旧中山道徒歩旅行2

いこいの広場
日本紀行



7月31日(6日目)坂本‐旧碓氷峠‐旧軽井沢‐沓掛‐追分

雨上がりでまだ濃い霧のたちこめる中、いよいよ碓氷峠に入る。坂本からしばらく行くと国道18号線に別れ旧道にはいる。道標に「旧中仙道入口 刎石山頂を経て熊野神社に至る10k三時間」とある。国道18号線が左下にみえかくれする。旧道は道なきけもの道であった。雨上がりで靴が濡れ、足をさらに重くした。10分ごとに2分の休息をとる。峠越えは登山である。

途中、馬頭観世音の石碑がある。しばらく行くと「弘法の井戸」とのみ書かれた標識がでてくる。周囲をながめやると、草に隠れるようにそれらしき窪みの跡がみえた。空海は確か、池や井戸を掘るのが好きだった。その程度の連想ははたらいたが、結局由緒も知らぬまま記録写真だけ撮って通り過ごした。

うぐいすの声がしきりに谷間を飛び交う。滋賀の里では、うぐいすは春の訪れを告げるものと理解していた。山中では真夏にも鳴くものである。急に視界が開け、ようやく峠口から2時間で刎石山頂にたどりついた。標高1069mとある。はるか下に新道の国道18号線が見える。峠はまだ先だ。赤松の裂けた幹がいくつか残骸のようにたっている。落雷によるものであろう。一発「ヤッホー」と大声をはりあげたが無視されたのか、なにも返ってこなかった。

東を望むと左方に坂本の町と碓氷湖が見える。山頂に枯れ木が一本、その下に「旧中山道」という標識があった。道を間違えなかったことを確認する。道標は心強い。靴はすでにずぶぬれで靴下が重い。水虫にはもってこいの環境だ。シャツを絞ると汗がコップいっぱいほど採れた。

山頂でしばらく休んだ後、重い腰をあげ尾根伝いに次の山に向かって移動を開始した。垂直の木立が美しい。しばらく行くと
「一つ家の古碑」の立て札があった。
 「天明三年(1783年)浅間の焼砂のため埋没せり」とある。

それに続く数字の羅列が面白かった。幸い坂本の宿でもらったマッチ箱にこの意味が書かれていて、間違いなく一致した。野宿をしていたらこの面白みはなかったわけで、金を使っただけの効果はあった。あるいは雨のおかげというべきか。ともかくその数字は、

  
八●三千八三六九三三四四一八二四五十二四六億四百

とある。これを

  
山道は寒くさみしよ 一つ家に 夜毎に白く 百夜置く霜

と読む。

● は欠けているが恐らく「萬」であろう。また九と四を書きもれて、右に小さく加えたのが素直で愛嬌がある。この歌は弁慶がつくったとも言われている。しばらく行くと一見して弁慶よりは格調の高そうな歌碑がでてきた。思婦石と言われ、熊野神社の仁王門跡に国学者関橘守が建てたそうである。
  
  
ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 いまも恋しき 吾妻路のそら

山がひらけて霧積温泉ハイキングコースの道標があり人の臭いを感じるようになる。『人間の証明』でジョニーが母親と連れだって遊びに来たのはこの辺だったのだろう。まもなくしてやっと旧碓氷峠に着いた。旧碓氷峠の標高は1224mだから刎石山頂よりさらに155m登ったことになる。また国道18号線の新碓氷峠は956mであり、単に難所を歩いてきたというだけでなく268mも高く登ったという事実が二人の満足度をさらに高めた。

熊野神社へ至る石段の入口には左に「旧碓氷峠頂上」、右に「群馬県指定重要文化財碓氷峠熊野神社の古鐘」と書いた標識が並んでたってある。熊野神社は県境をまたいで建ってあるらしい。滋賀・岐阜県境の寝物語の里を連想させる。見る価値はあるとは知りながら、石段を登る元気もなく、峠のお茶屋で力餅を頼んで休むことにした。一皿70円であったが節約のため二人で一皿にしておいた。


ここから長野県旧軽井沢に入いる。道は広くなり舗装こそしていないがバスが通る。バスの後の砂埃がけたたましい。浅間が見えるほか、旅情は急激に減退する。下り坂ということも手伝って足取りは見違えるように速くなった。軽井沢は町全体が公園だ。歩く人も多くが短パンや半ズボンである。

