佐倉(成田)街道(1)



千住−新宿柴又小岩市川八幡船橋

いこいの広場
日本紀行

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江戸と佐倉藩城下をむすぶ道を佐倉道と呼んだ。佐倉の北東12kmあまりのところに成田山新勝寺がある。江戸時代後期に成田詣が盛んになるにつれて佐倉道は成田道(街道)と呼ばれるようになった。今「成田街道」といえば船橋を起点とする国道296号線をいう。

江戸から成田へ通じる道はいくつもあったが、多くは陸路2つと海路1つのどれかを利用した。佐倉藩主が参勤交代につかった公式ルートは千住を経由して水戸街道の新宿でわかれる道である。小岩で江戸川を渡って市川、小幡、船橋を経由する。

他の陸路は千住宿が公認されるまえのルートで、日光街道浅草橋から両国橋を渡り、竪川通りを東進して旧中川の逆井の渡しから四股、五分一、八蔵橋、菅原橋を経て小岩へ出る。現在の国道14号(千葉街道)にあたり、「元佐倉道」と呼んでいた。

このほかに、更に便利な水路があった。日本橋小網町から船に乗り、小名木川、新川の掘割水路を利用して本行徳へ上陸し、行徳街道を北上して八幡や船橋へ向かうルートである。成田までは、陸路の佐倉道に合流する方法と、八幡から木下街道で利根川にでて安食まで川を下る方法があった。後者は芭蕉が鹿島紀行で通ったルートである。

ここでは水戸街道経由の公式ルートを歩く。



千住

北千住、宿場町通りを北にぬけると、4丁目と5丁目の境の大きな交差点にでる。ここで水戸街道は奥州・日光街道と分かれ、右(東側)の細い道に入る。ここにかっては「水戸海道」と刻まれた古い道標があったが、現在は足立区立郷土博物館(大谷田5-20-1)の中庭に保管されている。

千代田線・常磐線のガードをくぐり東武線のガードの手前に清亮寺がある。境内に、明治5年斬罪に処せられ腑分けされた11名の墓があるという。迷路のような墓地を歩いてまわったがそれらしき墓石を見つけることはできなかった。

東武線のガードをくぐると道は荒川の堤防に行き当たる。ここは昔、古隅田川に「弥五郎橋」がかかり、千住宿と小菅村を結んでいた。明治44年に荒川放水路の工事が始まり、これが川と橋を洗い流した。土手に登ってみる。左にいくつもの鉄橋が並行している。数えてみると5つもあった。千代田線と東武伊勢崎線の上下線とJR常磐線である。その下の葦の茂みはホームレスのキャンプ場だ。水戸街道は正面の対岸から再出発することになる。

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小菅

東武伊勢崎/地下鉄日比谷線の小菅駅で降りる。荒川土手に出る手前に小さな「万葉公園」がある。入口に歌があった。どういう意味なのかわからない。

小菅ろの 浦吹く風の 何(あ)ど為為(すす)か 愛(かな)しけ児ろを 思い過(すご)さむ(万葉集・巻14東歌3564)

公園を流れる細い水路は古隅田川で、ここから中川まで総延長5kmにわたって残っており、足立区と葛飾区の境界線をなしている。その一部に水戸橋を渡った所で再び出会う。

公園の南隣りは東京拘置所である。正門の鉄格子の向こうに灯籠が置かれている。

旧小菅御殿石灯籠  所在地 葛飾区小菅一丁目35番  登録年月日 平成元年(1989)3月20日

円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝寿珠を頂いた総高210cmの御影石製の石灯籠です。
もとは数行の刻銘があったとみられますが、削られていて由緒は明確でなく、また銘を削った理由も詳かではありません。ただし当地は、徳川家康の関東入国以来関東郡代職にあって農政に秀でた伊奈氏代々の下屋敷があったところで、小菅御殿あるいは千住御殿と称され、将軍鷹狩りの時の休憩所ともなっていることから、灯籠の造立は江戸時代中期以降と考えられます。もとは裏庭にありましたが、現在は手水鉢・庭石とともに、拘置所正門脇に移して保存されています。
なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚とともに廃され、その後江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれました。                                          葛飾区教育委員会

