三国街道−3 



須川−相俣猿ヶ京吹路永井(三国峠)
いこいの広場
日本紀行
三国街道−1
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三国街道−6


須川

坂道を上り切って須川平と呼ばれる赤谷川段丘上に開けた須川宿にたどりつく。鍵の手状にまがると500mほどの美しい宿通りが真直ぐにのび、街道の両側には花々に飾られた家が並んでいる。

もともと須川宿は農村地帯に形成された家数50軒ほどの小さな宿場で、三国街道をゆく旅人はすぐ近くの赤谷川沿いにある湯宿温泉に足を向けるものが多かった。明治になって湯宿を通る道路ができてからは、三国街道の通行は布施から湯宿を経由して相股に直行するようになり、須川宿はますます取り残されていった。

1980年代、村おこしとして
「たくみの里」プロジェクトが立ち上がり、宿場時代の景観を復元する一方で新たに農家を改造して伝統工芸やものづくりの家が作られた。電線は埋められ、花壇・水車・用水が整備され、案内所・土産店・飲食店がでそろい今やすっかり観光地化された状況になっている。500mの宿通りは群馬県唯一の「歴史国道」である。

宿場の中ほどに本陣兼問屋と脇本陣が並んでいた。
須川宿資料館は脇本陣跡である。門は旧本陣のものを復元したもので、安永8年(1779)の築といわれている。中に入ると本陣の上段の間が再現されていた。隣の本陣跡(梅沢氏宅)には石碑が建つのみである。本陣は越後長岡藩主、牧野候の常宿となっていた。

街道を離れて1kmほど西にある
旧大庄屋役宅書院を見にいく。道角に大正13年の道標があり「左 布施ヨリ沼田町方面」、「右 東嶺西嶺 入須川ヲ経テ吾妻郡ニ通ズ」と刻まれている。道標にいう右の道はガイドマップには「庄屋通り」と名付けられており、沿道には「鈴の家」「竹細工の家」などがあり、たくみの里は宿場通りに限らず集落全体のプロジェクトであって「○○の家」の札を掲げた家は広く散らばっている。

書院は時の東峰須川の領主であった旗本伊丹氏が大庄屋河合家に造らせたもので、伊丹氏来村のさいの休憩所に使用した。生垣、白壁土蔵を配した豪農の屋敷の左端に書院造りの一棟が続いている。赤トタンで覆われた屋根を除いては古風なたたずまいを見せていた。


街道にもどり、観光客が散策するたくみの里を後にする。道なりに右にまがって坂道をくだると細い
赤谷川の流れが見えてくる。B&G海洋センターを右にみて、平成4年にできた「愛の渡し」橋をわたって丁字路を左折する。赤谷川の右岸は敷き詰められた二色の芝桜に彩られて美しい景観をなしている。

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相俣

段丘にのびる小さな
浅地集落を通り抜ける。右側の斜面からは湧き水が流れ出て街道沿いの水路に流れ込み、左は川までの狭い空間に田が丁寧に作られている。谷間にひそむ静かな息遣いが感じられる快い道であった。

右にまがるところの三叉路を「猿ヶ京温泉 3.0km」の中部北陸自然歩道標識に従って左にとる。まもなく右手の細い上り坂道に入りすぐ先で車道を横切る。自然歩道標識には「猿ヶ京温泉 2.7km たくみの里 2.4km」とあった。

鬱蒼とした杉木立の中をすすむと苔むした石段の上に
日枝神社がある。真直ぐにそびえたつ4本の杉の大木がその前の石鳥居の存在をかすめてしまっている。ときおり車の音が境内の静寂をやぶるのは、そのすぐ裏を国道17号が通っているからであった。いつの間にか布施でわかれた国道にもどってきていた。

保養所風の建物の脇を通り抜けて国道に出る。左手の広場に
「逆さ桜」があった。根回り11mという巨木である。上杉謙信ゆかりの桜といわれるから樹齢は450年をこえる計算になる。肩から切り落とされたような太枝といい、こぶだらけの幹といい、いかつい桜の木である。

