室津街道



室津−馬場−正條

いこいの広場
日本紀行



前書き


海駅室津から山陽道正條宿までを室津街道とよぶ。江戸に向かう西国大名は瀬戸内の海路を選びつつ、兵庫や難波津まで行かずにここ室津に上陸して陸路に切り替えた。室津まではリアス式海岸が多く接岸に不向きであるし、またここから難波津までは砂浜の海岸が続いて強風にさらされる危険があった。「播磨風土記」に「此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す」とあるように、三方を山で囲まれた室津は天然の良港であった。さらに室津は風光が明媚で、万葉時代から歌人が訪れた歌枕である。

古くは山部赤人が難波津からの船旅の途上で室津沖の辛荷島を通ったときの歌が知られている。賀茂神社から望む唐荷島の風景をシーボルトは絶賛した。

  
玉藻刈る辛荷の島に島廻する 鵜にしもあれや家思はざらむ  山部赤人  万葉集(巻6)

万葉集からもう一首。

  
室の浦の湍門の崎なる鳴島の 磯越す波に濡れにけるかも  読人不知  万葉集(巻12)

鎌倉時代になって大江茂重が室津の港を詠んでいる。

  
友誘ふ室の泊りの朝嵐に 声を帆にあげて出づる舟人 大江茂重    新拾遺集839


蕪村は1766年四国讃岐への旅の途中、須磨で「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな 」と海の風景を詠んだあと、室津に立ち寄って二句をのこしている。

     
梅咲いて帯び買ふ室の遊女かな

     
朝霜や室の揚屋の納豆汁

共に遊女の風景である。港町、宿場町とくれば当然のように遊女が自然発生する。なかでも室津の遊女は、伝説がからんで著名になった。

そんな室津の町をたずねていく。

山陽道から室津へ行く場合、普通正條から室津街道を南下するが、おなじ道を往復してもしょうがないので、山陽道の相生から海岸沿いを国道250号で室津にでようと思う。

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室津への道

相生駅前の山陽道と赤穂道追分道標の前に立っている。ここから1kmあまり海辺にいったところに相生の町が相生湾を囲むようにある。海沿いに走っているのが国道250号で、それを東にたどると室津に至る。湾の西岸を石川島播磨の造船所が占めている。湾沿いに東に向かうと白壁に格子造りの立派な家が目を引いた。船問屋か海産物の大問屋であろう。土蔵をもつ商家のたたずまいである。

野瀬集落の入口に「伝説の里」碑が立っている。野瀬の里に残る伝承によればこの地に住み着いた者として平家の落人説と、藤原純友の残徒説とがあるという。いずれも瀬戸内の山里にふさわしい伝説である。婦人たちが採れたての野菜を持ち寄っている。朝市でも始まるのだろう。

国道が海岸沿いから内陸に向かう手前に
鰯浜集落があり、湾には牡蠣養殖のかき筏が浮かんでいる。鰯浜の牡蠣は相生特産で全国に出荷されているという。牡蠣養殖の風景は室津湾にいたるまで、幾度となく見かけることになる。

万葉岬を途中で横断して相生市からたつの市御津町室津に移る。松が生い茂る赤松鼻を通って、室津の西隣大浦に着く。きれいな湾曲をみせる浜だ。

国道が大浦の集落を過ぎ弁天が鼻に向かう手前に、逆進行方向(北向き)に山に入っていく道がある。これは
屋津坂とよばれる現在の室津街道で、明治時代になって開かれた。それより以前の旧室津街道は弁天が鼻をまわり、きむら旅館から200mほど先に行ったところから出ていた。ゴミ集積所と一緒に「室津街道入口」と書かれた立て札が立っている。

木村旅館といえば、谷崎潤一郎や竹久夢二などの文人が逗留した老舗旅館である。谷崎潤一郎は室津の遊女伝説をもとに「乱菊物語」を書き、竹久夢二は木村旅館の女将をモデルにして
「室の津懐古」を描いた。現在は別館、千年茶屋として情緒ある佇まいを見せている。

