天保11年(1840)正月、水戸へ帰国途中の水戸藩主徳川斉昭は、利根川を渡る船の中で歌を詠み、染野家で休憩している間に、その歌を袋戸へ貼り付けて出発した。 取手川を渡る船中にてよめる 斉昭 さして行く 棹のとりての わたしふね 思ふ方ニハ とくつきにけり 行末に さをもとり手の わたし船 わたれる世をハ あたにくらすな その後、水戸藩ではこの歌のうちの前者を石に刻み、3年後の天保14年、江戸から舟で取手まで運んできた。実際に斉昭が詠んだ歌とくらべると、文字の使い方や言葉が多少異なる部分もあるが、斉昭自筆のものをそのまま石に刻んだようである。 取手教育委員会 |
平成6年 日本一短い「母」への手紙 お母さん、もういいよ。病院から、お父さん連れて帰ろう。二人とも死んだら、いや。 平成9年 日本一短い「父」への手紙 父がコップに残したビールは、父の残りの人生のようで 寂しくなりました。 |
普段でも貧しい村民は助郷課役の重圧に耐えられなくなった。小池村(現阿見町小池)の吉重郎と勇七、桂村(現牛久市桂)の兵右衛門の3人をリーダーとして助郷推進者3名の屋敷を襲撃した。幕府は代官を派遣して徹底的な弾圧に乗り出し、農民側は交渉の機会も与えられず、一揆は失敗に終わった。一揆責任者の勇七は獄門、吉重郎と兵右衛門は遠島の裁きとなったが、3人は江戸伝馬町の牢屋で拷問の末に獄死した。19年が過ぎて、牛久宿で打ち壊しを受けた麻屋家が、一揆の首謀者3名の供養のため、道標を兼ねた供養塔を荒川沖の東方、阿見町に建てた。狭い県道48号を南に下った阿見1区南の交差点の一角に道標が露出している。かってはお堂のような建物の中にあったのが、自動車事故の巻き添えでもくったものか、一角の空き地に壊れた資材が散乱していた。
カッパ
本牛久郵便局の手前、「芋銭河童碑道」の石標がたっている交差点を左に進むと、旧牛久城中区域に入る。三日月橋・カッパの里に向う道と、得月院を経て小川芋銭記念館雲魚亭にいたる道が分かれる広い三叉路角に牛久城大手門跡の碑が建てられている。牛久城は、16世紀のはじめのころ在地領主岡見氏によって築かれたといわれる。天正18年(1590)豊臣秀吉の東国攻めによって岡見氏は滅亡、かわって上野金山城主であった由良国繁が入城した。元和7年(1621)、由良氏が徐封になり、廃城となった。城は周囲3方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘切った城郭であった。
まず、左の道を進んで河童碑をみることにした。途中、徳月院に寄って小川芋銭の墓をたずねる。小川芋銭は明治元年(1868)江戸赤坂の牛久藩邸大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれた。廃藩置県で父に伴って牛久に帰農した。俳雑「ホトトギス」などの挿絵や表紙を描いたほか書道、随筆、俳人としても知られた文人だった。牛久沼に棲んでいたといわれる河童の伝説に魅かれ、「芋銭の河童か、河童の芋銭か」といわれるほど多くの河童の絵を描いた。茂った木々の隙間に沼を見下ろす台地の片隅に、膝をかかえて座り込んだ孤独な河童が彫られた石があった。碑と反対の方角には芋銭が晩年をすごしたという雲魚亭がひっそりとたたずんでいる。
そこでもらった案内地図に、河童碑に隣接して「牛久藩陣屋跡」とあるが、どうしても見つけることが出来ない。駐車場にもどって帰ろうとしたとき、車から降りてきた市の職員らしき二人連れの若い男性にたずねてみた。
「ここがそうなんです」と、駐車場のとなりの草むらを指差した。説明板も碑もなければ、土塁や濠跡らしき遺構もない。これでは誰もわからないだろう。
