旧中山道徒歩旅行4

いこいの広場
日本紀行



8月10日(16日目)御嵩‐伏見‐今渡‐美濃大田‐坂祝

舗装された国道を黙々と歩く。
伏見で落合以来別れていた木曽川に再会する。ここの木曽川は、ダムで塞き止められ満々とした水面であって、河原に降りて水浴びができた木曽の川ではない。新田というところに昔の渡し場の跡があったが、草深い川原の片隅が見えるだけで、木造の構築物も立て札もなかった。

今渡へいく途中に瓦焼場を通りすぎた。国道に面してこんもりした窯があり、12段の木の柵に整然と焼きあがった瓦が並べられている。

美濃太田は日本ラインの船乗り場であるほか、何もない。坂祝は日本ラインの名勝、行幸巌(みゆきいわ)を有する国定公園である。

日本ラインの景を知らずして河川の美を語るべからず」といわれた如く正にラインの名にそむかず奇勝千変万態、水、狂うかと見ればまた油の如く渦をなして流れ、軽舟飛涼をあびて下る。対岸に迫るは鳩吹山。ここ坂祝河畔は「ライン下り」第一の佳景。特に「行幸巌」よりの眺望は、古来幾多の名士嘆賞の地として名高い。

木曽の桟の説明書きとは対照的な口調である。

夜は中学校グラウンド隅の忠霊塔の下で寝た。




8月11日(17日目)坂祝‐加納‐垂井‐関が原

加納の沿道に色とりどりの和傘が並び乾されていた。記録はカラー写真係りの友人に頼む。油の香ばしい匂いが鼻をつく。そこは傘問屋であった。倉庫の中を覗かせてもらった。今は殆どが洋傘に切り替え、日本傘だけを作っているのは少ないという話しであった。問屋は傘の製作を家庭の手仕事に下請けさせる。

鏡島ではちりめんを織っている町工場を見学させてもらった。私は呉服屋の息子であるが織物のことはなにも知らない。ちりめんとは表面がぶつぶつになっている布であることぐらいは父を手伝って知っていた。判ったような相づちをうって説明を受けた。

垂井の宿場町に入り、中山道の風景を取り戻す。玉泉寺の近くに史跡「垂井の泉」がある。大ケヤキの根本から湧出している冷泉で、古くからの由緒がある。泉から流れ出る溝のなかにいくつものやかんが放置してあった。近所の人々の置き忘れか、あるいは熱い茶を泉の水で冷やしてでもいるのか。いづれにしてものんびりとして心がなごむ風景である。

立て札の案内には平安時代の藤原隆経の歌と、江戸時代の芭蕉の句を引いている。芭蕉の句は1691年の秋、大津での滞在を終えて江戸に戻る途中垂井に寄ったときに詠んだものである。

  
昔見し たる井の水はかはらねど うつれる影ぞ 年をへにける  藤原隆経

  葱白く 洗ひあげたる 寒さかな  芭蕉


今日の宿は予約がしてある。高校の国語の高瀬先生宅に泊めてもらう事になっていて、余裕を持って夕方の時間を関ヶ原でつかうことができた。

関ヶ原は中山道の宿場という面と古戦場跡であるという二面をもっている。さらに言えば、古戦場としての関ヶ原では二つの天下分け目の戦いがあった。ひとつは壬申の乱で他の一つはほかでもない徳川と豊臣勢の対決した関ヶ原の決戦である。

672年、天智天皇のあとを争そう壬申の乱で大海人皇子の軍勢はまず不破に結集しそこに陣を張った。両軍は藤川をはさんで合戦をした。東軍が大海人皇子、西軍が大友皇子であった。大友皇子の近江軍はしだいに押されていき、瀬田川の決戦で壊滅状態となる。大津京は陥落し、大友皇子は長等山において自害した。大海人皇子が天下を制したのである。

大友皇子の首は、不破の本営に運ばれ首実検の後、のちに
「自害峰」と呼ばれるようになった山地に葬られたとされている。また、関ヶ原合戦で徳川家康が最初の陣を張った桃配山の名は、大海人皇子が壬申の戦の際、この地で桃を配って兵を激励したというい伝えからきている。藤川は今の藤古川で、自害峯と不破関跡の間を流れている。この川は平安時代以降、歌枕になるほど有名であった。
           
