京街道(東海道) 



山科−伏見枚方守口大坂
いこいの広場
日本紀行


関東に多くの鎌倉街道があるように、京みちあるいは京街道と呼ばれる道は一つではない。代表的なものは大阪から京都へと通じる道(京からみれば大坂街道)をいい、さらに具体的には豊臣秀吉が大坂京橋口から淀川左岸の堤防上に開いた文禄堤から伏見経由で京に至る道をいう。伏見―京都間は伏見街道をたどった。他方伏見から大津に至る大津街道が整備され京都三条を経ずして東海道に出る道も開かれた。徳川幕府になり1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると家康は東海道を大津−伏見−淀−枚方−守口経由の57次とし終点を大阪城至近の高麗橋まで延長した。この山科追分−高麗橋の道も広義の京街道とよばれる。ここでは東海道57次版の最終区間として、広義の京街道をとる。従って山科−伏見間は「大津街道」を基礎とする。



山科

大津市追分町の名神高速の下で旧東海道は国道1号と分れて左に入っていく。200mほど進んだところで道が二手に分かれ、京都三条大橋に至る旧東海道(53次)はそのまま直進し、大坂高麗橋に通じる新57次東海道の最終4次区間が左にはじまる。街道の右側は大津市追分町、左側は京都市山科区髭茶屋屋敷町である。分岐点に追分道標があり、「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と書かれている。旧東海道もここでは京道であり、新東海道もここからみれば伏見街道である。

沿道には、土壁に虫籠窓の民家など古い家並みが残っている。音羽病院の前から左にまがり、ラブホテルやパチンコなどが並ぶけばけばしいコーナーで国道1号を地下道で潜り、山科川を音羽橋でこえて山科大塚交差点で再び国道1号を横断する。東海道新幹線ガード手前の民家の前に古い道標が立っている。「左大津道 右宇治道」とある。左はまさに大津街道のことで、右宇治道とあるのは、このルートが元来の奈良街道であったことを示している。

現在も府道35号(後につづく36号とも)でみる標識は京街道でも伏見街道でも、大津街道でもなく、
「奈良街道」とある。古く東海道、東山道、北陸道など東からきた旅人は京に入らず山科、宇治経由で大和に向かった。現在の京都から伏見観月橋経由の幹線道路である国道24号は秀吉が伏見の南に広がる巨椋池湿地帯に堤を築いて開いた新しい奈良街道である。

新幹線をくぐって立派な門構えの前にある「北大塚」バス停の先に、
「皇塚」と刻まれた石碑が石垣に囲まれた塚上に立っている。大塚・王塚・皇塚などとも呼ばれ6世紀ころの円墳跡で桓武天皇陵とも伝えられる。このあたりの地名「大塚」はこれにちなんだものらしい。

西鶴『好色五人女』巻三の主人公、おさんと茂兵衛の墓があるという
宝迎寺の前を通る。長屋門風の珍しい山門だが、入り口が柵でふさがれていて、勝手に出入りできそうになかった。舞台は四条室町の大経師屋。亭主の出張中に人妻おさんと手代茂兵衛の間でちょっとした手違いがあってそれが抜き差しならぬ不倫に発展した。逃避行の先、丹波柏原にも二人の墓があるという。ここ宝迎寺の墓の由来については知らない。

築地塀をめぐらせた風情ある民家が残る大塚・大宅地区を通っていく。「大宅甲ノ辻」バス停の奥に「岩屋神社のお旅所」の大きなきな石碑があり、その先右手に裸になった榎木の大木がそびえる
大宅一里塚がある。説明板にははっきり「東海道から分岐した奈良街道の一里塚」と記されていて、「京街道」の意識が薄い。ここから東海道との分岐点までは3kmすこしで一里にはたりない。東海道の一里塚を引き継いでいるとすれば123番目の大谷一里塚からとなるが地図で計かれば4.4kmとすこし長い。およそその中間で、道筋の変遷を考えれば、どちらかであったのだろう。

名神高速のガードを潜り、山科警察署前の信号のある丁字路交差点で右斜め前の旧道に入る。旧道の雰囲気をのこす住宅街をぬけると高川の十字路にさしかかる。京街道(東海道)はここを右折していくが、直進する道は
旧奈良街道で宇治に向かう。醍醐寺前を通るので醍醐街道ともよばれる。高川をわたって醍醐街道にはいったところに小野御霊町というちょっと気になる町がある。隣接してある「小町センター」とあいまって、ここは小野小町にゆかりある土地らしい。

このあたり小野郷は小野氏一族が栄えたところで、仁明天皇の更衣だった小野小町も宮中を退いた後この地で過ごしたとされている。その場所へ小町会いたさに毎夜1里をこえる道のりを通ってきた男がいる。次の宿場伏見にすむ深草少将で、100日間通い続けたら契りを結んでもよいといわれていた。満願直前の99夜目に、運悪く深く積もった雪の夜道で凍死したとも、大事な日に体調をくずして代役を送ったのがバレたともいわれている。能作家の創作だがなんとも惨めな男の話ではある。どこかにモデルとなったまめな男がいたのかもしれない。

随心院は真言宗善通寺派の大本山で正歴2年(991)仁海僧正の開基による古刹である。境内には小町が住んでいたという屋敷跡に残る化粧井戸がある。竹垣にかこまれ小粒の石積みは整いすぎて情緒に欠ける。それよりも寺を囲う素朴な土壁の築地塀に沿った「小町庭苑」のほうが鄙びた野趣に富んで風情があった。薄暗い木立の中に小町塚侍女の塚、そして深草少将の手紙を埋めたとされる文塚などが休んでいる。

全国にある「小野」と名の付く土地にはなんらかの小町伝説があるが、さしずめここは京の郊外でもあるし本場といってもさしつかえなかろう。小野梅園をみて小町の故郷をあとにした。

