水戸街道は江戸と水戸徳川家の居城を結ぶ重要な街道であった。国道6号や常磐自動車道がその現代版にあたる。

江戸時代、現在の国道6号の水戸以北は
「岩城相馬街道」とよばれていたが、明治以降、水戸街道と岩城相馬街道を合わせて、千住より水戸を経て陸前国(宮城県)岩沼に至る道中を「陸前浜街道とよぶようになった。6号は岩沼で終り、陸中・陸後の領域を奥州街道4号に譲る。

日本橋から水戸まで、29里31丁の間に19の宿駅が置かれた。25年ほど前、取手まではマイホーム分譲広告を携えて探検したことがあるが、それ以北は今も知らない町々である。とりあえず水戸をめざす。



旧街道:大伝馬本町通り

旧街道を歩き始めたが両側はオフィスビルがならぶだけで室町仲通りのような店屋がない。週末のため通りは閑散としていて街道の趣などすこしもないのだ。

すぐに、両側のビルの入居者に「○○製薬」が多いのに気がつく。そういえばのっけから東京薬業会館があった。どうやらここは大阪でいう道修町のようである。昔、薬問屋が軒を連ねていたのであろう。日野商人の出店もあったのではないか。とにかく近代的なオフィス街で、街道の雰囲気は微塵にも感じることができなかった。すぐに昭和通りにでる。上を首都高速上野線が走っている。

人形町通りをそのまま北に進み、江戸通りの小伝馬町駅を通り越したところ辺りに十思公園がある。この周辺は江戸時代、全国最大の伝馬町牢屋敷であった。長州藩士、吉田松陰も井伊大老による「安政の大獄」でこの地で処刑された。公園には、江戸幕府最初の公認「時の鐘」が移設されている。煉瓦造りの鐘楼が釣鐘にあわない。

昭和通り全体に、無骨な屋根をかぶせたような高速道路の下を、くぐって渡ることができない。地下歩道にもぐると、ホームレス居住用のダンボールが転々とトンネル壁に並ぶ、異様な光景に出くわした。幸いに、すべての住民は出払っていたからよかったものの、壁にもたれてうずくまった10数人のホームレスから、うつろな視線をなげかけられたら、とても50mの地下道を通りぬける勇気をもたなかったであろう。

昭和通りの向こう側にでると、薬業関係の企業は蔭をひそめ、雰囲気が一気に街道臭くなってきた。早々に左手に趣のある会社が構えている。今年今月に立ったばかりの真新しい社碑を見ると、「小津商店」という伊勢商人であった。すぐ先にも「銀杏堂」、「江戸屋」という、建物こそ新しいが二軒の暖かな店が並んでいる。その前の近代的なホテルギンモンド東京の道路際に「旧日光街道本通り」と彫られた御影石碑が立っていた。区のものではなさそうで、この通りの商店街の寄贈によるものであろう、左右の面で、「この地」を大いに宣伝している。薬問屋街から木綿問屋街に移ってきたようだ。

徳川家康公江戸開府に際し御伝馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大伝馬町と称された。
江戸名所図絵や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は将軍御成道として繁華な本街道であり木綿問屋が軒を連ねて殷賑を極めた。

横山町問屋街


横山町問屋街はほとんどが繊維・呉服関係の問屋だ。週末に店をあけているところは小売もしている店だろう。大阪にも南久宝寺町といって現金卸問屋がひしめく通りがある。父の仕入れについていったものだった。
一筋北を覗くと「横山新道問屋街」とあり、店はみんな閉まっていてひっそりとしていた。問屋街もおわりに近づいたころ、横道に異様な光景をみた。ビルに掛かる看板のほとんどが「エトワール」である。100年以上の歴史をもつわが国初の現金卸問屋だそうだ。
馬喰町から横山町にかけて「エトワール村」と言わんばかりであった。

浅草橋

大伝馬本町通りがおわると大きな浅草橋交差点に出る。江戸通り(6号線・水戸街道)と靖国通り
がぶつかり、東に向かって京葉道路(14号線・千葉街道)が出ていく。両国橋を渡ると墨田区である。