寛永元年(1624)、小菅村の10万坪の広大な土地が関東郡代伊奈氏に与えられ、そこに下屋敷が設けられた。後にそこは、将軍の鷹狩りの際の休息所にあてられ、元文元年(1736)には頻繁に狩をした吉宗の命により小菅御殿が造られた。明治にはいって一時小菅県庁が置かれたこともある。その後曲折を経て東京拘置所となった。

拘置所の南側を歩いている。有刺鉄線の壁越しに見える建物は意外なほど開放的な雰囲気だった。ベランダには布団が干してあり、下着などの洗濯物が気持ちよさそうに風を受けている。職員の寮であろうか。子供や妻もいちいち厳重な正門から出入りするのだろうか。余計なことを考えながら歩いているうちに、T字路の角に赤い柵に囲まれた
小菅稲荷大明神の小祠が見えてきた。社額はぎっしり詰まった漢文で、どうしようもない。「武蔵葛飾郡西葛西領小菅村伊奈半左衛門」という書き出しだけ読み取れた。

右に折れる広い道は、小菅御殿の正門から水戸街道に出る御成道であった。見事な松並木で
松原通りとよばれたが今は小菅稲荷大明神の前にある「松原児童遊園」という標札にその名ごりをみるのみである。

松原通りの一筋東の細い路地をはいり、草津湯の銭湯の前を通り過ぎると西小菅小学校がある。その校庭に「銭座跡」と刻まれた石柱があった。校門脇にその由緒書きがある。

小菅銭座(ぜにざ)跡
所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号 西小菅小学校  指定年月日 昭和58年(1983)2月21日

安政6年(1859)から翌万延元年にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。この吹替のため幕府は安政6年8月に小菅銭座を設けました。小菅銭座は旧小菅御殿跡の一角に作られたといわれ、広大な敷地(15,000m2 約4,600坪)を持ち、この西小菅小学校の辺りがその中心地であったと思われます。ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されていました。 今その頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なものです。
                                  葛飾区教育委員

小菅御殿跡の東側は綾瀬川である。その昔、この川に架かる橋のたもとに妖怪が出没した。元禄8年(1695)水戸黄門がこの橋のたもとで妖怪を退治し、「後日再び悪行を重ねることのなきよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」と自ら筆をとったものといわれている。柳の枝が妖しく手招きをする川のほとりに架けられた小振りの木橋を期待していたが、見た物は高速道路に虐げられたように淀む綾瀬川に架かる、青いペンキで塗り込められた無機的な橋だった。

橋を渡った右手に小菅神社がある。境内を除いてみたが縁起らしき物は見当たらなかった。
街道にもどる。すこし行くと小菅交番所の手前左手に
鵜乃森橋がみえて、その両側はボードウォークが設けられ遊歩道として整備されていた。流れているのは古隅田川である。川岸の民家には花が咲き乱れ、川面では水鳥が遊ぶなごやかな景色が隠されていた。

314号という大通りに出た。標識に「右:四つ木、左:綾瀬、直進:西亀有」とある。道幅が広くなりきれいに舗装された道が真っ直ぐに延びている。ほどなく左斜めに入っていく枝道がでてきた。これが旧道にちがいない。住宅地に入り込み、道なりにすすんでいくとJP常磐線の高架に近づいた。駅でもないのに高架下に店が並んでいる。道はすぐに線路を離れ、大きく蛇行して西亀有3丁目の交差点に出、そこから再び真っ直ぐの道で亀有駅前商店街に入って行く。西亀有は昔、葛西郡砂原村とよばれた地域である。古隅田川の蛇行にあわせるようにその南方に広がっていた砂原だったのだろう。