軽井沢銀座でサングラスをかけた垢抜けした女性が腰をくねらせて歩いてきた。近寄ってみると、話す日本語までが粘っこい。変な日本人という女で、さらに二人の旅情を損ねた。道行く人の雰囲気に二人はどうも溶け込めていない。招かれざる客とでもいうのか。

旧軽井沢から離山で国道18号線に合流し、沓掛へ急ぐ。なだらかに裾野をひろげる浅間山(2542m)を始終右に見て舗装された新道をたどる。国道に沿って企業の健康保険組合や年金基金が所有する山荘の入口標識がある。アメリカの郊外の高級住宅街にも、これに似た長いアプローチを持った家が道路沿いにハウスネームプレートを立てていた。ともかく軽井沢地域は日本離れしている。

沓掛にはいると小さな川にかかる橋の向こうに沓掛時次郎の墓があった。昔のヤクザは正義の味方であったようだ。沓掛とは、昔旅人が道中の安全無事を祈って道祖神にわらじを掛けたことをいうのだそうだ。沓掛から追分へ行く途中に
「女街道」という立て札がある。

女街道 下仁田街道。俗に女街道と称し、また中仙道の脇街道として安易に通行ができ明治初年までさかんに利用された。ここから和美峠を越え下仁田を経て高崎に出て本街道と合流した。

追分の町にはいる手前に3mほどの、木柱が立っているだけの一里塚がある。軽井沢町教育委員会の立て札には次のように説明されていた。

史蹟追分一里塚 慶長九年徳川家康の命により江戸を起点として主要街道へ一里毎に一里塚が築造された。この中仙道にも一里毎に街道の左右に一里塚ができて、旅人往来の道標としての重要な使命を果たしたのであった。今はこの街道の塚も大方崩壊してしまったが、この追分一里塚はよくその原型を遺して当時をしのぶ事ができる珍重すべきものである。

追分にはいったころは夕方になっていて食事をする時刻であったが、いままで見なれたような種類の食堂が見当たらない。日も暮れたのでやむを得ず近くの「アサマモーターロッジ」に飛び込んだ。道路向かいの標識に
「国道18号線最高点 標高1003m」とある。群馬県にある新碓氷峠の956mより高い。長野県は日本のスイスだということに気づく。

浅間の南山麓を東西に貫く国道沿いは軽井沢から始まる広大な別荘地帯で、ここをノコノコ歩く人間を想定していない。このロッジ内のレストランも一見して高級で、メニューに中華そばやきつねうどんなどは当然のことのように書いていない。もっとも安いものを注文するとレタス数枚に乗せられたトマト五切れが出てきた。これで250円だ。

生まれて初めての高級食事の記念に領収書を持って帰りアルバムに貼り付けてあるが、他に一品、「BLT300円」とある。何を食ったのか覚えていない。これを二人で食べた。しっかりサービス料として一割とられている。計一人あたり300円で昨日の宿賃の半分である。

昨日の宿泊、今日の夕食と、当初の計画外の支出がつづきこれからは少し締めることにした。ここでも二人は場違いの客だったようである。
 
寝場所を探したが、国道の両側は潅木に覆われた溶岩が道路の際までせまり、寝袋を横たえるスペースさえない。二人は事前に合意していたかのようにロッジの前のブロック造りのバス停に入りこむ。足元にはワラが散らばり隅には糞があった。ブロックの中全体にサーカス小屋の臭いがする。

外は風が強く夏とは思えぬ寒さであった。寝袋の中でも一向に体が温まらない。リュックから下着を全部取り出し寝袋いっぱいに詰め込み首もとでしっかりチャックを閉じてようやく寝心地がついた。寒さと臭さと貧弱な夕食とまた金を使ったという無念さで昨日とはうって変わったわびしい一夜となった。群馬県坂本から旧碓氷峠を越え、長野県追分まで長いしんどい、しかし充実した一日が終わった。

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8月1日(7日目)追分‐小田井‐岩村田‐塩名田‐小諸

追分の朝、吐く息が白い。新聞によると昨日の最低気温は12度で長野県でも記録的な低温だったようである。浅間神社に寄り、芭蕉句碑を見る。石にはガイドブックの翻訳がなければ解読不能の漢字の羅列がある。芭蕉が更科紀行にみずから書いたのでなければ余計な余興である。

  
帰支飛寿石裳浅間能野分哉(吹きとばす 石も浅間の 野分かな)