公園の道をはいっていくと
相俣ダムに至る。かっては三国街道が横切っていた谷間は満々たる緑色の水を湛えたダム湖(赤谷湖)によって水没した。赤谷湖の背後に屏風のようにたちはだかる三国の山々はまだ雪を残している。ダムの下流は切り立った崖の底に乾いた川があった。


国道にもどり
旧相俣宿にはいっていく。地名の由来については、康平5年(1062)前九年の役でやぶれた安倍頼時の残党に相俣龍助という者がおり陸奥より落ちのびてこの地に流寓し一村を開いたとも、三国街道と沼田−湯宿道が合するので「合また」と呼んだとも伝わっている。猿ヶ京関所を前にして、関所が閉まってから到着した旅人が宿泊した。本陣、脇本陣、問屋、旅籠など家数は百数十軒を数えた宿場であったが昔の面影はない。かわって出桁せがい造りの民宿ナマコ壁土蔵の旅館などが湖を訪れる観光客をもてなしている。

国道の相俣信号交差点から草深い細道が湖畔にのびている。これが三国街道の
旧道で、昭和33年までは現在のダム湖を横断して対岸の猿ヶ京温泉につながっていた。いまは湖畔に整備された遊歩道につながって湖の北側をめぐっている。


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猿ヶ京


国道にもどり赤谷湖の北岸をまわって
猿ヶ京関所跡に至る。越後諸大名の参勤交代のみならず佐渡街道として罪人送りと金の輸送という特殊な任務を負った三国街道に寛永8年(1631)設置された。冠木門をはいると茅葺の旧役宅が復元されていて美術資料館ともなっている。縁側には赤座布団を敷いて大名駕籠が正座していた。

隣の土産店兼営食堂でカレーうどんを食べながら給仕役のおばあさんの話を聞いた。子供のころ通っていた小学校はダムの底に沈んだという。そこで毎日遊んでいた。付近には笹の湯という温泉があったがそれも沈んで、今の地に猿ヶ京温泉ができた。「今日は
菜の花祭りをやっているから見ていきな」と勧められて、500mほど北にはいると、満開な菜の花畑の向こうにテントをはった人の集まりが見えた。房総館山にくらべると2ヶ月ほど遅い春だ。

温泉街の街道をすすんでいくと郵便局の先で旧道は左の
民宿通りにはいっていく。おなじみの中部北陸自然歩道標識が「永井宿 3.6km」と示していた。民宿がならぶ通りには道標、つるべ井戸、常夜燈、石仏、水車などが整えられ宿場通りの雰囲気づくりに心配りが感じられる。

なかでも
「おがんしょめぐり」として設定された地蔵・野仏めぐりはその説明書きとともに石仏の素朴な表情がほのぼのとした旅情を抱かせるものであった。

元三役力士が営む居酒屋の名が本陣であるが猿ヶ京に本陣があった形跡はない。
民宿通りも終わりに近い薬師地蔵の隣に、常夜燈と兜屋根の大きな旧家らしい家がある。案内札も説明板もなく正体は不明である。

人家がまばらになって、左側にはのどかな田園風景が広がっている。黒々とした畑地はいかにも肥沃な土地を思わせる。集落のはずれで旧道は左に折れ西川の沢沿いにつづく山道にはいっていく。入口に建つ自然歩道標識が「永井宿 2.7km」と記している。国道と分れてからおよそ1kmの民宿通りであった。

街道沿いでは最後のおがんしょになるのか、山道が沢に向かって下るところに
耳たれ地蔵があった。石仏は磨耗と剥落ですました顔も首に掛けたお椀も認めることができなかった。形としては双体道祖神に見える。