江戸幕府は江戸城の外堀(飯田橋から隅田川までが神田川)、内堀に沿って36の門を設け番人を常駐させて府内を出入りする者を監視(見附)させた。浅草橋には奥州・日光街道への出口として浅草御門・浅草見附が置かれた。寛永13年(1636)のことで、橋を渡った左側に石碑がある。他に筋違橋門(万世橋−中山道)、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門(甲州街道)、赤坂門(大山道)、虎ノ門等36ケ所の見附などがある。

ここから駒形にかけて沿道には吉徳、久月をはじめとする人形や、花火、玩具などを売る店が多い。現代の玩具メーカー、バンダイも街道沿いにある。秀月は2004年民事再生法を申請し、目下再建中である。

ここから一つ下流の柳橋まで、神田川は船宿に係留する屋形船でひしめき合う。夕方になれば一斉に隅田川に出て行くのか。南岸は柳が植え込まれ水辺の風情を引き立てる。柳橋は神田川が大川(隅田川)にそそぐところに架かる、短いグリーンの鉄橋である。橋のほとりに「小松屋」の看板をかかげた舟宿がひっそりとたたずまい、柳を背にした軒先で女主人が座布団を繕っていた。反対側の岸にはおなじく「小松屋」という佃煮屋がある。ほおずきを鉢ごとぶら下げて風鈴の飾りにしている。歩道に一台のバイクが乗り上げられている。欄干にはかんざしの浮き彫りが並んでいる。川でボートを操るおじさんがカメラに振り向く。これらが互いに干渉することなく平和に溶け込んでいる空間がここにあった。

吉原が人形町から浅草田圃に移ってからは、柳橋が遊客の足の便を助ける拠点になる。客は猪牙(ちょき)船といわれる小さな船で隅田川を上り、今戸の山谷堀で降り、日本堤を歩いて吉原大門をくぐっていった。江戸時代の後半には柳橋自身も、深川、新橋、品川、新宿などにならぶ花街となって賑わった。多くの芸者が深川から流れてきた。幕末・明治になっても柳橋芸者は江戸っ子気性がつよく旧幕府派や日本橋界隈の老舗の旦那を相手にした。他方、新興の新橋(現在の銀座七・八丁目あたり)には、薩長土肥の下級武士や成り上がりの新政府高官の集まるところとなり、芸者も進取の気風が強かった。英語を話す芸者もいたという。結局、政府高官や新興の政商を取り込んだ新橋が勝負に勝った。

今でも伝統を重んじる横綱審議委員会は(両国の近くということではあるけれど)柳橋の老舗料亭亀清楼で開かれているという。単なる想像だが昔は芸者も侍っていたのではないか。委員に女性が選ばれた今、これからも料亭での会議を続けていくのかどうか。亀清楼の前を進んでいくと右手に
石塚稲荷神社がでてくる。鳥居前の門柱に刻まれているのは「柳橋芸妓組合」と「柳橋料亭組合」だった。夜にでもなれば今でも着物姿が行き交うのかしらん。

蔵前

亀清楼の前の細道を隅田川に沿って北に向かう。錦絵にもある首尾の松の子孫が残っているという。首尾の松はその姿・形よりも、隅田川をかよう舟人にとって目印に格好な実用的価値の方が高かったように思える。

橋袂は工事の最中で、蔵跡の石碑も金網の目にレンズをつっこんで撮ったものである。最大広角にしたのだが縦が全部入りきらなかった。

途中、道は蔵前工業高校にさえぎられて岸にはでられず、結局奥州街道にもどらねばならない。江戸時代、その校舎敷地内に各地から送られてくる米を揚げる船着場があって、幕府直轄の米蔵がならんでいたことだった。今、蔵前橋にいたる大通りの北側に小さな小屋風の白壁蔵がチョコンと建っている。博物館でも教育委員会が建てたものでもなく、そこで操業する都下水道局が気をきかせて建てたものであった。

駒形 

道向かいの店先に人だかりをみつけた。「江戸文化道場」と書かれた看板が好奇心をそそる。歩道でたむろする人たちは
「どぜう」料理を待つ客だった。四辻の一角をしめる蔵造りの存在感あふれる建物である。空腹をおさえてそのまま通りすぎた。