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亀有

亀有は水戸街道と水路とが交差する交通の要所であった。JR亀有駅近く、道上小東交差点は昭和の終りころまでは曳船古上水橋とよばれた場所である。曳船川は越谷市のしらこばと橋で逆川(遠く羽生市川俣で利根川に発し、葛西用水→古利根川と名をかえる)から引かれた東京葛西用水の別名である。亀有から四つ木で綾瀬川にいたる葛飾区域を曳船川とよんだ。今は暗渠となって、四つ木までを曳船川親水公園として整備されている。親水公園を少し南に歩いてみた。左に木造の船着場休憩所、右に小川の流れを配してある。水辺に蝶がたよりなく舞い、水面にはへたばった蚊のようなアメンボが徘徊する。水がきれいなのに驚いたがやがて図入りの説明板をみて納得した。ろ過機、滅菌機を経由して水道水が秒速10cmで循環しているという贅沢な公園だった。

この用水に沿ってずっと北へあがり環7を越えてまっすぐいくと
足立区郷土博物館の前に行き着く。その辺は暗渠ではなく、「東京葛西用水」は地表に出て公園化されていた。博物館は白壁の大屋敷をおもわせる立派な建物だった。その中庭に多くの道標、記念碑、地蔵などの類が陳列されている。いずれも道路開発や都市計画の工事に絡んで、ここに避難してきたものである。お目当てのものは、北千住の水戸街道入り口にあったという「水戸海道」という道標だった。おまけも見つけた。現在の千住新橋が架かる前まで、南詰にあったという「千住新橋」と彫られた威厳のある石門柱だった。

曳舟川親水公園をわたったところにまだ新しい「旧水戸街道 亀有上宿」の石柱がある。街道をすこし進むと右手歩道脇に、2年前に建てられたばかりの記念碑を見つける。
「旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。平成14年4月吉日 葛飾区 亀有上宿商店会」とあり反対側の面には渋い顔つきの水戸黄門とすけさん、かくさんがいた。商店会地域表示の石柱とは一里塚跡のことか。これも新しい。

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新宿(にいじゅく)

7号環状線をよこぎるとすぐに
中川橋である。工事中のおじさんに訪ねてみた。
「ここ旧街道ですよね。なにか、中川橋にまつわる由来とか、なにか書いてあるような石碑とか、説明板とか、一里塚とか、なにかこの辺にありませんかねえ」
「ないねえー」
ほどよい川幅で水質もまずまずのようだった。眺めのよい明るい川である。

橋を渡った所が新宿である。千住と松戸宿の間にあって大名たちは泊まらなかった。本陣もなく町自体は小さい。道が桝形構造になっているようで、直角に右に曲がって、道なりに今度は90度左にまがる。昔、凹形のうち側は沼であったため、結果的に枡形のようになったのが真相のようだ。途中で、西念寺によってみた。墓地に一組の墓参り客がいる他、よく手入れされた境内は静まり返って、一角に凌霄花(のうぜんかずら)が青い空につき出すように咲き誇っている。傍らには、華やかなハスのつぼみが満開の時をまち、おおらかに天をあおぐ葉は今朝がたの通り雨のなごりを宿していた。

左にまがった突き当たりに「金阿弥橋」という埋め立てられた橋の欄干が残っていた。北に向かって草に覆われた幅2mほどの水路の窪みが認められる。6号線「中川大橋東」交差点角の
「あづまや」というそばやの店脇に、求めていた道標があった。ここで佐倉水戸街道は佐倉と水戸の二街道に分かれる。左が水戸街道で、右が佐倉・成田街道とあるが、ここが分岐点であるかは定かでない。「(水路に沿った道を左に)」という説明書きが私を悩ませた。ここから50mほど東に行ったところで、数年前まで水元公園から引いてきた上下之割用が6号線を横切っていた。