京街道にもどり
勧修寺に向かう。すぐ北の小野小学校ちかくに旧東海道線山科駅があった。明治13年京都・大津間の鉄道が開通してから大正10年に現在の東海道線に付け替えられるまで、線路は馬場(膳所)、大谷、山科(小野)、稲荷(現JR奈良線稲荷駅)を経て京都駅に至った。JR奈良線稲荷駅には当時の遺構であるランプ小屋が残されている。

勧修寺橋で山科川をわたり突き当たった勧修寺門前に文化元年(1804)の「南 右大津 左京道」「北 すくふしみ道」と刻まれた
道標、愛宕常夜燈など古い石碑が並んでいる。「右大津」が今来た道で、「すぐ伏見」とあるのはこれからゆく道である。京道とは丁字路を右(北)にとる道であろう。もとはどこに建っていたのか、南北の位置関係はよくわからない。

勧修寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇の創建による門跡寺院である。白壁がまぶしい長い築地塀の先に入り口がある。山門からして寺というより平安時代の宮廷の香りが漂う空間である。
宸殿、書院は明正天皇の旧殿を下賜されたもので、清楚にして品のある建物である。開けた芝生庭には氷室池がひろがり中島の樹上にアオサギが巣を作っていた。池のほとりに建つ観音堂は昭和に建立された新しいもので、中をのぞくと雪のような白い肌をした観音が薄目をあけてニヤッとしているように見えた。かって池はさらに南に広がっていたが秀吉が伏見城築城のさい、新道建設のために埋められた。その新道こそが伏見から小野で奈良街道に合流して東海道につうじる大津街道である。

勧修寺の南側をまわりこむようにしてゆるやかな坂を西に向かうと名神高速にぶつかる。高速道路沿いに進み長い坂をのぼりきったところで山科区から伏見区にはいり、街道は高速道路をはなれて左へ曲がって竹薮の間を下っていく。


京都ピアノ技術専門学校の先で、右斜めに入って行く。わずかながら連子格子、虫籠窓、犬矢来など京町家の家並みが残っている。深草谷口町交差点で府道に合流する。手前の橋袂に「仁明天皇御陵」、「桓武天皇陵」と刻まれた石標があった。

府道を100mほどすすんで左の路地に入り、つきあたり丁字路を鍵の手に右・左とまがり、天理教会前でJR奈良線をわたる。JR藤森駅前で右折して京都教育大、藤森神社参道入口を通って本町通りの伏見街道に出る。ここが
大津街道の伏見起点である。

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伏見

京街道はしばらく伏見街道に乗る。墨染交差点を右折し京阪踏切をわたり疎水をこえて歌に詠まれた墨染寺に寄る。寺の創建は古く貞観16年(874年)清和天皇の勅創によるという。由緒ある墨染の桜もまだ固い蕾ではありがたみが伝わってこなかった。

 
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 上野峯雄(かんつけのみねお)

墨染寺の先を左に折れ師団街道を南下する。墨染寺の裏手に建つ
欣浄寺 (ごんじょうじ)の方がおもしろい。ここに深草少将が住んでいたというのだ。境内には少将塚、小町塚、涙の水ともよばれる深草少将姿見の井戸等がある。深草少将はここから小野小町あいたさに彼女のすむ小野随心院まで一里の道を通いつめた。百日間通い続けたら結婚しようと言われてのことだが、哀れにも雪深い九十九日目の夜に途中で凍死した。

国道24号との交差点手前の右手路地入口に石柱が2本建って おり、
「撞木町廓入口」「しゆもく町廓入口」と彫られている。橦木町廓は豊臣秀吉が伏見城を築いた頃に出来た。伏見落城後にいったん廃滅した後江戸時代に全盛期を迎える。今は普通の住宅地で、遊郭建築は残っていない。路地をはいっていくと民家の脇に「大石良雄遊興之地 よろつや」と刻まれた石標がある。赤穂浪士大石良雄(内蔵助)は陰謀をカモフラージュするために遊女屋「よろつや」に通い、遊興に耽った振りをした。

さらに通りの奥には大正7年の板碑
「撞木町廓之碑」が建っている。細かな文字で満たされている中に、太閤・伏見城・大石良雄などが読み取れる。廓は昭和33年の売春防止法により廃滅した。その名残でもあろうか、国道との交差点の角にかって伏見ミュージックというストリップ劇場があった。DX東寺、千本中立売の千中ミュージックと並ぶ京都3大ストリップ劇場で、過激な内容で有名だった。一部の地図にまだ名が残っているところをみると最近までDX伏見の名で営業していたようである。

街道は国道24号を渡ると京町通と名前を変えいよいよ伏見城下町にはいる。京街道は最初の辻で伏見街道とわかれ、鍵の手にまがり両替通りを下って伏見宿がある京橋をめざす。

丹波橋通りを右折して西に向かう。ここを反対方向にすすむと、丹波橋駅の東方に秀吉が隠居後の居所として黄金の茶室など桃山時代の粋を集めて築いた絢爛たる
伏見城があった。慶長3年(1598)秀吉はここで死ぬ。寛永2年(1625)廃城後、城郭の一帯は桃畑として開墾されたため桃山と呼ばれた。伏見城のさまざまな建造物や部材が福山城の伏見櫓のほか、各所に移築された。現在公園内にある天守は模擬のコンクリート製だという。距離がすこしありそうなので寄らなかった。今思えば、伏見桃山のシンボルであるから模擬建築でも見ておくべきだった。

石屋町で右手に本成寺、左手に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」の碑が立つ勝念寺、その隣には虫籠窓に頑丈な出格子をそなえた町家が三軒並んでいる。真ん中の家に
「藤村質店」の看板が掛けられており、どうやら三軒一続きの藤村宅のようである。建物は江戸末期のものらしい。角をまがると藤村宅がまだつづいている。角地に広大な敷地をもつ大変な屋敷である。両替町からは離れているがその末裔かも知れない。