駒形橋交差点に出た。角に朱色の鮮やかな駒形堂がある。駒形の地名は吉原の高尾太夫と仙台藩主、伊達綱宗とのロマンスで有名になった。めでたく身請けされたという話の一方で、実は高尾には神田の紺染職人、島田重三郎という情人がいて、嫉妬に狂った殿様に隅田川の舟中で切り殺されたという話も伝わっている。高尾が詠んだという
「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の本意は定かでない。芸に優れ才色兼備の伝説的吉原美人は春慶院に眠っている。

今日は三社祭りである。「三社さま」とは、
土師中知(はじのなかとも)檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)の三人を祭神としている浅草神社の愛称である。駒形橋から江戸通りと川堤の間の狭い道を歩いていると子供のにぎやかな声が近づいてきた。神主が先導して父兄同伴の子供御輿である。列の中に割り込んで2、3枚子供たちの写真を撮った。

「浅草寺縁起」によれば、推古天皇36年(628)、檜前浜成、竹成兄弟が江戸浦(隅田川)で漁をしているとき、投網の中に1体の仏像を発見した。これを持ち帰って土地の名士であった土師中知に見てもらったところ、聖観世音菩薩の尊像であることがわかり、土師中知は自ら浅草寺にそれをお祀りした。浅草神社(「三社権現社」)はその3人を祀る。
 


浅草 

東武浅草駅を出ると左手が吾妻橋、右に神谷バーがある。前の通りが雷門通りで、西に向かって歩くとすぐに浅草寺境内のメインゲートである雷門に着く。見慣れた大きな提灯がある。この門は実は100年近くないままだったのを、パナソニックの創始者松下幸之助が見かねて再建を寄進したものである。両脇にたくましい風神・雷神の二神がいるのだが、徹底的に金網に守られていて、取り付く島がなかった。裏に女性らしき像がある。一旦あきらめた金網越しの写真に挑んでみた。

門をくぐると仲見世通りである。江戸時代にタイムスリップしたみたい。上野にはこのような一角がなかった。天海だの家康だの、あるいは西郷だの彰義隊だの、上野では歴史や宗教や政治が付きまとった。浅草にはそれがない。そもそもが漁師が拾った観音様から始まった。寺社は庶民のものである。それに芝居小屋のメッカでもあり、上野よりも粋だった。維新の戦争にも巻き込まれなかった。仲見世の一軒一軒を見て歩く。面白い。店先を飾る浮世絵に違和感を感じない。人形町甘酒横丁よりも10倍は古い。その上に多彩である。外人観光客が上野よりも圧倒的に多い。

待乳山聖天

文禄3年(1594)隅田川に千住大橋が架けられてから、南千住に至る現在の吉野通りが開かれ、言問橋西詰め交差点は浅草追分とよばれるようになった。それまでは、このあたりから橋場の白髭橋にかけていくつかの渡しを通って隅田川を越えていた。なかでも一番よく利用されていたのが竹屋の渡しである。対岸には由緒深い三囲神社があって、その堤から眺める川ごしの待乳山は絶景であった。ちょうど山谷堀が隅田川に流れ落ちる場所に竹屋という船宿があった。今は水門跡にホームレスのテントが並ぶ惨めな光景に変わり果てた。

待乳山は昔天狗坂とも呼ばれた小高い丘だったが、山谷堀を埋めるために丘が削られた。それでも待乳山聖天は低湿地の浅草にあっては見渡しのきく風光明媚な名所として知られ、今でも人気がある。20段ほどの石段を登ると、色あざやかな線香の煙が築地塀に向かってたなびく静寂な場所に出る。一流の観光地でありながら俗化を避ける気分がうかがえて、気が安らぐ。それでいてご利益はお金と夫婦和合という、極めて世俗的であるところも親しめる。お金は巾着が、夫婦和合は二股大根が象徴する。二本の二股大根を横に並べるのではない。4本の脚が交差するのである。「ラストタンゴ・イン・パリ」の1シーンを思い出させる。