不破の関跡は石垣塀をもつ古びた民家の軒を借りるようにして、小さな石標があるのみである。不破の関は壬申の乱のあと天武天皇によって設けられ、東海道の鈴鹿の関、北陸道(北国街道)の愛発(あらち)の関とともに、この三関が都の前に立ちはだかる近江の国を防衛していた。

「近江を制するものは天下を制する」といわれたように東国から都にはいるにはこのいずれかを通らねばならなかった。三つの街道は草津に集約され、そこから瀬田の大橋を通らねばならない。壬申の乱の最後の決戦はそこで繰り広げられた。近江を制するには瀬田の唐橋を制せねばならない。よって「瀬田の唐橋を制するものは天下を制する」といわれるのである。
 
芭蕉は不破の関跡を訪れて、

  
秋風や 藪も畠も 不破の関

と詠んでいるが、これは藤原良経の次の歌をふまえて作ったといわれている。

  
人住まぬ 不破の関屋の 板びさし 荒れにしのちは ただ秋の風   藤原良経
 
 
関ヶ原合戦の跡を偲ばせるものとして、家康最期の陣跡である床几場があった。木の簡単な門をしつらえ、横に立て札がある。門のなかには中央に石壇が築かれ、周囲を土塁が囲っているが、これははるか後の1841年に造られたものである。


徳川家康は1600年9月15日、戦いの進展とともに本営を桃配山からこの地に移し、軍を指揮する一方で持ち込まれる敵の首を次々に実検した。これらの首は東西二つの首塚に埋葬された。共にうっそうとした大木の根本にある。

東首塚は尼寺となっている。西の塚には二つの小さなお堂があった。おなじ首塚でもここの二つはよく手入れが行き届いていて、見ても不快であった御嵩の鬼の首塚とは雲泥の差がある。鬼と人との違いをはからずも首塚というぶっそうな例で比較する事となった。
 
常盤御前の墓が近くにあり同じ場所に芭蕉句碑があるそうだが、見なかった。

  
義朝の 心に似たり 秋の風

今夜は恩師の家に泊まり、明日いよいよ郷里の近江の国に入る。

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8月12日(18日目)関が原‐今須‐長久寺‐柏原‐醒ヶ井‐鳥居本‐彦根

岐阜最後の宿場、今須に行く途中に楓並木を通る。信州の笠取り峠で、並木道は松に限り、桜やイチョウでは冬、葉が枯れて困るだろうと言ったが、楓並木があるとは予想していなかった。もともと松並木であったものが、松が枯れて楓に入れ替わったらしい。

今須本陣は、今はいくつもの民家に分かれている。ひとけのない土埃のなかに昼寝をしているような古い家並みの前を、タイムトンネルから抜け出してきたかのように、モダンな乳母車に乗ってリボンをつけた女の子と、ノースリーブのワンピースに日傘を片手に乳母車をひいてくる若い母親に出会った。お盆で都会に嫁いだ娘親子が実家にでも帰ってきたのであろう。実像と虚像が一こまのフィルムに写った感じで、私の好きな写真の一枚である。

長久寺に着く。ここは寝物語の里ともいう。近江と美濃の国境で、幅50cmばかりの小溝を隔ててかって旅籠が建ち、両国の家同士で寝ながら壁越しに話ができたという。また、静御前が義経を追って来て近江側に泊まったところ、隣の美濃側の家から義経の家来江田源蔵の声が聞こえて再会した、という話や、常盤御前と義朝の家臣江田行義との寝物語とする伝えもある。

古い時代から人の往来が盛んであったことにちがいはない。今は美濃側に民家、近江側は畑になっている。観光の名所に仕立てようとの商売気もないらしい。いや、観光地化しても採算にのらないという冷静な計算があるというほうが正確かもしれない。国境はさりげなく無関心におかれている。

中山道自体に溝は横切っていない。それにかわって行政が国の境を明確にしていた。岐阜県側は土で滋賀県側は舗装されている。このような現象はアメリカのハイウェイを走っているとよくみかけた。州の境の標識がでてくるとその一線で、痛んだ道路が急に滑らかになり車線のペンキが鮮やかになり土手の草木までが一変するのだ。どこの国にでもある風景であろう。日本は壁越しというところに意味がある。

