中原街道



江戸−小杉佐江戸瀬谷用田平塚中原

いこいの広場
日本紀行



中原街道は江戸と平塚を結ぶ東海道脇往還のひとつであるが、その存在は古くからあったとされ、ところどころに古代東海道と重複する道筋が確認されており、また一部では鎌倉街道の道筋と交差する場所が残っている。1590年徳川家康はこの街道を通って江戸入りした。また小杉と平塚中原に御殿が作られると、将軍が駿府との往復の際や鷹狩の際などにも利用された。家康の死後も、遺骨が久能山東照宮から日光東照宮に分骨されるときに利用されたという。

1604年、徳川幕府によって東海道が整備されると、幹線道としての役割は東海道に譲るが、脇往還として沿道の農産物等の運搬や東海道の煩わしさを嫌う庶民や商人によって利用された。赤穂浪士も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたと伝えられている。

江戸は桜田門から出て、平塚中原御殿までおよそ60kmの中原街道を歩く。中原街道の起点を桜田門でなく虎の門とする説もある。江戸城の内郭、外郭かの違いであり、甲州街道における半蔵門と四ツ谷門の関係に相当する。内堀の半蔵門は甲州口御門と呼ばれたことに鑑み、中原街道においても桜田門をその出発点としよう。



江戸

桜田門は、井伊大老暗殺の桜田門の変で知られる。1860年3月、雪が積もった桜田門の外側で、大老井伊直弼が尊攘激派の水戸・薩摩の浪士たちに襲われて殺された。櫓門と高麗門とが直角に配置され枡形の典型を見ることができ国の重要文化財に指定されている。

桜田門交差点から桜田通り(国道1号)を南に向かって歩き出す。右手に警視庁、左手に法務省の赤レンガの建物を見ながら当庁してくる公務員の流れに混ざって歩くとまもなく総務省の前に霞が関跡の案内標識がある。江戸時代、霞が関には武家屋敷が建ち並んでいた。場所の比定にあたっては『江戸名所図会』に「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州海道にして、関門のありし地なり。」と記述されていることが根拠とされる。

次の交差点が虎の門である。ここに江戸城の外郭36門のひとつ虎ノ門があった。交差点の左手に虎ノ門の旧蹟碑がある。旧街道はこの交差点を渡ってすこし右にずれ、三井ビルの前の道に入る。

左手に金刀比羅宮がある。街道際の境内の一角に喫煙場所が設けられていて、出勤前の男女が群がって煙を巻いている異様な光景を現出している。金刀比羅は讃岐丸亀藩主京極家の江戸屋敷跡で、万治3年(1660)、讃岐の金刀比羅宮を三田の江戸藩邸に邸内社として勧請したのが始まりで、その後延宝7年(1679)に藩邸の移転と共に現在地虎の門に移ってきた。

桜田通りに戻って、街道左手のコンビニの前に「乃木将軍由縁地」の碑があった。明治11年乃木歩兵第一連隊長がここに新居を構え新婚生活を始めた場所だという。

虎ノ門三丁目交差点で街道を離れ愛宕神社に寄っていく。交差点を左に折れて愛宕通り(都道301号)を右折し愛宕神社参道を上がっていく。標高26mの愛宕山の山頂に神社はある。裏手から入ってきたようだ。

男坂と呼ばれる表参道は垂直に見える急勾配の86段の石段である。寛永11年三代将軍家光公の御前にて、丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬で86段を駆け上り、境内に咲き誇る源平の梅を手折りして将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ、男坂は「出世の石段」としてその名も全国に知れ渡った。

頂上からは東京湾や房総半島までもが望め、江戸の名所として多数の浮世絵にその姿を残している。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しなから会談し、江戸城無血開城へと導いた。また、愛宕山は浅草の市に先駆けてほおづき市・羽子板市が開かれ、現在も6月23日の千日詣りではほおづき縁日として賑わっている。

「伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり」といわれるほど江戸の庶民には人気のスポットであった。

境内中央に「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」が建っている。万延元年、水戸の浪士はここに集結、神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした。社殿には曲垣平九郎盛澄が出世階段を駆け上る絵と水戸浪士が集結する絵が描かれた絵馬が掛けられていた。

飯倉交差点手前で右の旧道に入り、すぐに雁木坂の手前で左に折れて街道に戻る。

土器坂(かわらけざか)を下って赤羽橋交差点の手前の路地を右に入った飯倉公園に赤羽接遇所跡がある。赤羽接遇所は、安政6年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれていた。プロシアの使節オイレンブルグやシーボルト父子が滞在している。

赤羽橋交差点を渡り、慶応大学三田校舎の東門前を通り過ぎる。

三田2交差点で桜田通り(国道1号)は右折するが、中原街道は、もうひとつ先の三田3信号を右折、すぐの二股を左に取って聖坂を上っていく。聖坂の由来は、古代中世の通行路で、商を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。

聖坂の途中、右手に亀塚稲荷神社の小さな祠がある。小さな鳥居をくぐった右手奥に港区最古の文永3年(1266)の板碑を始め、正和2年(1313)、延丈6年(1361)などの古い「弥陀種子板碑」がある。