町に入ると子供たちが道掃除をしていた。夏休みの課外活動かと思って聞くと、8月1日は「長野県を美しくする日」だそうだ。 町を出るあたりに追分宿の分去れ(わかされ)の史跡がある。

右に行くのが北国街道で芭蕉が木曽から北上して訪ねた更科を通り千曲川に沿って越後に通じる。左は中山道である。石碑の正面には、

 
「さらしなは右、みよしのハ左にて、月と花とを追分の宿」

という歌が彫られている。芭蕉のおかげで更科が田毎の月で有名であることを知った。奈良の吉野は桜の名所である。ここにいう「みよしの」はそれであろうか。並列させるには地理的に飛躍がありすぎる気がしないでもない。ともかく二つの街道を月と桜で代表させたところが大胆である。  
それはともかく他の面に記されている各所までの里程がまた丁寧であった。抜粋すると、江戸に38里、日光に44里、伊勢に92里11町、京都に93里半、大坂に107里半、金比羅に150里半、金沢に85里、新潟に66里、小諸3里半などとある。板鼻が江戸から28里であったからそこからまだ10里しか進んでいないことになる。碓氷峠でてまどった。

小田井に着くと5人の子供たちにつかまった。日中の道中でつかまったのは初めてである。写真を撮ろうとしているとその中の一人の母親が「オバサンも撮ってもらうか」といって仲間に入ってきた。騒ぎを聞きつけた隣のオバサンもやってきて、みんなで7人の記念写真となった。

最初のおばさんは気さくなひとで二人は自宅に連行され、午前のおやつをいただいた。ご主人も出てきて話しがはずむ。
高橋氏の家であった

「夜だったら泊めてやるんだがなあ」
「息子と話してる気がするだよ」
「彼女心配してるでよ」
「はあ。毎日手紙書いてます」

いとまを告げて道にもどったが年長の子ども二人がついてきて離れない。別に話すことはなくても、にこにことして大人の歩調に合わせている。一本道であるから道案内をしてやろうというつもりでもなかったらしい。我々は次第に接待の必要を感じはじめた。どこかいい所はないかと聞くと、もう少し行くと仙禄湖があるという。ほぼ小田井と岩村田の中間の小さな湖にボートがあった。道の両側には背の高いホップ畑が続く。湖でボート遊びをしたあと二人は満足した様子で帰っていった。

宿場の面影を残す古い家並みの岩村田を通る。左手に天然記念物の「桐生(あいおい)の松」がでてくる。 男松、女松が一緒に生え、根回りは2.5mとある。昔は高さ13mもの大木だったそうだが上部は枯れて樹形が痛々しく崩れていた。傍らには歌碑があった。

 
其むかし 業平あそむの 尋ねけん おとこ女の 松の千とせを

重要文化財「駒形神社」という石碑があったが写真を撮っただけで通り過ぎ、塩名田から小諸道を北上して懐古園へ急いだ。田圃の真ん中に円形の墓地らしき木立が見える。仕事を終えた人の集う姿もあった。日本の原風景を見たおもいがした。夕日になりつつある古城にかけ登り、藤村のあの詩に出会いに行った。堂々とした石碑が待っていた。

  
小諸なる古城のほとり  雲白く遊子悲しむ 
  緑なすはこべは萌えず  若草もしくによしなし
  しろがねの衾の岡辺   日に溶けて淡雪流る
  あたたかき光はあれど  野に満つる香りも知らず
  浅くのみ春は霞みて   麦の色わずかに青し
  旅人の群れはいくつか   畠中の道を急ぎぬ
  暮れゆけば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛
  千曲川いざよう波の   岸近き宿にのぼりつ
  濁り酒濁れる飲みて   草枕しばし慰む


中山道から寄り道をしてでもこの詩を見たかった。そして実際の古城のほとりに降りて千曲川を見、草笛を聴きたかったのである。この詩は高校一年目の国語の教科書に出てきたものであった。小説では夏目漱石の「草枕」が最初であったと思う。二年や三年でも沢山の小説や詩に出会ってはいるが一年生での出会いがなぜか印象が強い。

この詩ほど旅情をそそる詩はない。この詩碑の文字面を手で撫でたくなるような、初恋の女性に会ったような懐かしい感動のたかまりを押さえることができなかった。

この詩には曲が作られている。メロディが不規則で少し難しいが、鮫島有美子が歌う
千曲川旅情の歌はすばらしい。演出されているかのように草笛が聞こえてくる。かぼそくてかなしげな音だ。黒い布で頭を覆った老人が吹いていた。横山祖道といい昭和33年から小諸に移り住み以来懐古園で座禅を組み草笛を吹いているという。

