三国街道−6 



長岡−与板地蔵堂関中島渡部寺泊
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三国街道−6


長岡

旧街道は下条、定明とぬけ、太田川をわたった摂田屋4丁目の逆Y字三差路を右斜め下にはいりすぐ左折、創業天文17年(1548)、蔵元は上杉氏のゆかりという老舗吉乃川酒造の構内をすすむ。摂田屋地区は酒、味噌、醤油造りの老舗が集まる醸造の町で、どこからともなく芳ばしい匂いがただよってくる。

左手庭園入口に案内標識が立っていて、
「殿様街道(旧三国街道)」「館瓢(ひさご)亭」などと記してある。かって殿様の行列が通った道も今は空中を灰色の工場配管がまたぐ無機質な狭い路地だが、敷地内の庭園に一歩入ると瓢箪をぶらさげた粋な居酒屋風の建物がある。吉乃川酒造の酒蔵資料館「瓢亭」である。ご婦人方をニ三名引き連れた紳士が頬をほんのり染めて出てきた。「ここは予約制ですがちょうど私たち終わったところで、まだ(案内人が)いらっしゃいますから入られたらいかがですか。試飲ができますよ」と誘ってくれた。

瓢亭の中には入らず庭をつきぬけて県道にでると西側に
機那サフラン酒製造本舗がゆかしい佇まいを見せている。明治時代、吉沢仁太郎は酒にサフランの花(めしべ)を入れた薬用酒で財をなした。その豪壮な屋敷と日本庭園にまして名高いのは隣に建つ土蔵である。純白の漆喰に海鼠壁だけでも上品な土蔵だが、それに加えて軒廻りと塗戸に14種の動物、霊獣、9種の植物が鏝絵(こてえ)とよばれる色漆喰のレリーフで描かれている。珍しく美しい土蔵美術である。

殿様街道の終わりには
「越のむらさき」が天保2年以来醤油味噌の醸造を続けている。醤油一升瓶3000本が貯蔵できるという30石桶、広告塔を兼ねたれんが煙突、店の前には文化3年(1806)建立の地蔵が祀られていて台石には「右は江戸 左は山道」と彫られている。

その山道をすこし遡って
光福寺に寄る。慶応4年(1868)5月3日、戊辰戦争で長岡藩の中立をめざした小千谷会談が決裂、軍事総督河井継之助は長岡藩が本陣を置いていた光福寺で新政府軍に対し開戦の決意を表明した。翌5月4日、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に参加、北越戦争に突入した。妙見の榎峠、朝日山をめぐる攻防から戦火は長岡城下、軍港新潟に及び越後の同盟軍は敗北、戦場は会津へと移っていく。

長岡農高の西側を通り、用水が流れる静かな
宮内4丁目の住宅街を抜けると信越本線(上越線は手前の宮内駅で信越本線に合流)が旧街道を分断、地下道で宮内5丁目側に渡る。真直ぐな道をかけぬけ溝橋で用水路をわたって三和交差点で南中央通り(県道498号)にでる。宮原2丁目あたりに長岡城下の東見があった。

旧街道は
千手歩道橋信号交差点で右に折れる県道と分れそのまま左の道を行く。二股三角地帯の小公園内に火炎土器のモニュメントがある。昭和11年(1936)長岡市西方の馬高遺跡から初めて火焔土器が出土した。長岡市の信濃川左岸の段丘は縄文時代の遺跡が約80ヶ所も発掘された一大縄文集落群跡である。

左手
八幡神社参道脇に明治時代の道標があった。「右 西京 中山道 北陸道  左 東京 三国街道」とある。右は北方向日本海方面、左は南方関東方面を指したものである。JRが上越線から信越本線に替わったこともあわせ、このあたりで三国街道もなんとなく北陸道に接近してきた雰囲気が感じられる。高崎から始まって以来三国街道は長い山間の道のりだった。

