児と保母さんたちの甲高い声が響き渡っていた。その裏山に一刀流小野忠明、忠常父子の五輪塔があるという。それぞれ二代将軍秀忠、三代将軍家光の剣術指南役を勤めた剣の達人である。

道はかるく左にカーブしする。手入れされた庭の奥に火の見櫓が背を伸ばしている。このあたりは商店街をぬけて落ちついた家並がみられる。保目神社をすぎると道は二手に分かれる。その手前左手に
「寺台城址」の標識を見つけて、細い路地を入っていった。

右に曲がって民家につきあたる直前で「寺台城址100m←」の標識がある。民家にはさまれた細い山道を押し進んでいくと台地の鞍部で道が左右に分かれる。少しくぼんだ道は空堀の遺構である。右の道を50mほどすすむと台地の縁近くに祠と「海保甲斐守三吉遺址」の碑、そして寺台城址の標柱があった。今は藪で見晴らしが効かないがかってはここに物見台が築かれて台地の南麓を走る佐原街道を見下ろす位置にあった。

寺台城は、千葉氏の族臣馬場氏代々の居城で、秀吉の小田原攻めで亡びた後海保甲斐守三吉が引き継いだ。城跡のある台地は細長く西は永興寺の裏山に続いている。

成田街道はここで終わる。道はこの後三叉路を右に折れて、吾妻橋で根木名川をわたり国道51号に合流して北上する。

佐原から香取神社に詣でる旅人、さらに東に道をとって銚子に向かう商人、または利根川を渡って潮来、鹿島に向う人たちはこの道を行った。人によりそれは佐原街道であり、又は香取街道であり、あるいは鹿島街道であったりした。


(2006年4月)
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