木村旅館の手前に室津漁港へ下りていく橋がある。
「友君橋」といい、貼り絵ふうの一対の石碑が入口に立っている。室津の伝説的遊女の代表格といった存在である。

友君とは木曾義仲の愛妾である山吹御前だといわれているが、第1の側室で美人の女武将巴御前の陰に隠れて薄い存在であった。そのうえ病弱であったためにますます影が薄く、その末路はよくわかっていない。義仲と共に京に上りそこで病死したとも、義仲を追って大津で敵刃に倒れたとも、近江で義仲の菩提を弔いながら余生を送ったとも、義仲討死のあと、海をわたって伊予に落ち延びたともいわれている。各地に伝承とともに山吹塚や山吹神社が残っているという。室津の友君伝説は、彼女の末路にかかわる伝承の一つだが、遊女になった点で他と一線を画する。おそらく弱々しくぬけるように白い肌の遊女であったに違いない。

「友君」の名で、室の津に出入りする船人の旅愁を慰めていた彼女はある日、一人の高名な僧侶に出会う。承元元年(1207)、延暦寺や興福寺からの訴えにより法然上人は専修念仏を禁じられ、そこに弟子と後鳥羽上皇の女官との恋愛事件が重なって讃岐に流刑となった。難波津より船でおくられ、室津の沖にいることを知った友君は小船を出して教えを請いに法然上人をたずねたのであった。

上人は念仏の功徳を説いて歌を書き与えた。

  
仮そめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする
    (かりそめの恋であっても、愛する人に逢うためには命を惜しまないだろう。ましてや仏法においてをや。)


法然は恋愛の心情をよく理解していた。

4年後法然が許されて帰途、室津によったとき友君はもういなかった。彼女は遊女をやめ仏道に入り念仏往生したのであった。彼女の墓が
浄運寺に海を背にして建っている。

ところで、法然が遊女を諭したのはこれが最初ではない。船路の早々、難波神崎川の河口で、小船をあやつり近づいてきた江口の遊女に対して、汚れ多き女人であっても念仏往生できると説くと、遊女達は剃髪し念仏を唱えながら入水往生したという。

友君ほど有名ではないが、友君より200年以上も古い室津の遊女がいる。名を
「花漆」という遊女長者だった。まだ母系社会が色濃い古い時代、優れた遊女は一家の柱となり、また長じては土地の遊女たち(室津の場合、遊女をまとめて「室君」という)を取り仕切った。花漆は、単に「室君」とよばれることもある。彼女の歌が二首残っている。

  
花漆ぬる人もなき今宵かな室ありとても頼まれもせず  『播磨鑑』

  
はな漆こやぬる人のなかりけりあなはなくろの君かこゝろや  『金葉集』

花漆は唐船の貴人からもらった財宝を天皇に献上したところ、褒美として黄金千兩を拝領し、その金で室津中に五ケ寺を草創した。
見性寺はそのうちの一つだという。

見性寺の沿革(御津町観光協会)には花漆の名はでてこず、かわって書写山開基
性空上人が見性寺の前身、正法寺を建てたとある。この上人には遊女と普賢菩薩がからむ伝説がある。性空上人がなぜか生身の普賢菩薩を見たいと祈願したところ、「遊女長者を拝め」というありがたい夢のお告げがあった。どこの遊女かについて諸説あり、摂津の江口の里と室津が有力であるという。室津の遊女長者といえば、すぐに花漆を連想するし、それに見性寺がかかわってくると、もう花漆しか候補者はいない。ということで、花漆には黄金千両の話に加えて性空上人とのエピソードが混合され、見性寺の創基考証を困難にさせている。なお、普賢菩薩があらわれたのは室津におとらぬ古くからの湊であった周防の室積であったから、室積と室津が混同しているのではないかと思ったりしている。

いずれにしてもこのような魅力的な伝説が伝わる室津は、「遊女発祥の地」としてますます有名になった。名付け親は江戸時代の流行作家井原西鶴。彼の処女作「好色一代男」で「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」と紹介したものだ。ついでながら、室津に先んじて近江に「遊女発祥の地」があったとは知らなかった。朝妻とは一夜をともにした男の朝帰りを見送る女。その地名からして色めかしい。場所は米原の北西2km、天野川が琵琶湖に注ぐ河口にある。小船で湊の男を相手にしていた。

