甲州街道−1 



日本橋−内藤新宿高井戸布田(調布)府中
いこいの広場
日本紀行
甲州街道2
甲州街道3
甲州街道4
甲州街道5
甲州街道6



日本橋


甲州街道は、日本橋から甲府を経て下諏訪で中山道と合流するまで、約210kmの道のりを44の宿場で継いでゆく。距離のわりに宿場の数が多いのは複数の村で宿駅の役割を分担し合った合宿が多いためである。小さな宿場をまとめて33宿とする数え方もある。五街道のなかでもっとも整備されていなくて人の往来が一番少なかった。この道を通って参勤交代した大名は諏訪の高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩の3藩に過ぎない。それには訳があった。

甲州街道の本来の目的は江戸城の搦め手を確保することにあり、幕府直轄領の甲府勤番役や八王子に置いた千人同心の往来に供するためであった。したがって、その起点を江戸城裏門にあたる半蔵門(本来の名は甲州口御門)にする考え方もある。しかし、世の中が大平になるにつれ、武士よりも駄馬と旅人が行き交い、また飯盛女めあてに近隣の庶民が宿場に通う商業道路に変貌していった。荷駄と旅人は半蔵門に用はない。日本橋の問屋と旅籠で人と物が集散していった。

日本橋を南に出て、日本橋交差点で東海道とわかれて右に折れる。日野商人外池宇兵衛が文政4年(1821)開いた柳屋総本店のまえを通り永代通りを進むと、右手呉服橋角のみずほ信託銀行本店の前庭に竹久夢二が31歳の時に開店した港屋跡地の記念碑がある。夢二は商業美術の先駆者である。第1次世界大戦がはじまった大正3年(1914)の秋、かっての妻たまきの自活のために趣味の店をひらいた。たまきの名で書かれた開店案内状にはなかなかの商魂が込められている。絵草紙店はたちまちのうちに女性や文人たちの人気を得てサロンとなった。夢二はここでひとまわり年下の若い女性、彦乃と結ばれる。4年後彦乃は病で若い命を終える。あとを継いだのはモデルとしてはいってきたお葉だった。

 下街の歩道にも秋がまゐりました。港屋は、いきな木版絵や、かあいい石版画や、カードや、絵本や、詩集や、その他、日本の娘さんたちに向きさうな絵日傘や、人形や、千代紙や、半襟なぞを商ふ店でございます。女の手ひとつでする仕事ゆえ不行届がちながら、街が片影になりましたらお散歩かたがたお遊びにいらしてくださいまし。
   吉日  外濠線呉服橋詰  港屋事 岸たまき

甲州街道は呉服橋で左に折れ、外堀通りから東京駅八重洲北口連絡通路を通って西側の丸の内に出る。「八重洲」の名はヤンヨーステンからきたもの。江戸時代、八重洲北口に北町奉行所があり、1840年から3年間入れ墨奉行遠山の金さんがここに勤めていた。

丸の内側にでてレンガ造りの東京駅を振り返る。両翼を伸ばした優麗な名建築物だ。その前はいわゆる三菱村で、最近ほとんどのビルが建替えられて風景が一変した。駅前の広い通りは和田倉門で日比谷通りを左折して濠に沿って柳の並木歩道を廻る。通りの東側に建ち並ぶビルはいずれも生保会社や帝国劇場など、歴史を偲ばせる重厚な建築物である。

馬場先門から広々とした皇居外苑を横切ると皇居前広場に出る。中学の修学旅行の時ここで記念写真を撮ったはずだ。今まで二重橋と思っていたのは正門石橋で、正確にはその奥にある正門鉄橋をいう。玉砂利を踏んで桜田門に向う。櫓門と高麗門とが直角に配置され枡形の典型を見ることができる。皇居の周りをジョギングする人達が枡形を次々に抜けていく。

1860年3月、雪が積もった桜田門の外側で、大老井伊直弼が尊攘激派の水戸・薩摩の浪士たちに襲われて殺された。国会議事堂、最高裁判所、国立劇場を左に見て三宅坂をのぼると江戸城の裏門、半蔵門に出る。徳川家康はいざというとき、ここからまっしぐらに八王子まで逃げるつもりだった。この搦め手の安全を担う番町地区に腕の立つ腹心の家来を配備した。特に信用を置いていたのが伊賀忍者服部半蔵である。服部半蔵は伊賀組の組頭として門の近くに屋敷を与えられた。門の名は彼の名である。半蔵の墓が西念寺にある。