千手信号で国道351号を横断。柿川にかかる橋の東袂に
柳原の案内板が立つ。この辺り昔は柳が生い茂る沼地であったという。傍に越乃雪本舗大和屋が風情を湛えた店を構えている。安永7年(1778)以来長岡藩の御用達菓子店である。「越之雪大和屋」と書かれた屋根つき看板と暖簾が共に雁木に取り付けられているのが雪国の商家を象徴しているようで興味深い。

旧街道はその先のY字路と突き当りを右折して国道351号を左折する。表町交差点で三国街道は大手通りと交差する。一筋東にいった大手通り2丁目交差点の大和デパート長岡店角に
「米百表之碑」がある。佐久間象山の門下生で敗戦後の長岡藩文武総督に推挙された小林虎三郎は、明治2年(1869)昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校した。翌年5月、三根山藩から見舞いとして贈られてきた米百俵を売却して、その資金で国漢学校の新校舎が現在地に建設された。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。国漢学校からは近代日本を背負う多くの人物が輩出された。

この交差点を中心として南北の通りに市が立っていた。
五・十市といい、大正11年、坂ノ上二丁目を中心に毎月5と10の日に開かれた闇市が始まりである。野菜果物など農家直売の店が多かった。

大手通りは長岡駅に突き当たる。ここに長岡城本丸があった。
長岡城二ノ丸跡碑が駅前大手通り南側の再開発工事現場に隣接した狭い一角にある。250年にわたって牧野氏の居城であった長岡城は戊辰戦争で新政府軍により落城するも河井継之助等長岡藩兵によって奪還された後再び落城という稀有な運命をたどった。

表町交差点に戻り旧街道を北に進む。二筋目の路地を東にはいった互尊文庫前の公園に
「明治天皇行在所御遣蹟」と刻まれた石碑がある。旧街道は表町4丁目交差点(御幸橋の東)を右折、山本五十六記念館を左に見て東坂之上3丁目交差点で国道351号(北中央通り)を左折して神田町をぬけていく。東坂之上3丁目交差点の一筋東角にある河井継之助記念館に寄った。河井継之助の屋敷跡である。館内には長岡城下の町割、北越戦争史、西国遊歴の足跡、河井継之助像、司馬遼太郎『峠』自筆原稿他、八十里越マップ等が二階にわかれて要領よく展示してある。

八十里越は新潟県三条市吉ヶ平(よしがひら)と福島県只見町叶津を結ぶ行程8里の山道で、鞍掛峠と木ノ根峠(八十里峠)という二つの長い峠道を越えていく。余りの険峻さに1里が10里にも感じられ八十里になったという。長岡城奪還戦で傷ついた河井継之助は担架でこの山道を運ばれ叶津の先塩沢で没した。八十里越は河井継之助終焉の街道である。

三国街道(国道351号)に戻る。国道8号との交差点から新町に入り国道352号となる。この辺りに長岡城下の北見があった。長岡宿の北出入口である。道は新町3丁目信号を右折、線路手前の丁字路に
新旧二基の道標が並んである。三条、見附、栃尾の地名が双方共通に見られる。見附・三条方面に向かう三国街道はここを左折し細道を北上、長岡駅前を通過、栖吉川をわたり五差路を直進する。福島江用水縁に戊辰史跡案内標柱、長岡藩士伊藤道右衛門の碑が立つ。

下々条1丁目で県道に接するがすぐに離れて用水縁の道をすすみ、やがて下々条橋の前で県道を横切る。用水からはなれて西福寺前の二股を左にとって栖吉川堤防下の道を北にすすみ、橋の袂の十字路を直進して二つ目のY字路を右にはいっていく。敬寺前前を左折してすぐに右折、春日神社を見ながら黒津町集落を通っていく。

秋葉大権現のさきの二股を左にとり、右に曲がって十字路を左折、自動車道をくぐり、浄林寺の前を右折、すぐに四差路を左折して信濃川堤防に出る。ここに
天神の渡しがあった。対岸は川袋である。今は信濃川を渡るには堤防の道を蔵王橋までもどるしかない。