冷え冷えとした林の道をくだっていくと、左右の親柱に「三国街道」「さるさわはし」と書かれた橋が浅瀬の沢に架かり、その先は急な上り坂が続いている。
「猿沢の上り」とよばれる小径で吹路に通じている。

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吹路

「猿沢の上り」は180度に折れる恐ろしく急な上り坂が続き、一気に高度を上げていく。垂直に近い谷の斜面を引っ掻いて強引に道をつけたような山道である。女中たちを連れた行列が本当にここを通っていったものか、息があがって坂の途中で立ちすくみながらヤケ気味にそんなことを考えた。800mの桃源郷の道とあったが、そんな気分を味わう余裕はない。

ようやく勾配が人並みになったところに形ばかりの東屋が設けてある。先に明るみがみえはじめたころ、足もとに小さな馬頭観音をみやりながら吹路の集落にたどりついた。ここにも案内板があった。吹路から永井に向かう旅人のためで、
「猿沢の下り」とある。猿ヶ京側の案内板には若山牧水が法師温泉に向かうときの様子が引かれていたが、ここは法師温泉で一泊して猿ヶ京に戻るときのことが書かれている。

旧三国街道猿沢の下り  十月廿三日
うす闇の残ってゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿ってゐるのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えてゐる空の光にも土地の高みが感ぜられて、自づと肌寒い。  中略   吹路の急坂にかかった時であった。十二三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作つて登って来るのに出合った。真先の一人だけが眼明で、あとはみな盲目である。そして、各自に大きな紺の風呂敷包を背負つてゐる。訊けばこれが有名な越後の瞽女(ごぜ)である相だ。収穫前の一寸した農閑期を狙って稼ぎに出て来て、雪の来る少し前に斯うして帰ってゆくのだといふ。「法師泊まりでせうから、これが昨夜だったら三味や唄が聞かれたのでしたがね。」とM君が笑った。それを聞きながら私はフッと或る事を思ひついたが、ひそかに苦笑して黙ってしまった。宿屋で聞かうよりこのまゝこの山路で呼びとめて彼等に唄はせて見たかった。 後略  
この紀行文は大正11年10月23日若山牧水が法師温泉に宿泊した後、猿ヶ京温泉で昼食し、沼田への帰路を綴った「みなかみ紀行」の一節である。昔の風情がそのまま残る旧三国街道猿沢の小径を散策してみて下さい。

大名女中はおろか、盲目の女性でもこの険しい坂を登ってくるのであった。先の妄想は容赦なく砕かれ、独りではずかしい思いをした。それにしても牧水はチョイワルな発想をする。

吹路の集落は国道17号を北境として谷に落ち込む斜面にへばりついたようにある。集落をぬける道は勾配をなだらかにするためにおのずと曲がりくねっている。民家は隣り合わせに接することなく、適度な間隔をおいてまばらに建ち、どこが集落の中心なのかわかりにくい別荘地のような集落だ。要所に「中部北陸自然歩道」の標識が立っていて、旧道を確認すると同時に永井宿までの距離がわかって助かった。

小さな集落の中を縫うようにして一旦国道に出、50mほど西に進んだところの丁字路で再び国道から下り坂の旧道に入っていく。「群馬側最終SS」の立看板に釣られてガスステーションで飲み物補給した。店内に地方新聞の切り抜き記事が貼ってある。

まず「吹路」を「ふくろ」と読むことからして難解だが、その「ふくろ」は「ふくろう(梟)の里」から来ているという。宿場としての吹路に関する情報は少ない。吹路を三国街道の宿場として数えない資料さえある。宿場としては次の永井宿にくらべ小さなものだったと思われるが、集落としては吹路は永井宿が作られる以前からあったのだという。三国街道における上州最後の集落という地位を永井にとられてしまった。その後吹路は永井宿と相宿の関係にあったようである。