伏見板橋小学校の前をすぎ「伏見義民小林勘次之碑」の建つ玄忠寺の先を右折して、下板橋通りを一筋西にはいったところ、福祉事務所がある信号を左折する。福祉事務所の脇に「南 右 京大津みち」、「東 左り ふねのり場」と刻まれた
弘化4年(1847)の道標がある。ふねのり場とは京橋付近のことか。

御駕篭郵便局前の通りを南にすすんでいくと、しばらくして大手筋商店街の連絡通路をくぐり、その先油掛通を右折する。そこを反対に左に曲がると
「四ツ辻の四ツ当たり」という四方の道が突き当たるおもしろい地点にでる。普通は鍵の手といえば一本道であるところ、縦横2本の鍵の手道が交差してできた。

油掛通が竹田街道に交叉する手前右手に
油掛地蔵がある。油をかけて祈願すれば商売が繁盛すると信仰を集め、「油掛町」という地名にまでなっている。油で黒光りしているように見えるが、どのようにぶっかけるのか、周囲は汚れていなかった。その横に、芭蕉の句碑がある。貞享2年(1685)芭蕉は野ざらし紀行で西岸寺に任口上人(にんこうしょうにん)を訪ねてきた。任口は俳号で、西岸寺第三代住職宝誉上人のことである。

  
わがきぬにふしみの桃の雫せよ

芭蕉の頃は伏見城は廃され、跡地には桃畑が広がっていた。すでに伏見は桃の産地として知られていたようである。

芭蕉は奈良から京都鳴滝によった後、ここ伏見から大津に出てしばし近江に遊び帰路に発った。伏見からは大津街道をたどったものと思われる。次の句が東海道に合流してから大津に出る山道のどこかで詠まれた有名な一句である。

  
山路来て何やらゆかしすみれ草

油掛通り交差点角に「駿河屋の羊羹」で知られる老舗京菓子店、伏見駿河屋本店が昔ながらの店を構えている。寛正2年(1461)岡本善右衛門が伏見で「鶴屋」と号する饅頭処をひらいたことにはじまる。羊羹は天正17年(1589)4代目善右衛門が創案した。

その店先に
「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が建っている。明治28年(1895)日本で初めての営業電車が京都駅前からこの伏見油掛通りまで、旧竹田街道の道筋に開通した。

交差点を左折し京橋に着く。伏見城の外堀である宇治川派流に架かる小さな橋が
京橋で、ここが伏見港の中心をなし、また東海道伏見宿の中心地でもあった。京橋を中心に「南浜」付近には本陣、脇本陣のほか数十軒の旅籠が軒を連ねた。京橋界隈には問屋、廻船問屋、船宿が立ち並び、京橋北詰には高札場、南詰には船番所、船高札場などがあったという。

当時の面影を伝える建物は薩摩藩が定宿にしていた船宿
「寺田屋」のみである。。京橋北詰を東にはいったところに軒提灯を吊るした旅籠が建ち東側の庭(元来の寺田屋敷地)には歴史を刻んだ石碑が集められている。ここで幕末二つの事件が起こった。

文久2年(1862)の寺田屋騒動。薩摩藩急進尊皇派の9名が公武合体をもくろむ島津藩主の父島津久光によって粛清された。薩摩藩九烈士殉難の碑が立つ。

慶応2年(1866)の坂本龍馬襲撃事件。恋人お龍は風呂から裸で飛び出して危機をしらせ、龍馬は危うく難をのがれた。このあと二人は九州へ日本人初の新婚旅行にでかけていった。

寺田屋から蓬莱(ほうらい)橋で中書島にわたり東柳町を川に沿って長建寺までの道は両岸に柳と桜と紫陽花が植え込まれた情緒ある散歩道である。対岸に立ち並ぶ建物は月桂冠の酒蔵で、裾の黒ずんだ板壁に漆喰の上部壁と窓縁の白さが一段と目だって清楚な上品さを醸している。

橋の手前に、赤い土塀と竜宮門がなまめかしい
長建寺がある。本尊の弁財天は水の神であり、また遊女の守り神でもあった。三方を川にかこまれたここ中書島は元禄のころに遊郭ができ、近代になっても新地として名を馳せた関西屈指の歓楽街である。伏見では撞木町と覇を競った。

対岸にわたり月桂冠酒蔵の正面にでる。
月桂冠大倉記念館は酒の博物館として酒造りや日本酒の歴史、昔の酒蔵用具を展示している。建物は虫籠窓、格子、犬矢来を備えた厨子二階で典型的な京町家造りである。正面からみると白壁虫籠窓、木格子、竹矢来が織りなす縦線構造が実に美しい。

京橋にもどり橋をこえてすぐ右手の土木事務所の入口に「左 北山上役行者鷲峰山(じゅうぶさん)道 右なら 左宇治」「右 京道」と彫られた道標と、古い観月橋の親柱が保管されていた。

道はその先で二股を二度右にとってまっすぐ進み、丁字路を右折して府道124号(三栖向納所線)に乗る。納所(のうそ)は京都羅城生門から出た鳥羽街道と交わるところで次の宿場淀である。

肥後橋で濠川を渡り左折、京阪電車の踏切を越えて三栖閘門を左に見ながら宇治川の堤防にでる。細い橋で東高瀬川を渡って堤防伝いに阪神高速8号の京都南大橋をくぐり、国道1号を横切っていく。

宇治川の向こうにみえる広大な平地は
巨椋池の大干拓地で、焼畑のような黒ずんだ土地が延々と続いている。両方にのびる二筋の高架道路が視野をさえぎっていなければ、地平線にまでとどかんとする広がりである。地名は向島大河原。秀吉以前にここをまっすぐ南下する道はなく、奈良に向かうにはずっと東の宇治を迂回していく他なかった。