待乳山聖天と言問橋の間は隅田公園になっていて戦災碑のほか、滝廉太郎の花の歌碑などがある。しばらく吉野通りを離れて、川沿いの旧道を歩いていくことにした。道路の両側は家内工業の家が多い。
今戸神社で招き猫のクローズアップを撮ろうとしていたとき、横から女性の声がかかった。
「招き猫の写真を撮っておられるのですか。よろしかったら中へ入ってこられませんか。たくさんありますから。」
手招きに応じて社務所に入った。玄関にひな壇が設けられ、壇上には大小、白黒の招き猫が肩を寄せ合って並んでいる。

橋場

プラタナスの並木が色づき始め、わずかながら落ち葉が道を飾っていた。しばらく行くと柳の並木が西の方向に出ている。今吉柳通りという。柳並木はまだ根岸の柳通りほどではないようだった。ところどころで路地に入ることにしている。表通りからは隠されている下町情緒を発見するためである。格子戸、板塀などが目標なのだが、今日は意外なものを見つけた。江戸の風物ではないが、貴重な昭和のなごりである水道ポンプである。角度や距離を様々に変え、路地のひと隅でひとしきり自分の時間を楽しんだ。

橋場2丁目の中ほどに赤い幟がはためく不動があった。密教系の寺院は赤い色彩ですぐに判別できる。

数分歩いたところで
白髭橋に出る。かっては「橋場の渡し」があり、千住大橋が架かるまでは、奥州.日光街道はこの橋場の渡しを渡って常陸国に出ていた。江戸時代は、風光明媚な処で、根岸と並んで寮(別荘)が建てられ、文人墨客が多く住んだところである。明治時代の政治家三条実美別荘だったという「対鴎荘跡」の碑があった。肝心のその別荘は白髭橋架橋工事に伴い多摩市連光寺に移築されたとある。根岸と橋場の大きな違いは、団子や豆腐料理などの老舗がここにはなかったことであろうか。もっとも対岸には言問団子などがあるとは聞いているが。

吉野通り

もう一度浅草追分にもどり本来の奥州街道筋である吉野通りを歩きなおす。すぐ左手に宮内庁ご用達
「宮本卯之助商店」がある。太鼓、御輿など祭礼用具の専門店である。中にはいると二人の女性が店員になにか注文をしていた。鼓か笛か。いずれにしても別世界の雰囲気がした。
再び山谷堀を横切る。ここにかって吉野橋がかかっていた。緑の帯状の公園を吉原の方面に少し歩いてみた。広い通りにでるところに「山谷堀橋」の碑がある。三ノ輪からここまで、堀にそって日本堤が築かれた。山谷堀橋の左手に大きな三叉路がありここで、三ノ輪から吉原を通って来た土手通りと、吾妻橋西から出て浅草寺の東側を通ってきた馬道通りとがぶつかっている。吉野通りにもどると東浅草1丁目交差点である。左におれて一路南千住をめざす。途中、バッハやボルガといったちょっと気になる喫茶店の前で立ち止まった他は
泪橋まで快調な足取りであった。明治通りと吉野通りの交差点が泪橋である。むかしここを思川が流れていた。ここから北のほうに東武線の高架線路がみえる。小塚原刑場は目の先である。この辺りで囚人や見送る人たちの泪が流された。今は交差点の東南角に、「交心」と書かれたパブが暖かい色彩を放っていて、悲しさなど微塵もない。

南千住 

吉野通りをコツ通りともよぶ。江戸時代、最も人の往来の激しい東海道品川宿の先、鈴ヶ森と日光街道千住宿の手前、小塚原に刑場が設けられた。犯罪者を処罰された犯罪者の骨が沢山埋められているという、少々不気味な由緒のある場所である。
それが刑場に由来する歴史的事実であったとしても、人を寄せるべき商店街の名として、宣伝するようなことでもなかろうという思いであった。

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千住 

「千住」は「センジュウ」でなくて「センジュ」と読む。千手観音に由来するとか、平安時代のころ千寿村といわれていたとか、足利将軍義政の愛妾千寿が生まれた土地だとか、いずれもこの地は「せんじゅ」に由来している。千住は南の東海道品川宿、西の中山道板橋宿、甲州街道新宿と並んで、江戸の4宿の1つに数えられた。