さて、佐倉街道であるが、説明書きの
(現在の水戸街道を越えて右に入る)とは、ガソリン・スタンドの角で6号線を横切って、埋めたてられた上下之割用水をたどるのか、それともあずまやの真南に口を出している車進入禁止の細い道のことなのか、よくわからなかった。葛飾区教育委員会へ電話して、文化財保護係の人に一連の疑問をぶつけてみた。結論は、旧水戸街道はジョモで左に入る道、佐倉街道はその手前の中川大橋東交差点で南に向かう細道だということだった。

亀田橋派出所の先を左におれたところに、下河原北向地蔵と並んで元禄6年(1693)の古い道標がある。葛飾区内最古の道標で、三猿が浮き彫りされている。磨耗がはげしいが文字は「是より右ハ下河原町 左さくら海道」「これより左下の割への道」と読むらしい。下川原村は今の新宿の小字名、下の割りとは現江戸川区をいう。

新金貨物線の高砂踏切をわたり、高砂地区の商店街へはいっていく。高砂8丁目交差点を右にはいると京成たかさご駅、左におれてまっすぐいけばトラさんでなじみの柴又帝釈天へ通じ、さらに進むと江戸川の堤防を越えて、矢切の渡しに達する。一時間ほどの寄り道を決行した。

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柴又

明るい帝釈天の境内とレトロな空気が詰まった参道商店街を楽しんだ。浅草仲見世通りのような人ごみはなくて、客層は高年者が圧倒的だ。草だんご、寅さん煎餅、うなぎの蒲焼など、食べ物屋が多い。客を相手に話をしている店の人たちは、どこかで「男はつらいよ」にそれとなく出演していたキャストなのだろう。昭和44年(1969)から平成7年(1995)まで、26年にわたり48本のシリーズものを成り立たせた渥美清はたしかに特異な俳優だった。ちかくに「寅さん記念館」がある。

帝釈天の縁起、沿革は公式ホームページにまかせよう。日光東照宮陽明門を模したといわれる二天門は総ヒノキ造りに壮麗な彫刻を施した重厚な山門である。極彩色の陽明門にくらべ、優美ですがすがしい。門をくぐると、瑞竜の松が枝を拡げ、正面に帝釈堂の偉容が現れる。中にはいらないで外回りを一周した。見事な彫刻がふんだんにあるらしい。内外二重のガラス張りの回廊が設けられ、観客は水族館のトンネルを歩くように、ガラス越しに彫刻美を鑑賞する。

帝釈天の横の道をそのまま進むと江戸川堤防にぶつかり、土手をおりて広い河川敷公園をよこぎると矢切の渡しにでる。江戸時代初期、地元民の生活向けに設けられた渡し場で、現在も運行されている数少ない渡しだ。片道100円と手ごろな上に手漕ぎの船に乗せてくれるので観光客にも人気がある。この渡しは伊藤左千夫の小説
『野菊の墓』(1906)によって全国的に有名になった。15歳の政夫と二つ年上の従姉民子との純真可憐な恋物語である。川向こうの松戸市矢切側に文学碑が建立されている。60ページほどのその短い小説をはじめて読んだ。二人の会話は思春期の初恋そのものだ。

野菊を手にした二人の幸福な会話から、この結びに至る悲しい運命の物語を、涙なくして読むことはできなかった。

乗り場の柳の枝影に一人のおじさんが花火などを並べながら、船待ちの学生風の若者と、ゆったりと話をしていた。いつ船が来るという時刻表もないようだ。
「あと3分くらいでくるよ」
江戸川の川幅は意外とせまく感じられ、おじさんは対岸の渡し舟の様子がよくわかるらしい。この若者は向こう岸についてから徒歩でどこへ向かおうというのだろう。政夫は学校が休みになるたびに、民子にであえる喜びにみちて、この渡し船で矢切の実家に帰省した。

街道にもどって、京成金町線踏切をこえる。佐倉道を校名にしたような「桜道中学校」の前の路傍に、「さくらみち」「旧佐倉街道」の新しい石標がたっている。柴又七福神めぐりのコースでもあるためか、七福神を乗せた宝船の浮き彫りを施して、その下に街道の説明が記されていた。佐倉藩主をはじめ、房総十数藩の大名が通った他、成田へ通じる参詣道であり、成田千葉寺道(なりたちばでらみち)とも呼ばれたとある。おなじ石標がこの後二か所でも見かけた。