柏原は江戸から数えて61番目で、近江で最初の宿場である。伊吹山に近い。よもぎからつくるもぐさで知られ、現存するただ一つの老舗、伊吹堂に寄った。江戸の中期、松浦七兵衛という商才あふれる人物がでて財をなしたという。近江商人の柏原版である。屋号を亀屋と称しその評判ゆえに他のもぐさ屋もみな「かめや」としたらしい。そして松浦のかめやだけが生き残った。間口は長大で、壁造りの格子が二階を覆う。下は戸が開け放たれいかにも風通しがよさそうであった。店の人に土産用に用意された広重の絵のコピーをもらう。そこには伊吹堂とはなく、かめやとだけある。絵の両端に頭を青く剃った福助とまさかりを左手にした金太郎が描かれている。店でそれらを見たかどうか記憶にない。店の奥に立派な庭園が見える。

醒ヶ井にきて居醒の泉を見る。加茂神社の丘の下から湧き出て地蔵川と名づけられた清流は中山道を流れる。遠い昔、日本武尊が生吹(伊吹)山の荒神の毒気にあてられ気絶したときこの清泉に足を浸して目を醒ました。加茂神社は街道沿いに見上げるような石垣の上にあり、やたらと多くの石灯篭が配置されていた。石鳥居のそばに大きな桜の木があって、醒ヶ井不断桜とあった。地蔵川はまた
バイカモ(梅花藻)で知られるところでもある。梅の花に似た白い小花を咲かせる水生多年草で、清流でしか育たない。そんな澄んだ川で、ハリヨという魚がバイカモと戯れる映像をNHKの『里山』が紹介していた(2004年4月3日)。

蓮華寺を訪ねる。長いスロープの重々しい瓦屋根を頂いてひっそりと静まりかえっている。番場忠太郎の地蔵があった。わけを知らないものにはただの地蔵にみえる。追分で見た沓掛時次郎の墓のたぐいか。ここで、昔壮絶な事件が起きた。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、六波羅探題職にあった北条仲時も攻撃を受けた。仲時は鎌倉に逃げ帰ろうとしたが番場の宿場まで来たときもはやこれまでと、手兵432人と共に蓮華寺に入って自刃した。翌年鎌倉幕府が倒れ室町時代が始まった。
 北条仲時公、以下従士430余名の墓
 
元弘3年(1333年)5月9日六波羅探題北条仲時公は京都での戦いに敗れ、北朝の天子光厳天皇・後伏見・花園二上皇を奉じて、中山道を関東に向かって番場の宿に着いたとき、南朝軍の包囲に陥り、やむなく玉璽を蓮華寺に移し大いに戦いたるも衆寡敵せず敗退し、遂に本堂前庭に於いて仲時公以下従士430余名ことごとく自刃す。
 時の住職三代同阿上人は、深く哀憐され、その姓名と年齢・法名を一巻の過去帳に留め更に一々その墓を建て丁重に弔う。過去帳は重要文化財に指定され宝物館に収蔵され、墓は境内にある。                       米原町教育委員会

斎藤茂吉の歌碑がある。茂吉は蓮華寺第49世隆応和尚の門弟だった。

  松風の 音聞くときは 古への 聖の如く 我は寂しむ

磨針(すりばり)峠にさしかかる。由緒書きには弘法大師云々とある。見上げるような杉の大木があった。

ここを降りると鳥居本の宿場に入る。途中申し訳ていどの松並木があった。左右各々5、6本の松が生えている。その背後は田んぼである。その中を幅2mほどの土の旧道がのびていて、周りには近代を匂わすような障害物はない。電柱すらない。二百年まえもこんなだったといわれてすんなり受け入れられる風景だった。


鳥居本も静かな宿場であった。埼玉、群馬のように舗装された新道沿いになく、滋賀の宿場はすべて旧道に沿っている。それだけで言えば信州に遜色ない。木曽路は別格として、追分から下諏訪に至るまで、左右に田園が広がり家並みは旧道にそって埃をかぶり、人はみんな出払っているように静かで、子供たちの姿さえもみかけなかった。

