東京散歩−行徳船航路



日本橋日本橋川(行徳河岸)−小名木川新川

いこいの広場
日本紀行



日本橋→隅田川


江戸時代、日本橋から東方の下総(千葉県)にむかう主要なルートが3つあった。一つはいったん北上し北千住を経て水戸街道から成田街道(佐倉道)に入る水戸街道コース。参勤交代につかわれた公式ルートである。一つが両国橋から千葉街道経由で成田街道に合流する旧公式ルートともいうべき元佐倉道コースで、水戸街道にくらべ近道だった。そして最後に、日本橋から水路をたどって江戸川東岸の行徳に上陸する行徳コースである。

3番目の船旅コースは物資の大量輸送のみならず、早くて楽な交通手段として旅人にも人気が高かった。行徳からは船を乗り継いで江戸川を遡上し関宿で利根川に出る水路や、八幡から木下(きおろし)街道、あるいは船橋から成田街道に出る陸路のオプションがあった。

今日は、日本橋から旧江戸川まで、行徳コースの都内部分を散歩する。水路自体は日本橋川−小名木川−新川をたどるほぼ直線の13kmたらずだが、徒歩だと途中に隅田川、旧中川、荒川・中川そして新中川に架かる橋をわたる関係で、総延長は20km程度の一日行程になる。

もともとこの水路は徳川家康が、幕府直轄地とした行徳の塩田から塩を江戸へ輸送するために開削を命じたものである。天正18年(1590)ころまず小名木四郎兵衛によって
小名木川が開削され、寛永6(1629)年には新川が開かれて、江戸川までの水路が完成した。この2つの川を合わせて「行徳川」と呼ぶこともある。

寛永9年には本行徳村が幕府より許可を得て、江戸−行徳間の小荷物運搬と旅客輸送を独占することとなった。これを行徳船といい、江戸の日本橋小網町3丁目の行徳河岸から、下総の本行徳村までを毎日往復した。その間3里8丁(12.6km)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船ともいわれた。当所16艘だった行徳船は嘉永年間(1848〜54)には62艘にふえたという。明治12年、行徳船は蒸気船に姿を変えた。

散歩の出発点はいつものように日本橋である。橋の北詰、東角に日本橋魚河岸跡がある。関東大震災で築地に移転するまで、ここが東京最大の魚市場であった。ここから、日本橋川の北岸を東に歩く。一筋北が按針通りだというので、三浦按針の屋敷跡によってみた。店脇の窪みに窮屈そうに石碑が立っていた。

道と日本橋川の間にはビルがびっしり詰まっていて、南北の通りに出たときだけビルの合間をのぞくことができるが、どこも橋のすぐ上を無機質な高速道路が横切っているだけである。橋からながめる川の流れはおよそ日陰にまどろむヘドロにみえる。今世紀の半ばにはこの高速道路は移転するか地下にもぐって、日本橋川は空を取り戻すことであろう。

日本橋から東に最初の橋が江戸橋で、その間の南岸は木更津河岸とよばれ、内房木更津村が城米、旅客輸送のために河岸の使用権を得ていた。ちなみに日本橋の西方向には一石橋との間の南岸に西河岸があった。現在その名を継いで西河岸橋が架かっている。西河岸は本行徳に立つ常夜燈の奉納元である。日本橋の上から江戸橋の背後に北岸、小網町の白壁蔵並みをのぞむ広重の絵がある。

江戸橋東方の日本橋川上で高速道路が複雑に交錯している。変則四差路を左に入った道路角に小さな神社がある。小網神社といい、伊勢神宮を本宗として文正元年(1466)に産業繁栄と疫病鎮静の神として祀られた。小網稲荷神社とも稲荷堀稲荷とも称される。小網町の名はこの神社から付けられた。

小網町は川に沿った細長い区域で、小網神社あたりからはじまって首都高速の箱崎出口で箱崎町に接する(昭和51年、旧来の小網町1・2・3丁を合せて日本橋小網町となった)。北東側は蛎殻町で武家屋敷が立ち並んでいた。小網町と蛎殻町の間を「稲荷堀」がながれ箱崎川につながっていた。「稲荷」を音読みして、「とうかんぼり」とよび、その通りをいまも「とうかんぼり通り」という。