深緑によどむ宇治川をながめながらやがて京阪電車の
千両松踏切を渡る。道は宇治川から離れていくが流路が付け替えられたもので、この府道が昔の宇治川右岸であった。左手に淀競馬場が見えてくる。秀吉は伏見から淀まで宇治川堤にそって千本(「多数」の意)の松を植えた。

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横断橋の下に
「戊辰役東軍西軍激戦之址」と書かれた木標と「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑がある。鳥羽伏見の戦で敗れて淀まで退却した幕府軍は味方の淀藩に入城しようとしたが、淀藩主の寝返りにあってここでも敗退、以降敗北の一途を歩んでいったのであった。

街道は線路からはなれて、納所町内をすすんでいくと六差路納所交差点の一つ手前の十字路右手に
淀小橋跡の碑が立っている。当時納所で桂川と宇治川、木津川の三河川が合流し、淀城は北を宇治川に、西を桂川と宇治川が合流した淀川に、南を木津川に囲まれて築かれ、東側に城下町がつくられた。京街道(伏見道・東海道)は小橋で宇治川をわたって城内に入り、池上町、下津町、新町をぬけて大橋で木津川を渡っていた。旧京阪国道(府道13号)の淀木津信号からでている府道15号が江戸時代の木津川水路にあたり、今も「淀木津町」のほか、府道に沿って「大橋辺」という町名が残っている。

街道からはなれて、京阪淀駅の西側に位置する
淀城跡に寄る。駅前にはいくつかの古い道標が一ヶ所に集められていた。特に鳥羽街道と京街道(東海道)の合流点であった「淀小橋旧跡」の碑に刻まれた道しるべの表記は興味深い。ここで鳥羽街道とよんでいる道は「京都街道」と記され、下鳥羽、上鳥羽を経て羅城門の近く東寺まで2里半とあり、「京街道」とよんでいる本題の道は「伏見街道」とされて大津まで4里半とある。街道の呼称は相対的なものであることを如実に示している。

淀城は伏見城の廃城に伴って築かれたもので、今は堀と石垣の一部が残るのみである。三方を川で囲まれていた淀城もその後宇治川と木津川は大きく南に流れをかえ、今や西方に淀川が流れるのみとなった。城主は頻繁に変わったが享保8年(1723)以降は明治維新まで下総佐倉から移ってきた稲葉氏の居城となった。なお豊臣秀吉が茶々(淀君)に与えたという淀城は鳥羽街道沿いの
妙教寺周辺にあったとされ、境内に「淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」の碑が建っている。

淀小橋にもどって街道を進む。碑とは反対方向の路地にはいって店の脇を通り抜け、競馬場前の広い道を斜めに横断し最初の路地を左に入る。線路で分断されている道筋が旧街道である。線路の東側にまわって府道126号で先述の池上町、下津町を南下する。途中淀下津町で逆コの字形に迂回するが、別に桝形でもなく、複雑に入り組んだ水路の地形がまっすぐな町割を拒んだものであろう。

淀宿は日本橋から55番目の宿場で、水陸交通の要衝ではあったが伏見宿からわずか一里余りと近いこともあって本陣、脇本陣は設けられず旅籠が20軒たらずの小さな宿場であった。淀は現在競馬の町である。偶然競馬開催日にあたっていて、納所交差点から新町にかけて、道の隅々まで警察官が総動員されていた。街道沿いにはちらほらと
京町家造りの家も見られる。運送会社の看板に「馬匹輸送」とあるのがいかにも競馬の町らしかった。

新町の水路をこえた十字路のそばに、下部が埋まった
淀町道路元標がある。町の繁華街に見る例が多い道路元標としてはその設置場所に意外感があった。道はそこからゆるやかに下り、その先やや上がった土手の高みのようなところで鍵の手にまがっていく。この間の低地はかっての木津川河道で、ここに旧「淀大橋」が架けられていた。木津川左岸にあたる淀美豆(みづ)町にはかって浜納屋や蔵が建ち並び船運で賑わった。

淀美豆町を西にまっすぐぬけていくと家並みが途絶えて田園風景がひろがってくる。左前方にしばらく別れていた宇治川の堤防と再会する。京阪本線のガードを潜ったところで左側の農道に入っていく。伏見区から八幡市にはいる。うららかな早春の野菜畑で黙々と一人苗を植え込む女性、色調をあわせたような緑の電車が通り過ぎる。

国道京滋バイパスの石清水大橋下で農道とわかれて堤防から降りてきた道に出る。堤防の上を直進し府道13号の御幸橋を一旦くぐって13号に戻る。このあたりは桂川、宇治川、木津川が合流点手前でそれぞれ堤防一つをへだてて併流する地点で、なかでも宇治川と木津川をわける
背割堤はソメイヨシノの桜並木が整備された河川公園となっていて、花見にはまだ早い堤防には大勢の家族や二人連れ、独り者がそれぞれの方法で陣とっていた。

古い御幸橋で
木津川をわたる。前方にみえる山は男山で山上に石清水八幡宮がある。男山々中に湧き出る清泉を神社化したのが最初とされ、その後貞観元年(859)、九州の宇佐八幡宮を勧請した。歴代天皇の崇敬は篤く、また源氏はこの神を氏神と仰いだので武家間で大いに崇められた。

御幸橋を渡り左に折れて「石清水八幡宮鳥居通り」の石標前を通っていく。最初の十字路を右折して八幡市駅自転車駐車場前の路地をはいっていく。八幡科手地区をしばらくいくと道は木津川堤防に近づき、樹齢千年近いという
楠の大木が街道に立ちはだかるようにそびえ立ってている。

