一関街道



石巻−鹿又柳津登米涌津金沢一関

いこいの広場
日本紀行



石巻

石巻から北上川沿いに登米を経て、一関で奥州街道に合流する道を一関街道という。仙台から奥州街道をはずれて塩釜、松島、石巻へ寄り道した後、平泉をめざして再び奥州街道にもどるために芭蕉がたどった道でもある。

国道398号の石巻中央3丁目交差点から出発する。県道33号で北に向かい、石巻バイパスとの交差点をこえた次の十字路を左折して住吉中学校の北側をとおっていくと、右手に旧北上川の流れがみえてきて
石井閘門にさしかかる。明治時代、鳴瀬川河口の野蒜に近代的築港の計画が持ち上がったとき、野蒜築港と北上川とをむすぶ内陸水路として開削された12.8kmの運河である。港の建設は挫折したが運河のほうは完成した。鳴瀬川と松島湾間の東名運河、塩釜湾から遥か阿武隈川までを貫通する貞山掘りをふくめて石巻−亘理間の長大な運河水系の北端をなしている。

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鹿又

ここから川沿いの道を北上し、愛宕山の東麓を通過して鹿又にいたる。ここで旧北上川は西方向に大きく湾曲しているが、もともと北上川の流れは西からそのまま東進して追波湾にそそいでいた。それを石巻湾へ付け替えたものである。その後明治になって、湾曲の北端にあたる柳津から直線的な新北上川が鹿又手前の飯野川まで開削され、そこから追波湾へ誘導された。その結果、北上川は柳津で、新旧二つの北上川に分流され、石巻湾にいたる流れは旧北上川とよばれるようになった。江戸湾に注いでいた利根川を太平洋の銚子にむけて付け替えた利根川東遷を想起させる。

天王橋手前の堤防に大小の石碑が横なぐりの雪をうけて寒さに耐えていた。明和元年(1764)銘の庚申塔、天保5年(1834)の金毘羅大権現碑など、ここが古い道筋であったことを伝えている。鹿又集落は国道45号の西側に形成され、北上川と追波川の分岐点にあって水運で栄えた。天王橋で旧北上川をわたり、飯野川橋で現北上川をわたって左岸に出る。ここから柳津まで芭蕉も通った古い道が延びていたがその多くが現北上川の開削工事で消失した。

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柳津


新旧両北上川にかこまれた巨大な中洲のような
桃生(ものう)地区は、8世紀半ばの対蝦夷前線基地となっていたところである。724年に多賀城が築かれて以来徐々に前線は北上し、759年には桃生城が築かれた。近くの涌谷で日本ではじめて金が発見され、蝦夷の土地がますます注目を集めていた頃のことである。多賀城から胆沢城完成の802年にいたるちょうど中間にあたる。

桃生城跡のほぼ真東の位置に
北上川大堰が設けられている。そのすぐ下流の堤防に芭蕉公園があって、「奥の細道」に述べられている「心細き長沼」についての説明板が建っている。北上川が開削される前、北上川大堰の上流辺りに幅300m、長さ1.5kmの細長い大きな沼があった。そこの地名をとって「合戦谷(かせがい)沼」とよばれていた。今は北上川の一部に吸収されてしまったが、山の狭間に深いよどみをつくってかっての沼の面影を宿しているように見える。

その左岸の谷あいに
合戦谷の集落がある。国道をはずれて旧道に入っていった。この地で何か大きな戦があったのか、地名の由来は知らない。数軒ばかりの山間の集落で、雪のつめたさに村全体がシンとしている。畑に暮らしの温かみをみつけた。


国道にもどる途中、
「日人(あつじん)の句碑」「合戦谷古墳」の標柱が立っているのを見た。それぞれ、側面には河北地区教育委員会による説明文が記されている。「東北の俳聖、遠藤日人の徳を慕い江戸時代末期にその子弟が建立したもの」 遠藤日人は桃生町の出身である。句碑は標柱の脇をはいっていった雷神社にある。草深い石段が続いているようであり鳥居の前で引き返した。

街道が石巻市から登米市にはいってまもなく、右手に朱塗りの大鳥居があらわれる。
柳津虚空蔵尊である。33年に一度しか開帳されない秘仏だそうで、つぎの開帳まで9年待たねばならない。静まり返った境内にときどき解けた雪がガサっと音をたてて木の葉をみちづれに落ちてくる。イチョウの葉で黄色く染めた雪を頂いた長屋門の山門は愛くるしいたたずまいである。秘仏が安置されている本堂そのものは決して大きくないが、それをとりまく境内の造作にはさまざまな意匠がよみとられ、心地よい散策の時間を提供してくれた。