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与板

蔵王橋を渡ったところを渡場町という。ここから堤防をたどって川袋の渡場跡まではかなりの道のりである。渡場町にもなんらかの渡場があったのであろう。それが三国街道とどう関わっていたのか知らない。堤防の下を県道473号が併走して川袋町で県道22号につながっている。円福寺の先の樺澤商店前で地図を広げて渡場跡をさぐっていると店からかくしゃくとしたおじいさんが出てきて話しかけてきた。

「渡し場跡にいきたいのですが、河川敷の農道から行けますか?」
「行けるが川があるだけだよ。三国街道の渡し船はここまできていたのだ」といって県道の傍を流れる
定川戸川(じょうかわとがわ)を指差した。昔の流域はここまであったということで、今の水辺をみてもしようがないだろうという口ぶりだった。その通りだ。
「ここに渡し場の石垣が埋まっている。それを知っているのはもう私だけになった。」
「渡し場はここだけでなくて、すこし先の
石碑があるところにもあったという人がいるが、ここは間違いない。私以外にそういうことを知っている人はいなくなった。」

店内に案内されて旧道を地図で確認、しばらく歓談して出た。念のため堤防に上がる。規則正しく区画された稲田がほんのりと穂を抱きつつあった。昔はここを滔々と水が流れていたのだ。

見上げると鱗雲が流れる空が秋めいて美しい。

李崎町にはいり県道22号が左にまがるところ(右手に石仏群がある)の丁字路を左折して来迎寺手前を右折する。角に
地蔵と文化7年(1810)の米山薬師如来塔がある。

家並みをぬけた三差路に「三国街道」の案内標識が立っていた。与板城下に入ってきたようである。三国街道の起点を高崎でなく江戸日本橋としている。街道としての三国街道は「三国峠経由の江戸道」として観念されているのであろう。平成14年与板歴史愛好会が設置したもので、この先でもいくつか要所に立てられていて旧道を確認する手だてとなった。

道は県道に出ずに手前で左折し与板町蔦都の集落を西に抜けていく。用水路手前の蔦都信号で右折して県道にもどり左折、黒川をわたり星殿橋西詰信号交差点を右折する。

その先のY字路を左にとって旧黒川に架かる寿橋西詰め信号交差点で県道22号からわかれて左にはいる。橘橋のたもとに三国街道標柱が立ち「与板城下入口・長岡小路」とある。すぐ左手にある船戸会館はもと
観音堂で、ここに一里塚があった。船戸には宿場当時の町割を反映した間口が狭く奥行きの長い家並みが残っている。この町は与板城下にあって鉄砲の製造で知られていた。船戸をぬけると旧宿場街(国道403号)の中町交差点に出る。与板宿は南北に延びていた。

ここで街道を南下、
与板城に向かう。上町信号を右折、右手に式内社都野神社をみて県道に出る。正面の丘陵が城山(じょうやま)で、「天地人」の主人公、直江兼続が本拠とした与板城があった。法立寺の脇から長い石段が延びている。案内係りのおじさんから本丸跡まで15分かかると聞いて、登る気力が萎えてしまった。与板城は信濃川を外堀、黒川・千体川を内掘とした天然の雄大な山城で、丘陵の頂上に本丸、二ノ丸、三ノ丸があった。建物の遺構は残っていないが、空濠、土塁等が残る。また本丸に向かう道の途中には兼続の妻お船(おせん)が使っていたという「お船清水」がある。上り口には「天地人」巡りの観光客が多かった。

宿場にもどる。中町から
堂前の曲尺手にかけてが宿場の中心だったようである。右手に良寛の弟が結んだという庵の跡がある。役場入口にまちの駅をみつけて飛び込んだ。制服姿の三人の女子中学生からいっせいに「いらっしゃいませ」と元気な声をかけられた。夏休みを利用したボランティアだろうか。
「与板宿に関する情報ありませんか。本陣跡とか…・」
「まちの案内人」らしい女性が「さあ、案内してあげて」と生徒に仕向けるが皆キョトンとした顔をして用をなさない。展示用の本を何冊か、町の地図を二枚ほど、そして茶碗一杯のお茶を運んできてくれた。