改装中らしいホテルリベロの前に「八幡宮」と刻まれた文政5年(1822)の常夜燈をみて、大谷川を渡り橋本の中心地へと向かう。橋本郵便局を通りすぎ、丁字路を右折してかっての橋本遊郭街へとはいっていく。淀・枚方間の間宿であった橋本は、石清水八幡宮の最寄港として、また淀川対岸の西国街道山崎宿との渡し場として、そして何よりも京街道随一の
遊郭で殷賑を極めた。

橋本中ノ町で堤防の手前で左にまがり、遊郭時代の建物をそのまま残した家並みの中を橋本小金川町まで歩いていく。一階は格子が美しく二階には手摺を設け、窓や軒下などの外面に意匠をこらした透かし彫りを施してある。格子の間から、あるいは手摺越しに物憂げな遊女が客を手招いていたのであろう。

京阪本線と接近したところで左におれて踏み切りを渡る。すぐに府境をこえて枚方市に入る。この上の堤防あたりが
橋本の渡し跡で、また桂川、宇治川、木津川が一つになって淀川となる重要な場所であった。橋本遊郭跡の蠱惑的な街並みにすっかり心を奪われて、土手に上がるのを忘れてしまった。この写真がないのは致命的である。

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枚方

道は踏切を渡りすぐに右折して久修園院(くしゅうおんいん)の前の農道を行く。途中農作業中の男性に道をたずねると、これは単なる農道で、東海道はなくなったとのことであった。

樟葉集落の入口右手に
「戊辰役橋本砲臺場」の碑が建っている。幕末の元治元年(1864)淀川対岸の高浜砲台とペアで大坂湾から京都に侵入する黒船に備えて設置された。黒船は杞憂におわり、砲台が実際につかわれたのは皮肉にも戊辰戦争での幕府軍の同志討ちだった。高浜砲台を守っていた津藩藤堂家が幕府軍に勝ち目なしとみて敵の官軍に寝返り、小浜藩酒井家が守る樟葉砲台に向けて砲撃したものである。ペアのパートナーから砲弾が飛んできたわけで小浜軍はパニックに陥った。既に淀で味方の裏切りにあってここまで敗走してきた幕府軍は哀れというほかない。

樟葉中之芝1丁目の住宅をぬって久親恩寺(くしおんじ)の前を通り線路沿いにでる。そもそも先に踏切をわたった地点からここまで、線路に沿った道筋が失われた旧道だったのだろう。ここから道路がアンツーカー色に整備されている。一般道路と区別して旧東海道であることをしめす枚方市の粋な計らいである。道標をたてずとも迷わずに旧道をたどれる名案だ。念をいれて「旧京街道」の新しい道標も要所に設けられていた。

町楠葉2丁目と1丁目の境に
「交野天神社本殿」「継体天皇樟葉宮伝承地」の標識が立っている。古墳時代に遠隔地越前の国から招かれた継体天皇には謎に包まれた部分が多い。大和朝廷が断絶して外部の血が新たな王家を創めたという説がある。継体天皇の母は越前、父は近江高島の出身とされる。506年樟葉で即位した宮跡地は交野天神社境内と推定されている。その後大和に都をおくまで20年かかっていることも継体天皇と大和勢力の関係が尋常でなかったことをうかがわせ、謎を深めている。

鍵の手にまがると閑静な住宅街がとぎれ雑然とした駅前風景が近づいてくる。右斜めにはいる路地が旧道筋であろう。樟葉といえば高度経済成長時代、念願の公団住宅の抽選があたり男山団地に引っ越してきたときにつくられたニュータウンである。団地のために新しくつくられた樟葉駅前に小規模ながらこぎれいな店がならぶ樟葉ショッピングモールができ、半ドンの土曜日の夕方をそこで過ごすのが楽しみだった。

樟葉駅を横切って古くからの道が通っていたこと、駅近くにこんなに落ち着いた家並みがあること、住宅街をぬうこの道が旧国道2号線であることなど、思いもよらなかった。今や駅前は高層ビルがそびえる成熟した市街地となり、初々しかった昭和40年代とは隔世の感がある。

旧街道は楠葉駅の高架をくぐって堤防を走る
府道13号にでる。河川敷の樟葉ゴルフ場もなつかしい景色だ。「樋之上」信号で斜め左の細道に入って行くと、船橋川に突き当たる。楠葉橋で迂回して対岸の旧道にもどると、堤下に「八幡宮 橋本一里」と刻まれた道標などが並んでいる。道なりにすすみ京阪本線に沿って牧野駅で穂谷川をわたる。駅の北側の土手斜面に一本の石標が立っていた。「淀川維持區域標」、「穂谷川 従是淀川合流…」、「大阪府北河内郡牧野村大字坂」と記されている。

駅舎の南側通路をわたって穂谷川右岸に出ると左手に
「左前島街道」と刻まれた明治39年の道標がある。もとは淀川堤防にあったもので、京街道の牧野と西国街道高槻の前島を結ぶ渡しがあった。
防垣内橋の先で堤防道と分れ右の旧道に下りていく。阪今池公園を過ぎたあたり片埜神社参道入口に二基の立派な常夜燈が建っている。享和元年(1801)の建立で、左側には「京都」、右側には「大阪」と刻まれている。いつから「阪」の字を使うようになったのだろう。その先道なりに右に曲がって京阪踏切を越え、三栗(めぐり)信号で府道13号を横切り左に回り込んで「三栗南」信号で13号に合流する。三栗地区は短い区間であるが重厚な家並みが印象的だった。

府道を進んで行くと渚西交差点先の京阪本線踏切敷地内に、茶色に変色した
明治35年の道標が立っている。旧東海道を引き継いだ旧国道2号時代の道標で、「国道第二號路線」、「距高麗橋元標 六里」「距北河内郡枚方町 二十六丁一六間」とあった。