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小岩

北総鉄道の高架をくぐり柴又街道と交差して江戸川区に入る。昔の柴又村・鎌倉新田の境界であった。
「親水さくらかいどう」の標識があって、街道の北側が並木と細い水路を配した遊歩道に整備されている。もともと街道沿いに、利根川から引いていた農業用水路が流れていた。

静かな住宅街をとおりすぎると「親水さくらかいどう」は江戸川の土手に出ておわる。天祖神社の手前の二股道を右にとるのが旧街道。ただし車は北行き一方通行で入れない。京成江戸川駅を越える。北野神社を右に見て、そのさきの角地にかっての旅籠屋だった角屋旅館がある。ブロック塀を背にして「御番所町跡」の案内板が立っている。このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先にある江戸川河川敷には、小岩市川の渡しと関所があった。今はその北よりの河川敷が小岩菖蒲園として整備され、その川縁には葦に隠れるようにして
水上バスの乗り場があった。京成線の上手にあたり、絶え間なく鉄橋を電車が渡って、風景を厭きさせない。

またここは、水戸街道から下りてきた佐倉道と、浅草橋からの近道、元佐倉道が合流したところでもある。今で言えば、佐倉道の細道と、国道14号の千葉街道・元佐倉道が江戸川交差点でぶつかり、ともに東に折れて市川橋をわたることになっている。

角屋旅館の斜め前に、安永4年(1775)に建てられた道標があって、岩附・江戸・市川の三方向を示している。

  正面  右せんじゅ
岩附志おんじ道  左り江戸本所ミち
  右面  左り いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛
  左面  右 いち川みち 安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門

「岩附志おんじ」とは「岩槻慈恩寺」のこと。日光御成り街道から1kmほど離れたところに寄り道していったものだが、はるかここから道しるべのターゲットになるほどの有名なお寺とは知らなかった。近くの宝林寺境内に、もと小岩市川渡の江戸川岸に建てられていた立派な常灯明が保存されている。

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市川

市川橋で江戸川を渡り土手を左にはいったところに市川関所跡の石碑が立っている。渡しがあった方面を見渡すと、京成線鉄橋の下を若者が白波を立てて水上スキーに興じていた。この付近は遠く奈良・平安の時代から渡し舟と馬継の施設があったという古い土地柄だ。市川公民館横の大門通りを北に進むと、万葉集にちなんだ案内板や史跡があちこちにみられる。このあたりは砂州を縫って真間の入江がはいり込んでいた。通行のために、入江の杭に継板を渡した「継橋」が転々とつづいていた。

葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の 船人騒ぐ波立つらしも 第14巻 3349

 真間の浦廻とは、現在の市川市域の海岸線を指したものです。しかし、万葉時代の海岸線は今日とはまったく異なった地形だったと考えられます。
 当時、下総国府の置かれた国府台をはじめ市域に属する下総台地の前面には、東西に長く市川砂州がつくられていました。そして台地と砂州との間には真間の入江が奥深く入り込んでいたのです。
 さらに江戸川は上流から土砂を運んで、行徳の地域が形成されていきました。このような海岸線を当時は真間の浦廻と呼んでいたのです。
 海に近い下総国府には、国府の外港としての国府津が、この浦廻の何処かに置かれていたのでしょう。だから船人の騒ぎの様子も知ることが出来たのであり、其処はさぞかし出船、入船で賑わいを極めていたことでしょう。  
     平成2年3月 市川市教育委員会