結局案内人の女性から江戸時代の名残として「楽山亭」と
「足軽長屋」を教えてもらった。足軽長屋は「泉丁」にある。城下町が整備されたとき、武士の居住地を「丁(ちょう)」、商人・職人の地区を「町(まち)」として分けた。宿場は町に造られ、城の北地区(宿場の西方)に丁が分布している。
「足軽長屋はあのおばあちゃんのものなのですよ」と、孫をつれて遊びに来ていた老人を指した。まちの駅は地元の人たちが憩う場所でもある。教えてもらった場所に先回りして長屋らしき建物をさがしているとカートを押したおばあさんと三歳くらいの男の子が帰ってきた。空き地の奥に小屋のような二軒長屋があった。外見ではわからないが「向かって右側の方が位が高かった」という。

そこから
楽山亭に向かう。江戸中期の豪商、大坂屋三輪家の11代当主が建てた明治時代の別荘である。与板の町を見下ろす高台に簡素ながら風雅な建物が佇んでいる。八畳座敷から舟板廊下が二つの茶室をつないでいる。三輪家の先祖は越中の郷士で、その後長岡で大坂屋の暖簾を継いだと伝えられる。信濃川の河川交通を利用し廻船問屋として手広く商いを行い、米、塩、海産物を京都や大阪で売り、反物、薬、書籍等を持ち帰って財をなした。越後屈指の豪商となり宝暦8年(1758)の長者番付では全国3番目にランクされたという。

堂前交差点から旧黒川対岸に渡る。橋の袂に
「山田屋河渡(こうど)跡」の標識がたっている。黒川の渡し場跡と思われるが同時にこのあたりから船戸にかけて与板河岸があり信濃川水運の拠点として繁栄していた。山田屋は舟問屋でも営んでいたのか、説明板がないから想像するしかない。

堂前交差点から河渡跡までの通りには往時のままの
木造り雁木を備え、等間隔の狭い間口の細長い妻入民家が軒を連ねている。戊辰戦争と第二次大戦の空襲で二度も焦土と化した長岡とは対照的に、与板は曲尺手や小路などに城下町時代の街並を残している。開いたままの間口を覗くと細い作業場が奥深く続き金属音が絶え間なく聞えていた。金属加工の町工場である。与板は打ち刃物の生産地としても知られていた。今も多くの大工道具、刃物等の製作所がある。

旧黒川をわたると河川緑地に多くの
良寛詩歌碑がある。良寛といえば浦島太郎、安寿と厨子王とならんで、学芸会の代表的演目であった。そのほか名書家であったこと以外は余り知らない。一つだけ紹介しておこう。

この歌は、良寛と貞心尼が与板の造り酒屋山田屋で詠交わした歌であります。黒い僧衣を身にまとった良寛が時々姿を規すのを見て、与板の人たちは良寛を「からす」と呼んだ。
 良宣は笑いながら
  いづこへも立ちてを行かむ 明日よりは からすてふ名の人のつくれば
 貞心尼はこれを受けて
  山からす里にいゆかばこがらすも いざないて行け羽根弱くとも
 良寛さすが世間体を気にして
  いざないて行かば行かめど人の見て あやしめ見らばいかにしてまし
 しかし貞心尼は
  とびはとび雀は雀さぎはさぎ からすとからすなにか怪しき
 とやり返した。碑文は後段の二首を採ったものです。

貞心尼は長岡藩士の娘。23歳で夫と離別し出家する。30歳の時40歳年上の良寛の弟子となる。4年後天保2年(1831)良寛死去、74歳。明治5年(1872)貞心尼死去、75歳。

