水戸街道 2



小菅−亀有新宿金町水元公園


小菅

東武伊勢崎/地下鉄日比谷線の小菅駅で降りる。荒川土手に出る手前に小さな「万葉公園」がある。入口に歌があった。どういう意味なのかわからない。

小菅ろの 浦吹く風の 何(あ)ど為為(すす)か 愛(かな)しけ児ろを 思い過(すご)さむ(万葉集・巻14東歌3564)

公園を流れる細い水路は古隅田川で、ここから中川まで総延長5kmにわたって残っており、足立区と葛飾区の境界線をなしている。その一部に水戸橋を渡った所で再び出会う。

公園の南隣りは東京拘置所である。正門の鉄格子の向こうに灯籠が置かれている。


旧小菅御殿石灯籠  所在地 葛飾区小菅一丁目35番  登録年月日 平成元年(1989)3月20日

円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝寿珠を頂いた総高210cmの御影石製の石灯籠です。
もとは数行の刻銘があったとみられますが、削られていて由緒は明確でなく、また銘を削った理由も詳かではありません。ただし当地は、徳川家康の関東入国以来関東郡代職にあって農政に秀でた伊奈氏代々の下屋敷があったところで、小菅御殿あるいは千住御殿と称され、将軍鷹狩りの時の休憩所ともなっていることから、灯籠の造立は江戸時代中期以降と考えられます。もとは裏庭にありましたが、現在は手水鉢・庭石とともに、拘置所正門脇に移して保存されています。
なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚とともに廃され、その後江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれました。                                          葛飾区教育委員会

寛永元年(1624)、小菅村の10万坪の広大な土地が関東郡代伊奈氏に与えられ、そこに下屋敷が設けられた。後にそこは、将軍の鷹狩りの際の休息所にあてられ、元文元年(1736)には頻繁に狩をした吉宗の命により小菅御殿が造られた。明治にはいって一時小菅県庁が置かれたこともある。その後曲折を経て東京拘置所となった。

拘置所の南側を歩いている。有刺鉄線の壁越しに見える建物は意外なほど開放的な雰囲気だった。ベランダには布団が干してあり、下着などの洗濯物が気持ちよさそうに風を受けている。職員の寮であろうか。子供や妻もいちいち厳重な正門から出入りするのだろうか。余計なことを考えながら歩いているうちに、T字路の角に赤い柵に囲まれた
小菅稲荷大明神の小祠が見えてきた。社額はぎっしり詰まった漢文で、どうしようもない。「武蔵葛飾郡西葛西領小菅村伊奈半左衛門」という書き出しだけ読み取れた。

右に折れる広い道は、小菅御殿の正門から水戸街道に出る
御成道であった。見事な松並木で松原通りとよばれたが今は小菅稲荷大明神の前にある「松原児童遊園」という標札にその名ごりをみるのみである。

松原通りの一筋東の細い路地をはいり、草津湯の銭湯の前を通り過ぎると西小菅小学校がある。その校庭に「銭座跡」と刻まれた石柱があった。校門脇にその由緒書きがある。


小菅銭座(ぜにざ)跡
所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号 西小菅小学校  指定年月日 昭和58年(1983)2月21日

安政6年(1859)から翌万延元年にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。この吹替のため幕府は安政6年8月に小菅銭座を設けました。小菅銭座は旧小菅御殿跡の一角に作られたといわれ、広大な敷地(15,000m2 約4,600坪)を持ち、この西小菅小学校の辺りがその中心地であったと思われます。ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されていました。 今その頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なものです。
                                  葛飾区教育委員

小菅御殿跡の東側は綾瀬川である。その昔、この川に架かる橋のたもとに妖怪が出没した。元禄8年(1695)水戸黄門がこの橋のたもとで妖怪を退治し、「後日再び悪行を重ねることのなきよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」と自ら筆をとったものといわれている。柳の枝が妖しく手招きをする川のほとりに架けられた小振りの木橋を期待していたが、見た物は高速道路に虐げられたように淀む綾瀬川に架かる、青いペンキで塗り込められた無機的な橋だった。