鎧橋に出る。橋が架かる明治5年までは、ここに「鎧の渡し」があった。「鎧」の由来については源頼義や平将門にまつわる古い伝承が残っている。川の向かい側は東京証券取引所を中心として証券会社がたむろする兜町だ。またここには明治6年、日本最初の銀行である「第一国立銀行」が創立された。第一国立銀行の初代頭取であった渋沢栄一邸はここに西洋風の大邸宅を建築し、明治34年飛鳥山に移るまで居住した。谷崎潤一郎は鎧橋の上に立って、相対的に止まってみえる川の流れや、小網町の土蔵白壁、そしてお伽のような渋沢邸をながめながら少年の感慨にふけっていたのだろう。私の見たものは高架下のただの暗闇だった。

次が茅場橋だ。江戸時代この辺りには鍋釜問屋が集まっていて、そのなかで一大勢力をはっていたのが近江辻村の鋳物業者である。辻村とは現在の滋賀県栗東市辻。野洲川をわたってまもない国道8号沿いの町で、国道1号との合流点からも遠くない。辻村鋳物の歴史は古く、元明天皇の時に日本最初の銅銭和銅開珎が鋳造されたところといわれている。以来、辻村からはすぐれた鋳物師が輩出し、江戸時代には江戸、大坂、京都など各地に出店を開いて富と名声を享受した。小網町2、3丁目は辻村出身の釜屋が店をならべていた場所である。

その一つが交差点東北角の山万ビルに入っていた。ただし社名は「株式会社釜屋もぐさ」といい、鋳物卸からの転業組である。辻村の富士治左衛門は万治2年(1659)小網町に殻物・鍋釜等の卸問屋を開業したが、後には郷里特産の伊吹もぐさを商うようになり、切艾を考案して大ヒットした。従来、もぐさは点灸時に必要な分だけをひねって使っていたが、釜屋ではもぐさを細かくひねって紙に巻き、必要な分だけ切り取ることで手間を省くようにした。刻みタバコからシガレットへの進化である。週末であいにくシャッターが下りていたが、普段は外から行商(振売り)に用いていた振売箱をみることができるらしい。正面に朱字で「小網三釜治」と書かれているという。「小網三」は小網町3丁目を表し、「釜治」は屋号の釜屋と当主治左衛門の名から一字ずつ採ったものである。

鋳物を製造していた工場地帯が小名木川沿いにあった。後ほど「釜屋の渡し跡」で訪ねることにする。

トップへ


行徳河岸 

小網町を下りてきた道は行き止まりになって箱崎駐車場にぶつかる。昭和40年前までは小網町の東端と箱崎町との間にも、日本橋川と直角に交差する水路が通っていた。現在、その南側だけが亀島川という名で残っていて、箱崎川第一公園から見るとその出口の水門がみえる。北側の水路は「箱崎川」といい、日本橋中洲の西側水路につながっていた。

行徳河岸はこの水路の交差点の北西角にあった。水路でいえば、川のメインストリート隅田川から、横道である日本橋川を一筋入った一等角地にあたる。ここで本行徳新河岸で積み込まれた行徳塩が陸揚げされ、ここから成田や鹿島詣でに出かける江戸の旅人が乗り込んだ。

日本橋川の上を圧迫するように塞いでいた高速道路は箱崎町で大きく曲って北上し、川は空をとりもどす。道と堤防との間をうめていた建物もなくなり、湊橋の手前から再び道は川のそばをつたっていく。

日本橋川が隅田川にでるところが小公園に整備され、歩道には「日本銀行創業の地」碑や「高尾稲荷社」の案内板がたっていた。高尾太夫は浅草駒形でも、遠く仙台でも出会った有名人である。彼女の末路についてはいまだ謎めいている。逆上した仙台藩の殿様に隅田川の舟中で逆さ吊にして斬り殺された一方で、側室として鄭重に弔われている節もある。いずれにしても伊達騒動の張本人三代綱宗を狂わせた絶世の美女だった。