70を越えた禅師と30前後の美人尼の色気に満ちた歌の交歓ではないか。
それよりも山田屋とあるのは河渡跡の標識にあった山田屋ではなかろうか。舟問屋でなくて造り酒屋であったのか、あるいは兼業していたのかもしれない。二人は川辺の酒屋で会っていたことになる。

橋近くに長岡でも見た
火炎土器が展示されている。信濃川流域には縄文遺跡が多いことは既に知ったところだが、この土器は昭和39年(1964)の新潟国体で聖火台に使われたということに意義がある。くしくも今、45年ぶりにトキめき新潟国体が開催中である。天地人とあわせて新潟の今年は当り年となった。

大きな駐車場の奥に
本願寺新潟別院と与板歴史民俗資料館がある。別院の建立は、与板第8代藩主井伊直経が天保元年(1830)発願により始まった。山門は戊辰戦争の戦火を免れた与板城の大手門が移築されたものである。但しここでいう与板城は先にその麓までいって登らなかった戦国時代の城山のことではなく、現在の「与板ふれあい交流センター」の地にあった陣屋のことである。

話がながくなるが与板藩は最初長岡藩から分与された牧野氏の1万石で始まった。その後しばらく天領となった後、宝永2年(1705)遠江掛川より近江彦根藩井伊家の支流である井伊直矩が2万石で入封した。依然城をもてない陣屋格であった。文化元年(1804)井伊直朗の時に城主格となり、与板陣屋は名ばかりの与板城と呼ばれるようになったものである。いわゆる城門としての大手門より小ぶりであるのがうなづける。

ついでながら、大老井伊直弼を宗家とする与板井伊家は当然のことながら戊辰戦争では奥羽越列藩同盟には参加せず新政府軍についた。与板陣屋は隣藩長岡等奥羽越列藩同盟軍によって焼かれてしまい大手門と切手門だけがかろうじて残った。

駐車場に
直江兼続の凛々しい銅像が立つ。大河ドラマ「天地人」でなじみになった「愛」の一文字を前立にした兜をつけていない。NHKのCM「見た見た? 天地人!」「愛よねえ〜」「そうよねえ〜」が私は好きである。二人だけにしか通じない合言葉的な会話がたわいなくかわいいのである。その「愛」が何を意味しているかについては多説あり、二人の女性はなんと理解しているのかと考えるとさらに楽しくなる。それが何であるにせよ武具に「愛」という文字を付けるにはよほどの信念なり勇気がいったに違いない。あるいは兼続はかなりなスタイリストかロマンチストであったと思われる。

となりの与板歴史民俗資料館(兼続お船ミュージアム)には寄らなかった。お船は与板城主直江景綱の1人娘。家督を継ぐために迎えた婿養子が殺害され、お船は若くして未亡人となった。名門直江家の断絶を惜しんだ上杉景勝は近習兼続をお船の婿養子にすることにした。樋口兼続はここに与板城主直江兼続となった。ときに兼続は22歳、お船は25歳の姉女房。兼続は終生側室を持つことはなかった。このあたりが「愛」の本質ではないかと思っている。

堂前交差点にもどり北に向う。二つ目の曲尺手をすぎ与板宿を通り抜け、稲荷町交差点で国道をはなれて左折、県道274号で西に向かう。角に三国街道標柱があった。
みちなりに右にまがった先、左手に
本与板城跡の案内板がたち、城跡がある丘陵にむかう道の両側には「天地人」の幟が等間隔にはためいている。上り口さえ遠くに見え、ここから遥拝するにとどめた。

すこし進むと今度は
「お船の方生誕の地」の案内がある。光西寺をめざしてすすむと駐車場脇に御影石の「お船の方生誕御館跡」碑が建っている。直江家は藤原鎌足の末裔で直江荘を賜って名字にしたとされる。直江津にその名を残すが、戦国時代には与板に移って上杉謙信の重臣となった。直江景綱、信綱、兼続と三代にわたって本与板城を本拠とした。兼続の時与板城に移る。本与板城自体は建武年間(1334)に新田義顕一族が居住したのが始まりと言われている古い山城であった。