門の前から街道は西に向う。通りの名は標識に「麹町大通り」とあり、4丁目にその由来を記した案内板が立っている。名前の由来にとどまらず、この界隈の歴史を現在にいたるまで要領よく説明していた。

 この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路(こうじ)」がおおかったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向う「国府路(こうじ)」があったためともいわれています。実際に近所では、地下に数ヶ所の麹室も見つかっています。
 現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋がつくられたのは、徳川家康の江戸入府後のことです。通りの南側は谷地でしたが、寛永のころ(1624〜1644)、四谷堀を掘ったときに出た土を使って埋め立てられたともいわれています。町屋の北側は寺や火余地(ひよけち)に、南側は旗本が多く集まる武家屋敷になりました。安政3年(1856)の絵図には、出雲松江藩松平家の上屋敷などが見られます。
 一方このあたりは、うなぎの蒲焼伊勢屋や丹波屋、江戸切絵図の版元として名高い尾張屋、麹町で1、2を争う呉服商の伊勢屋、尾張藩御用達をつとめる菓子店の亀沢などが店を構え、江戸の高級商店街のひとつでした。また、赤穂浪士が吉良邸討ち入り前に名前を変えて隠れ住んでいた家もあったと伝えられています。
 町内には井戸がたくさんあったようで、大正12年(1923)の関東大震災のときには、断水した多くの家庭を救いました。
 明治・大正期になっても引き続き商店街として発展してきた麹町4丁目ですが、現在はビルの立ち並ぶビジネス街へと変わっています。         麹町4丁目町会

麹町の北側、外堀と内堀の間に広がっているのが
番町地区で、江戸城搦め手を警護する大番士の組屋敷が建てられ、高級旗本が住んでいた。彼らが買い物にでかけたところが麹町の町屋街である。明治維新後にはイギリス大使館が置かれ、高級官吏や文化人が住み着き、子弟教育のために有名学校が進出してきた。イギリス大使館のある一番町は千鳥ヶ淵に面していて春の花見シーズンになると歩道は人で埋まる。

四ツ谷駅にあった四谷見附は、江戸内外を区切る警護番所である。駅の東が枡形になっていて、街道はコの字型に一筋北の新四谷見附橋をわたり、左折して本筋に戻った。枡形と鉤の手を組み合わせて万全を期した。駅の北側に見附門の遺構である石垣が残る。

四谷3丁目ですこし南によりみちして左門町のお岩神社によっていく。お岩の名は子供のころから本や映画やテレビでよく知っていた。何度見てもこわい顔だった。道をはさんで両側にお岩稲荷があって両者の関係がよくわからないが、西側の石鳥居のあるほうが本家のようだ。石柱に歌舞伎役者や劇団の名が刻まれている。東側にあるのは陽運寺で、境内に稲荷がある。縁結び祈願の幟がはためき、本堂に若い女性が出入りしていた。

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内藤新宿

四谷4丁目の広い交差点に出る。現代の甲州街道である国道20号は新宿御苑の北側のトンネルをくぐっていく。二股の右をいく都道430号(新宿通り)が旧甲州街道である。しかし、新宿御苑の散策路を歩いていたとき、公園管理人の人が、散策路のすぐ北に走っている道が旧甲州街道だと教えてくれた。確かにそう書かれた道路標識が設けてある。現在の甲州街道である国道20号に対して旧甲州街道とよんでいる新宿通りよりも、さらに古い甲州街道ということか。道筋としては内藤家敷地の北端につくられた玉川上水の桜並木土手にあたる。その北側に町屋がひらかれ、やがて現新宿通りを挟んで開設された宿場に組み込まれていったということであろう。

四谷4丁目二股に四谷大木戸跡と玉川上水記念碑がある。四谷大木戸は甲州街道に設けられた江戸城下町の出入り口であり、その外側から現在の新宿3丁目交差点までが内藤新宿であった。内藤新宿はそもそも甲州街道が整備されたときにはなく、日本橋を出て最初の宿は下高井戸だった。その間が17km近くもあって不便だというので元禄11年(1698)に開設されたものである。

しかしもともと軍用道路を意図してつくられた街道に、旅で旅籠を利用する客はすくなく、もっぱら飯盛女の客引き行為が目に付いた。今の夜の歌舞伎町を思わせる光景ではないか。ついに元禄15年(1702)幕府公認本家本元の浅草吉原から文句が出て、享保3年(1718)内藤新宿はわずか20年で廃止される破目になった。将軍吉宗の享保の改革による風俗統制の犠牲になったとも考えられる。その後再三の再興願いが受け入れられて明和9年(1772)には宿場が再開された。