先ほどの三叉路に戻って、道を左にとる。三日月橋の標示にしたがってすすむと、牛久沼のほとりに出た。橋の袂で、合歓の木蔭に潜むように河童が坐っている。河童の碑のレリーフと同じポーズだ。顔、手足、背などをよくよく観察すると、河童とはアヒルとカメとニンゲンの合成動物だという印象を得た。牛久沼は稲荷川と谷田川の合流地点が堰どめられた形をしていて、長くはあるが、湖のようなひろがりは感じない。縁は高く伸びた葦で覆われ、縁べりは湿地帯を形成している。その一角が整備され、カッパの里、牛久アヤメ園と名付けた公園になっている。そこにも同じ顔をした河童が咲き残りのアヤメをみつめていた。
ウナギ
牛久沼はうなぎの本場でもあった。うな丼の発祥の地でもあり、「うなぎ街道」とよばれる、沼の東岸を走る国道沿には、古い暖簾を誇る鰻料理屋が店を構えている。江戸時代、ある男が牛久沼で舟渡しを待つ間、茶屋でうなぎの蒲焼と丼飯を注文した。蒲焼が出てきたと思ったら舟が出るという。慌てた男はどんぶりのご飯の上に蒲焼をのせ皿で蓋をして船に乗った。対岸についた頃には、鰻の身がやわらかくご飯にたれがしみていて非常に美味かった。それが江戸中で評判になった。
丼じたいは以前からあったようで、簡易食として重宝がられた。草加の堅餅であるせんべいや英国の貴族サンドウィッチの挟みパン、セントルイス万博のコーンアイスクリームとホットドッグ、日清のカップヌードルなども同じ仲間だ。
ワイン
水戸街道の反対側、駅から1kmほど東にいったところに牛久シャトーという西洋風の瀟洒な建物がならぶ一角がある。明治36年神谷伝兵衛によって建てられたもので、ぶどうの栽培からワインの瓶詰めまでを行う、わが国初のワイン醸造所である。「日本人の飲むワインは日本で造りたい」という願いから、神谷はボルドーからブドウ苗を輸入してこの地で栽培をはじめた。神谷は商才にもたけ、浅草に進出し神谷バーで「電気ブラン」を売り出して大ヒットした。神谷は大金持ちになった。
現在は合同酒精のワイン貯蔵場となっているが、敷地内には工場、貯蔵庫のほか神谷伝兵衛記念館、和洋のレストラン、ブドウ畑、バーベキュー柴庭などがあって、大人が楽しむ公園を造り上げている。レストランのメニューを一瞥したところ、価格は一流ホテルなみだった。資料館前の中庭の木陰で憩う人たちはすべて高年の婦人方である。男が一人、絵を描いていた。記念館は楽しい。地下の樽貯蔵庫はひんやりとしていて、大きな樽が横たわる暗闇に近い通路を歩いていく。2階は展示室だ。着物姿でワイングラスを手にした女性のポスターが一番気に入った。
さて、寄り道から本道にもどる。宿場町は国道から「く」の字に離れ、町のほぼ中央には黒板塀を巡らせた飯島家の邸宅が残り、正門脇に明治天皇の牛久行幸行在所跡標柱が建っている。その他目にとまる旧家の姿はみあたらず、宿場自体の散策はすぐに済んだ。
国道にもどり1kmほど行って、わずかながら再びくの字の旧道を経る。その後国道6号を北上し、常磐線「ひたち野うしく」駅の西方を通り過ぎて、土浦市との市境にさしかかる。ここに左右一対の一里塚が残っていた。
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土屋藩
土浦は水戸街道の要衝として、また、霞ヶ浦と江戸を結ぶ船運の拠点として栄えた町である。幕府は強力な外様大名、伊達62万石を監視するため、水戸に徳川家御三家の一つを配し、土浦には代々譜代大名を置いた。慶長6年(1601)、松平信一が土浦城主となり初めて城下町の町割が行われた。以後西尾、朽木、土屋(95千石)と続く。なかでも土屋家2代目土屋政直は歴代藩主の中で随一の名君といわれ、5代将軍綱吉政権で老中として重任を帯びた。元禄年間の「赤穂浪士討ち入り事件」の裁決にもかかわっている。地元産業の「土浦醤油」にも力を入れた人物である。
水戸街道が整備された時、中城と東崎の二つの集落が結びつけられ、田宿、中城町、本町、仲町、田町、横町の各町が生まれて土浦宿が誕生した。本陣は二ヶ所置かれたが、おおむね本町の山口家と大塚家があたった。