県道274号がデイサービスセンター前で左にまがるところを旧道はそのまま北に進んでいく。旧道にはいったところに
三国街道案内標識が立っている。県道22号を右手にみながら一路北上し、岩越集落をぬけ、与板岩方から寺泊岩方へとぬけていく。三国街道の終点である寺泊までまだ3宿を残しているのにもう寺泊の地名にであって一瞬戸惑ったが、それは寺泊が佐渡へ渡る港町という固定観念がもたらしたもので、地域としての寺泊は海岸線と信濃川にはさまれた広域なのであった。とはいえ、終点に近づいていることには間違いない。

旧街道は与板最後の
三国街道案内標識が立つ二股にさしかかり左の道をとる。標識には「与板城下岩方」とあった。与板城下はなかなか広い。寺泊田尻から寺泊町軽井にはいる直前、色付いた稲穂の真っ只中で薪を背負った二宮金次郎が本を読んでいる。上半身は赤茶色、下半分は青緑色のツートーンカラーだ。山ノ脇小学校があったが1975年に校舎が移転した時、金次郎は置き去りにされた。彩色はその後土地の所有者が施したという。後ろに見える建物は金次郎と共に残された旧校舎のようだ。

旧街道は山ノ脇保育園の先の十字路で右折、川づたいに北進し県道410号をわたっって右斜めにすすんで県道22号に合流する。県道22号は信濃川堤防を北上、長岡市寺泊町軽井から燕市五千石に入る。

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地蔵堂


県道22号は左に分かれて、旧街道は県道549号に移り国道116号に出て大河津(おおこうづ)橋で大河津分水路をわたる。越後平野はかっては低湿地で、たびたび信濃川の洪水に悩まされてきた。日本海に接近してきたこの地点で水流を分け、近道を通って海へ流そうとするものである。江戸時代からそのアイデアは提出されていたが、実現したのは大正になってからであった。

橋をわたって左に降り下の道を通って新町交差点を左折する。すぐ左手に延命地蔵をみて地蔵堂の旧宿場街にはいっていく。

古い家並みが残る通りをすすんでいくと左に旧街道の名残かとおもわれる数本の松の木が並んでいて、その背後に
願王閣と呼ばれる地蔵堂がある。宿場町は地蔵堂の門前町として誕生した。現在の堂宇は天保8年(1837)に建て替えられたものである。

境内に美濃の
俳人蘆元坊の句碑が建てられ、その説明板に地蔵堂町の詳しい由来が記されている。起りは古く西行、頼朝の時代まで遡り、建保5年(1217)現在地に堂が建立された。それまで狭(せば)村と呼ばれていたこの地がその時地蔵堂町と改称された。現在の「分水」という機械的名称は、昭和29年になって地蔵堂町、島上町、国上村が合併した際に付けられた町名である。今は分水町もなくなり燕市の分水地区となった。

願王閣の前を右におれる。空き地をはさんで右手一軒目の家が
中村家で、この二階に若き良寛が下宿していた。良寛は13歳から18歳までの思春期を、北越四大儒として名高い地蔵堂の儒学者大森子陽の漢学塾三峰館で過ごした。中村家は昭和25年に改築されたが、良寛が住んでいた二階だけは当時のまま残された。今見える二階の格子窓が往時の姿を伝えている。

与板以降は良寛抜きでは語れない。

道は
地蔵堂本町3丁目にはいってきた。分水駅も近く、銀行が看板をだしているところをみるとこのあたりが旧地蔵堂町の繁華街のようだ。まちの駅もある。疲れていたので入ってコーヒーをいただいた。まちの駅になる条件は3つあって、@トイレがあることAお茶など飲み物を無償で提供することBまちの情報を提供できること、だそうだ。Bは個人差があっても差し支えない。