新宿2丁目に3つの寺がある。いずれも飯盛女という遊女にまつわる話がのこっている。
正受院太宗寺の閻魔堂に奪衣婆(だつえば)像がある。奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り罪の軽重を計ったとされている。左膝を立てて座りあばら骨としわだらけの垂れ乳を露わにして、右手には死者からはぎとった衣を握っている奇怪な老婆である。衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰された。

成覚寺は宿場女郎の投げ込み寺で、境内には年季奉公中に死んだ飯盛女の共同墓碑である「子供合埋碑」と、内藤新宿の遊女と心中した男女を弔う旭地蔵がある。この地蔵はもともと今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立されたものだという。なさぬ仲の男女は玉川上水に身を投げて恋を成就したものと想像する。

太宗寺には閻魔堂のほか史跡が多い。また案内パネルの解説も宿場と街道の生い立ちから始めて、江戸名所図会や写真を添えて充実したものである。入口の右手に堂々とした銅造り地蔵がマンションを背に座っている。東海道や中山道でもみた
江戸六地蔵の一つである。江戸市中出入り口付近に造置され、旅人の安全を守った。

第1番(1708年): 品川寺 東海道    品川区南品川3-5-17
第2番(1710年): 東禅寺 奥州街道  台東区東浅草2-12-13
第3番(1712年): 太宗寺 甲州街道  新宿区新宿2-9-2
第4番(1714年): 真性寺 中山道    豊島区巣鴨3-21-21
第5番(1717年): 霊厳寺 水戸街道  江東区白河1-3-32
第6番(1720年): 永代寺 千葉街道   (地蔵は消滅)

墓地の奥に、伊那の高遠藩主をつとめた譜代大名
内藤家の墓所がある。徳川家康が入府した翌年の天正19年(1591)、内藤家の二代目当主内藤清成のとき、家康から「馬が一息で駆け巡るだけの範囲の土地をやろう」と言われ、代々木・千駄木・四谷・大久保にいたる広大な土地を手に入れ、そこに江戸屋敷(後、高遠藩中屋敷)を構えた。その後、気が引けて土地の一部を返上したり宿場の用地として提供したりしたが、まだありあまる広さだった。現在の新宿御苑はその一部である。今も内藤町として地名にのこり、宿場の名にも「内藤」が冠された。

甲州街道は伊勢丹の角で左折し、直進する青梅街道が始まる。高層ビルの谷間に小っぽけな「追分交番」が頑張っている姿がかわいらしい。左折した甲州街道はトンネルから出てきた国道20号との合流点(ここが高札場跡といわれている)で右折して新宿駅南口をよこぎっていく。新宿御苑北縁を通ってきたもう一つの旧甲州街道であればそのままスムーズに(追分で鉤の手に曲がることなく)国道20号と合流できた。ただし、この道は青梅街道のはじまりである追分に結びつかない点が悩みだ。

すこし南に引きこもったところに
天竜寺の時の鐘がある。清々しく気品ある鐘だが、周囲の風景は小伝馬町浅草上野の中で一番劣る。新宿という場所のせいであって天竜寺のせいではない。新宿らしいのはそれだけでなかった。天竜寺の時の鐘は他より30分時計をはやめて突いたこと、宿場で女遊びをしていつまでも帰らない客を追出す役目をもっていたこと。新宿は自由奔放な町だ。

新宿駅南口を通った。人ごみで凄まじいところである。

京王初台駅の手前で街道は山手通り環状6号と交差する。既に屋根のような首都高速が街道を覆っているのに、さらにその上を別の首都高速が跨ごうとしている。そして二つはつながるらしい。屋根つきの街道は次ぎの宿場下高井戸までつづくそうだ。

近くにある
荘厳寺(幡ヶ谷不動尊)に芭蕉句碑があるというので寄っていくことにした。20名ほどの団体が高齢のリーダーのあとについて説明を受けていた。まったく気をよそに向けているおじいさんもいる。本堂の前ではほとんどの人が合掌していった。

代々木警察の一筋手前の路地を右へ入ったところ、高知新聞社員寮の玄関前に
「洗旗池」の碑がある。寮を背景に碑の写真を撮ろうとしていると、玄関を掃除していた女性が碑の脇に落ちていたゴミをひとつ摘み上げた。
「これ、とっときます。碑はこちら側に文字があるんですよ。誰かがまちがって建てたんですね」
いわれてみれば撮ろうとしていた石碑の面はのっぺらぼうだった。碑を敷地所有者に向けて立てるか、それとも道を行き交う人に対面させるか、かならずしも容易な問題ではない気がした。