橋を渡った右手に小菅神社がある。境内を除いてみたが縁起らしき物は見当たらなかった。
街道にもどる。すこし行くと小菅交番所の手前左手に
鵜乃森橋がみえて、その両側はボードウォークが設けられ遊歩道として整備されていた。流れているのは古隅田川である。川岸の民家には花が咲き乱れ、川面では水鳥が遊ぶなごやかな景色が隠されていた。

小菅交番前を過ぎて住宅街を進むと左手に、家光が境内の蓮を愛でて寺の名を変えさせたという
蓮昌寺がある。境内の日蓮上人像を撮っていると若いサラリーマン風の男性が近づいてきた。
「墓地広告をみてこられたのですか」
35度を越える暑い日だというのに黒い背広を着こなしている。入口付近のプレハブ小屋に詰めている墓石会社の職員だった。
「いいえ。この寺は吉宗にゆかりあるんですよ。なんでも近くの宮城さんという人が寺子屋で子供達に難しい本を教えていたとか…それを吉宗が聞いて感心したとか…」
「そうなんですか。全然知りませんでした。宮城さんの墓ならそこにありますよ」
教えてもらった手前「宮城氏」と彫られた墓石の写真を一枚撮った。

314号線という大通りに出た。標識に「右:四つ木、左:綾瀬、直進:西亀有」とある。道幅が広くなりきれいに舗装された道が真っ直ぐに延びている。ほどなく左斜めに入っていく枝道がでてきた。これが旧道にちがいない。住宅地に入り込み、道なりにすすんでいくとJP常磐線の高架に近づいた。駅でもないのに高架下に店が並んでいる。道はすぐに線路を離れ、大きく蛇行して
西亀有3丁目の交差点に出、そこから再び真っ直ぐの道で亀有駅前商店街に入って行く。西亀有は昔、葛西郡砂原村とよばれた地域である。古隅田川の蛇行にあわせるようにその南方に広がっていた砂原だったのだろう。

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亀有 

中川にそって亀有の少し南に、秩父平氏の一族、葛西氏の城館といわれる葛西城があった。何もなかったところ昭和47年、環7道路建設工事のなかで陶磁器や木製品などが発見され、発掘調査の結果中世の城郭跡だとわかった。環7道路沿い、青戸7丁目東交差点の北側、御殿山公園内にその跡碑がある。
葛西城跡  所在地 葛飾区青戸7丁目21番外 指定 平成10年3月13日
 葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。  築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。  後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。   以下略
   平成11年3月31日 建設        東京都教育委員会 

亀有はまた水戸街道と水路とが交差する交通の要所でもあった。JR亀有駅近く、道上小東交差点は昭和の終りころまでは曳船古上水橋とよばれた場所である。曳船川は越谷市のしらこばと橋で逆川(遠く羽生市川俣で利根川に発し、葛西用水→古利根川と名をかえる)から引かれた東京葛西用水の別名である。亀有から四つ木で綾瀬川にいたる葛飾区域を曳船川とよんだ。今は暗渠となって、四つ木までを曳船川親水公園として整備されている。親水公園を少し南に歩いてみた。左に木造の船着場休憩所、右に小川の流れを配してある。水辺に蝶がたよりなく舞い、水面にはへたばった蚊のようなアメンボが徘徊する。水がきれいなのに驚いたがやがて図入りの説明板をみて納得した。ろ過機、滅菌機を経由して水道水が秒速10cmで循環しているという贅沢な公園だった。

この用水に沿ってずっと北へあがり環7を越えてまっすぐいくと
足立区郷土博物館の前に行き着く。その辺は暗渠ではなく、「東京葛西用水」は地表に出て公園化されていた。博物館は白壁の大屋敷をおもわせる立派な建物だった。その中庭に多くの道標、記念碑、地蔵などの類が陳列されている。いずれも道路開発や都市計画の工事に絡んで、ここに避難してきたものである。お目当てのものは、北千住の水戸街道入り口にあったという「水戸海道」という道標だった。おまけも見つけた。現在の千住新橋が架かる前まで、南詰にあったという「千住新橋」と彫られた威厳のある石門柱だった。