大門通りの入江橋を渡り、真間の継橋を通って、手児奈霊堂をたずねる。
万葉の時代、真間には手児奈(てこな)というたいそう美しい女性がいた。多くの男性から言い寄られて、悩んだ末に海に身を投げたという。美女の悲運伝説はその後山部赤人他多くの歌人に詠われた。
大門通りの正面は国府台地にぶつかり、背の高い石段を大股で上りつめると仁王門のうしろに弘法寺がある。奈良時代の天平9年(737)、行基が真間の地を訪れたとき、手児奈の霊を供養して建てたものだ。「求法(ぐほう)寺」と名づけられたが、その後弘仁13年(822)に弘法大師(空海)が七堂伽藍を整備して「真間山請弘法寺」と改めた。

弘法寺の北側は千葉商科大学をはさんで国府台公園があり、その東方には下総国分寺がある。江戸川沿いの里美公園から国分寺にかけては、下総国府を中心とする古代の政治の中心地であっただけでなく、中世には伊豆から逃れた源頼朝が千葉氏を頼って再起を図った場所であり、室町末期には足利・北条・里美各氏をまきこんだ
国府台の戦いの戦場跡であり、近世では戊辰戦争の激戦地でもあった。『野菊の墓』文学碑が立つのどかな矢切り村からさほど遠くもはなれていない市川村は、激動の歴史を包んだ忙しい土地であった。

街道に戻って八幡の宿に足をすすめる。市川西消防署の先の歩道に、建物から離れて道標が立つている。天明元年(1781)の建立で、正面には「青面金剛」とあり、側面には、それぞれ「東 八わた十六丁、中山一里」「西 市川八丁、江戸両国三り十丁」と刻まれている。「江戸両国」とは「元佐倉道」を想定してのことだろう。

新田地区にはいると左手に松並木とおもえるほど黒松の姿が目に付く。もしかすると旧道ではないかと疑って、住宅街にはいってみた。黒松を塀でとりこんだ大きな屋敷が続いている。建物じたいはモダン造りで、街道筋の豪農を思わせる旧家という雰囲気ではない。高度経済成長期の昭和年代には企業の社長宅や妾宅が多くあったという高級住宅街だ。松は旧街道の松並木ではなくて、市川海岸の松原の名残りだろうか。

京成線菅野駅に入る道の入口に二基の道標をみて、平田地区に入る。

左右に黒松が立ち並ぶせ細い参道をすすんで諏訪神社を見る。東隣りの空き地は外環高速道路建設予定地である。三郷から松戸までは工事中だが、このあたり民家の立ち退きが完了したふうにもみえない。この空き地にも松の木は残っていた。一連の黒松景観は「松平田緑地保全地区」として保護されている。

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八幡

都営新宿線本八幡駅のあたりから市川市役所をすぎて真間川までが八幡宿だったらしいが、街道筋の家並みに宿場の面影をもとめることはできない。江戸から来る旅人の多くは遊郭で賑わった船橋宿をめざし、八幡は通過するだけだったという。本陣、脇本陣はなく、わずかに数軒の旅籠があったのみという記録がのこっている。

八幡2丁目の歩道橋の手前に
葛飾八幡宮の案内板が立っている。京成線の踏切を越えると銀杏並木のうしろに朱色の随神門があらわれる。元は仁王門だったが、仁王が左右大臣に入れ替わった時に門の名前もかえられた。葛飾八幡宮は9世紀末の創建で、下総国総鎮守の古社である。伊豆から安房に上陸して下総国府に入った源頼朝も参詣にきた。境内には多数の樹幹が寄り集まった「千本公孫樹」とよばれる銀杏の大樹が、目通し周囲10mをこす重量感で他を圧倒している。

参道にはこの地に梨栽培をひろめた川上善六(1742〜1829)の「川上翁遺徳碑」が建っている。18世紀の半ば、善六は岐阜から良種の梨を持ち帰り梨園を開いた。江戸市場で人気を得て、八幡一帯には多くの梨園がひろがった。八幡は市川梨の発祥の地である。

街道に戻る。道の反対側に広がる竹薮は
八幡不知森(八幡の藪知らず)として古くから全国に知られていた。いったん入り込むと出てこられないという伝承があるが、その理由については諸説があって定まっていない。