滋賀県も悪くないなと内心ほっとした気分で歩いている。自分がこの国の出身というだけで、中山道の風景までを他県と競争している自分がおかしかった。言い換えてみれば、埼玉、群馬、岐阜の人達が、「長野や滋賀はそれだけ田舎なのだ」という声が聞こえてきそうでもある。

鳥居本の本陣は原型のままで細い格子柵に囲われた白壁と整然とした瓦屋根の重厚な建物であった。他の家も本陣と同じくらい古色豊かな整った家並みである。軒下がどこもきれいに掃かれていてごみひとつ落ちていない。文字は薄れてはいるが江戸時代からそのまま手付かずに取り付けられたままの店の看板が残っている。「縄莚(なわむしろ)荷造材料」と書かれた看板には屋根が取りつけられ雨から守っている。取り付け台も唐草模様にロゴを彫り入れた立派なものである。

この町に高校で数学を教わった宇治原先生の家がある。立ち寄って休んだあと、抱えて持ち歩くのに手ごろな大きさのスイカをもらった。抱いて彦根まで歩くのだが、途中八百屋と農家の前を通るのに気がひけた。道の両側につづく畑には、スイカやトウモロコシやトマトやキュウリなどが惜しげもなく実っていて、もぎとればいくらでも調達できたからである。だいいち、そんな農道を通る他人など想定もしていないので、金網やネットや柵で畑を囲うなどという考えも浮かばないらしい。平和である。眠くなるほど静かな街道である。

彦根に着いた。中山道の宿場ではない。高校時代毎日通り過ぎた、金亀公園が今夜のキャンプ地である。

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8月13日(19日目)彦根‐高宮‐豊郷‐五個荘‐老蘇の森‐馬渕

中山道はJR東海道本線の東側にあり、いわゆる彦根の城下町を通ってはいない。最寄りの宿場町は高宮である。高宮の本陣は白壁の重厚な門構えの奥にひかえる立派な建物であった。門の前には自転車が3台とめてあり人の生活の匂いがする。写真を撮るとき自転車さえなければと思ったのだが、それは自分勝手というものであった。


高宮から豊郷に向かう道でも松並木があった。鳥居本の並木よりも長い。ただし、側に寄り添う電柱と電線が邪魔だった。電柱と電線というこの文明の基本インフラは風景を愛する画家や写真家には全くの敵で、どんな絶景も横切る電線一本でだいなしにする。絵であればそれを省けばいいのかもしれないが、写真はそういう訳にはいかない。電線が写らないアングルを探すのにいつも苦労する。都会では電線を地下に埋める話もあるようだが、中山道保全のためにそうするとはまず考えられない。

豊郷に「江州音頭発祥の地」という石柱があった。あたりに石材や砂利が散らばっており、この記念碑は建ったばかりと見受けた。
 

五個荘は近江商人の発祥地である。天秤棒をかつぐ近江商人の像や、旧商家が沢山残されていることを、今回初めて知った。「てんびんの里」と銘打って資料館が整備されている。中山道の証拠として二枚の写真が残っている。一つは、


  
「左 伊勢、ひの、八日市道 右 京みち」

とある道標である。左の道は御代参街道といい、私の故郷に通じる。湖東商人は八日市から八風街道を通って伊勢松坂と交流したのであろう。二人が歩いていく道は右の道である。

他の写真には、寺でもないのに門の前に釣り鐘が置いてある。古い板塀に囲まれた大きな旧家のようだ。釣り鐘に趣味のあった近江商人の家でもなかろう。釣り鐘屋だろうか。

いつしか新国道にもどり田園の向こうに黒い森のかたまりが見えてくる。国道8号線と新幹線がこの森の西端を分断した。この鬱蒼と茂った森が古来歌に詠まれた
老蘇の森である。子供のころここは追いはぎがよく出ると聞かされた。国道が拡張され、新幹線が貫通して視界がひろがったが、昔は夜ここを一人で通りぬけるには勇気が要ったであろうと思われる。明るいイメージはまったくない。

国道沿いに屋根板が一部はがれ、薄汚れた案内札があった。どうひいきめにみても、きれいではなくやる気が感じられない看板だった。神社社務所が立てたものだ。教育委員会の説明ならもう少し知りたい情報を盛っていただろう。