曳舟川親水公園をわたったところにまだ新しい「旧水戸街道 亀有上宿」の石柱がある。街道をすこし進むと右手歩道脇に、2年前に建てられたばかりの記念碑を見つける。
「旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。平成14年4月吉日 葛飾区 亀有上宿商店会」とあり反対側の面には渋い顔つきの水戸黄門とすけさん、かくさんがいた。商店会地域表示の石柱とは一里塚跡のことか。これも新しい。

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新宿(にいじゅく) 

7号環状線をよこぎるとすぐに中川橋である。工事中のおじさんに訪ねてみた。
「ここ旧街道ですよね。なにか、中川橋にまつわる由来とか、なにか書いてあるような石碑とか、説明板とか、一里塚とか、なにかこの辺にありませんかねえ」
「ないねえー」
「あそこの木の横になにか立て札みたい物があるようですが」
「あぁ、あれ。あれ、工事中という看板」
ほどよい川幅で水質もまずまずのようだった。眺めのよい明るい川である。

橋を渡った所が新宿である。千住と松戸宿の間にあって大名たちは泊まらなかった。本陣もなく町自体は小さい。道が桝形構造になっているようで、直角に右に曲がって、道なりに今度は90度左にまがる。昔、凹形のうち側は沼であったため、結果的に枡形のようになったのが真相のようだ。途中で、西念寺によってみた。墓地に一組の墓参り客がいる他、よく手入れされた境内は静まり返って、一角に凌霄花(のうぜんかずら)が青い空につき出すように咲き誇っている。傍らには、華やかなハスのつぼみが満開の時をまち、おおらかに天をあおぐ葉は今朝がたの通り雨のなごりを宿していた。

左にまがった突き当たりに「金阿弥橋」という埋め立てられた橋の欄干が残っていた。北に向かって草に覆われた幅2mほどの水路の窪みが認められる。6号線「中川大橋東」交差点角の
「あづまや」というそばやの店脇に、求めていた道標があった。ここで佐倉水戸街道は佐倉と水戸の二街道に分かれる。左が水戸街道で、右が佐倉・成田街道とあるが、ここが分岐点であるかは定かでない。「(水路に沿った道を左に)」という説明書きが私を悩ませた。ここから50mほど東に行ったところで、数年前まで水元公園から引いてきた上下之割用が6号線を横切っていた。

今は用水は地下に埋もれ、広い道になっている。向こう角は店を閉じたジョモというガソリン・スタンドである。
(水路に沿った道を左に)に従えば、旧水戸街道はここで左に折れることになる。やがて道は右に曲がり、新金貨物線の浜街道踏切(「浜街道」とは「陸前浜街道」のこと)を越えてまっすぐに伸びている。踏み切りの手前に、旧街道の道幅拡張工事にともなって地蔵等を一箇所に集めたという記念碑があった。傍には一本松が旧街道の証人のように立っている。旧道は6号線の北側を並行して走り金町駅前通りの手前で、陸橋を上っていく6号線の下に出る。

さて、
佐倉街道であるが、説明書きの(現在の水戸街道を越えて右に入る)とは、ガソリン・スタンドの角で6号線を横切って、埋めたてられた上下之割用水をたどるのか、それともあずまやの真南に口を出している車進入禁止の細い道のことなのか、よくわからなかった。葛飾区教育委員会へ電話した。文化財保護係(03−5654−8476)の人に一連の疑問をぶつけてみた。結論は、旧水戸街道はジョモで左に入る道、佐倉街道はその手前の中川大橋東交差点で南に向かう細道だということだった。

なお、佐倉道はやがて高砂踏切で新金貨物線を横切り、柴又街道と交差し江戸川西岸を下って、浅草橋から出た14号線千葉街道に吸収される。 船橋市海津交番前で14号線は右にとって千葉へ向かい、佐倉・成田街道はまっすぐ京成船橋駅の南を通過して、津田沼手前の「成田街道入口」で現在の成田街道296号線に入っていく。

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金町 

新宿から国道6号線につかず離れず沿ってきた旧道は金町5丁目で、大通りにでる。6号線はその手前で陸橋をのぼっており、そのまま新葛西橋を渡って次の宿場、松戸にはいる。旧街道は金町駅前辺りで左に折れて
葛西橋を渡って行く。