そばに若山牧水の歌碑があった。藤村の詩碑に圧倒されて影が薄い。

  かたはらに 秋くさの花 かたるらく 
 
   ほろびしものは なつかしきかな

千曲川に降りて一週間分の洗濯をし、衣類を川原の石の上にならべた。朝には乾いているだろう。川原に子供はいない。せせらぎだけの静けさだ。旅情に包まれて千曲川の川原に横たわる。

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8月2日(8日目)小諸‐塩名田‐八幡‐望月‐芦田‐白樺湖‐笠取峠‐長久保

目が覚めて驚いた。乾いているはずの洗濯物がびしょびしょに濡れている。夜露にしては濡れかたが尋常でない。雨が降ったはずはなかった。二人の寝袋が水に浸かった形跡はない。少しの高低差で浸水を免れたのであろう。も一度懐古園に戻る。展望台から朝の千曲川を眺めた時、上流にダムがあるのを知った。夜の間に放流があって水位が微妙に上がったのであった。河原でのキャンプは注意を要する。

もう観光客がきている。
若い女性の4人組だった。ようやく心待ちにしていた出会いが来た。
「ちょっとシャッターを押してくれない? 」
できるだけそっけなく快諾する。
彼女らは写真を撮り終わると何の余韻も残さずに立ち去って行った。

二人は小諸を後にして塩名田の中山道にもどる。中津橋で千曲川を渡る。背景には常に浅間山がある。八幡の古い家並みを通り過ぎた頃、後ろから小型トラックが止まった。

「どこまで行くのだ」
「望月まで」
「よし、途中まで乗せてやるから乗んな」

二つ目のルール違反を犯した。ヒッチハイクは相手からの好意も拒否すべきか否かまでは詰めていなかった。望月の手前のトンネル付近で道路工事をやっていてそこで降ろしてもらった。

望月を経て芦田に向かう。望月は古代より近江の逢坂の関とともに駒迎えの行事にかけて歌に詠われている。望月とはそもそも満月のことである。平安の昔信濃の馬を宮廷に献上する日が8月15日の仲秋の満月の日で、この土地が信濃十六牧中で最も多くの馬を献上したことから望月が地名になった。
献上される馬は逢坂の関で朝廷から出迎えを受けた。

逢坂の 関に清水の 影見えて いまや引くらん 望月の駒 紀貫之
望月の 駒ひきわたす 音すなり 瀬田の長道 橋もとどろに 平兼盛
相坂の 関のむら杉 葉をしげみ 絶間にみゆる 望月の駒 源国信

芦田を通って、連日の寄り道を敢行した。目的地は白樺湖である。この華麗な名前の誘惑に抗しがたかった。軽井沢以来、この旅で白樺の木々は幾度となくみてきたが、湖との組み合わせが歌謡曲に出てきそうな雰囲気があってなんとなく叙情的である。

旅行案内書にも定番のコースになっていて、是非見ておきたかった。しかし実際見た白樺湖は、休息するには格好の場所であったという以上の印象を残さなかった。男二人でボートを浮かべて時間をつぶす場所ではない。

芦田に引き返し
笠取峠を越えて行く。峠で松並木の出迎えを受ける。日本人は松並木が好きだ。安藤広重の浮世絵による固定観念があるのかもしれないが、松並木に入いると不思議に落ち着いた気分になる。

桜並木やイチョウ並木では冬困る。常緑樹でも、日光のような杉並木では厳粛であっても暗すぎる。日本的情緒にあった松の枝振りがどうやら決め手らしい。峠は夕暮れで、ヒグラシの声がものさびしい。


長久保に着いた時は既に暗かった。中学校のグラウンドにシーツを広げて寝る準備をしていると三人の子供の訪問を受けた。一人は服装からして中学生と見た。トランプで遊んだあと花火に興じて、この日も充実した。

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8月3日(9日目)長久保‐和田‐唐沢‐和田峠‐下諏訪

久保の家並みを改めて眺めてみると二階が道に突き出ている。というより、一階が道から半間ほど引っ込んでいる。たまたま写真に撮った家がそうだったのか、長久保特有のものなのか、どこにでもあるものなのか、知らない。

唐沢の民家で二階の木戸を開け放して主婦達数人が集まってなにやら作業をしている風景に出くわした。下からでは何の仕事なのか見極めることはできなかった。養蚕の仕事かもしれない。

