八幡
都営新宿線本八幡駅のあたりから市川市役所をすぎて真間川までが八幡宿だったらしいが、街道筋の家並みに宿場の面影をもとめることはできない。江戸から来る旅人の多くは遊郭で賑わった船橋宿をめざし、八幡は通過するだけだったという。本陣、脇本陣はなく、わずかに数軒の旅籠があったのみという記録がのこっている。
八幡2丁目の歩道橋の手前に葛飾八幡宮の案内板が立っている。京成線の踏切を越えると銀杏並木のうしろに朱色の随神門があらわれる。元は仁王門だったが、仁王が左右大臣に入れ替わった時に門の名前もかえられた。葛飾八幡宮は9世紀末の創建で、下総国総鎮守の古社である。伊豆から安房に上陸して下総国府に入った源頼朝も参詣にきた。境内には多数の樹幹が寄り集まった「千本公孫樹」とよばれる銀杏の大樹が、目通し周囲10mをこす重量感で他を圧倒している。
参道にはこの地に梨栽培をひろめた川上善六(1742〜1829)の「川上翁遺徳碑」が建っている。18世紀の半ば、善六は岐阜から良種の梨を持ち帰り梨園を開いた。江戸市場で人気を得て、八幡一帯には多くの梨園がひろがった。八幡は市川梨の発祥の地である。
街道に戻る。道の反対側に広がる竹薮は八幡不知森(八幡の藪知らず)として古くから全国に知られていた。いったん入り込むと出てこられないという伝承があるが、その理由については諸説があって定まっていない。
道は真間川をわたり鬼腰2丁目のT字路にさしかかる。左に木下(きおろし)街道(県道59号)が分岐している。右手に煉瓦造りの蔵をかまえる古い屋敷は中村邸で、木下街道に立ちはだかるようにある。芭蕉が鹿嶋神社に詣でたときは、行徳で船をおりて、陸路ここを通って利根川まであがっていった。
船橋市にはいって、すぐに人通りの多い中山駅交差点にくる。右は総武本線の下総中山駅。左におれると京成中山駅の踏切を越えて、日蓮宗大本山中山法華経寺に向かう。中山参道商店街を進み総門、山門をくぐりぬけると世界を別にしたような一大寺院コンプレックスが現れる。参道の両側の樹林に、いくつもの寺院が潜んでいる。
奥に控えるのが法華経寺の大伽藍だ。掃き清められた境内の左手隅に、傾きはじめた逆光のなかで白菊の反射をうけてたたずむ観音菩薩の神々しい姿があった。中央の祖師堂は入母屋造りの屋根を比翼にならべて優雅な佇まいをみせている。右手の林のなかには青銅大仏の威容と、紅色の繊細な細身の五重塔が対照的な美を競っている。
トップへ
船橋
道は東中山地区にはいってはじめて旧街道らしい気配をみせた。車の流れは相変わらずだが、道はゆるやかな蛇行を描き、道に沿って板塀と門を配した趣のある民家をいくつか見ることが出来た。それも中山競馬場入口交差点までの、つかの間の幸せだった。
武蔵野線の高架をくぐる。西船橋駅付近の歩道は自転車が氾濫していた。
右からJRの地下道を抜け出てきた県道179号船橋行徳線が合流する。
海神交番前で、旧道は左手に入っていく。総武本線の陸橋をわたり終わったところを鋭角に右に入っている道がある。陸橋の下あたりで旧行徳街道と成田街道が合流していた。その地点にあった道標が、行徳街道をすこし進んだところにある海神念仏堂に移されている。元禄年間に江戸神田の高麗屋佐治右衛門が寄進したという観音堂の前に、三角頭の道標が大きな字で「右いち川みち 左行とくみち」と示していた。市川道とは他ならぬ佐倉・成田道のことである。
青少年センター前の信号と、国道14号沿いの船橋郵便局にはさまれた本町2丁目の一角は、江戸時代の遊郭が移転してきた新地である。昔は成田山参詣の客をあつめ、昭和の時代も東京ベッドタウンの歓楽街として賑わっていた。現在も郵便局の正面路地には小さなスナックや小料理屋が長屋をなしている。旧道をひとすじなかに入ったところに若松劇場という、いまどきなつかしいストリップ劇場がある。前には若い女性の写真をかかげた宣伝カーが手持ち無沙汰なふうでとまっていた。日が傾く頃になれば出動するのだろう。その近くに、かっての吾妻屋という妓楼だった建物が残っている。立ち入り禁止の貼り紙がしてあり、木造二階建ての建物はかなりいたんではいるが、それでも二階をめぐる勾欄は当時の遊郭の面影を偲ぶことが出来る。江戸から来るものも、成田詣でから帰るものも、もっぱらこの宿場で一泊していったという背景には遊郭の存在があった。