新北上川の開削口、気仙浜街道と一関街道との交差点手前に小公園が造られていて「松尾芭蕉ゆかりの地」と題したパネル板と、そばには立派な
「おくの細道の碑」が建てられている。その脇を通って国道から山にむかって一本の道がでている。両側には切り出された木材が山積みされて、その奥に明耕の甍がみえる。芭蕉はその道をやってきたのだという。明耕院の山門を黒門というのだろう。傍に樹齢400年という榎がそびえたっている。門前の道はさらにつづき雪がのこる杉木立の山中へ消えていった。芭蕉がそこから出てきたからには、その山道はずっと南の方向につづいていたはずである。もしかすると、柳津虚空蔵尊につながっていたのではないかと思っている。

国道45号は西から柳津大橋をわたってきた気仙浜街道に合流して東に向かう。一関街道はその交差点から国道342号となって北上し終点一関まで続くのである。この街道の分岐点はまた、北上川の分岐点でもあって、ここから西にまがっていた旧北上川のながれは南にまっすぐな新北上川として付け替えられた。本流からは二箇所の水門を通って旧北上川に分流されている。二街道の宿場として賑わった柳津の町場は新北上川の開口部分の川底に沈んでしまった。国道342号が通る現在の柳津本町の街並は宿場外れの今の姿である。

気仙浜街道である柳津大橋の歩道を歩いてみた。山峡を流れる川ではあるが、本州を延々と縦に旅する北上川の流れは急ぐことなく豊かにたおやかである。気仙沼に向かう三両の電車が鉄橋を渡っていった。

柳津の町を通る。家並みは新しくもなく古くもない。街を出ると堤防をはしる国道の東側に旧道が残っていて、田舎の集落をいくつか通り抜けて
登米大橋の手前で国道にもどった。大橋にいたる日根牛(ひねうし)堤防には約2kmにわたる桜並木がつづいている。


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登米

橋を渡った右手の土手に
「芭蕉翁一宿之跡」の碑が建っている。石巻を出た芭蕉はここで一泊した。土手からは白壁の土蔵が屋根の残雪でいっそう白味をまして、清潔な登米の景観をみることができる。登米の町にはいる。

この土地の読み方がややこしい。「登米市登米町」は「
とめとよままち」と読む。語源はさだかでないが、古代この地が遠山村とよばれていた記録がある。遠山が「とよま」になったようだ。この「とよま」に「登米」の字を用いたのがいつのころか明らかではないが、8世紀の終わりには登米(とよま)郡が存在していた。「登米」を「とめ」と読み出したのがいつかも分からない。登米市の前身である登米郡は「とめ」郡であった。明治2年から4年まで、登米県がおかれたときの県名は「とめ」県である。この町にある高校は登米(とめ)高校で、登米(とめ)市立中学校である登米中学校は「とよま」中学校とよぶ。「とめ」は「とよま」の広域概念か。

明治村と呼ばれている登米の町の散歩にでかけよう。
登米は、鎌倉時代に葛西氏が寺池館を築いたのが始まりで、江戸時代は登米伊達家の城下町であった。今宵の宿はD武(えびたけ)旅館。創業250年の老舗旅館で、炭火焼牛タンが美味しかった。ここから時計回りに町を歩く。蔵造り商店街を南に進むと中町との角に明治時代の洋風
警察署庁舎が残されている。赤煉瓦の門柱にテラス付白塗り横板壁が明るいコントラストを見せている。

東によりみちして北上川の土手に上がる。 川辺は
「遠山の船着場」といわれるあたりで、昨夜積もった雪が朝日に輝いてまぶしい。「遠山」は「登米」の元になった古代の村名からきたものか。滔々たる北上川のすばらしい景観が広がっている。「北上夜曲」を二人でくちずさむ。一番の歌詞しか出てこなかった。

通りにもどり西に進んで
登米(とよま)神社芭蕉句碑を確認して北に向かい、鉤の手をへて武家屋敷通りをゆく。史跡として公開保存されたものでなく、現役の個人宅が昔のままの武家屋敷門塀を構えている例が多い。その中でも春蘭亭として公開されている旧鈴木家住宅は家の内外隅々まで行き届いた心配りがみえて秀逸である。幸いに楓やイチョウの葉もその色付きの盛りを見せていた。