国道からの旧道入口には中部北陸自然歩道の標識が「猿ヶ京温泉 2.3km」「永井宿1.7km」と示していた。急坂を下って右にまがるところに
諏訪神社があり、ようやく旧宿場の古い臭いにありつけた。その背後に固まった家並みが見られる。このあたりが中心なのだろう。旧街道はそこを避けるように傾斜の南端を回りこみ、国道に上がることなくそのまま永井に延びる心地よい土道に入っていった。

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永井

旧道は二股で車道からわかれて左の細い農道をたどり、車道を二度横切って中部北陸自然歩道の標識が立つ畑中のゆるやかな坂道を上ってゆく。

旧道は国道にでる直前で短い峠道を迂回する。峠に会津白虎隊
町野久吉の墓が建っていた。慶応4年4月、三国峠を死守しようと町野源之助(主水)を総大将、弟久吉を副大将とする会津軍140余名は大般若塚に陣を築き永井宿に陣を構えた1200余名の官軍と対峙した。圧倒的な数を誇る官軍には対抗しきれず会津藩は敗走する中で、久吉は単身切り込み壮烈な戦死を遂げる。

2ヶ月前鳥羽街道を歩いて戊辰戦争勃発の跡を見てきたばかりである。わずか3ヶ月の間に戦線は三国街道の国境にまで広がっていた。

トラックステーションのところで旧道は国道17号に接するが、すぐに永井に向かって山中の近道を下っていく。沢にかかる
かじか橋で湿った昆布のようなぬめりに足をとられて大きく転んでしまった。上り坂を200mほど進むと山を抜けて畑の明るみに出た。


集落の南端に永井宿の石碑が建ち、道向かいに永井宿郷土館がある。前庭に
若山牧水の歌碑があった。猿ヶ京小学校永井分校の跡地だ。

  
山かげは 日暮はやきに 学校の まだ終わらぬか 本読む声す 

大正11年牧水は「みなかみ紀行」の旅の途中、沼田から法師温泉に向かうとき、ここに立ち寄った。歌碑は昭和54年永井分校が閉校されるときに建てられたものである。

ひっそりとした坂道をのぼって集落の中心に向かう。宿場は山の斜面にへばりつくように作られている。道を左に曲がったところ左側に本陣笛木家があった。笛木家は名主、問屋も兼ね、養蚕・金融・酒造を営む大家であったらしい。今は往時の本陣建物の写真を貼ったパネルと、石塚の上に与謝野晶子の歌碑をはめ込んだ
本陣跡の石碑があるのみである。

与謝野晶子は昭和6年この地をおとずれ、駕籠で三国峠に遊んでいる。与謝野晶子は旅行好きな女性だったとみえ、各地で出会う。その場所ごとに歌を詠み碑を残しているが、多くが義理で詠んだありふれた内容で印象に残る歌が少ない。

  
訪ねたる 永井本陣 戸を開き 明かり呼べば 通う秋風

バス停脇に永井宿の案内板が建っている。永井宿は永元禄2年(1689)米問屋場に指定され越後米の取引場として隆盛をきわめ陸の船着場とよばれるほどの賑わいをみせた。

左手に
大丸屋、右手に和泉屋と、道の両側に旅籠の俤を残す家が残っている。いずれも「持ち送り」に彫刻を施した立派な作りである。和泉屋の西側、国道の崖下あたりが高札場であった。

街道は崖にぶつかり左にまがって国道17号に合流する。宿場を出ればいよいよ三国峠越えである。

国道が大きく右に曲がったところ右手に旧街道入口がある。「中部北陸自然歩道 上州路三国峠の道」と記した標柱と並んで「三国路自然歩道」の絵地図付き案内板が立っている。永井宿より三国峠まで約7km、3時間の行程とある。

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旧三国峠

旧街道の山道にはいっていくとすぐに道標があり、永井宿まで0.35km、
三国峠まで7.45kmと、正確な距離が記されている。道は自然歩道として整備されており、歩きやすい山道である。リュックのポケットにしまっておいた鈴をとり出し、背負いなおして3時間余りの峠道を歩き出す。名実共に三国街道のハイポイントである。