船橋宿の入口にあたる場所に西向地蔵堂がある。宿場の出入り口に地蔵を立てるのは、そこで疫病、厄災を防ぎとめ宿内に入り込まないようにという願いがこめられていた。京成・JRの船橋駅前通りから海老川までの区間が最もにぎやかな通りである。船橋は、佐倉道(成田道)をはじめ、御成街道、木下街道の陸路が交錯する交通の要衝であった。
道の両側に宿場街を象徴するような古い商家が向かい合っている。南側は広瀬直船堂、北側には森田呉服店。本町4丁目の信号を左にまがると正面に御蔵稲荷神社がみえる。その前の路地を御殿通りといい、家康が鷹狩に行った際に立ち寄った御殿があった。今は、二筋目の右手奥に日本で一番小さいといわれる東照宮がある。本陣や高札場跡は残っていないがこのあたりが宿場の中心地だったものと思われる。
海老川をわたる。橋の欄干に船橋という地名の由来を記したプレートが設置されている。古代の英雄が東征の途次、此地の海老川を渡ることが出来なかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代わりとし無事向こう岸に送り届けたという。海老川の河口が船橋湊である。
街道は京成電鉄の踏み切りを渡り、船橋大神宮の鳥居前に出る。意富比(おおい)神社とよばれ、縁起は日本武尊の東征のころにまでさかのぼる由緒ある神社だという。縁日であろうか、参道には屋台が出て、境内で植木市が開かれていた。釜、包丁などの刃砥や鍬、鋤など農具の修理をする店が地方色をそえている。松の茂みから顔だけ出しているのは明治時代につくられた東京湾最古の木造灯台である。城郭風の建物の上に洋風の燈塔を頂いて、船橋湊のシンボルだった。
大神宮の北側の坂道をあがり、中野木交差点を真っ直ぐ東にすすむと、やがて成田街道入口の丁字路に出る。東北角に輪宝を乗せた石柱道標がたっている。大きな文字で三面に「成田山道」と彫られた立派なものだ。成田街道(国道296号)はここで左におれ、大和田宿(八千代)にむかう。他方、直進して上総東金までほぼ直線に通じる道は「御成街道」とよばれ、家康が東金で鷹狩りをするために、慶長19年(1614)、佐倉城主土井利勝に造成させたものである。街道沿いの村々総出で、1ヶ月足らずの突貫工事でつくらせたもので、「一夜街道」とも呼ばれた。鷹狩道路とは表向きであって、実際は半島の南端、館山に拠する外様勢力里見氏を牽制するための軍用目的も兼ねたものであったといわれている。
丁字路を成田道にすこし入ったバス停の後ろに、庚申塔などの石仏群があり、右端の不動明王像の台石に、大きな文字で「右なりたみち」と刻まれている。道標の上に小さな不動明王が乗っかっているといったほうが似つかわしい。そばの立て札には札場町会による「庚申様の由来」が記されていた。平安時代の昔から行われてきた民俗信仰だという。
江戸時代、ここから先前原から薬円台にかけては広大な原野が広がっていた。幕府が設けた小金牧の一つで下野牧という。明治時代、この原で明治天皇をむかえて近衛兵の演習がおこなわれ、その折この地を「習志野」と名づけられたという。薬円台にある船橋市立郷土資料館の駐車場の奥に、その記念碑が建てられた。
習志野地名発祥の地 附明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処の碑 この地域一帯は、江戸時代には徳川幕府の下総小金五牧のうちの下野牧の一部で、小金原あるいは大和田原といわれ、野馬の放牧が行われていた。明治6年、この原で近衛兵の天覧演習が行われ、明治天皇は4月29日、県下に初めての行幸をされた。(中略)天皇は翌30日に演習をご覧になり5月1日皇居へ還御された。同13日、天皇より勅諭をもって、この原に「習志野の原」の名を賜り、これが現在の「習志野」の地名の発祥とされている。「習志野ノ原」は昭和20年まで陸軍演習地として使用された。以下略 1994年(平成6)8月 船橋市教育委員会 |