春蘭亭の北隣の
武家屋敷は大手前通りまでのびる長い白壁塀が見事である。その道向かいに冠木門をかまえる明治時代の建物は旧水沢県庁舎である。登米県庁になるはずであったが建築中に県名が変わってしまった。水沢県も4年後には磐井県となり県庁は一関に移っていった。

大手前通りの北側にある丘が
寺池城址公園になっていて、中世には葛西氏、後には、登米伊達氏の居城があった。最後は国道交差点角の老舗味噌醤油酒醸造元海老喜(えびき)である。天保4年(1833)の創業で、蔵の資料館を併営している。

登米は狭い区域に明治村と江戸村がミックスされた密度の高い町である。何よりも雄大な北上川の存在が大きく感じられた。

一関街道は海老喜の前を北に向かって登米の町をあとにする。一里ほどいった水越玉山集落の入口に
「月輪館跡入口」の標柱が立っていた。

月輪館に葛西氏の支館にして月輪六郎七郎兄弟の居城なり。迫の城主師門家臣にして六万石を領し天正年間標高111mの水越玉山島討嶺に築城し眺望絶景難攻不落。全域鉄壁といわれ現在も内濠外濠とも歴然と残る。月輪兄弟が迫合戦にて討死の悲報をうけると妹「おりい姫」はお付女中と共に城を脱出し山の中腹で自害した。「おりい権現」はその女中が懇ろに葬った地と伝えられている。

前方に米谷大橋が見えてくる辺りで北上川は大きく蛇行している。やがて錦桜橋の西方で国道346号(西郡街道)と交差し、まもなく街道はこれまで沿ってきた北上川と別れ土手を下りて北西の方向に進んでいく。中田町上沼集落にある弥勒寺によった。役の行者により7世紀ころ草創されたという古刹である。イチョウの葉を敷き詰めた参道の奥に、高々とした本堂の大屋根がゲレンデのような傾斜をみせている。

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涌津

弥勒寺寺山の東山麓にのこるのんびりした旧道をたどり、国道をよこぎって長根集落をS字状にぬけて国道にもどると、まもなく粧坂で宮城県登米市から岩手県一関市に入る。

花泉町永井集落をすぎると、左の曲がり角に一群の赤松林がある。一本の大木の根元には
「嘉栄松」とあり付近には「嘉栄松碑」の立派な石碑や「「子孫に残そう郷土の南部赤松」と書かれた大きな板看板が立っている。この先にもところどころに、根元に「明治松」と示された赤松が植えられている。かってこの街道筋には美しい赤松並木がつづいていたのであろう。

一本木の街道沿いに
金華山公園という小丘があり行人塚や奥の細道パネルが建っている。そこに描かれた「芭蕉・曾良の足跡マップ」には、これから通る涌津の宿場から花泉駅の裏側を通って金沢宿にぬける旧道の道筋が示されていた。

やがて、街道は平地におりて涌津の集落に入っていく。東北本線の花泉駅から1kmほど手前が元宿場町であった。街道沿いには海鼠壁の蔵や、明治調の洋風石造りの建物など、往時の古い家並みが残っている。中でも海鼠壁の正面に旭日の彩色絵と鶴亀の浮き彫りをほどこした珍しい店蔵が目を引いた。
国道は涌津郵便局のまえで旧道風に鉤の手に曲がっていくが、そこを逆に直進して花泉駅にむかう道筋がある。「芭蕉・曾良の足跡マップ」で示していた旧道がそれであることを忘れていた。


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金沢(かざわ)

花泉駅前をかすめ金流川(かなれがわ)をわたると県道48号との丁字路に「宿場町金沢入口」の看板が立っている。右側の路傍に丸石の道標がおかれているが、文字はまったくよめない。「道、右ハいしのまき、 左ハうすきぬ」と刻まれているようだ。右石巻とはこれまで来た道。左薄衣とはここから県道48号を北上して薄衣で国道284号に合流し、そこから東にむかって気仙沼にいたる気仙沼街道のことである。

看板のある丁字路を左折して金沢宿にはいる。右手の大きな宿場案内板が建っていて当時の宿場町絵図が描かれている。絵図は検断場、問屋場、伝馬所、肝入宅、札場、代官屋敷、旅籠など宿場の機能を網羅しており、それらの現在位置には説明文を添えた立て札が建てられている。仙台原町からはじまり、塩釜街道−石巻街道−金華山街道−一関街道とまわってきた一連の旅で、金沢ほど旧宿場町として整備されている町はほかに見なかった。