すぐ右手に石垣の遺構がある。何かの建物跡だと想像するが、説明札らしき物は見当たらなかった。

最初の休憩所に「中部北陸自然歩道 上州路三国峠のみち」の案内板と「
三国峠7.3km 永井宿0.6km」の標識が立っている。群馬県側の上り口から峠までは8km近くの坂道であるのに対し三国峠から新潟県側の出口までは1.3kmと短い。したがって三国峠の旧街道を歩く人の多くは3時間を越える長い上り坂を避けて、新潟県側から30分ほどで一気に峠に登りつめ、その後のんびりと永井宿までの下り道を選ぶ。

道は切り通しのような窪地を進んでいく。「大般若塚3.0km 永井宿0.8km」の標識を通り過ぎる。道は急峻な斜面を横切っていて、左は深い谷間である。杉木立がその険しい景観をいくらかでも緩和してくれている。次ぎの休憩所(山側に木のベンチが一つあるだけだが)には永井宿から1.0km、
峠まで6.6kmとある。

倒木を除けながら急坂を這い上がり、曲がりくねった空濠の中を泳ぎ、街道はいよいよ山道の趣を濃くしていく。九十九折の山道は「大般若塚2.0km 永井宿1.8km」の標識をすぎるとやがて谷間を右手に見るようになる。右側の路肩が頼りなく木立の支えもなくて足元に不安をおぼえる。

『三国街道を歩く』(上毛新聞社)51ページの案内図には、大般若塚までに、九十九折の「金堀坂」と呼ばれる急坂や、赤城山・榛名山が遠望できる「遠見」、さらには三国山から吹いてくる風を法師谷に反らせることからその名がついたと云う「風反り茶屋跡」などが記されている。それらしき案内立て札を求めて注意しながら登っているのだが、結局出会ったのは距離標識だけで、
金堀坂・遠見・風反り茶屋跡のいずれも確認できなかった。道は始終曲がりくねっていて、どこが九十九折かとは特定しがたい。また、谷側でも木が茂っていて展望が開けた箇所を登った記憶もない。茶屋跡にいたっては立て札が唯一の頼りである。

そうこうしているうちに「大般若塚まで0.5km 永井宿まで3.3km」の標識まできた。左右の案内板は地表に落ちていて、かわって柱に白いパネルが貼り付けてある。道は幅広く平らで、下草もなく手入れされているようで歩きやすい快適な遊歩道である。

三国峠までのほぼ中間点である
大般若塚にたどり着いた。場所は三国街道の永井宿−三国峠を結ぶ三国街道の中間地点から九十九曲りとよばれる法師温泉に至る道が分岐する三差路の峠で、大般若塚から三国峠まで4.0km、永井宿まで3.8km、法師温泉まで2.7kmと三地点までの距離標識がある。山中の交通の要衝であり、戊辰戦争ではここで激しい戦いが展開された。

小さな平地の右手に三国峠付近に出没した妖怪変化を封じるために築かれたものと伝わる大般若塚が立ち、左にはしっかりとした東屋が設けられており、法師温泉への下り坂入口には戊辰戦争で犠牲になった官軍兵士の墓がある。戊辰戦役碑といえば圧倒的に敗者幕府軍の戦死者慰霊塔が多い中で官軍兵士の墓は珍しい。

冷夏と標高と怪しい雰囲気に囲まれて吹く風が夏を忘れさせるほどに涼しい。ベンチで足を休ませ養分と水分を補給、峠道の後半に臨む。

後半最初の標識は「
三国峠3.0km 大般若塚0.5km」、道は自転車で走れそうなほどに平坦でますます心地良い。道端には刈り取られたばかりの草葉がまばらに置かれている。歩を進めるうち思いがけなくも林道でもない遊歩道の奥で機械の音が聞えてきた。これで熊の心配はないとまず安心、曲がり道の先に人影がみえてきた。近づくと草刈り機を手にした夫とそのあとを片付ける妻の夫婦連れである。この山林の所有者なのだろうか、管理組合から委嘱をうけた業者なのだろうか、いずれにしてもこの旧三国峠道が管理されていることを目で確かめられて心強かった。そこから先の歩みが心持ち軽くなったような気がした。