御殿山駅踏切をわたって坂を上がっていくと左に小高い山が見えてくる。渚院と呼ばれた文徳天皇の第一皇子惟喬親王の別荘跡である。惟喬親王は皇位継承争いで惟仁親王(清和天皇)に敗れた後在原業平をひきつれて各地を遍歴した節がある。遠く近江木地師の里蛭谷まで足跡を残している謎めいた人物だ。この岡は江戸時代になって永井伊賀守が陣屋を設けたことから
御殿山とも呼ばれている。

府道13号にもどり磯島交差点で再び左斜めの旧道に入って行く。旧街道の臭いがのこる天之川町を通りぬけ天野川に突き当たる。この辺りに一里塚があった。鵲(かささぎ)橋をわたって対岸の旧道筋にもどるとそこに
枚方宿東見附跡の石碑と案内板がある。東海道56番目の宿場枚方宿の東口だ。枚方宿は京都と大阪の中間にあり、京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ三十石船の寄港地として繁盛した。

道は再びベージュ色に舗装され、左手に旧枚方宿問屋役人小野平衛門家住宅が現存している。建物は幕末期のものだが改修されて見栄えは新しい。揚見世・下げ戸・出格子・虫籠窓・行灯にうだつと、申し分ない構成をなしている。

枚方市駅前通りを越えた曲がり角に安居川枚方橋跡の石標と古い親柱をみて
宗左の辻に出る。角に製油業を営んでいた角野(すみの)宗左の屋敷があった。文政9年(1826)の京街道と磐船街道の追分道標がある。道しるべとして一面に「右大坂みち」、側面に「右 くらじたき 是四十三丁、左 京六リ やわた二リ」とある。くらじたき(倉治滝)とは磐船街道の東方、交野山中にある源氏の滝のこと。もう一面には「願主大阪 和泉屋、近江屋、錦屋、小豆嶋屋」と4人の屋号が刻まれている。「大坂」と「大阪」が同居しているのがおもしろい。

磐船街道とは天野川と現在の国道168号に沿って私市から磐船を経て生駒市南田原に至る、古代氏族物部氏縁の古い道である。街道リストがまたひとつ増えた。

宗左の辻を右折して岡本町の中を進んでいく。今風の飲み屋街に古い町家が混在して宿場街の雰囲気が濃い町並みがつづく。旧家はいずれも二階に虫籠窓を穿ってうだつを上げ、一階には繊細な格子窓が風情を醸している。
「くらわんかギャラリー」の建物は江戸時代の塩商人塩熊商店の店舗である。「くらわんか」とは「食べないか」という意の下品な関西弁。淀川をいく三十石船に小舟で漕ぎ寄せ、船客相手に「さあさあ、飯くらわんか! 酒くらわんかいっ!」と乱暴な売り声をかけた。権力者にも無遠慮な売り方を小気味よく眺めていた庶民もいただろうし、声をかけられておびえる客もいたことだろう。

右手に旧岡村と旧三矢村の境界を示す石標と、文政12年(18929)建立の立派な常夜燈がある。
高札場跡の碑が立つ札の辻をすぎると右手の三矢公園が池尻善兵衛本陣跡である。

街道は浄念寺の前で鍵の手にまがり、その先右折したところに
枚方宿問屋役人木南喜右衛門家の建物がある。駒寄せ、出格子、虫籠窓のある大きな町家で、広い敷地内には四棟の土蔵を配している。木南家住宅の裏側は淀川堤防に面していて、そのあたりに枚方船番所、船高札場があり淀川を往復する舟の検閲を行っていた。

街道に戻り先に進むと天正年間(1573〜92)創業の船宿「鍵屋」の建物が
「市立枚方宿鍵屋資料館」として保存されている。当時、建物の裏口は鍵屋浦という岸辺で、通り庭を抜けると船着場に出た。文化8年(1811)の建築という鍵屋主屋には参勤交代で使われた大名籠のほか雲助籠などが保管されていて興味深い。帳場には箱につめられた金メッキの千両小判が鈍い輝きを発していた。

先の交差点が西見付跡で、ここで枚方宿が終わる。交差点を左折しすぐに右折し、その先の二股を二度左にとる。枚方大橋南詰め交差点をわたって直進し伊加賀西町の住宅街を進む。ハイパークマンションの前で左折し広い通りの信号を横断して右折し、つぎの丁字路を左にはいって伊加賀小学校の東側を進んでいく。

でぐちふれあい公園のある交差点を直進し細い道に入る。急に旧道が復活したような感じを受ける。
出口の家並はそこの住民しか通らない生活道路をはさんで古い建物にまじって段蔵とよばれる高い石垣の上に建てられた蔵が各所に見られ、独特の情緒を漂わせている。

鍵の手の曲がり角にある光善寺は文明7年(1475)蓮如上人が開いた草庵が始まりである。200mほど行った所に「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」と刻まれた大きな石碑が立っていて、その奧には蓮如上人が腰をかけて説法したという「腰掛石」がある。

門塀主屋の屋根が重なり合う旧家の前を通っていくとやがて家並みが途絶え、用水路をわたった先で淀川の堤防下に出て、道なりに堤防の上にあがっていく。秀吉が築いた文禄堤である。木屋揚水機場で枚方市から寝屋川市へ入る。

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守口

太間排水機場の先に昭和49年建立の
「茨田(まむた)堤」の石碑がある。瀬戸内海が形成された太古の時代、現大阪湾の海岸線は生駒山の麓まで入り込んでいて河内湾をなし、南から上町台地(その北端が現大阪城のある天満橋付近)が半島状に突き出していた。その狭隘部分に土砂が堆積して河内湾は瀬戸内海と切り離され草香江と呼ばれる湖(河内湖)となった。古墳時代に入りはじめて難波の地に宮を営んだ仁徳天皇は、その砂洲を掘削して河内湾と大阪湾を結ぶ運河(難波堀江)をつくった。難波堀江に建設された港湾施設が難波津で、のち淀川水運の大坂側拠点となる。