左手の亀塚公園は江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷があった場所で、明治維新後は皇族華頂宮邸があったが、昭和8年華頂宮家が廃され建物は壊された。公園内の亀塚の伝説が伝わるという塚は古墳とみられるがその証拠はえられていない。ここは三田台から高輪、八ツ山に及ぶ一連の丘陸地の東端で、庭内には老木、大樹が茂り、遥かに房総の山々を一望のもとに見晴らす勝地であった。

右手に幽霊坂が延びている。昔は坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが今はモダンな住宅が建ち並び幽霊の気配は微塵もない。

その先左手の三田台公園に伊皿子貝塚と竪穴住居の復元模型がある。住居模型は子供だましのような代物だが、貝塚は実物を接着剤で固めてはぎとり展示されているもので実感がある。縄文人が高輪の台地の下に広がる海から採取した貝に加えて、土器・石器・魚や獣の骨などが一緒に出土した。浮世絵を配した「三田」の案内板がある。「三田」は「御田」に由来し、神領の呼び名であった。三田丘陵を縦断して古代の奥州路、中世には鎌倉街道と呼ばれる街道が南北に走り、今の第一京浜国道が海岸線であった。江戸時代、このあたりは月見の名所であったことから「月の岬」と呼ばれ、風光明媚な場所として知られていたという。

伊皿子信号を直進すると右手に広大な敷地の旧高松宮邸がある。高松宮邸西端の塀と都営高層アパートの間の細道を入っていくと突き当たりの林の一角に「大石内蔵助自刃跡」碑が立つ。この場所は熊本藩細川家の下屋敷の一部で、元禄16年(1703)2月4日午後2時、大石内蔵助ら17人の赤穂義士が切腹した。この事件は日本文化の美学にまで高められた。

街道のすぐ左手の路地を入っていくと17人の赤穂義士の墓がある泉岳寺に出る。

ここまで中原街道といっても都内のオフィスや高層住宅街の谷間を貫く幹線道路で、街道の趣きを味わう余地がなかったが、ここに来てようやくすこし昔の雰囲気を感じさせる家並みに出会った。虫籠窓の蔵を残す老舗虎屋をはじめとして、その先にも二階建ての庶民的な店舗が軒を連ねている。

左手承教寺の山門前に二本榎の碑がある。東海道品川宿の手前、西側の「高縄手」と呼ばれていた小高い丘陵地帯にある寺に大木の榎が二本あって、旅人の良き目標になっていた。この榎を「二本榎」と呼ぶようになり、それがそのまま「二本榎」(にほえのき)という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残った。その横にいる狛犬は今まで見たなかで最も愛嬌がある。頭から顎まで、目といい鼻といい出っ歯と武者髭の口回りといい、個性的な顔つきがなんとも魅力的である。

高輪警察署前信号手前右手の高輪1丁目緑地に高輪の由来が記された案内板がある。現在の田町駅周辺から二本榎に続く古道、奥州路の道沿いに広がる地域は東京湾に面した高台で、一直線の縄手道が走っていた。「高き縄手」から高輪となったといわれる。

その先左手光福寺の境内をはいって左に曲がった右手に子育て地蔵がある。その地蔵の姿が消えゆく一本足のようで、幽霊のようにみえ、幽霊地蔵と呼ばれているという。確かに気味悪い。

高輪三丁目衆議院議員宿舎前の信号を右折、国道1号に突き当たり左折して五反田駅に向かって坂を下る。

JR高架をくぐって左折、池上線五反田駅前で都道2号に移り大崎橋で
目黒川を渡る。橋を渡る電車が川面に写る。色づき始めた川端の木々が秋の深まりを感じさせた。沿道の商店街は下町の雰囲気を残して庶民的な飲食店が軒を連ねている。

旧道は中原口で国道1号と交差、歩道橋で右側の中原街道都道2号に移る。高速道路の高架下を渡ったところでルートインを右に曲がりこんで北側の旧道に入って行く。すぐ左手に「旧中原街道」の標識が立っている。

右手、西五反田六郵便局の先の角に「子別れ地蔵」と呼ばれる地蔵が立つ。享保12年(1727)に建てられたもので、かつての桐ヶ谷火葬場に続く道筋で子に先立たれた親がその亡骸を見送った場所であるという。

すぐ左手のマンション入り口脇に旧中原街道供養塔群(一がある。2m近くの地蔵を中心に地蔵菩薩、馬頭観世音、聖観音立像が安置されている。いずれも江戸時代中期のものである。

その先にも供養塔群がある。子育て地蔵、庚申塔、供養塔など6基が庇の下に安置されている。

平塚橋で現中原街道(都道2号)に合流する手前右手に骸骨の全身を展示した整体院と、座敷箒・スダレを売る店が並んだ心和ませる家並みがあった。

合流点に旧中原街道の説明板が立っていて、荏原地区に1kmほどの旧道が残っていることを案内している。

中原街道は、武蔵国と相模国を結ぶ街道として中世以前から続く古道です。中原街道と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入って徳川幕府が1604年に整備を行った以降のことです。江戸と平塚間を結ぶ東海道の裏街道として、農産物等の運搬に利用されました。現存の旧中原街道は、荏原一・二丁目に約950mに渡って、ほぼその道筋を残しています。