街道は下高津から銭亀橋で桜川を渡り、河岸として賑わった大町を通る。大町側の堤防に「銭亀橋跡」の碑が建てられてある。元は姿よい太鼓橋であったという。左手に一里塚の井戸がある。標柱の説明は「この井戸は、日本橋から十八番目の一里塚のかたわらにあった井戸である」とあって、井戸そのものに史的意味があるのでなく、一里塚跡をしめす史蹟代わりということのようだ。
県道24号の高架下に「南門の跡」碑がある。道は染谷石材店の前で枡形をつくり大手町につづく。右手にある東光寺の墓地には南門の土塁が残っている。
中城通り
道は土浦大手町曲の先でもいちど鉤の手に曲がり宿場のメインロード中城通りに進んでいく。堂々とした蔵造りの商家が並ぶ見ごたえある景観だ。市が蔵造りの旧家を買い取り、市観光協会が「土浦まちかど蔵」として再生利用している。全国に多くある「蔵の町」のひとつのビジネスモデルであろう。
色違いの角石を積み込んだ石蔵造りは山口薬局。
吾妻庵は明治6年(1873)創業、母屋は築約200年という老舗蕎麦屋である。格子出窓造りの下屋庇屋根には唐破風をのせた豪華な看板がうだつのように立っている。
並んであるのが店・袖蔵ともに黒壁土蔵の矢口酒店だ。嘉永2年(1849)の建築で、黒瓦屋根と一体になってますます黒々しい。
「土浦まちかど蔵」の「大徳」と「野村」が白壁蔵造りの店を街道の両側に構えている。「大徳」は宝暦12年(1762)に大国屋徳兵衛がはじめた呉服商で、「野村」は砂糖問屋であった。ともに市の所有で、観光協会により運営されている。野村の側道には石碑、石灯籠、常夜燈、ベンチなどを配した小公園を形作りその奥には琴平神社と不動院がある。共に霞ヶ浦の湖上交通の安全を祈願する船主や荷主たちによって信仰されてきた。
まちかど蔵の辻から一筋東にすすむと亀城通り(国道125号線)と交差する。この大通りは川口川(旧桜川)を埋め立てたもので、水戸街道との交差点には「桜橋」が架かっていた。橋の親柱のひとつが、二階を全面的にすだれで隠した「てんぷらほたて」の店先に、「土浦町道路元標」と並んで残っている。
桜橋交差点をそのまま進むと土浦商工会議所のビルにあたる。ここが大塚甚左衛門家の本陣跡だと石標が示している。もう一つの本陣山口弥左衛門の家は大徳家の裏あたりにあったらしい。
街道はそこで左に折れて旧本町、仲町、田町を通って北上し、左に曲がって横町を通り抜け北の枡形、北門跡をみて新川に至る。南北の街道筋(国道354号)にも畳屋松安など、古い木造二階建ての家を見ることができた。新川は土浦宿の北端で、橋を渡ると真鍋に入るが、後戻りして街道はずれに位置する3箇所を見終えたい。
土浦城(亀城公園)
市の中心を占めるのがいうまでもなく土浦城(亀城公園)である。もともと天主閣が無く本丸の中央部分に書院造りの館があった。築城は室町時代の永亨年間(1429〜1440)といわれている。城の周囲に石垣はなく5mほどの土塁で囲まれた、戦国時代の「掻き揚げ城」がそのまま近世に引き継がれた形になっている。東は霞ヶ浦、残る三方を堀や川で何重にも囲まれた水城である。その姿が水に浮かぶ亀のように見えたため亀城とも呼ばれた。
威圧的な城山や石垣をもたず、平で穏やかな空気につつまれたやさしい城だ。濠には白い可憐なスイレンの花が盛りであった。本丸に通じる「櫓門」は明暦2年(1656)の築。2階には「刻を告げる」大太鼓があり「太鼓御門」とも呼ばれ「時の鐘」の役目をしていた。本丸が中庭となって東西に2層のこじんまりとした櫓が構える。
川口河岸(土浦港)
国道125号を霞ヶ浦に沿って南下する。途中、霞ヶ浦総合公園に寄る。国民宿舎水郷の近隣にオランダ風車小屋、湿原植物板遊歩道、和風水車などが配置され、湖面から流れてくる風が生暖かい。「半化粧」という初耳の葉の写真が撮れた。緑の葉の半分くらいほど白く化粧をほどこした広葉だ。