室津の遊女考察はそのくらいにしておいて、現在の町並みを歩いてみる。

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室津

坂道を下ると港湾にそって一筋の情緒ある家並みがのびている。郵便局の入口脇に司馬遼太郎の『街道をゆく』からの一文が張ってあった。「湾は意外に小さい。湾の小ささが、室津の風情をいっそう濃くしている」。司馬遼太郎も『播州揖保川・室津みち』で、国道250号を私とは反対方向の七曲がりからやってきた。どことは書いていないが「室津では、宿は、ここぐらいしかないんです」といわれ泊まっているから木村旅館であろう。「宿は新築の建物で、かって室津の物寂びた風情を愛した文人墨客がみれば、あるいは嘆くかもしれない」といっているから、今の割烹旅館「きむらや」のことであろう。当時別館の千年茶屋はなかったものと思われる。

民家の玄関先に
「清十郎生家跡」の石碑が立っている。井原西鶴「好色五人女」の第一番目、お夏の恋人清十郎は室津造り酒屋の息子であった。これは友君や花漆とちがって実話である。清十郎は姫路本町の米問屋但馬屋に奉公に出され、そこの娘お夏と熱烈な恋に陥る。しかし、結末は悲劇的で、清十郎は盗みの濡れ衣で処刑され、お夏は発狂した。二人の比翼塚が姫路の慶雲寺にある。

花漆が建てたという見性寺を過ぎると、格子つくりが美しい
室津民俗館がある。豪商海産物問屋「魚屋」の旧豊野家住宅で、脇本陣としても使われた。向かいの角に「本陣肥後屋跡」の石碑がある。室津には、肥前屋・肥後屋・紀井国屋・筑前屋・薩摩屋・一津屋と、本陣が6軒もあった。他の宿場に例をみない多さである。昭和40年代にこれらの建物はすべて姿を消した。

「室津診療所」の古い板看板をみて、湾にそって通りを曲がっていくと
湊口番所跡に突き当たる。空き地に大きな直方体の石が二つおいてある。大阪城の石垣として運ばれてきたが、途中で海に落ちてしまったものだという。約400年間海底に沈んでいたのを昭和47年に引揚げられた。重機のなかった時代、あのような巨石をどうして運んできたものか、想像もつかない。

左手の丘に
賀茂神社がある。長禄3年(1459)再建の本殿をはじめ、五つの社殿と回廊、唐門はいずれも国の重要文化財である。本殿と拝殿が互いに向き合うように建っているのが珍しい。毎年4月上旬に行われる小五月祭は巫女の神事を伝えるもので、すべて地元の少女たちだけで執り行われ、室君が主役をつとめる。遊女発祥の地にふさわしい優美な祭りである。

神社の裏手から望む播磨灘は沖に
唐荷三島を配する景勝の地である。
悲運の友君が眠る浄運寺をたずねて、郵便局の辻にもどる。
角に室津村道路元標が遠慮がちに立って、向かいに
室津海駅館がある。魚屋とならぶ室津の豪商で、廻船問屋で財をなした嶋屋(旧佐藤家)である。魚屋と一見見分けがつかないほどよく似た典型的な町家建築である。中へ入ると珍しい展示がある。大好物の身欠き鰊が束ねられており、その横に頭と骨だけの無残な形をした羽鰊がならべられている。両者合体したものが首をつるようにぶら下げられていた。愛嬌ある干し物だ。

朝鮮通信使に関する資料も充実している。朝鮮通信使の起源は室町時代にさかのぼるが一般には江戸時代の12回にわたる来朝をさす。初回は2代将軍秀忠の時(1607年)で、11代将軍家斉の1811年を最後として、毎回500人前後の大使節団が組織された。12回のうち8回は将軍交代を受けての祝賀である。対馬より瀬戸内に入り、山陽道沿岸の湊に寄港しつつ大坂から淀川を上がって京に入った。室津には必ず寄ったこというまでもない。

帰りがけ、受付の女性に旧街道の情報をもらおうとしたとき、奥からここの主人と思われる女性が気さくに話しかけてきた。明治時代になって屋津坂とよばれる現在の室津街道が開かれてからは、鳩ケ峰の峠をこえる旧街道は使われなくなった。さらに峠から馬場宿にかけて、ダイセル化学工場が建設され、旧道の道筋は私有地に飲み込まれてしまった。ながく放置されていた旧道を復活させようと、最近地元の人たちの手で整備がなされ、冬場はハイキングコースとして歩けるようになった。そのボランティア活動の事務局「嶋屋友の会」が実は室津海駅館だったのである。どうりで旧街道について詳しいはずだった。