その先右手バーミアンの西側の路地入口に小さな「平塚の碑」の案内標識が立っている。その路地を入ってすぐ左手の奥まったところに碑はあった。昔この辺に平塚と呼ばれる大きな塚があった。永保3年(1083)の後三年の役の際、源義家を助けた弟新羅三郎源義光が奥州からの帰途この地で夜盗に襲われ多数の将兵を失った。平塚村の村人たちは塚を築いて慰霊したという。

旗の台1丁目の右手に寛文5年(1665)建立の庚申供養塔がある。日蓮宗の影響で石塔には青面金剛・三猿・日月が彫られていない。「南無妙法蓮華経」の髭題目が刻まれている文字塔である。これは旧中延村のほとんどが日蓮宗の信徒だったためといわれている。

庚申供養塔のすぐ先、「昭和大病院前」信号手前の右手角に「札場の跡」の石碑がある。説明板が教育委員会のものでないのが気になる。敷地の所有者芳根氏によって建てられたものか。

昭和大学病院前交差点から短い区間、旧道は左に入って右に曲がる。合流点手前の左側には賑やかな旗の台東口商店街が延びている。

都道2号に合流。品川区から大田区に入り環状7号を横切る。

右手に洗足池が現れる。洗足池は、武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、昔は千束郷の大池と呼ばれ、漕漑用水としても利用されていた。池畔の風景は初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていた。

池のほとりを一周しようと右手に歩き出そうとするや、作業員から歩行禁止の合図を受けた。一旦街道に出てすこし戻った後左の路地を入っていくことになる。水辺の遊歩道ではなくて池の姿が見えない一般道路をめぐる不便さに気が削がれた。

妙福寺境内に入っていくと池のほとりに玉垣に囲まれて日蓮上人袈裟掛けの松がある。幹の太さから見てまだ若く見え、案内板によれば三代目の松という。

松の近くに馬頭観世音供養塔があり、「北 堀之内碑文谷」「東 江戸中延」「南 池上大師道」「西 丸子稲毛」と刻まれた道標を兼ねている。天保11年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を析って建てられたものである。

正面から池の左に回るところに中原街道改修碑がある。長文の碑文ははぶいて最後の「大正12年4月」という建立銘文だけ確認できた。かつて街道の難所だったこの付近を6年かけて改修したという。

洗足池からすこし先の右手上がり坂角に道標を兼ねた庚申供養塔が立ち、「従是九品佛道」と深く刻まれている。元は延宝6年(1678)に建てられた旧碑が文化11年(1814)に再建されたものである。九品仏とは世田谷区浄真寺のこと。

呑川の手前に石橋供養塔がある。正面には「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれている。安永3年(1774)に雪ヶ谷村の住人が、石橋の無事と通行人の安全を祈って建てられた供養塔である。

街道は環状8号の高架をくぐったところで都道2号を右に分け、左の旧道に入って行く。やがて道は切り通しの坂を下って行く。昔は沼部大坂という難所であったが、今は桜坂とよばれる桜並木となっている。

しだいに多摩川が近くになってきた。右手の東光院の南西の角に六郷用水跡があり、辺りは、ジャバラとよばれる足踏み水車がのどかに回る親水公園として整備されている。六郷用水は慶長2年(1597)の測量に始まり、14年という歳月を費やして完成した農業用水路である。多摩郡和泉村(現狛江市和泉)で多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領を経て、六郷領へと入り、矢口村の南北引き分けで北堀(池上、新井宿、大森方面)と南堀(蒲田、六郷方面)とに二分された。

旧道は東急多摩川線を渡って多摩川の土手に突き当たる。土手に上がるときれいに整備された河川敷が広がっていた。見晴らしがよく川縁から対岸までよく見渡せる。昔の渡し場跡の史跡は残っていないが、丸子橋の数十メートル下流に丸子の渡しがあり、昭和10年まで運営されていた。

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小杉 

堤防を北に歩いて丸子橋を渡り、東京都から神奈川県に入る。下流の鉄橋を新幹線が頻繁に渡る。

丸子橋を渡り土手を少し左に行ったところに丸子の渡し跡を示す標柱が立っていた。土手下は「児童交通公園入口」信号で、旧道がここから復活している。旧道は丸子橋交差点を右にとって(左に行くのは網島街道県道2号)県道45号に合流する。歩道に中原街道の標識があった。

右手に大きな門塀のある原家の門前に大きな「川崎歴史ガイド 中原街道ルート案内図」が設置されている。中原街道最初の宿場であった小杉宿の遺跡が網羅されていて大いに助かった。「中原街道 右東京十粁 左平塚五十粁」と書かれた道標がある。原家が個人的に立てたものだ。江戸―中原間60kmの6分の1を来た計算になる。

慶長13年(1608)徳川2代将軍秀忠が中原御殿と同様に、ここに御殿を建てた。家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍が鷹狩りなどの際、この御殿で休息し、さらに街道を通る西国の大名なども利用した。やがて東海道が整備され、御殿の存在意義は薄れ、万治3年(1660)までに建物はすべて移築された。その後小杉は寛文13年(1673)に宿駅に指定され、宿場町として存続することになる。

原家のすぐ右手に旧名主安藤家が代官から賜ったものといわれる長屋門が残っている。門の内側にある高札の他、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く遺されている。