一.本殿      安土桃山時代の建築で重要文化財に指定される
一.安産・延命の神 随時安産祈願の上御神籤御守帯を授与される
一.老蘇の森    右手に見える森です。平安朝の昔から中仙道の歌所として
          著名である。昭和二十四年史跡に指定され、昭和三十一年
          近江櫻八景に選定される。
一.裏参道     ここより南へ半町 神園内には休息所あり社務所で湯茶の接待
          をxxx

森の中にあるのは天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祀る奥石神社でこれも「オイソ」と読むのだそうである。桧皮葺きの本殿は天正9年(1581)の建立で国の重要文化財である。昔の歌人は神社の由緒にはあまり関心をしめさず、この森で啼くホトトギスのほうが人気があった。「平家物語」に紀伊守範光の歌として次の歌が伝わっている。

  
ひとこえは 思ひ出になけ ほととぎす 老蘇の森の 夜半のむかしを

境内には国学者師弟の歌碑がある。

  
夜半ならば 老蘇の森の 郭公(ほととぎす)今もなかまし 忍び音のころ 宣長
  
身のよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪       真淵

ここから2キロほどで今日の宿、妻の実家に着く。今日は故郷を徒歩で縦断しているという快感があった。見慣れた風景があり親しい知人が待っている。芭蕉の笈の小文の旅のような安心感があった。それは旅情の緊張を削ぐ諸刃の剣であることも承知していた。美味な馳走に酒の振舞いを受け、洗濯物の世話をみてもらい糊のきいた敷布の上に寝る。

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8月14日(20日目)馬渕‐鏡‐野洲‐守山‐栗東‐草津‐大津‐京都三条

さわやかな朝を迎え、最終の日程が始まった。横関の日野川を越えるとすぐに鏡を通る。牛若丸が奥州へ行く途中元服した場所といわれていて、近くに元服の池がある。草木が池の半分を覆い被した小さな池で、石垣で固められた足場には長い柄のついた板桶がおいてあった。


鏡の山は古代からく歌に詠われ、芭蕉の句にも出てくる近江国の歌枕である。湖西堅田の浮き御堂から見る鏡の山上に出る月はすばらしいらしい。仲秋の時期はそのような位置関係にあるのだろうか。鏡神社の祭神は天日槍命(アメノヒホコノミコト)で、本殿は室町中期に建てられた国の重要文化財である。

奥石神社の天児屋根命(アメノコヤネノミコト)といい、鏡神社の天日槍命(アメノヒホコノミコト)といい日本神話にでてくる神さんたちを見分けるのは骨が折れる。記紀をよんでも頭にはいらない。理由に、名前が長いことと紛らわしいことがある。たとえば天(アメノ)と命(ミコト)を省略してニックネームにすればどうか。コヤネやヒホコとすればずいぶんなじみ易い。

野洲川の橋から三上山を望む。国道8号沿いにあるが二人は旧道から東海道本線越しに小ぶりの富士山を見ている。高さはわずか432mだがその姿から近江富士として知られている。

守山の宿場にも古い家並みを見ることができた。「従是南淀領」という石標の横を通る。板塀に囲われた家や白壁の土蔵が連なる。ふと考えるとこの風景はなにも中山道の宿場に限られたことではないことに思い至った。八日市の農村にはいくらでもこのような家並みがあるではないか。 むしろこれが近江の基本的風景である。

旧道が廃止されたり、あるいは国道となって拡張されたために古い家が取り壊されたり、あるいは生活が豊かになって家を建替えし、または新たに国道沿いの店を開いたり……そのようなことが滋賀県の旧中山道の大部分で起こらなかっただけのことである。
その反面として、新国道を中心とする新たな経済圏からは取り残されることになった。この選択は目的的であったのか結果論的であったのか、今も旧街道に住む人達に聞かなければ分からない。

栗東を過ぎていよいよ東海道との合流点草津に入る。門をくぐった寺の境内のど真ん中にどっしりとした石標がたって大きな文字で「右 東海道 左 中仙道」と彫られている。左右ともに建物で塞がれていて、これでは道標にならないではないかと思うのだが、元の地点が工事で失われ史跡としてここに保存することにでもなったのであろう。
草津本陣は公民館となっていて、軒下には易者が店を陣取っていた。