素盞雄(すさのお)神社

南千住駅から西に1ブロック行くと旧街道に出る。右折して北に進む。GWの連休なか日とあって閉めている店が多い。電柱にぶらさがる「コツ通り商店街」という看板が気になり、目的地の素盞雄神社につくまで「コツ」のことばかり考えていた。旧道と国道4号線の交差点にある交番の前に大きな「素盞雄神社」の看板がありよく目に付く。いかにもいたずらそうな
須佐之男命のことはさておき、ここに矢立ての句碑があるというので寄ってみた。下部に芭蕉の絵も彫ってある。文字、絵ともに浅彫りで、写真には映りにくい。

「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。行春や鳥啼魚の目は泪 はせを翁」

大橋公園

神社をでて北に進むとすぐに千住大橋だ。2005年3月、修復工事で綺麗になった。下りの一方通行である。上り車線は隣接して段違いの別の橋(新千住大橋)があった。橋は思ったより短かい。


千住大橋は文禄3年(1594)徳川家康によって架けられた隅田川最初の橋である。名をたんに「大橋」とした。66年後の1659年、明暦の大火を受けて江戸市域を隅田川の東へ広げるために2番目の橋が架けられた。これを「大橋」と呼んだため千住の方を「千住大橋」と改称した。なお、3番目の橋は1695年の「新大橋」である。その後2番目の「大橋」が「両国橋」と変わったため結局「大橋」はなくなった。「なんとか『大橋』」はたくさんある。

2005年、新旧の千住大橋下堤防をつなぐ小橋が架けられた。名付けて「千住小橋」。南の荒川区でなくて北側の足立区に属する。橋の下だから、ホームレスに狙われやすい。不法占拠を防ぐために、毎日夜間は鍵がかけられる。それまでしてここに小橋を設けたのは、この付近の水中に重要な遺跡が残っているからであった。伊達政宗が提供したという千住大橋オリジナルのコウヤマキ杭である。3個のブイがその位置をしめし、小橋からうっすら、杭の姿を見ることが出来る。橋の下からの眺めも一興だ。

橋を越えた左側に入舟乗り場の看板がでている。釣船乗合の出船案内もある。屋形船の使用例は意を尽くしていた。
「接待、謝恩会、クラス会、同窓会、新年会、忘年会、展示会、各種イベントの打ち上げ会、お花見、花火、カラオケ大会等…」
その裏側の空き地が大橋公園で大きな奥の細道行程図や
矢立初の碑が立っている。芭蕉はここで見送りの人と別れた。

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やっちゃ場跡      

橋からの傾斜が地表に消えて行くところに足立市場入口交差点がある。金属製の道標が立っていて「日本橋から7km」とあった。歩いてたった2時間か――もっと遥かな距離であると思っていた。

4号線からそれて、東京都中央卸売市場の横を斜めに延びる道が旧街道である。2004年12月、市場入り口の一角に、芭蕉の石像と日光道中道標を据えた「千住宿奥の細道プチテラス」が完成した。千住のひとたちの「日光街道・宿場」と「芭蕉・奥の細道」に対する愛着は並でなく、この町全体を包む大気の色といってよい。

旧街道の千住河原町に属する部分が旧千住宿の市場跡で、そのころ問屋の店先でかけあうせりの声が「やっちゃ やっちゃ」と聞こえてきた。今でも「やっちゃ場」と言えば千住市場のみならず、むかしの市場を指す。民家の玄関先に昔の問屋名を示す看板が多数掲げられている。やっちゃ場は戦国時代の昔に、周辺の農民や漁民が野菜や川魚を持ち寄って街道の両側にひらかれた青空市場から始まった。1594年隅田川に千住大橋ができると青物と川魚を扱う江戸の正式な市場になった。江戸には、ほかに神田と駒込にやっちゃ場があった。

やっちゃ場通りのほぼ半ば、京成電鉄のガードをくぐってしばらくいくと左手に
「千住宿歴史プチテラス」という表示の門構えがあり、その奥まったところに白壁の蔵が見える。この蔵は後ほどみる4丁目の横山家の蔵を移築したもので、区民ギャラリーとして利用されている。中には当時の貴重な写真も展示されている。最近新しい芭蕉句碑が建てられた。