仁徳天皇による河内平野の治水事業は難波堀江のほか、淀川の築堤にもおよんだ。秀吉の文禄堤に先がけること1200年のことである。日本最初の河川堤とされる茨田堤の工事は、淀川の強い流れによる堤の決壊になやまされ、特に問題の二ヶ所の「絶え間」には人柱を立てることになった。その一人に選ばれたのが茨田衫子(まんだのころもこ)だったという。この辺りの「太間」という地名は「絶え間」からきている。

「茨田堤」の碑は新しいがその内容は強烈に古い話であった。

鳥飼仁和寺大橋をくぐり寝屋川市から守口市にはいったところで石階段を下り、国道1号の「佐太中町7」の信号を渡って
佐太天神宮に寄る。国道手前の水路脇に「淀川筋佐太渡船場」碑がある。佐太と対岸の鳥飼とを結ぶ渡し場であった。

佐太天神宮鳥居の脇に万延元年(1860)の道標があり、「京ばし三里 もり口一里 佐太天満宮一丁半」と記されている。佐太天神宮は菅原道真が太宰府へ左遷されるときここに暫く滞在した。佐太天神宮の南に
来迎寺があり、本堂の裏には嘉元2年(1304)の建立という十三重石塔が素朴に建っている。

来迎寺の東南角の石垣には
佐太陣屋跡の碑がある。美濃の国加納藩主永井氏が摂津・河内に一万二千石の領地を有していた。陣屋は、枚方御殿山にあったのをここに移し、加納藩の特産物である傘・提灯等を集積して大坂で売りさばいた。加納藩の大阪における蔵屋敷の役割を担っていた。


鳥飼大橋・大阪モノレールの下を潜り庭窪浄水場のさきで堤防から左斜めに下りていく。全体をCM広告に塗りこめた電車がモノレールを走っていた。

守口市浄水場と水道局の間の路地を入り、八雲北公園の西側から正迎寺、自治会館前を通って阪神高速12号守口線の高架の下を潜りぬける。自治会館の入口に「時空の道」「京街道」の新しい道標が設置されている。

八雲小学校の西側を通り日本通運前で京浜北本通と合流する。守口東高校前の信号で右にはいり左にまわりこんで京浜北本通の信号を横断し浜町2丁目に入る。左手マンションの植え込みの中に大名行列と一里塚を描いた京街道のプレートが設置されていた。山本金属の北側を通り、ゆるく右にまがるところの空地にその
守口一里塚跡の石碑がある。このあたりが守口宿の東口であった。

街道は国道1号の浜町信号交差点を斜めに横断する。最初の十字路左手前に「瓶橋」の旧親柱が、右手の家の壁には「京街道 陸路官道第一の驛守口」と青く書かれた看板が取り付けられている。浜町1丁目を通り抜けて竜田通りを右折する。交差点の左角には築地塀をめぐらせた蓮如上人建立の
難宗寺があり、塀の前に石標が4基ならんでいる。明治天皇の「御行在所」、大正天皇の「御仮泊所」と、「すく守口街道」と刻まれた道標と、下部が埋もれた「すく京」「左京」「右大」と記された道標である。

右折してすぐの左手駐車場が吉田八郎兵衛家の
守口宿本陣跡、その先右手の土蔵に板壁・虫籠窓の旧家は白井家で、当主白井孝右衛門は大塩平八郎を信奉し、経済的援助もした。白井家には大塩平八郎が使ったという書院が残されている。

国道1号と合流する八島交差点あたりが高札場であったらしい。街道は交差点に出ないで左に折れゆるい坂道を上っていく。道は枚方でみたアンツーカー色に変わっている。すぐ右手に黒漆喰の蔵造りにうだつ、屋根に鐘馗がにらむ川東提灯店がある。電柱には「文禄 堤」の表示がされ、丁字路には「文禄堤」の説明板が設けられている。

豊臣秀吉は淀川の治水と京街道の整備を目的として毛利一族に命じて淀川左岸に堤を築かせた。文禄5年(1569)に築造したので、
「文禄堤」と呼ばれている。その多くは消滅してしまったが、守口市にはその一部が八島交差点から約1kmの間だけ残っている。なかでも本町橋までの本町2丁目の家並みは土蔵に格子、虫籠窓にうだつのある古いたたずまいを見せている。

本町橋から駅前通りを見下ろすと堤の高さを感じることができる。街道はやがて義天寺の先の
見附松跡で堤から下りていく。守口宿の東口付近でみた「京街道 陸路官道第一の驛守口」の札が西口にあたるここでも民家の塀にかかっている。

金下町の交差点を左折して日吉公園の北側、西側をまわって、2つ目の交差点を右折して国道1号の守口車庫前交差点に出る。
国道1号の太子交差点を過ぎた辺りで守口市から大坂市旭区に入る。

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大坂

京街道は今市交差点の横断歩道橋をこえたところで左側の細い旧道に入る。分岐点の手前歩道に京街道道標と
京街道説明碑が並んでいる。「京かいどう」標の側面には「大坂城京橋口まで5.4km」と刻まれていて、豊臣秀吉時代の京街道起点までの距離を記している。こののちも同様の石標が随所に設けられていて、京街道のゴール案内をつとめることになる。

京街道は道なりに今市1丁目の住宅街をぬけると、千林のアーケード商店街、えびすの旗がひらめく
森小路京かいどう商店街をぬけると、左手に今市分岐点にあったと同じ京街道説明碑がある。阪神高速高架下の古市橋手前にある道標には京橋口まで4.3kmとあった。