右手に明治3年創業の石橋醤油店がある。広い敷地には古い建物が残っている。昭和24年に操業を終えるまで、ここには大樽を据えた醸造工場や蔵が建ち並び活況を呈した。

その先で街道は左―右と直角にまがる曲尺手(ここでは「カギの道」と呼ばれている)に差し掛かる。最初の左折地点の右側に御殿の表門があった。路地入口の上に「こすぎごてん表門跡」の標識がある。路地をはいって左手奥まった所に「小杉御殿御主殿跡」がある。今は御主殿稲荷が祀られている。

その先突き当たりを右におれて左折したところに小杉陣屋跡がある。狭い一角に石鳥居と奥に小さな祠が見えた。

突き当たりを反対に左に折れて右折すると左手の陣屋町御神輿倉庫がならぶ御蔵稲荷の境内に小杉御殿の御蔵があった。当時はこのすぐ裏側に流れていた多摩川を背後の守りとしていた。当時の多摩川は、等々力緑地になっている。

カギの道にもどる。最初のカギ型の最初の曲がり角は西明寺参道に続いており、仁王門をくぐると松の植え込みの中に宝篋印塔、常夜灯などが林立する落ち着いた境内があった。明治6年には本堂に「小杉学舎」が置かれ小学教育の場となった。

カギ型の二つ目の角を曲がった先、西明寺交差点バス停の後ろに小杉駅供養塔がある。供養塔左側面には「稲毛領小杉駅」とあり、台座に「東江戸 西中原」と刻まれていて、小杉が宿駅であったことと中原街道が江戸と中原とを結ぶ道であったことを示している。

その先左手角の祠に庚申塔がある。古くは油屋(小林家)の角にあるので「油屋の庚申様」と呼ばれていたらしい。今はモダンな家が建っていて「油屋の庚申様」は意味をなさなくなった。台座には東江戸道、西大山道、南大師道と刻まれ、道標になっている。

小杉十字路で府中街道(国道409号)と交差する。府中街道は明治になって整備され、交差点付近には旅館、料理屋、劇場などが建ち並び賑わった。その先、二ケ領用水本流を神地(ごうじ)橋で渡る。二ケ領用水の本流は稲毛領と川崎領を潤した。

左手、中原接骨院の前に旧中原村役場跡の標識がある。明治22年、橘樹(たちばな)郡6ヶ村が合併し、中原村が誕生した。村名の決定には6ヶ村の各代表による入札方式が取られ中原街道にちなんで「中原」に決まった。役場の位置も村の両端から実測により中間点に建てられたという。

街道は川崎市中原区から高津区に入り、県道14号との千年(ちとせ)の交差点にさしかかる。旧道は交差点を渡って右斜めに上がっていく。中ほど右手に立派な門構えの旧家が建ち、敷地に2棟の白壁土蔵が重厚な威風を呈している。

旧道が県道45号に合流する地点に影向寺入口の看板があり、影向寺へ寄ることにした。すぐだろうと思っていたら大誤算で、2km近く歩いたのではないか。影向(ようごう)とは、神仏が憑るところという意味だそうだ。影向寺は天平12年(740)、聖武天皇の命を受けた僧行基によって開創されたと伝えられる古刹である。正面の薬師堂は、江戸時代中期の元禄7年(1694)に建立されたものである。

入口右手には影向石と呼ばれる大きな石がある。奈良期に建てられた塔の心礎として使用されたものだが、中央の窪みには常に霊水が湛えられ乾くことがなく、目の病を癒す効験があると伝わる。

中原街道の影向寺入口にもどる。そこから左手に旧道の延長らしい道が延びている。旧道に入っていくと左手に天照皇大神碑、青面金剛、西国百番供養塔などの石仏が並ぶ。道は下って右に折れて県道に合流する。

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佐江戸 

街道は野川を過ぎ川崎市高津区から横浜市都筑区に入る。

第三京浜のガードをくぐって、道中坂下信号手前左手に鎌田堂がある。堂の背後に鎌田兵衛正清の舘があった。鎌田正清は源義朝に仕え、尾張の長田忠正の屋敷で義朝とともに忠正に暗殺された。江戸時代は念仏道場として繁栄、道場坂の名を残した。今の道中坂である。

道中坂下信号から右斜め前に短く旧道が残っている。県道に合流した後向坂で再び右斜めに入っていく。右手に門塀を構えた旧家らしい家が建つ。生垣の奥に品格ある長屋門が覗かれた。

右手高台にのちめ不動がある。文久2年(1864)のちめの住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀った。二間四方の白木造りで狐格子が清楚な佇まいを見せている。

旧道らしい自然な曲りをたどって宮の下で県道に合流する。右手高台にあるのは山田神社である。街道沿いに六地蔵の他二基の百万遍供養塔などが一列に並んでいる。

「中川中学校前」バス停の先、「清林寺前」信号の手前右手に嘉永4年(1851)の馬頭観世音菩薩がぽつねんと立っている。

勝田橋で早渕川を渡った先で道は二股に分かれ、右手の旧道に入る。すぐ右手に最乗寺、左手石段の上に杉山神社を見て坂を上がる。上がりきった左手には広い林を囲うように柵が延々と続いている。広大な屋敷林は関家の敷地である。