願成寺の西側を経てJR越後線をわたると五差路にでる。線路沿いの道は車両通行止めとなっているが、これがどうも
旧道臭い。願生寺の先で左の路地をはいり地蔵堂踏切をわたって左に折れる道を歩き直した。

五差路で広いバス道路をきても結局は
大悲田地蔵堂の角を右折していくことになる。

水路沿いの道をすすみ分水中学を右にみて老人ホームの手前を左折して県道68号に合流、右折して新堀橋を渡った先の十字路で右に折れる県道と分かれてそのまま直進、関中島宿にはいっていく。

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関中島

中島入口バス停の先に十王堂がある。小堂だが古さを感じさせるその説明板に中島は三国街道の宿場であったと同時に冬の期間は北国街道の継立地でもあったとある。北国街道の宿場であった寺泊と弥彦の中間にあって厳しい冬の期間だけ間宿として機能していたのであろうか。

中島集落にはいっていく。JAがあるあたりが中心地であろう。家並みに升目造りの大きな板壁をもつ民家が特徴的であった。

右手、
大連寺の入口に良寛の詩碑がある。解説板には碑の漢詩に加えて、大連寺の和尚からでも美しい手毬をもらったのか、その礼状が紹介されている。

小さな中島集落に宿場の面影はなかった。また三国街道の宿場としてどの資料にも
関中島宿とあるが、「関」の手がかりはつかめずに終わった。

道は左におおきくカーブして大規模に区画整理された田園をぬけていく。出口に三基の石碑がある。一つは
国上(くがみ)村道路元標だがどこにあったものか、ここが村の中心とは思えない。一つは明治13年の道標で「弥彦」「左 寺泊」と部分的にしか読めない。説明板は筆者の説明に終わって肝心の道しるべの内容には触れていない。他は供養塔のようだが、よくわからない。

道は県道68号に合流。右におれて県道2号に合流し渡部橋を渡る。県道2号を北にいくと弥彦にいたり越後最古の古刹、良寛ゆかりの
国上寺(こくじょうじ)がある。これが北国街道だろう。

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渡部

渡部橋を渡って右折したところの小山に渡部城があった。築城がいつの時代か明らかでないが上杉時代には黒滝城の支城として使われていたようである。関ヶ原の戦いのころには廃城となったマイナーな存在である。

直ぐ先で堤防をおりたところに小さな渡部集落がある。

大河津分水路はまだなかった時代だから渡部宿から関中島宿までは渡しも橋もない平らな土地を自然な形の道でつながっていたにちがいない。現に分水路の対岸(右岸)も渡部である。その向こうに見える山が国上山だろう。

とまれ渡部の集落をぬける。ここにも中島でみた格子模様の板壁を持つ民家が見られる。町並に宿場をうかがわせるものはない。集落の西端にS字状の旧道らしき道が残っている。そこで燕市から再び長岡市に入る。地名は寺泊白岩となっている。


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寺泊

前方に山がせまってきた。峠を一越えするようだ。
二股で県道2号を右に分け、みちなりに丘陵を下ると野積・渡部追分にでる。ここをまっすぐ海岸に沿って走る国道402号が北国街道なのだろうか、いずれわかることだが。

角に石地蔵が祀られていた。
追分地蔵ということでもなさそうだ。左におれて寺泊の家並みを通っていく。建物は総じて新しくまだかっての宿場街を偲ばせる風景はでてこない。

川をわたった橋の袂に
遊女初君の歌碑の案内標識が立っている。歌碑は愛宕神社境内にあるそうだ。説明板を読むだけで良しとしておこう。

ものおもひこしぢの浦のしら波も たちかへるならひありとこそきけ  初君

永仁6年3月(1298)藤原為兼卿が鎌倉執権北条貞時の計らいで佐渡へ流された際、風待ちで寺泊の菊屋五十嵐武兵衛宅に38日間滞在した。この時初君が親しく給仕した。別れに臨んで惜別の相聞歌を詠んだが、後に為兼が赦されて京都へ帰り、勅令によって撰んだ「玉葉和歌集」にこの和歌が入集された。  長岡市