橋を渡って高殿7丁目を真直ぐ進んでいくと関目5丁目の大きな5差路に出る。ここから城東区に入るが、道は
「関目の七曲り」といわれる複雑な道筋をたどっていく。

関目5丁目交差点で、左から二つ目の道(国道1号)に入り、すぐ西に入る細い道を行く。「旅館水月」の看板をいくつも見ながら広い都島通にでる。最寄の信号で反対側にわたると弓なりにのびる旧道が続いている。入った所に「京街道」の新しい石標がある。

再び都島通に出て右側の歩道をあるいていくと、アーケードのある
旭国道筋商店街にはいる。JR城東貨物線のガードをくぐると野江国道筋商店街の短いアーケードがつづく。アーケードがとぎれたところで右斜めにでている路地が旧街道で、電柱脇に京街道碑があって、「京橋口から2.3km」とある。いよいよゴールに近づいてきたが、こんどは「野江の七曲り」を歩いていかねばならない。

道は真北から下りてくる大通りに合流する。手前の三角地に京街道碑が立っている。旧道はおそらくここから斜めに直進し都島通りの南から復活する旧道につづいていたのではないか。地図を見れば容易に想像できる。

今となっては、大通りを南下して野江4交差点を横断し、右折して古い立たずまいをみせる平耳鼻科の角を左折する。二手に分れる右の道をすすんでいくと
都島中三商店会に入っていく。「中三」とは「中通3丁目」のことだろう。十字路の角に「京かいどう」道標があり、大阪城京橋口から2.1kmとある。野江国道筋商店街のおわりからたった200mしか進んでいない。

京街道は本格的な全蓋アーケード商店街
「リブ・ストリート」にはいってきた。なかほどにある三叉路の右側の通りに三つ目の「京かいどう」説明碑があった。内容はまったく同じようだ。アーケードをぬけると大阪環状線の高架橋桁に「京街道」と青書きされている。国道1号とまじわる賑やかな京橋西交差点に出た。人の混雑さは都会である。

京阪本線にそって西に進み片町信号交差点に出て、土佐堀通りをさらに西へ歩いて行くと左手前方に大坂城天守閣が見えてくる。昭和6年(1931)、鉄骨鉄筋コンクリート造りの大阪城が再建された。

土佐堀通りの寝屋川橋東詰信号で左方に寝屋川をまたいで二つの橋が架かっている。高架の新しいのが大阪橋、古くて石垣歩道のある美しい方が
京橋である。京橋は豊臣秀吉時代に架けられたもので、京街道の起点にあたり、京都に通じる橋という意味から「京橋」と名づけられた。東海道でも日本橋をでてまもなく渡る橋を京橋とよんだ。遥かかなたではあるが京に通じる道だったからである。大阪の京橋は江戸幕府になったからといって江戸橋には変えなかった。

京橋の北詰歩道橋に
京橋川魚市場跡碑がある。石山本願寺の時代の鮒市場が起源とされ、その後徳川幕府になって公認市場となった。日本橋北詰にある魚市場発祥の地を想起させた。

京橋を渡ると正面に大阪城の石垣がみえ、その手前に「京橋口」の信号標識が立っている。100m単位で案内してくれた道標の起点である。

我々はここで終わらず東海道57次の終点である高麗橋を目指す。大阪城には寄らなかった。京橋口まで進まずに、日経新聞社ビルの南側の細い道に入り、つきあたりの上町筋をすこし南にずれて天満橋ビルを南側からまわりこんで土佐堀通に出る。

土佐堀通を西へ進み天満橋交差点を横断したすぐ先の永田屋昆布本店の店先に、
八軒家船着場跡碑がある。上町台地が淀川に落ちるこのあたりは古く仁徳天皇の時代に砂洲で隔てられた大阪湾と河内湖をつなぐ難波の堀江が掘削されたところである。そこに港湾施設も築かれ平安時代には渡辺ノ津と呼ばれて、京から紀州熊野詣でにでかける旅人の上陸地となっていた。豊臣時代に淀川水運はさらに整備されて、淀川の渡し場に加え大阪と伏見を往復する三十石船の発着場としても賑わった。八軒家の名はこの場所に八軒の船宿があったことに由来している。

その先の北浜東2交差点に、熊野かいどう碑が建っている。熊野街道はここを起点として熊野三山へと向かう。いつか歩くことになろう。

街道は天神橋交差点をこえ、東横堀川にかかる今橋東詰めで左手にはいる。今橋の南に架かっているのが
東海道終点の高麗橋である。橋が高速の下にあること、お世辞にもきれいとは言えない東横堀川の流れの情景は、おそろしく日本橋に似ている。高麗橋の東袂に里程元標跡碑と高麗橋案内碑がある。東京日本橋の道路元標と対をなして、明治時代に設置され西日本の主要道路の起点となった。現在は梅田新道交差点に置かれている大阪市道路元標がその役目を引き継いでいる。

なお、鳥飼大橋の先で別れた淀川のその後を追っていこう。淀川はゆるやかな蛇行の後、大阪城のほぼ北方にあたる毛馬で大きく南に向かう。そこでまっすぐ西に流れる放水路が開削され、それが現在の淀川になった。都島区と北区の堺をなして大阪城に向かって下る
旧淀川は大川とも天満川ともよばれる。京橋の下で寝屋川を加えた後、天満橋の先で大きな中ノ島によって流れを二分される。北側を堂島川、南側を土佐堀川とよぶ。中ノ島の西端から河口までは安治川と名を変える。土佐堀川が安治川に合流する手前で南に向かう分水路が開削され木津川と呼ばれているが、八幡で淀川に合流した木津川がここで復活したわけではない。

大阪は大きな町だ。土地柄は京都よりも古い。社会人の駆け出し生活を5年もすごした町である。東京や京都よりも気さくで、食べ物も安くて美味く、生活するには楽だったはずである。にもかかわらず結局は最後までなじめなかった。このあやふやな感覚が個人的体験の結果なのか、文化的なものなのか、いまだに良く分からない。

(2008年4月)

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