旧道は港北ニュータウンのマンション群に突き当たり途絶する。左折して跨道橋の右脇の階段をおりて県道45号に合流する。

県道をすこし戻って先の関家を拝見することにした。関家は江戸時代、大名主を勤めた旧家である。高台にある駐車場から見渡すと数棟の建物の中に茅葺土蔵が残っていた。

真っ直ぐな道で港北ニュータウン内を突き進み、突き当たり「向原」信号で右折、その先「大塚原」信号十字路を左折して県道45号は旧道筋に戻る。

大塚原からは沿道の景色が一変して田畑が広がる農業専用地区である。

星谷の先、「原庭」バス停の所で右手に祠に入った庚申塔がある。正徳4年(1714)の建立という。

そのすぐ先左手には祠に入った馬頭観世音がある。新しい馬頭観世音の後ろに隠れるように古い馬頭観世音があった。古い全体像が見えない。

開戸バス停先右手に文化5年(1807)の庚申塔と伊勢大神宮の祠がある。

右手に弓形の旧道が残っている。

滝ヶ谷戸バス停の後ろに石仏群がある。

街道はまばらに点在する庚申塔、地蔵、祠を見ながら佐江戸交差点にさしかかる。

左手に門扉を構えた
旧家(高橋家)がある。

佐江戸は小杉に次ぐ中原街道2番目の宿場である。地名「佐江戸」は「西土」と書かれていたのを、江戸の左に当たるので「佐江戸」となった。辺りを見回しても旧街道筋の風情を感じさせるものはなかった。

右手に子育て地蔵がある。

信号交差点角左手に二十三夜塔と双体道祖神がある。

街道は地蔵尊前信号丁字路を右折、広い車道に出る。右手バス停の後方に2体の地蔵尊と地神塔がある。

街道は落合橋で鶴見川を渡る。沿道は中山工業団地で、殺伐とした風景が続く。

JR横浜線を越え宮の下交差点を右折したところ右手に杉山神社がある。中原街道沿いに杉山神社を多く見かける。杉山神社に隣接する長泉寺の入り口に元禄6年の庚申塔がある。庚申塔の前の道は鎌倉街道で、県道109号を横切って南の方に延びている。

宮の下交差点から左手に短く旧道が残って寺山町で合流している。

左手に4体の石仏がある。中央の二体は左が慶應2年(1866)の道祖神で、右が寛保元辛酉(1741)の地蔵である。

寺山町で旧道は県道と合流、その先は長坂という文字通りなだらかな長い上り坂が続く。丘陵を上がり下りしながら横浜市緑区から旭区に入る。

「都岡辻」バス停近くで右手に指差し道標を兼ねた庚申塔があり、左側面に「左江戸ミち」右側面に「右かな川」と刻まれている。都岡辻で東西に交差する道は旧国道16号らしく、地図をみるとその道筋に川井宿、下宿の地名が見える。昔の宿駅でもあったのか。

日蓮大菩薩の報恩塔には文政9年(1826)の銘が読み取れる。

右手に「都筑郡役所創設之跡」碑をみやりながら御殿橋で帷子(かたびら)川を渡る。天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入城したときこの橋を渡ったこと、家康が中原御殿に向かう際この先右手にある下川井御殿を休息場所にしていたことから「御殿橋」の名がついた。

その下川井御殿が御殿橋信号を右折した左手にあったという。街道から住宅地の裏手にかけてこんもりした小山がある。森の手前に土塁の遺構らしき土手が横たわっていた。

街道右手の祠に宝永4年(1707)の地蔵がある。顔だけ出して全身をピンクの前掛けで覆い、前掛けにはびっしりと細かな漢字で「摩訶般若波羅蜜多心経」が記されている。

下川井インター交差点のひとつ手前の十字路右角に下川井町内会掲示板に隠れるようにして青面金剛庚申塔と石塔二基が並んでいる。

下川井インターを潜り旧道は県道から分かれて左手擁壁の石段を上がっていく。上がりきると造成地や重機置場、工場など雑然とした区域の中を通りぬけ、旧道の環境は完全に破壊された格好である。

車道と交差してなおも工場地帯を行くと右手「(株」大雄」の角に立つ電柱脇に
一里塚跡の標柱があった。側面に「塚の大きさは、直径3m、高さ1mあったという。中山の宮下より1里、大和市の桜株より1里だそうだ。」とある。書き振りから教育委員会のものではなく私的に立てられたものと思われる。

そのすぐ先右手に享保9年(1724)建立の岩船地蔵尊がある。赤い前掛けに経文が一面に書かれている。「史跡」の標識はあるが、説明板は見当たらない。この先の案内板には「船に乗ったお地蔵様が、六道の苦界に船で竿さして溺れる人たちを救い上げてくださると同時に、あらゆる願いをかなえてくれるといわれています。とあった。