国道を更に南にむかって阿見町にはいる。青宿で、「予科練記念館」の標識にしたがって左に入ると、自衛隊の門に至る。いったん駐車して入館手続きをとる。隊員の中に凛々しい制服姿の女性を見るのは、時代の賜物だ。カメラを取り上げられなくてホッとした。記念館への途中に整備された戦車とヘリコプターが一列に展示されている。
予科練とは海軍飛行予科練習生、別称海軍少年航空兵のことである。昭和5年、横須賀海軍航空隊内に創設され、昭和14年3月ここ霞ヶ浦に移ってきた。霞ヶ浦に飛行場が開設されたのが大正10年(1921)、翌年には海軍航空隊が置かれた。おりしも、そのころは世界的な飛行機世界一周ブームで、昭和4年にはドイツが開発した世界最大の飛行船ツェッペリン号が霞ヶ関飛行場に降り立ち、また昭和6年には、大西洋横断飛行の英雄、リンドバーグが新婚早々の夫人を同伴して訪れ、熱狂的な歓迎を受けた。リンドバーグの息子が誘拐され殺害される前年のことである。
はなやかな注目を集めた霞ヶ浦飛行場も、その後軍国主義の高まりとともに、悲劇の運命をたどることになった。敗戦の色が濃厚になった昭和18年、早稲田大学教授で仏文学者・詩人だった西条八十が「若鷲の歌」を発表。昭和20年8月終戦。その間、24万人の若鷲が飛行予科練習生として入隊し、卒業生の約8割、18564名が桜と散った。殆どが18歳か19歳だった。二人の予科練生ブロンズ像が雄翔園に立つ。
若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ でかい希望の雲が湧く |
燃える元気な予科練の 腕はくろがね心は火玉 さっと巣立てば荒海越えて 行くぞ敵陣なぐり込み |
仰ぐ先輩予科練の 手柄聞くたび血潮が疼く ぐんと練れ練れ攻撃精神 大和魂にゃ敵はない |
生命惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼 見事轟沈した敵艦を 母へ写真で送りたい |
真鍋
新川橋を渡って真鍋に入る。真鍋坂下で右に折れて潮来をへて鹿島に至る国道354号線は旧鹿島街道である。すぐ左手に、善応寺がある。
「創建は南北朝以前にさかのぼる。近世になり土浦城主歴代の保護を受け、観音堂は寛文10年(1670)土屋数直が土浦城の鬼門除けとして寄進したもので、現存の観音堂は文化11年(1811)の再建である」
「ぼけ封じ」のお守りを売っていた。
寺のすぐそばにある「照井の井戸」はかつては水戸街道・鹿島街道・鎌倉古道を通る旅人ののどを潤してきた名水である。ここから土浦城へ木樋で通し上水道の役目も果たしていた。柵に囲われて、蓋された井戸から清水がもれ出して、隣の貯水地にひかれている。二匹の鯉にまじって、はちきれんばかりな腹をした金魚がたくさん泳いでいた。
坂下交差点にもどる。ここから急な登り坂になっていて、左側には下屋庇の上に格子の美しい二階をのせた昔ながらの商家が続いている。坂上右手にも「藤本蚕業株式会社支店」と、左読みに書かれた古い建物があった。この下り一方通行の坂道を、恐ろしいスピードで駆け下りてくる自転車通学の高校生に出会った。男だけだろうと思っていたら、女子生徒も負けてはいない。そのあとに、やや遅くして買物帰りのおばさんも仲間だ。交差点近くで起る金属性のブレーキの軋みがけたたましい。清閑古色な宿場通りに爽快な疾風をもたらす愉快な光景だった。土浦一高の下校時刻にみられる日中行事のようだ。
真鍋宿の坂道を上りきり国道125号線と合流すると、「土浦一高前」である。右手にある土浦一高の構内に明治37年(1904)に建てられた旧制土浦中学校の本館が保存されている。下校前の未練をのこしてたむろする男女生徒を横目に、右奥に入っていった。敷地の南端に、正面玄関を挟んで両側に尖塔を抱える端正な校舎が潜んでいた。ゴシック様式だというが、正面からみるかぎりなんとなくギリシャ正教圏の東欧建築の匂いがするようだった。