おまけにここでは毎年9月第3月曜日に大名行列がねり歩く。街道沿いに茅葺の民家や格子窓の町家が2、3軒でも残っていれば、すばらしい宿場景観になっただろう。

郵便局のところを右折して宿場をでる。金沢宿の北側を迂回してきた国道342号に合流して西に向かう。
大門の三叉路を右にとり南岩手CCの丘陵地帯をこえて一関自動車学校の西側で有壁宿から北上してきた奥羽街道に合流する。

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一関

一関街道を吸収した奥州街道(国道342号)は新大町から一関市街にはいる。宿場町はその先、一関駅前交差点から地主町(じしゅまち)にかけて形成された。駅前交差点の東脇に「芭蕉の辻」と「日本の道百選“おくのほそ道”」の記念碑が設置されている。芭蕉は金沢まで一関街道を通ってきたがそこから別のルートをたどって現在の一関駅の東口あたりに着いた。一関宿では磐井橋袂の金森家に二泊している。

大町通りはどこにもあるような駅前商店街だが、なかほどに
「大町の由来」モニュメントが建っていて、ここが宿場の中心であったと記されている。道向かいに三軒のモダンな店蔵が並んでいて、なんとか旧宿場街の面目を保っているようである。

道は地主町で左折する。磐井川のほとりに先述の芭蕉が泊まったという
金森邸がある。金森家は地主町で代々造り酒屋を営んでいた一関きっての大地主であった。堤防に「明治天皇御行在所跡」の碑が建っているところからそれなりの格式をもった豪商だったのだろう。磐井橋を撮ろうと反対側の堤防を振り返ると、手袋をつけた一群の少年が雪の降る中をこちらに向かって走ってくる。部活の早朝トレーニングだろう。走り慣れた姿勢で右にカーブして橋を渡っていった。

堤防より一筋東の道を南にむかう。すぐに
「酒の民俗文化博物館」という楽しそうな一角がある。一関の豪商「熊文」の跡地で「世嬉の一酒造」の仕込み蔵を利用して開設された。「熊文」こと14代目熊谷文之助は味噌・醤油・清酒の醸造・販売で富を成した。明治9年金森家に明治天皇が宿泊したとき、岩倉具視、木戸孝允などの随員は熊谷家に泊まっている。

16代当主熊谷太三郎がまだ文学青年であったころ、北村透谷の紹介で英語の家庭教師にやってきたのが明治女学校での教え子佐藤輔子との禁断の恋に苦悩していた若き島崎藤村であった。皮肉にも一関は輔子が小学校時代を過ごした土地であった。藤村は1ヶ月もたたないうちに彼女のいる東京に戻る。既に婚約者がいた輔子は2年後花巻にもどり結婚、翌年はかなく病死する。輔子24歳、藤村23歳のことであった。

石造りの酒蔵にかこまれた広い中庭には、杉の葉でつくったくす玉・酒林(さかばやし)や背丈よりも高い酒樽にまじって、自然石に青銅パネルを埋め込んだ文学碑がある。

    
「あゝ自分のやうなものでもどうかして生きたい  藤村」

田村町を南にくだる。右手に端正な板張り二階建ての民家、左には茅葺屋根の
武家屋敷をみる。突き当たりに一関城があった。西側に磐井川、南は釣山を天然の要塞とした平城で、堀の内側に藩主の居館や役所を集めた小規模なものである。福祉センターの入口に太鼓櫓が復元されていて、その先に城の本丸絵図板が立っている。一関街道を結ぶにあたって、絵図の片隅に記されている解説文を載せておこう。

一関藩は宮城県岩沼の領主であった田村氏が仙台藩から3万石を分封され、大名格を与えられたのが始まりです。領地は一関市の磐井川右岸のほか、花泉・千厩・藤沢・大東・室根・東山・川崎・金成の一部(飛び地)。 初代は田村右京太夫建顕(たけあき)で、入部は1682年(天和2)5月2日。建顕公は名君の一人で、藩民の向学精神と勤労精神を高め、江戸にあっては津山城受取り奉行(岡山県・元禄10)や、播州赤穂城主浅野公のご切腹(江戸屋敷・元禄14)などの大任を果たし、外様大名としては最高位の「奏者番」にまで取り立てられました。以後、明治維新まで185年、一族11人が一関藩主を担ったため別に「田村藩」と言われました。磐井川左岸は仙台藩直轄領でしたが、お互いに好影響を与え続け、特に幕末から建部清庵、大槻玄沢といった蘭学者、長沼守敬や大槻文彦など、多くの文化人が育っています。  平成12年10月  一関青年会議所

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(2007年12月)