旧道は矢指(やさし)市民の森の南縁を回り込むようにつづいている。工場の姿は消え、左手は静かな住宅街となって落ち着いた風景に戻ってきた。

旧道は、西部病院入口で県道と合流して、瀬谷区に入る。

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瀬谷 

相模鉄道のガードをくぐってまもなく二ツ上橋(ふたつかみばし)交差点にさしかかる。交差点を渡った左手角のポケットパークに、二つ橋地名由来の碑、石橋供養塔、歌碑、道標が集められている。地名由来の碑には二ツ橋を歌った2首が刻まれていて、そのいずれかに由来するのであろうという。二ツ橋は、境川の上流と下流に架かる二つの橋をあわせて名づけられた。

    相模野の流れもわかぬ川水を  掛けならべたる二ツ橋かな     道光親王  文明16年(1484)詠
  しみじみと清き流れの清水川 かけ渡したる二ツ橋かな    徳川家康 慶長18年(1612)

道標には「右 八王子往来 左 神奈川往来」「中原街道」と刻まれ、様子からして新しいものと思われる。

南台1丁目の瀬谷町第3歩道橋の先、左手の植え込みに椰(なぎ)の木の碑がある。椰の木とはマキ科の常緑高木で暖地の山中に自生する。建築材や家具材として用いられる。江戸時代寛文年間、この地を治めていた島津久利が薩摩から取り寄せた椰の木を植えた。弘化元年(1844)江戸城で大火があったとき椰の木を伐採して中原街道を急送し、復興の要を果たしたと伝えられている。

椰の木の碑の先を左斜に相沢川が流れている。この川沿いの細道は桜並木が整備され、川と森の緑に挟まれた快適な遊歩道となっている。この辺りを鎌倉街道が走っていたというから、遊歩道はそのなごりかもしれない。

途中から街道にもどり、下瀬谷2交差点で県道18号(環状4号)を横切る。

「北新入口」信号の手前左手に石仏群がある。最初の大きな石塔は地神碑で天保10年(1839)のもの、中央には顔の剥がれた双体道祖神がある。

「北新入口」信号の先右手に宗川寺があり、門前右手に中原街道瀬谷宿問屋場跡の説明板が立っている。宗川寺は寛永2年(1625)に創建された。境内には夫婦銀杏と呼ばれる二本の銀杏の名木がそびえ立っている。

瀬谷は中原街道五宿の一つで、中宿といわれ、東は佐江戸、西は用田に人馬継ぎ立てをした。宋川寺の説明板によれば、寺より80m東寄りの桧林が瀬谷宿の問屋場跡だというが、そのあたりは造成開発されて住宅や店舗が建ち並び、往時の面影を偲ぶものは残っていなかった。

新道大橋が架かる境川で横浜市から大和市に入る。橋名の「新道」は江戸時代中原街道の改修が行われたときに、旧来の道に対してよばれた呼称である。

大坂を上りまもなく桜ヶ丘交差点に出る。かつてこの交差点にあった道標を兼ねた庚申塔が近くの金刀比羅神社境内に移されている。金刀比羅神社は桜ヶ丘交差点を右折、最初の信号を左に曲がって右手に入ったところにある。境内の奥に宝永7年(1710)建立の庚申塔があり、側面に「八王子ミち」「大山ミち」と刻まれている。その前に立つ小さな地蔵が可愛かった。

桜ヶ丘交差点から踏切までの間は歩道が途切れている。

小田急江ノ島線の踏切を渡ると左手に十一面観音がある。昭和11年(1936)ここで自動三輪車と江ノ島行きの電車が衝突して11名が即死した。その犠牲者を悼み交通安全を祈願して地元の人々が十一面観音像を建立したものである。

代官1丁目の交差点で二股に差しかかる。直進する道が旧道のような感じがするが、道なりに左の幹線を進む。

厚木飛行場の端の道の小さな福本橋で大和市から綾瀬市に入る。綾瀬大橋入口交差点で旧道は左折する。先の代官1丁目二俣を直進した旧道はまっすぐにここに出ていたものと思われる。その間厚木飛行場で分断されてしまった。

旧道には「春日新道」という標識が掛けられ、「中原街道」の名をみかけなくなった。旧街道はなだらかな坂を下り蓼(たて)川を渡る。

しばらく行った左手に石塔が3基並んでいる。中央は慶応3年の堅牢大地神、右は文化11年の庚申塔で、「南大山道」「西あつぎ □江戸道」と道標を兼ねている。

右手前方に門構えの旧家らしい家がある。


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用田 

女坂交差点を渡った右手角にサイホウ塚がある。「南無妙法蓮華経為佐要坊塚」と書かれている。ここから藤沢市用田に入る。

用田集落にはいって右手に小さな駐車場があり、その手前に坂を上がっていく道がある。

街道から離れてその道を入っていくと突当りの畑地に「中将姫→」の札が傾いて立っている。右におれると再び「中将姫入口」の標識があった。

指示通り畑の中を入っていくと藪道となって藪中の坂を下る途中に中将姫の祠があった。中は真っ暗で何も見えなかったがフラッシュをたいた写真には中将姫の絵が浮かび上がっていた。

中将姫は、奈良時代、右大臣藤原豊成の娘として生まれた。幼くして母を失い才色兼備の姫を嫉む継母にいじめられ17歳で出家し29歳で大往生したという。

街道にもどる。すぐ右手のそば屋で昼休みをとった。写真が趣味だという主人と、最上川のほとりで生まれたという奥さんとの話が弾んで長居してしまった。このそば屋のある場所はこのあたりの大地主で名主でもあった伊東家の本宅跡だという。用田宿の本陣か問屋場を兼ねていた可能性もある。本家はこの地を離れてしまい、この地に残っていた分家も最近亡くなったということだった。