 
鮎の子のしら魚送る別かな 

仲町

やっちゃ場通りをすぎると千住仲町に入る。その北詰と千住1丁目の南端
との交差点に3個の石標があるはずだった。まず、仲町側の交差点西角の電柱の傍に高札場跡を見つけた。札の辻ともいわれる町の繁華街の跡である。柱は低く、しゃがみこまねば文字を撮れない。
おなじ仲町側東角にあるべき
一里塚跡はビルの入口らしきところにとめてある数台の自転車に隠れるように、小さな石柱が卑屈にしゃがんでいた。邪魔をしていた自転車の1台をすばやく除けた。後ろにある自転車も動かそうと思ったが、どうも他人の財産に手をつけるようで気がひけて、どうにもならない背景の記録写真を撮ってきた(右)。その後、同じ場所の車道沿いにツツジを添えて付け替えられた。わかりやすい(左)。

残りの一つは1丁目側にあり
「千住宿 問屋場 貫目改所跡」とある。これはちかくの店のおばさんが教えてくれた。
「何か知らないけど、あそこの電信柱のよこに石があるよ」

千住宿場通り

1丁目から北に5丁目まで、およそ1kmの街道筋は、千住宿の中心をなしていた。今は歩行者天国になっていて、甘納豆屋、佃煮屋、あんみつ、など古いたたずまいの店が残っている。銭湯もある。ある佃煮屋の屋号が「鮒秋」となっているのをみつけた。2丁目と3丁目の境が駅前通りである。3丁目にはいったところ、左側に
「千住宿本陣跡」の標柱があるはずだったが、またしてもすぐにみつからない。しばらくいって、店のおじさんに聞いた。「あそこの100円ショップのとこだよ」

4丁目に吉田・横山という2軒の旧家がある。左手にあるのが千住絵馬屋、吉田家でガラス戸越しに見える看板が江戸の風情を残している。家の前に足立区教育委員会による説明書きがあった。

吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口(じぐち)行灯や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋である。……縁取りした経木(きょうぎ)に、胡紛(ごふん)と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。……」

右手にあるのが紙問屋「松屋」の横山家で、その蔵はプチテラスに移築された。二階の縦格子が美しい。
同じく、説明立て札があった。

「宿場町の名残として伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。……広い土間、商家の書院造りといわれる帳場二回の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。……」

北千住、宿場町通りを北にぬけると、4丁目と5丁目の境の大きな交差点にでる。ここで水戸街道は奥州・日光街道と分かれ、右(東側)の細い道に入る。ここにかっては「水戸海道」と刻まれた古い道標があったが、現在は足立区立郷土博物館(大谷田5-20-1)の中庭に保管されている。

千代田線・常磐線のガードをくぐり東武線のガードの手前に清亮寺がある。境内に、明治5年斬罪に処せられ腑分けされた11名の墓があるという。迷路のような墓地を歩いてまわったがそれらしき墓石を見つけることはできなかった。その間、『死の壁』で読んだ解剖にまつわる話を思い出していた。

東武線のガードをくぐると道は荒川の堤防に行き当たる。ここは昔、古隅田川に
「弥五郎橋」がかかり、千住宿と小菅村を結んでいた。明治44年に荒川放水路の工事が始まり、これが川と橋を洗い流した。土手に登ってみる。左にいくつもの鉄橋が並行している。数えてみると5つもあった。千代田線と東武伊勢崎線の上下線とJR常磐線である。きまえよく架けたものだ。その下の葦の茂みはホームレスのキャンプ場だ。水戸街道は正面の対岸から再出発することになる。

ずーっと右に見渡すと対岸の上を高速道路が水平に延び、両岸の河川敷は野球やサッカーに興じる若者の領域である。右手むこうの青い鉄橋が堀切橋だろう。そのふもとに足立区立第2中学があってそこで
金八先生が教えていた。平成17年には近くの中学校と統合され千寿桜堤中学校という名前になるらしい。新しい校歌を金八先生に依頼したとかいう記事をみかけた。

寄ったついでに近くの鐘ヶ淵をみておこう。荒川と隅田川を古綾瀬川がつないでいるところだ。ここに明治20年、鐘淵紡績が生まれた。それから120年後、経営者の保身欲が未曾有の粉飾決算を続けさせた結果、名門カネボウは再生の道をたどりつつある。

(2004年9月)
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