道は真間川をわたり鬼腰2丁目のT字路にさしかかる。左に木下(きおろし)街道(県道59号)が分岐している。右手に煉瓦造りの蔵をかまえる古い屋敷は中村邸で、木下街道に立ちはだかるようにある。芭蕉が鹿嶋神社に詣でたときは、行徳で船をおりて、陸路ここを通って利根川まであがっていった。

船橋市にはいって、すぐに人通りの多い中山駅交差点にくる。右は総武本線の下総中山駅。左におれると京成中山駅の踏切を越えて、
日蓮宗大本山中山法華経寺に向かう。中山参道商店街を進み総門、山門をくぐりぬけると世界を別にしたような一大寺院コンプレックスが現れる。参道の両側の樹林に、いくつもの寺院が潜んでいる。

奥に控えるのが法華経寺の大伽藍だ。掃き清められた境内の左手隅に、傾きはじめた逆光のなかで白菊の反射をうけてたたずむ観音菩薩の神々しい姿があった。中央の祖師堂は入母屋造りの屋根を比翼にならべて優雅な佇まいをみせている。右手の林のなかには青銅大仏の威容と、紅色の繊細な細身の五重塔が対照的な美を競っている。

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船橋

道は東中山地区にはいってはじめて旧街道らしい気配をみせた。車の流れは相変わらずだが、道はゆるやかな蛇行を描き、道に沿って板塀と門を配した趣のある民家をいくつか見ることが出来た。それも中山競馬場入口交差点までの、つかの間の幸せだった。
武蔵野線の高架をくぐる。西船橋駅付近の歩道は自転車が氾濫していた。
右からJRの地下道を抜け出てきた県道179号船橋行徳線が合流する。

海神交番前で、旧道は左手に入っていく。総武本線の陸橋をわたり終わったところを鋭角に右に入っている道がある。陸橋の下あたりで旧行徳街道と成田街道が合流していた。その地点にあった道標が、行徳街道をすこし進んだところにある
海神念仏堂に移されている。元禄年間に江戸神田の高麗屋佐治右衛門が寄進したという観音堂の前に、三角頭の道標が大きな字で「右いち川みち 左行とくみち」と示していた。市川道とは他ならぬ佐倉・成田道のことである。

青少年センター前の信号と、国道14号沿いの船橋郵便局にはさまれた本町2丁目の一角は、江戸時代の遊郭が移転してきた新地である。昔は成田山参詣の客をあつめ、昭和の時代も東京ベッドタウンの歓楽街として賑わっていた。現在も郵便局の正面路地には小さなスナックや小料理屋が長屋をなしている。旧道をひとすじなかに入ったところに若松劇場という、いまどきなつかしいストリップ劇場がある。前には若い女性の写真をかかげた宣伝カーが手持ち無沙汰なふうでとまっていた。日が傾く頃になれば出動するのだろう。その近くに、かっての
吾妻屋という妓楼だった建物が残っている。立ち入り禁止の貼り紙がしてあり、木造二階建ての建物はかなりいたんではいるが、それでも二階をめぐる勾欄は当時の遊郭の面影を偲ぶことが出来る。江戸から来るものも、成田詣でから帰るものも、もっぱらこの宿場で一泊していったという背景には遊郭の存在があった。

船橋宿の入口にあたる場所に
西向地蔵堂がある。宿場の出入り口に地蔵を立てるのは、そこで疫病、厄災を防ぎとめ宿内に入り込まないようにという願いがこめられていた。京成・JRの船橋駅前通りから海老川までの区間が最もにぎやかな通りである。船橋は、佐倉道(成田道)をはじめ、御成街道、木下街道の陸路が交錯する交通の要衝であった。

道の両側に宿場街を象徴するような古い商家が向かい合っている。南側は広瀬直船堂、北側には森田呉服店。本町4丁目の信号を左にまがると正面に御蔵稲荷神社がみえる。その前の路地を御殿通りといい、家康が鷹狩に行った際に立ち寄った御殿があった。今は、二筋目の右手奥に日本で一番小さいといわれる
東照宮がある。本陣や高札場跡は残っていないがこのあたりが宿場の中心地だったものと思われる。