唐沢を出た所で二度目のヒッチハイクの誘いを受けた。下諏訪まで行くらしかったが和田峠は是非歩きたかったのでその手前まで乗せてもらうことにした。峠をはさんで東餅屋と西餅屋がある。茶屋でなくて餅屋であるのがよい。

小田井以来ここまで、村はすべて小さく静かであった。道は土で、家のたたずまいも古くて趣がある。付近にビルや工場も見当たらない。店や食堂さえもない雰囲気である。中山道をそのままにして生きている人達のひそかな息づかいが聞こえるようであった。買い物があれば下諏訪か小諸まででかけるのであろう。

和田峠は雪除けのトンネルで覆われている。標高1531mで国道の峠としてはかなり高い。その日は霧がことのほか濃くてトンネルを西餅屋方面にでたあたりでは視界は10mもなかった。人通りは全く無く、これが夕暮れであったら若干心細くなるのではと思われた。


峠を降りた所に下諏訪町という道標があらわれ、一息ついた心持ちであった。今夜は諏訪大社に泊まることにした。境内で寝るのははばかれ、裏にまわってうっそうとした森の中にシーツを広げて蚊帳を吊った。 ここなら銭湯があるだろうと探して、坂本以来4日ぶりの風呂に入った。垢が面白いほどこぼれ落ちる。温泉が出るらしくて湯は出し放題、 入浴料は気持ちばかりの10円であった。

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8月4日(10日目)下諏訪‐塩尻‐洗馬‐牧野‐本山‐日出塩‐桜沢‐贄川

諏訪湖まではすこし距離があり、湖には寄らずに旧跡塩尻峠の頂上をめざす。途中、下のほうで田仕事をしていたおばさんから声をかけられた。「ごしていでねえ」と言ったように思う。

顔を見合わせ言葉の意味を探ったが二人とも分からない。おばさんに笑顔を送って通り過ぎた。

峠に至る道端にすずしげな清水が滴り落ちている。目が覚めるほどに冷たくて美味しかった。水筒一杯に詰めてまた歩き出す。峠の頂上に辿り着く。手前に大木の幹を縦割りにしてこしらえた道標があった。

  
中山道 京都道 京都三条大橋へ八四里

とあり、その左側の余白にふんどしひとつの駕籠かき風景がユーモラスに描かれていた。

峠からは岡谷の展望がひらけ、その先に諏訪湖がかすんで見えた。本陣跡をみて塩尻峠をあとにする。平地に降りてしばらく行くと、姿のよい小振りの一本松が植えられた塩尻一里塚に来た。立て札には、慶長年間に五街道の整備がなされ日本橋を起点として一里塚が築かれたこと、今は殆どが無くなり原型をとどめているのはごくわずかであることなどが記されている。
 
どの説明もほぼ同様で次第に刺激が薄れてきている。小高く土盛りをして松を一本植えてある風景までもが見慣れたものになってきた。


途中、街道沿いにある平出遺跡を見た。土師式の家を復原したもので中に入ると意外に涼しかった。昭和24年に発掘され26年に復原された。様式は原始寄棟造で説明書きに「一千数百年前の土師時代の民家の復原では日本に於ける最初かつ唯一のものである」とある。

周囲に群生するひまわりが盛りで、古代の粗野な素朴さによくあっている。

木曽義仲が馬を洗ったという
洗馬につく。この辺りから木曽路の終わりまで奈良井川・木曽川と中央本線が右左に寄り添う。

牧野、本山、日出塩を通り桜沢へ急ぐ。牧野の国道はまだ舗装されておらず沿道の民家は土埃で真っ白になっていた。少々の雨では洗い落ちないほどにこびりついているようだった。


本山では板屋根の民家が目を引いた。時代劇にでてくる長屋のような平屋の屋根に多くの石が並べられている。屋根石はこれまでに見なかった風景である。

桜沢に来て、なじみある「是より南木曽路」の石碑を確認する。ここからしばらくは木曽路である。藤村の故郷であり芭蕉が更科へ向かうときに通った木曽路である。中山道のハイライトが始まる。

贄川まで足をのばし、奈良井川の川原に落ち着くことにした。奈良井川は千曲川と合流して信濃川となって日本海へ注ぐ。奈良井川が木曽川にバトンタッチをするまで二人は流れに対向して歩いている。
昨夜に引き続き、今日も子供の訪問がない静かな夜だった。


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