金町の常磐線ガードをくぐり東金町4丁目の交差点を左折したところで金蓮院(こんれんいん)に立ち寄った。16世紀初頭創立、奈良長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺である。槙の大樹で知られているという。境内には枝葉が天を覆うように大木が4、5本あり、その中に葛飾教育委員会の説明板を従えて悠然と立っている槙の木があった。
もう一つの大木もその素肌をあらわにして、私はこちらの方に魅かれた。

庭に
愛染明王の石像があった。密教の仏であることの他、何も知らない。「愛染」といえば「愛染かつら」か「愛染恭子」を連想する。いずれも愛とか愛欲に関係している。まじめに調べた結果、あたらずといえども遠からずという感触を得た。愛染明王の梵名はラーガラージャ。「ラーガ」とは赤、愛欲の意味で、古代インドの神の名でもある。愛欲煩悩が即菩提であることを開示した明王で愛を成就させてくれるという。また染色、彩色に通じることから染物屋の守護神としても信仰されているが、こちらの方は本流ではない。

そのことよりも愛染明王にまつわる二十六夜待という習俗に興味を惹かれた。二十六夜とは新月の三日前、夜明け前に見える月。夕方に見える三日目とは時刻、形ともに対照関係にある。江戸時代、二十六夜の月が上がってくるのを徹夜で待ち、月を拝むという信仰がはやった。とくに7月のそれは全国各地で行われ、たいそうな流行であったという。山梨県には二十六夜山という山まである。月の出を待つ間、夏の夜を徹して男女が楽しむ風俗があったのではないか。今村昌平の好みそうなモチーフである。

水元公園 
ここですこし長めの寄り道をした。水元公園という大場川(1680年頃に埼玉県三郷市の干拓を目的に開削された。葛飾区と三郷市との境を流れ、水元公園を呑み込んで中川に合流する)水郷地帯に整備された大きな公園である。もとは、井沢為永が開削した小合溜である。そこに今、鬼バスの花が咲いているという。1年前以前であったらそんなニュースなど、気にもとめなかっただろう。奥の細道で鬼バスを知ってしまったのだった。公園の管理人のおじさんにオニバスの場所を聞いた。地図で示された場所は水産試験場の近くで、一ヶ所しかない車の駐車場から広大な公園の周囲を延々と歩かなければならない。
「小さい花だけど。見るなら朝早くがいいよ。昼になると・・・」
専門家の意見を尊重して今日はいくのをあきらめた。家から車で一時間だ。でなおそう。
あくる日・・・
5時半に家を出て6時に公園に着いた。もうジョギングする人、散歩する人、釣りをする人、そしてハスの花を撮る人たちがたくさんいた。カメラマンはみんな数台の交換レンズを用意して三脚をかまえている。首からぷらんと小さなデジカメをぶら下げているのは自分だけだった。
やはりフィルムカメラにもどろうかなー。
でもこの人たちはホ−ムページをもっていないんだろう・・・・・
ハス三昧の撮影を終えて満たされた気分になった。朝の冷気が心地よい。ラジオ体操の音楽が聞こえてくる。時刻が中途半端なところをみると、あれは録音テープだな。
その1週間後・・・
デジカメと200mm望遠レンズ付のフィルムカメラを抱えて再度オニバスの小さな花に挑戦した。今度は三脚をかまえて、みんなとおなじ格好で撮った。戦果はたいしてなかったが、仲間に入れたような気がしてうれしかった。水元公園はいい場所だ。

江戸川堤防の麓に12世紀創建という古い郷土鎮守の葛西神社がある。「葛西ばやし」発祥の地とあった。今でも伝統芸能として保存されているという。どんなものなのか、知らない。

葛西神社から江戸川堤防に上がってみる。すぐ右手に新葛西橋と常磐線鉄橋が架かっている。旧道の渡る葛西橋は左手に1km余り行ったところにあり、江戸時代の渡し場に設けられていた関所跡はさらに200mほど先にあった。慶長年間(1596〜1614)に江戸川の渡船場を利用して設けられた。明治2年廃止となり、その跡に金町煉瓦製造工場が建てられ現在、東京都下水道局のポンプ場となっている。土手に上って対岸の松戸市下横町を望む。江戸川が東京都と千葉県の境界をなす。ここは葛飾区の東の果て。ここまでは東京散歩の一部でもある。

(2004年9月8日)
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