新幹線の高架橋をくぐると左手擁壁の陰に宝暦13年の双体道祖神がつつましく隠れている。

「寿昌寺入口」の右手に新しい双体道祖神と、その奥に地蔵堂がある。

用田の辻を渡った右角に道標と安永4年の不動明王碑がある。はっきりしないが道標には「西座間村」、不動明王を頂く石柱には「右大山道」と刻まれているようだ。

ここからは真直ぐの道が延々と続く。

宮原の先、信号左脇に双体道祖神がある。この地方の道祖神は二人連れが圧倒的だ。

真直ぐな一本道は獺郷(おそごう)で右に折れ藤沢市から高座郡寒川町に入る。

大蔵バス停付近左手に鬱蒼とした屋敷林のなかに栗田家の住宅が、つづいて城門を思わせる立派な長屋門を構えた露木住宅が続き、この一角に特異な家並みを形成している。

その前で道は二股に分かれる。右手に行くのが古代の道とされ、左手の県道45号は江戸時代後期の中原街道である。

右に行く古道はすぐに日産工機工場にぶつかり、その北側を回り込んだ後寒川小学校の東側をたどって安楽寺の西方を通り岡田西信号を渡ってJR相模線に突き当たる。その後県道47号を横切り一之宮小学校入口信号交差点の一筋東の十字路で県道45号と交差する形になっている。

ここでは県道45号を行くことにした。小谷(こやと)の交差点を渡る。すぐに左手に大きな塚がある。室町時代に造られた供養塚と考えられている。この先にも右手日産工機の工場前に無名塚と書かれた塚跡がある。さっきの塚と同じく十三塚の一つである。

後藤歯科の看板がある信号左手角に寛政10年(1798)の石仏がある。

道は大きく左右にカーブを描いてJR相模線の踏切を渡る。すぐ右手が寒川駅である。

まもなく景観寺前信号丁字路に突き当たり右折して西に向かう。

左手空き地に「浜降祭中興記」の碑がある。空き地を入って奥の右手に伝梶原七士の墓があった。梶原景時は治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救ったことから頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府成立の後一宮を所領としてこの地に館を構えた。

頼朝の死後は、御家人らにうとまれ鎌倉を追放される。正治2年(1200)、再起を期し上洛するため一之宮を出発したが、途中北条方の攻撃を受け、清水で討ち死にした。一之宮の留守居役の家族らが弔ったと伝わる。背後の水路は当時の梶原館の内堀の名残だという。

街道その先左手天満宮のある所が梶原景時館跡である。

「一之宮小入口」交差点を右折して相模国一之宮寒川神社に寄ることにした。かなり距離を歩いてたどり着いた参道がまた長かった。日光の杉並木を思わせるうっそうとした参道が延々と続く。

その先に巨大なコンクリート製の鳥居が立ちはだかっている。重厚な山門をくぐると屋根と長い注連縄が波に浮かんだように横に流れている。時節柄境内では菊花展が催されていて静寂の中に華やかさを添えていた。

交差点にもどり西に進む。一之宮小学校前には、昔一之宮宿場があったという。 田村の渡し場にも寒川神社の門前としてもいささか遠いここにどのような機能を持った宿場であったのか、知る由もない。

その先ニコン工場の前の信号二俣を右にとり、進んでいくと左手に八角広場という小公園があり、そこに旧国鉄西寒川駅・相模海軍工廠跡の碑があり、レールが残されている。大正11年砂利採取のために引かれた鉄道跡である。

街道は目久尻川の堤防に突き当たり、右に曲がる角に一之宮不動堂がある。堂内の不動明王坐像も堂の左脇にある道標も江戸の商人が寄進したものである。

この場所は中原街道と大山街道が重なる区間で、旅人の関心は大山にあった。道標には「右大山道 左江戸道」と刻まれている。説明板には矢倉沢往還、中原街道、東海道とそれらをよこぎって藤沢から大山に至る大山街道が図示されていて非常に分かりやすい。

相模川の堤防を神川橋にむかって進む。橋のやや下流に田村の渡し場があった。前方には大小いくつもの峰をがつらなる山並みが眺められる。広重はこのあたりから田村の渡しの風景を描いた。

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平塚中原 

相模川を神川橋で渡り、平塚市に入る。神川橋を渡って土手を左に行った右手に田村渡し場跡の碑がある。田村の由来は、坂上田村麻呂が陸奥に向かう途中立ち寄ったからという。この渡し場は中原街道と大山街道の渡しを兼ねさらに平塚から厚木へ向かう八王子道とも交差するところで田村の宿が形成され、大山・箱根・富士山を眺望できる景勝地としても賑わった。

街道にもどり右手に八坂神社を見て田村の辻と呼ばれた旧田村十字路にさしかかる。十字路右手角に十王堂跡碑がある。天文6年小田原の北条氏が河越の上杉氏を攻撃する際相模川で合戦があり、多くの戦死者を出した。この戦死者を妙楽寺の住職が集めて弔い一宇を建てたもの。