大町に入る。沿道の雰囲気からして町の中心にきたらしい。左手に大きな公園があり
聚感園という。平安時代から明治初年まで千余年にわたって北陸地方に勢力を振るった豪族、菊屋五十嵐氏の邸宅跡で、多くの史跡が集められている。菊屋は北陸道の宿駅寺泊の長で、その屋敷には古来多くの貴人、文人が滞在している。さしずめ菊屋こそ寺泊宿の本陣だったのかもしれない。

文治3年(1187)奥州落ちの途次、
義経・弁慶主従が菊屋にかくまわれた。そのときの浴室の跡と弁慶手掘りの井戸がある。
承久3年(1221)
順徳上皇が佐渡へ配流の折、ここに設けられた行宮で数ヶ月を過ごした。
永仁6年(1298)
藤原為兼卿が佐渡へ流された際、風待ちで菊屋に38日間滞在した。
興国2年(1341)
宗良親王はここ菊屋に滞在して南朝復興をめざした。

初君の歌碑のオリジナルがある。愛宕神社にある歌碑より100年古い。その奥には為兼と初君の歌を並べた歌碑がある。初君の歌碑としては3つ目だ。

薄暗い木立の中を上に上がっていくと弁慶の井戸、順徳上皇関係の史跡がいくつかある。頂上にある小さな祠は上皇を祀る越浦神社で、上皇が葬られた佐渡真野御陵に正対して建てられた。三国街道の旅を全うするためにはどうしても佐渡に渡らねばならない。

これという寺泊の宿場の風景をみないままに街並を歩き終えつつある。見落としたのかもしれない。いずれ北国街道・奥の細道の旅にここをおとずれるのだからその時にでもという気軽さが影響しているともいえる。今は三国街道を歩き終えたい気持ちが余念を受け付けない。とにかく海辺に出ることである。佐渡に渡る港に立つことである。

最寄の辻をまがって国道402号に出た。世界が明るい。漁港というよりはるかに大きな港町である。遠浅の浜辺には8月最後の週末を過ごす若者たちが冷めかけた日を浴びている。海の家はパイプの骨組みだけになっていた。佐渡は見えない。

国道の陸側には大きな蟹の絵看板をだした鮮魚店やみやげ店が軒を連ねている。
魚のアメ横とよばれる魚市場である。浜辺の数倍の人出で賑わっている。芳ばしいつけ焼きの匂いに釣られて暖簾を潜った。さまざまな魚がさまざまな形で売られている。安いのか高いのかわからない。茹でたての蟹の足をしゃぶりつきたかったが高そうなのでやめた。カニとイカの練り物の串焼きを1本買った。250円。

港の方に歩いていく。釣り船番屋の前を通る。生臭い潮の匂いが浜の風情である。漁船のたむろする港の端にロケットのようなモニュメントが立っている。その前に俳句と歌を刻んだ文学碑がある。寺泊を芭蕉は通り過ぎた。芭蕉は弥彦で泊まったあと出雲崎までいった。
荒海や 佐渡によこたふ 天河あまのがわ はそこでの一句である。

ついに佐渡汽船乗り場に到達した。奥州落ちの義経、弁慶が難破してたどり着いたのはこのあたりだろうか。順徳上皇が流されていったのはここだったろうか。藤原為兼が遊女初君と最後の別れを惜しんだのはこの浜辺だったのか。佐渡奉行はここで船をおりたのか。唐丸籠に入れられた無宿人はここから佐渡金山に向けておくられていったのか。

寺泊から佐渡赤泊まで高速船で1時間の距離である。赤泊から順徳上皇御陵のある真野を経由して相川宿の先にある金山跡まで、50kmあまりの相川街道が待っている。そこへは妻を連れて行こう。望遠レンズで放鳥されたトキを撮りたい。こんどこそ妻とカニ三昧の食事をしよう。

(2009年8月)
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