 
「右やばせ道、これより廿五丁」とある矢橋道標を過ぎる。

昔、草津の湖畔矢橋と大津打出の浜の間を渡し船がかよっていた。打出の浜は義仲寺の近く、大津警察署の脇には石場の渡し跡が残されている。矢橋の帰帆は近江八景の一つである。

  
真帆ひきて 八橋に帰る 船は今 打出の浜を あとの追風

瀬田の唐橋に着いた時は夕暮れどきだった。まさに近江八景「瀬田の夕照」にふさわしい。橋を渡りながら右手に広がる琵琶湖を眺める。京の喉元にあたるこの橋で古来多くの決戦が行われてきた。同時に平和な時は、ここから舟を出して夕日や月や桜や蛍を愛でた。芭蕉にはここを詠んだ句が多い。残念ながら今は朱色の鉄橋になっている。木の唐橋を復原できないものか。車の通らない木の歩道橋が欲しい。

橋のたもとに勢多橋龍宮の伝説が書かれている。俵藤太秀郷(藤原秀郷)が三上山のムカデ退治をしたことは伝説として知っているが、三上山を七周り半も巻いたというムカデは実はその首をこの橋までだして川底に住む琵琶湖の主神である竜王を脅かしたのだという。あとの話しはどうでもいいとして、20キロも離れた三上山と瀬田の唐橋をムカデの首でつなげた発想は雄大である。伝説とはいえ子供がバカにしないか。この説明札が教育委員会のものでなく、勢多橋龍宮秀郷社のものであることで少しは慰められた。

大津をすぎた頃は夕焼けも暮れつつあった。時間に余裕があれば大津絵の店に立ち寄ったであろう。「大津絵の筆のはじめは何仏」と彫られた芭蕉句碑の写真も撮ったであろう。逢坂山の関所跡の石碑はかろうじて写真に残った。

逢坂峠に蝉丸神社の石柱がある。フラッシュでこれを撮る。蝉丸の歌碑は見過ごした。
 
  
これやこの ゆくもかえるも 分かれては 知るも知らぬも 逢坂の関

古代、京からこの山、音羽山を越えるのは大仕事であった。
蹴上げの都ホテルを通り過ぎてようやく旅の終わりが実感された。この地点で4年後私は新婚所帯を始めることになる。この旅の始点日本橋が私の社会生活の始まりの場所であったり、終点近くの蹴上げが結婚生活の始まりの土地であったり、中山道は私の身近にある。もちろんそれは東海道でも同じではあるが。

鴨川に到着したのは11時半を過ぎていた。この日の強行軍で足が痛む。さすがにこの時間ではいつも人手でにぎわう京阪三条駅付近も人はまばらであった。鴨の川原で最後の夜をすごす。達成感が心地よい。明日は帰るだけだ。早起きは無用である。缶ビールをあけて旅の成就を祝った。大文字の送り火には二日はやすぎた。

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資料

中山道の歴史
 
中山道は古代の東山道を起源とする。この東山道というのは、古代大和朝廷のころは近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・下野・上野・陸奥の八国を指す広大な地域の総称であったが、しだいに畿内と東国を結ぶ街道の名として用いられるようになった。江戸時代に入り家康によって道の整備が行われ、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道が置かれてから本格的に発展した。

中山道と東海道はともに江戸と京都を結ぶ幹線道路だが、江戸時代には東海道の方が交通量も多く、宿駅も大規模であった。東海道の53宿、126里余(約490q)に対し、中山道は草津まで67宿、139里(約540q)と距離も長く、さらに木曽路をはじめとする山道や峠道が多いため、参勤交代における中山道の利用は、東海道に比べて約4分の1程度であった。表街道とよばれる東海道に対し、中山道は裏街道に甘んじてきた。

反面、東海道の大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど水による障害がほとんどないため、将軍家に献上する宇治茶を運ぶためのお茶壺道中や、幕末の和宮の降嫁など女性の道中には中山道が利用された。