「通れますか」
「今の時期は藪と草がきつくて…。それにマムシがいますよ」
「マムシか…・」
「だから冬場しか整備しないのです」
今日はたまたまくるぶしまでの靴下しか履いてこなかった。
「やめときますわ」
「せっかくの機会ですし、これからセンリュウでもやっていきません?」
「センリュウ?」「NHKにもでておられる有名な方が講師なんですよ」
ご婦人方が三々五々入ってきて二階へあがっていく。川柳の定期会合があるようだ。
「そっちの方の才はありませんので」と辞した。

峠越えをしないと決めれば話は早い。国道250号で七曲りを下って、岩見で県道442号に移って岩見坂を越える。いずれにしても峠はひとつこえねばならなかった。馬場集落にはいって直角にまがるところで左から峠をこえてきた旧道が合流する。
それをしばらくさかのぼってみることにした。ダイセル工場の東側を山道がどこまでも続いている。しだいに細くなってはいくが車が通れる道である。そのままいけば切り通しを経て屋津坂に通じているはずだ。そして峠付近で左に入る小道ができていて、そこから旧街道につながっているはずである。もう一度蛇の出ない冬の季節に来て、旧道をのぼって鳩ヶ峰を越えてみよう。

それにしても、遠くの岩見まで下りずに、なぜ大浦から屋津坂をいかなかったのだろう。車でもいける屋津坂にもマムシがでるとは言わなかったはずだが・・・。

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馬場
から正條へ

山道を下りてきて、大きな近藤池の縁を進んでいくと、ダイセル工場の通用門の向かい付近に
「旧丸亀藩使者場跡」の標柱が立っている。側面に「藩主の使者が参勤交代などで領内を通る諸大名を送迎したところです」との説明書きがある。当時馬場は丸亀藩領で藩主は京極氏だった。

馬場の集落にはいったところで左に出ている道角に道標がある。「左室津港」「右相生町」とあるが、地図には馬場から相生町に通じる道は示されていない。鳩ケ峰越えの道があった室津街道の旧道とおなじく、昔は西に向かっても天下台山を越えていく峠道があったのだろう。

馬場宿本陣だった高西(たかにし)家の前を通る。高いブロック塀がめぐらされて、内の様子がよくみえないが、庭にそびえる檜の大木は樹齢500年といわれている。

家並みがとだえたところで、右からくる県道442号と合流する。

馬場から金剛山にはいるとすぐに、県道とわかれて左の旧道を集落の中へ進んでいく。道行く人を癒すかのように、道沿いの畑に花をいっぱいに植え込んである。その後には一部はがれて土壁の地肌をみせた築地塀をめぐらせた立派な屋敷がみえる。重厚な屋根の構えからして豪農と思われる農家の主が道端を花で飾ったのであろうか。

その先で道がふたまたに分かれるところに、
旧丸亀藩の高札場があった。左に入っていくと、石階段の上に、軒先に半鐘をつるした戦前の駅舎をおもわせる木造の建物が建っている。人の気配はしないが、「金剛山消防器具庫」を前にしているところをみると、どうやら消防署ではないかとおもわれた。小さな溜池の真ん中にアオサギが不動の姿勢を保っている。子供の頃の、なつかしい空気がながれる集落であった。

浦部郵便局の前をとおり、県道にもどる。寄棟瓦葺き板壁という趣ある建物の手前で県道を左に分けて、小さな大久保の集落をぬける。ポツンと道に面して孤立している建物が気になって近寄ってみると戸に「倉庫貸します」と書かれた紙が貼り付けてあった。とても倉庫とは思えない美しい建物だ。

袋尻の集落を抜け街道が揖保川に接するところに
「丸亀藩使者場跡」の標柱が立っている。
馬場にあったものと対をなして、丸亀藩の領域を示すことになるのであろうか。
ほどなく県道と合流して街道の終着地である正條に入る。

山陽道に出るには馬路川をわたらなければならないが、旧街道はどこで右折したものか、わからない。最初の橋を渡って堤防に沿って北上し、
正條の渡し場に直行するルートと、2番目の井垂橋(いだりはし)を渡って渡し場跡の手前で堤防にでるルートと、井垂橋をわたりながら、途中で左にカーブして郵便局の前(本陣の隣)で山陽道に合流するルートと、3つの可能性がある。

私は2番目の道筋をとった。根拠はない。

(2007年5月)
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