海老川をわたる。橋の欄干に船橋という地名の由来を記したプレートが設置されている。古代の英雄が東征の途次、此地の海老川を渡ることが出来なかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代わりとし無事向こう岸に送り届けたという。海老川の河口が船橋湊である。

街道は京成電鉄の踏み切りを渡り、
船橋大神宮の鳥居前に出る。意富比(おおい)神社とよばれ、縁起は日本武尊の東征のころにまでさかのぼる由緒ある神社だという。縁日であろうか、参道には屋台が出て、境内で植木市が開かれていた。釜、包丁などの刃砥や鍬、鋤など農具の修理をする店が地方色をそえている。松の茂みから顔だけ出しているのは明治時代につくられた東京湾最古の木造灯台である。城郭風の建物の上に洋風の燈塔を頂いて、船橋湊のシンボルだった。

大神宮の北側の坂道をあがり、中野木交差点を真っ直ぐ東にすすむと、やがて成田街道入口の丁字路に出る。東北角に輪宝を乗せた石柱道標がたっている。大きな文字で三面に
「成田山道」と彫られた立派なものだ。成田街道(国道296号)はここで左におれ、大和田宿(八千代)にむかう。他方、直進して上総東金までほぼ直線に通じる道は「御成街道」とよばれ、家康が東金で鷹狩りをするために、慶長19年(1614)、佐倉城主土井利勝に造成させたものである。街道沿いの村々総出で、1ヶ月足らずの突貫工事でつくらせたもので、「一夜街道」とも呼ばれた。鷹狩道路とは表向きであって、実際は半島の南端、館山に拠する外様勢力里見氏を牽制するための軍用目的も兼ねたものであったといわれている。

丁字路を成田道にすこし入ったバス停の後ろに、庚申塔などの石仏群があり、右端の不動明王像の台石に、大きな文字で「右なりたみち」と刻まれている。道標の上に小さな不動明王が乗っかっているといったほうが似つかわしい。そばの立て札には札場町会による「庚申様の由来」が記されていた。平安時代の昔から行われてきた民俗信仰だという。

江戸時代、ここから先前原から薬円台にかけては広大な原野が広がっていた。幕府が設けた小金牧の一つで下野牧という。明治時代、この原で明治天皇をむかえて近衛兵の演習がおこなわれ、その折この地を「習志野」と名づけられたという。薬円台にある船橋市立郷土資料館の駐車場の奥に、その記念碑が建てられた。

習志野地名発祥の地 附明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処の碑
この地域一帯は、江戸時代には徳川幕府の下総小金五牧のうちの下野牧の一部で、小金原あるいは大和田原といわれ、野馬の放牧が行われていた。明治6年、この原で近衛兵の天覧演習が行われ、明治天皇は4月29日、県下に初めての行幸をされた。(中略)天皇は翌30日に演習をご覧になり5月1日皇居へ還御された。同13日、天皇より勅諭をもって、この原に「習志野の原」の名を賜り、これが現在の「習志野」の地名の発祥とされている。「習志野ノ原」は昭和20年まで陸軍演習地として使用された。以下略
   1994年(平成6)8月   船橋市教育委員会

その後、演習地は陸軍−陸上自衛隊に受け継がれ、街道の右側には習志野駐屯地が延々と続いている。八千代市に入ると、すぐ新木戸の三叉路がある。左にいく道(県道57号線)は鎌ヶ谷を経て木下街道に合流する旧道だ。交差点角の電柱の足元に、上下をセメントで繋いだ古い道標がたっている。説明板には貞福寺の本尊とされた「血流地蔵」を案内する道標とある。江戸深川の人たちによって、享和3年(1803)に建てられた。右面の表示が成田道である。

(正面) 血流地(蔵)道
(左面)   貞(福寺)
(右面) 右 江 成 田
     左 江 江(戸)道

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