今より約321年の昔万治2年12月皇紀2319年1659年隅田川三又現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体がこの地に引上げられ此れより約80m隅田川岸旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象となりかなり栄えておりましたが明治維新明治5年当時此の通りを日本橋永代通りとx最初の日本銀行開拓庁永代税務署等がxxにあり高尾稲荷社は只今の所に移動しおとづれる人もおおかったが昭和20年3月20日戦災により社殿は焼失いたし時代と共に一般よりわすれられ年々と御参詣人も少なくなってしまいました。時折り町名変更につき当町会名保存と郷土を見直そうとの意志により高尾稲荷社を昭和50年3月再建工事の折旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋骨壺が発掘せられ江戸時代初期の重要な史跡史料として見直されることになり数少ない郷土史の史料を守るため今後供皆様のご協力をお願い申しあげます  日本橋区北新堀町々会 

川口に架かる最後の橋が豊海橋で、梯子を横に倒したような形だという。橋上からふりむく日本橋川は空もあかるく懐に何艘もの船を抱いた健康な川であった。

川口方向に目をやると隅田川を下る水中船が永代橋をくぐるところだった。江戸時代の永代橋は日本橋川河口の北側、箱崎町の深川の渡し跡にかかっていた。現在の永代橋の下流はもう海で、白魚がよく捕れる漁場だった。西側には江戸の海の玄関江戸湊があって大型廻船が停泊し、小型船が貨物を網目状の水路をたどってそれぞれの専用河岸に運びいれた。いま、そのあたりには佃、月島の高層マンション群が雨にかすんで浮かんでいる。

日本橋中洲という魅力的な場所のことを話そう。
もともと、隅田川も河口にちかづいた小名木川河口あたりに、土砂を堆積して中洲が形成されていた。江戸中期の安永年間に西側水路をうめて陸続きにし、三股富永町という中洲歓楽街をつくったところ、流れの行き場を失った隅田川の怒りをかって氾濫を蒙り、また掘り起こして流れを通し町は棄てて自然の中洲にもどした。明治19年になって再び埋め立てて町としたものである。

箱崎JCT浜町入口の東に接するマンションの前に「女橋」の説明板が立っているが、やや斜めに走っているその通りが中洲の南側水路際にあった女橋跡だと思われる。

行徳河岸から隅田川をよこぎって小名木川に入るルートは3ヶ所あったことになる。日本橋川をすこしくだり隅田川にでて小名木川まで北上するか、箱崎川を上り女橋の手前で中州の南側(箱崎川支川)を通って隅田川にでるか、それとも中州の西側を北上して中州の北から旋回してくるか。いずれにしてもそのあたりは隅田川の流れが三叉に交差して船の行き交いが賑やかな隅田川の繁華街であった。その辺の風景を広重の絵からうかがうことができる。

トップへ


小名木川 (道順) 

さて、清洲橋(清澄と中洲をむすぶ橋)を渡って江東区にはいり、小名木川最初の橋万年橋のほとりに出る。永代橋に対抗して「万年」と名付けられたらしく、広重はその絵に亀を描き込んで「万年」を強調した。

橋の北詰に船番所が置かれていたが後年中川口に移された。近くに芭蕉が住んでいた庵跡に建つ芭蕉稲荷がある。奥の細道起点として訪ねた場所だ。清澄庭園の北側にある臨川寺にも芭蕉のゆかりの石碑が保存されている。芭蕉はこの寺の仏頂禅師と懇意にしていて黒羽に逗留したときも雲巌寺に禅師の庵をたずねていったほどである。

芭蕉由緒の碑
抑此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫(僧などが持つ杖)をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。しかるに、翁先だちて遷化し給ひければ、禅師みづから筆を染めて、その位牌を立置れける因縁を以て、わが玄武先師、延享のはじめ、洛東双林寺の墨なをしを移し、年々三月にその会式を営み且、梅花仏(各務支考)の鑑塔を造立して東国に伝燈をかけ給ひし、その発願の趣意を石に勒して永く成功の朽ざらん事を爰に誌すものならし。


墨直しの碑
我師は伊賀の国に生れて、承応の頃より藤堂家に仕ふ。その先は桃地の党とかや。その氏は松尾なりけり。今また四十の老をまたず武陵の深川に世に遁れて世に芭蕉庵の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり俳諧は遊びて行脚の便を求てといふべし、されば松島は明ぼのの花に笑い、象潟はゆふべの雨に泣とこそ。富士吉野の名に対して吾に一字の作なしとは古しへを、はばかり今ををしふるの辞にて漂泊すでに廿とせの秋くれて難波の浦に世をすみはてにけむ。其比頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとどめて、かの木曾寺の苔の下に、
千歳の名は朽ざらまし。東花坊ここに此碑を造る事は頓阿西行に法縁をむすびて道に七字の心を伝ふべきと也。

仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。気骨ある禅師とみえて、ついでに幕府にかけあってこの庵にも臨川寺という寺号を勝ち取った。

小名木川に沿っていくつもの橋を通り過ぎていく。南岸は堤防にそって緑地公園となっていて見晴らしがよい。江戸時代には小名木川にかけられていた橋は万年橋、高橋と新高橋の3つだけだったそうだ。

新高橋から小名木川の東のほうを見ると水門が見える。昭和52年(1977)に完成した扇橋閘門で、江東区の東側と西側の水位差を調整するためのものである。

小名木川橋を北に渡った右手に二つの史跡がある。まず目に見えるのは三本ほどの松の若木で、かってはここに五本松として親しまれた老松があった。特にそのうちの一本が枝を小名木川に差し出すようにのばしており、江戸の名所の一つになっていた。元禄5年(1692)の秋、芭蕉は五本松に船を出して名月を楽しんでいる。

  
川上と此川下や月の友 

その脇に文化2(1805)年の「五百羅漢道標」が立っている。羅漢寺は「さざえ堂」でも知られた人気寺だったらしいが、今は西大島駅のそばの跡地に二個の礎石と碑が残るのみである。道をへだてて新しい羅漢寺があった。

南北に通る横十間川との交差点に出る。水路の交差点上にたすき掛けに架けられたモダンな橋がある。四つ葉にちなんでクローバー橋と名づけられた。南側は横十間川を利用した親水公園となっていて、夏休みに入った子供づれ家族がボートを楽しんでいた。横十間川が行政管轄を分ける境界線になっていたらしく、ここまでが江戸市内であった。住吉よりの本村橋から見た横十間川もよい眺めだった。

JR貨物線の鉄橋の手前あたり、堤防沿いの北砂緑道公園内に「釜屋の渡し跡」の説明板が建っている。渡しは小幡長兵衛によって大正7年7月に始められた。

釜屋の渡しは、上大島村(大島1丁目18番)と八右衛門新田(北砂1丁目3番)を結び、小名木川を往復していました。名称は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・ 釜屋七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人々や製品の大釜が写っています。明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛の渡し」がありました。以下略   平成9年3月  江東区教育委員会  

日本橋小網町の茅場橋北岸一帯に釜屋問屋が集まっていたことは既にふれたが、ここはその製造拠点である。太田六右衛門と田中七右衛門はともに、小網町で活躍していた釜屋問屋と同郷、近江辻村の出身である。寛永7年(1640)に江戸へ出て、幕府の用品を初めとして鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。埼玉県川口に移るまでは大島1、2丁目が鋳物業の中心地だったのである。

明治通りの進開橋から振り返ってJR鉄橋越しに渡し跡の面影を求めた。左の岸辺で幾人かの男が糸を垂れている。鉄橋の手前に、水中にのこる数本の杭がみえるが、渡し跡の説明板があったのはたしか鉄橋の向こう側だった。その釜屋跡をもとめて向こう岸に渡る。果たせるかな堤防から一筋北の通りに「釜屋堀通り」の標識が立っていた。西へ歩いていくと横十間川に架かる大島橋にでる。その角に小さな「釜屋堀公園」があって、「釜屋跡」の石碑が建っていた。かって鋳物工場がならんでいたという釜屋堀通りと小名木川との間は、2、3の町工場や倉庫に混じってマンションがあるという複合地域になっていて、鋳物工場は見かけなかった。

丸八橋に出る。橋を回り込んで堤防下におりると大島稲荷神社があり、その境内に芭蕉句碑と芭蕉像があった。元禄5年芭蕉は深川より小名木川近在の門人桐奚(とうけい)宅の句会に行く途中、神社に立ち寄った。