脚のない三基の腰掛台を通り過ぎ、右や左に木製ベンチをみやりながら「
三国峠2.5km 大般若塚1.0km」の標識に至る。先の標識から500m歩いた。150〜200mぐらいの間隔でベンチが設けられてあるようだ。このあたり、谷と山の感覚が薄れ、道の左右に同じような風景が続いている。

軽い切り通しを過ぎ小さな峠を越えた先あたりでかなりな規模の空間が現れる。右手の山側に石仏や墓石が並んでいる。道の両側にベンチがある休憩場所に
「三坂の茶屋跡」の案内板が立っている。坂上田村麻呂の血を引く田村越後守が営んでいた茶屋跡である。田村越後守は三国権現の神主も兼ねており、毎日ここから三国権現に奉納された賽銭を回収しにいったという。街道沿いの茶屋だけでなく、その裏山には本宅の屋敷があたっというからやんごとない茶屋だったのである。奥まった所に並んでいた墓石は田村家代々の墓だった。

同じ案内板に付記されている文久3年3月15日のことがおもしろい。長岡藩主の奥方一行がこの茶屋を通った。恐らくここで休憩したことだろう。奥方一人を運ぶのに総勢578人と馬89匹を要した。御上4人とあるのが奥方のことなら正妻、側室を含めたものとなる。それに同行する女中が50人。内訳;次女中4人、中居女中2人、末女中21人、下女中11人、老女中2人、腰女中10人。色んな種類の女中が居るもんだ。

左の深い谷が覗けるようになるころ、羽の取れた標識が「
三国峠2.0km 大般若塚1.5km」を示す。やや下りになって沢が現れた。右手の細い滝から清冽な山水が道を横切りそのまま谷に流れ落ちている。昭和6年、与謝野晶子が駕籠に揺られて三国峠で遊んだ時この沢の水を手ですくって飲んだというので、「晶子清水」と呼ばれている。これは『三国街道を歩く』からの情報で、立て札などは立っていない。

すぐ先に「
三国峠1.8km 永井宿6.0km 法師温泉4.0km 国道17号1.3km」の標識があり、左に細道が下りている。国道17号に出て法師温泉への山道につながる山道である。右手に石垣が築かれその上にトイレと屋根つき休憩所がある。

しだいに高度を上げていく道を進んで行くと右手に墓石がならぶ一角が現れる。墓は元文5年(1740)2月5日この先のヒノキ峠近くで雪崩に会い
遭難した長岡藩士8名のものである。8名の藩士は江戸で捕えた罪人を護送中であった。人足4名と皮肉にも唐丸カゴとよばれる護送用のカゴに入れられていた罪人はなだれに巻き込まれずに助かった。犯人はその後逃亡したのか、人足が護送の代役を果たしたのか、知らない。

その峠が「
三国峠1.5km 大般若塚2.0km」の標識の先にあり、馬頭観音が長岡藩士を供養するように立っている。ヒノキ峠手前の上り坂は「駒返し」とよばれた難所で、永井方面から上がってきた馬が冬の凍結した道で足を滑らせて引き返したとも、上杉謙信が関東攻略の折に猿ヶ京の出城が焼かれたことで馬を引き返したとも言われている。

道は上り下りと蛇行をくりかえしながら小さな沢をいくつか渡る。道幅がしだいに狭くなってきて左手の谷がますます深く刻まれた様相を呈してくる。「
三国峠1.8km 大般若塚2.5km」と記された茶色のパネル標識を通り過ぎる。前のキロ程から三国峠が300m遠ざかった
のは何かの間違いだろう。