中山道は古くは、信濃国木曽を通るため木曾街道、あるいは日本の中間の道というということで中仙道とも記されたが、江戸幕府は享保元年(1710)、中山道として名称を統一することとした。実際この旅でも、多くの標識に「仙」の字が使われているのを見てきた。正式には「ナカセンドウ」と読み、「中山道」と書くのが正しい。
  


中山道六十九次 (終点を草津とすれば六七次)
起点:日本橋(東京都中央区日本橋)

   1  板橋(東京都板橋区)           2  蕨(埼玉県蕨市)
   3  浦和(埼玉県浦和市)           4  大宮(埼玉県大宮市)
   5  上尾(埼玉県上尾市)           6  桶川(埼玉県桶川市)
   7  鴻巣(埼玉県鴻巣市)           8  熊谷(埼玉県熊谷市)
   9  深谷(埼玉県深谷市)          10  本庄(埼玉県本庄市)
  11  新町(群馬県多野郡新町)        12  倉賀野(群馬県高崎市)
  13  高崎(群馬県高崎市)          14  板鼻(群馬県安中市)
  15  安中(群馬県安中市)          16  松井田(群馬県碓氷郡松井田町)
  17  坂本(群馬県碓氷郡松井田町)      18  軽井沢(長野県北佐久郡軽井沢町)
  19  沓掛(長野県北佐久郡軽井沢町)     20  追分(長野県北佐久郡軽井沢町)
  21  小田井(長野県北佐久郡軽井沢町)     22  岩村田(長野県佐久市)
  23  塩名田(長野県北佐久郡浅科村)     24  八幡(長野県北佐久郡浅科村)
  25  望月(長野県北佐久郡望月町)      26  芦田(長野県北佐久郡立科町)
  27  長久保(長野県小県郡長戸町)      28  和田(長野県小県郡和田村)
  29  下諏訪(長野県諏訪郡下諏訪町)     30  塩尻(長野県塩尻市)
  31  洗馬(長野県塩尻市)          32  本山(長野県塩尻市)
  33  贄川(長野県木曽郡楢川村)       34  奈良井(長野県木曽郡楢川村)
  35  薮原(長野県木曽郡木祖村)       36  宮ノ越(木曽郡日義村)
  37  福島(長野県木曽郡木曽福島町)     38  上松(長野県木曽郡上松町)
  39  須原(長野県木曽郡大桑村)       40  野尻(長野県木曽郡大桑村)
  41  三留野(長野県木曽郡南木曾町)     42  妻籠(長野県木曽郡南木曾町)
  43  馬籠(長野県木曽郡山口村)       44  落合(岐阜県中津川市)
  45  中津川(岐阜県中津川市)        46  大井(岐阜県恵那市)
  47  大湫(岐阜県瑞浪市)          48  細久手(岐阜県瑞浪市)
  49  御嵩(岐阜県可児郡御嵩町)       50  伏見(岐阜県可児郡御嵩町)
  51  太田(岐阜県美濃加茂市)        52  鵜沼(各務原市)
  53  加納(岐阜県岐阜市)          54  河渡(岐阜県岐阜市)
  55  美江寺(岐阜県本巣郡巣南町)      56  赤坂(岐阜県大垣市)
  57  垂井(岐阜県不破郡垂井町)       58  関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)
  59  今須(岐阜県不破郡関ヶ原町)      60  柏原(滋賀県坂田郡山東町)
  61  醒ヶ井(滋賀県坂田郡米原町)      62  番場(滋賀県坂田郡米原町)
  63  鳥居本(滋賀県彦根市)         64  高宮(滋賀県彦根市)
  65  愛知川(滋賀県愛知郡愛知川町)     66  武佐(滋賀県近江八幡市)
  67  守山(滋賀県守山市)          68  草津(滋賀県草津市)
  69  大津(滋賀県大津市)


日本橋の中央にあった東京市道路元標は昭和47年に橋の北側に設けられた元標公園に移され、正式の道路起点としてプレートの元標が埋め込まれている。
東京市道路元標よりのキロ数

  横浜     29          千葉     37
  甲府    131          宇都宮   107
  名古屋   370          水戸    118
  京都    503          新潟    344
  大阪    550          仙台    350
  下関   1076          青森    736
  鹿児島  1469          札幌   1156


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