   
秋に添て 行ばや末ハ 小松川  

小松川とは現在の旧中川と荒川の間にある大島・小松川公園を横切っていた川で新川の西端部分にあたる。行徳船は小名木川から小松川に入り船堀川へ進んでいった。荒川放水路がなかった当時は一本の川で新川とよんだ。

日本橋からきて、小名木川最後の橋が番所橋である。その北詰めに中川関所ともいわれる船番所があった。江戸と下総国を結ぶ通船改めの役所で、「入鉄砲に出女」の取締まりは水上でも抜かりなかった。当初は隅田川口の万年橋際にあったが、寛文元年(1661)中川口へ移ってきたものである。ここで旧中川(元の中川本流)と小名木川、小松川が交差する。対岸をながめるとかすかに南にずれて、水門跡の建物が見える。近くに見るには、中川船番所資料館の東に架かる中川大橋で、中洲のような大島小松川公園に渡らなければならない。ここは江戸川区だ。荒川放水路が開削されるまでは、この公園は中川に面する船堀の東端にあたり、小名木川と新川(船堀川)が東西から中川に合流する水の十字路であった。広重の「江戸名所百景」にも「中川くち」として四方に行き交う船の様子が描かれている。

大島小松川公園の小高い丘の上に石造りの古い構築物がある。水門の跡で2/3は土に埋まっているという。要塞か砲台の遺構を思わせるような厳つい塊だ。荒川放水路(現荒川)の建設により旧中川との間に水位差が生じることになり、間に閘門を設ける必要が生じた。当然ながら、公園の東側、荒川側にももう一つの水門があった。

旧小松川閘門から旧中川を見おろすと小名木川の入口が見える。広重の「中川くち」風景を思い起こすには適当な場所だ。
荒川側にでて堤防沿ってすこし北上し、船堀橋で荒川と中川(現中川本流)を渡り、堤防沿いに南下して新川の水路にでる。

トップへ


新川
 

小名木川と旧江戸川をむすぶ新川は、荒川放水路の建設により中川の流れが分断されるに伴って、中川と荒川とその間の中堤で分断されることになった。
中川への出口は水門で塞がれていて風景が途切れている。新川に沿って船堀地区を東に向かう。住宅街をながれる物静かな川だ。

川沿いの公園にかって新川を航行した船の模型が展示されている。中央を占めているのは行徳船ではなく、明治時代に登場した蒸気船である。明治10年(1877)に就航した「通運丸」は綿絵にも描かれるほどの人気を博したが、明治27年(1894)、市川〜佐倉間の総武鉄道開通で舟運は衰え、大正8年(1919)に廃止された。


新渡橋を左折して一筋北の陣屋橋通りに出る。一之江境川親水公園の入口が陣屋橋交差点で、かってここに陣屋橋という橋が架かっていた。近くの八幡神社に由来碑が建っている。

「紀元1538年(天文7年)の時北条氏綱と里見義尭とが市川国府台に於いて戦いをされその後十数年再び1564年(永禄7年)に北条氏広と里見義弘とが戦いをされその際当地に北条方が陣屋として在住され9年後元亀4年9月17日に八幡神社稲荷神社白龍神を合祀され以来陣屋組に住居される方々によって春秋年二回祭典を執行し現在に至る。」

北条氏の影響は、船堀のみならず行徳地区でも色濃い。「内匠堀」の開発者がともに北条氏の家臣だった。

陣屋橋通りを東西に歩いてみた。船堀幼稚園あたりを中心として材木屋、医者、和菓子屋など古い佇まいを見せる家が残っている。幼稚園の隣には小さな石鳥居の後ろに江戸時代の石塔が二基並んでいる。正面を見ることができず、正体は不明だった。

新川に架かる橋は篠崎街道筋の新川口橋で最後である。旧江戸川への出口に新川東水門があった。ここから船はしばらく旧江戸川(かっての江戸川本流)を遡上し、対岸の行徳新河岸へと進んでいくのであった。徒歩でそこまで辿るには、途中左手に熊野神社をみて、川沿いを1kmほど上り、瑞穂大橋で新中川をわたり、児童公園の縁をまわって旧江戸川にかかる今井橋に出なければならない。

橋の向こうは千葉県である。行徳街道を歩いて常夜燈のある新河岸までたどり着くまでまだ2km以上の道のりが残っている。

トップへ
(2006年8月)