田村の辻を右に曲がった辺りに田村宿があった。「田村の渡し最中」を売る和菓子屋「井筒屋」が唯一往時の面影を伝えている。茶屋の佇まいで、赤トタンはまちがいなく最近まで茅葺の屋根であったろう。

中原街道は田村の辻を左折する。この南北の道が八王子道だろうか。まもなく右手に妙楽寺がある。高欄を設けた楼門が見事である。

その街道沿いに田村駒返し跡の碑がある。家康が鷹狩に来た時大雨で道が悪く田村の人たちは畳を出して運行の便宜を図った。家康は田村の人たちの苦労をおもんばかってここから馬を返したと言う。 このあたりは妙楽寺の門前であり、また田村宿の問屋場があって賑わっていた。

その先二股の分岐点に田村一里塚跡の碑があり、「南中原道 北奥州道」と刻まれている。北奥州道とは江戸に向かう道で、古代東海道の道筋を意味するものであろうと思われる。また、説明札にはこのあたりの中原街道は八王子道と同一だったと明記されている。田村の渡しにあった説明と符合する。さらにこの一里塚は八王子道にかかるものだという。

二又を右にとった旧道はすぐに国道129号に合流し旧道筋は消失する。

ここで四之宮の渡し跡に寄ることにした。一之宮から相模川を渡る渡し場は田村の他にも四之宮があり、地元の人々だけでなく徳川家康も利用したとされる。下水処理場沿いの道を南下し、その先を堤防に突き当たった所に四之宮の渡し跡の説明板が立っている。土手を上がると河川敷が広がり、その先に一筋の川の流れがようやく見えた。四之宮の渡しは昭和30年頃まで使用されたという。

土手を下り、その先の森に相模国四之宮である前鳥(さきとり)神社がある。祭神は応神天皇の皇太子である菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)である。命は百済国から来た王子阿直岐と博士王仁(わに)を学問の師としたことから境内に菅原道真公も合祀した奨学神社があり、学業成就を祈願する学生に人気がある。ちなみに菟道稚郎子命を祭神とする神社は東国では当社だけで、西国では宇治神社のみだとういう。

さて、ここから中原街道にもどるのだが、平塚市内に旧道がほとんど残っていない。先に途絶した旧道は諏訪神社の手前から復活している。前鳥神社から県道44号に出て国道129号の東真土2丁目信号を右折して四之宮林町信号まで戻る。そこを西に折れ、最初の十字路を北に入ったところで、細くて旧道の風情をのこす旧道が南西方向に延びている。地図を眺めると、田村一里塚から斜めに残っていた旧道が、国道で分断された地点から直線の延長上に続いていることがわかる。

諏訪神社の東側を通り、旧道は一ブロック南下したところで東西の道に突き当たって消失、その角に嘉永三年(1850)の庚申供養塔がある。摩耗が激しく刻字はほとんど読めない。脇に立つ標柱にもなにか書かれていたのだろう。墨は完全に消えていた。

旧道の次の復活地点は真土神社の参道前である。真土神社へは庚申供養塔から一筋南に下った東西の道を西に向かう。

旧道と真土神社の参道が合流する地点の先左手に
「古道 中原街道」の石碑が立つ。石碑の先の二又を左にとり、道なりに左にカーブして歩いていくと短いながらほっとする風景が残っていた。

街道はバス通りにでて左折、3つ目の交番がある十字路を右折する。右手に赤い小さな鳥居と祠があり、その脇に更に小さな馬頭観音を見つけた。銘は明治四十年と読んだが自信はない。

その先、右手の後斜めからくる道は旧道のなごりだそうだ。

三菱樹脂工場の南側を真直ぐに西に進み、県道606号を越えしばらく行くと右手松ヶ丘公民館の先に「お助け地蔵」と書かれた赤い幟が目を引いた。「円宗院」の表札をかけた門があるが、入っていいものか判然としない。わずかながら中原街道の名残を感じさせる一角であった。

街道は広い県道61号の新大縄橋交差点に出る。交差点を左折して南に向かう。右手に日枝神社が見える。右手に中原上宿遺跡の碑がある。県道61号を建設する際、このあたりで弥生、奈良時代の集落跡が発掘された。その先の信号を右折して中原上宿信号交差点を左折する。この南北の道が中原街道の最終部分で中原宿の北端にあたる。

右手に車止めを設けた散歩道風の趣のある小路がある。覗いてみると立札があり、谷川(やがわ)跡について詳しい解説が記されている。昔の排水路跡だが、江戸時代には中原御殿の空堀に水を引いていたという。

住宅街のバス通りをそのまま南に進むと交番のある十字路角に「中原宿高札場跡」のパネルが設置されていた。この丁字路が中原街道と御殿からの大手道が交差する地点で、ここを中心に宿場が形成されていた。

丁字路を右折、大手道を西に進むと遂に御殿に到着する。場所は中原小学校で、大きな相州中原御殿之碑と案内板がある。御殿は東西140m、南北100mの長方形で周りを10mの堀で囲っていた。御殿は明暦3年(1657)に引き払われ、その跡地には松や檜が植えられその中に東照宮が祀られた。


(2013年11月)

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