やがて谷間に展望が開けたところで大きな沢が横切っている。山側はするどく刻まれた細い沢が山中奥深くから走っているのが見える。水流は盛んで、殆んど垂直に近い谷間に落ち込んでいる。木々の繁みで落水の姿をみることはできないが、大きな落差で拡大された水音が谷底から這い上がってくる。三国峠最大の難所といわれるこの谷を誰がなづけたか、
「くぐつが谷」とよぶ。「くぐつ」は「傀儡」と書き、谷に出没する妖怪が、峠の旅人を人形のように操ったことから、そう呼ばれた。やがて妖怪の本体は雪なだれ等のためにこの峠で命を落した人々の霊であろうと考えられ、大盤若理趣分供養塔を建てて死者の冥福を祈った。既にみてきた大般若塚がそれである。

道はいよいよ細まって上り坂がけわしくなってきた。茶色のパネルが三国峠まであと500mだと語りかける。石ころまじりの坂道を駆け上がって三国街道ハイポイントの峠に出た。ベンチ、常夜燈、御阪三社神社(三国権現)の祠と鳥居、それに
「三国峠を越えた人々」と一風変わった石碑がある。

御阪三社神社は、上野赤城明神・信濃諏訪明神・越後弥彦明神を祀り、上野・信濃・越後の三国の境とした神社である。現在の群馬・長野・新潟三県の県境はここではない。

「三国峠を越えた人々」の名簿碑は30人の名前と峠を越えた年が刻まれている。興味本位に挙げていくと、平安時代の坂上田村麻呂を筆頭に、弘法大師、謙信をふくむ5名の上杉氏、江戸時代の長岡をはじめ村上、与板、黒川、三日市、高田、三根山等11の藩主、塩沢の鈴木牧之、伊能忠敬、出雲崎の良寛禅師、遊行上人、長岡の河合継之助、明治にはいって原敬、西園寺公望、尾崎行雄、昭和時代の与謝野夫妻、川端康成、北原白秋、船橋聖一等の文人、そのほかに外国人4人が名を連ね、実に多彩な顔ぶれである。

峠の東側は大きく展望が開け手が届く距離に三国山がなだらかな曲線を見せている。遠くに青緑系の4層のグラデュエーションを描く山並みが美しい。峠を吹き渡る風はもう秋の気配である。三国峠路は二日がかりの箱根峠にくらべればおよそ4分の1の道のりである。石畳もなければ草もない歩きやすい柔らかな土の道で、谷は深くて険しいけれど山肌を縫う峠道は穏やかな上下をくりかえす快適な自然歩道である。いくつかの沢をわたったが橋を架けるようなものでない。

まだ越後の国の南境に触れただけなのにもう三国街道を歩き終わった気分におそわれた。

峠から越後側への下り道は1.3kmで20分で完了する。急勾配の登山道だ。途中に
「三国権現御神水」の標柱があるだけで史跡らしきものはない。最後の坂を階段で降り、三体の石仏に別れを告げて国道三国トンネルの新潟側入口脇に出た。標高1076m、1218mの三国隧道は昭和34年に完成した。この自然歩道はそれ以降に造られたのではないか。本来の旧街道は峠からの下り道途中から国道の東側の山中に分岐して浅貝宿の旧道につながっていた。途中にその痕跡を見ることができる。

なお、三国トンネルは壁側に白線すらない狭いトンネンルである。幸い道路は一直線で、出口の明かりが常に見え進入してくる車のシルエットとランプが確認できる。交通量もさほど多くなく、前後をみながら近づいてくる車と反対の車線に移動するのがよい。やむなく同じ車線にとどまるときは、側石に乗り上げ壁に身をへばりつけて車をやり過ごす。大型車二台がすれ違うときは最徐行する。そこに人一人の隙間はない。

(2008年5月)
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