国道を幡ヶ谷に向って歩く。朝の通勤ラッシュ時で国道はひときわ混んでいる。その中にあってヘルメット姿で風を切って走るライダーの数が多いのに驚いた。特に信号にかかるところでは、赤の間に車のすきまを停止線までにじり寄ってきたバイクが、青になるや車を先導するように一斉に飛び出す。マラソンのスタートを思わせる。他の国道では見たことのない景色だった。

笹塚交差点で中野通りと交わる。左手角のビルの谷間に「牛の窪地蔵」が祀られて、脇に庚申塔と道供養碑がある。いずれも江戸時代の古いものだ。甲州街道と鎌倉街道であった中野通りの交差点付近は、旅人が行き交う場所であり、また農民の雨乞いのため、あるいは極悪人を牛裂き(股裂き)の刑をみるために近所の人が集まる場所でもあった。いろんな思いで塔碑が建てられている。

明治大学正門に来る。街道は低い台地の切通しのようになっていて、歩道右手の一段高い土手に
「塩硝蔵地跡」の説明板が立っている。明治大学和泉校舎と隣接する築地別院和田堀廟所の付近一帯は、江戸幕府の鉄砲弾薬等の貯蔵庫である塩硝蔵があったところである。警護や雑用に付近16ヶ村に対して昼夜交代の課役が徴せられた。

明治の末頃までの火薬庫周辺は鬱蒼とした森で、多くの狐や狸が棲息して人を化かしたという。

その先の歩道橋に上がると右手に視界がひらけ、一面墓石と植え込みが広がっている。その後ろに甍を並べるのは永福の寺町であろう。

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高井戸

下高井戸駅前にくる。高井戸宿は
下高井戸と上高井戸との合宿になっていた。宿駅の役務を、月の前半は「下」が、後半を「上」が受け持つことで二分した。甲州街道には合宿が多い。二分どころか、つぎの布田宿のように5分割したところもある。ちなみに「下」は江戸寄り、「上」は反対の京寄りをいう。

駅前商店街は下町風で賑やかな通りだ。物は新鮮で値段の安いところとして知られている。宿場の面影を求めて入り組んだ路地を散策していると、駅北口れんが通りに
柏木精米店という古い佇まいの店を見つけた。近所のおばさんらしき女性が、店からでてきた主人と話を交わしながら、店先に用意された帳面になにやら勝手に記入している。宅配注文帳のようなものらしかった。

街道にもどりしばらくいくと大きな上北沢交差点にさしかかり、手前に
「鎌倉街道入口」の標識がでてくる。ここでようやく首都高速が右に旋回して上空が晴れあがる。歩道に一里塚の立て札があった。日本橋から4里目の塚である。
寄り道して右に折れ鎌倉街道にはいっていく。二股道の分かれ目に庚申堂がある。堂内の庚申塔には元禄元年の銘があった。

しばらくいくと左手に
塚山公園の雑木林が出てくる。縄文時代の環状集落跡が発掘された。公園の北側に神田川が流れ、鎌倉街道にかかる橋が鎌倉橋。浅い清流に水鳥と鯉があそぶ。一つ西にかかる塚山橋は優雅な石橋で、武蔵野の野趣あふれる風景に溶け合っていてすばらしい。気持ちよい散策路であった。鎌倉橋袂の案内板によると、近くの小高い場所にあった井戸が高井戸の地名のルーツだそうだ。

街道にもどり屋根が取れてすっきりした国道20号を進む。環八通りとの交差点あたりが上高井戸宿のあったところで、京王線の駅でいえば八幡山と芦花公園の間にあたる。交差点をすぎてすぐ左の旧道に入ってまもなく、
長泉寺の入口がでてくる。案内板によると墓地に上高井戸宿の本陣であった武蔵屋(並木氏)の墓があるという。奥まったところに大屋根の棟の一部をこわれたままにした本堂が潜むように建っていた。廃寺かと疑うほどに寂れている。松の影に隠れるように座っている石仏もなんとなく元気がなく目も伏せがちに見えた。

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布田(調布)

旧道は商店と中層マンションの入り交ざった烏山商店街を通り抜け、仙川をわたった先の三叉路で国道と合流する。新宿以来、渋谷、杉並、世田谷区と渡ってきた街道も区部を出て調布市に入ってきた。仙川駅入口交差点の角に
仙川一里塚跡の碑がある。日本橋から5里。ようやく20kmだ。

平屋の民家を通り過ぎる。前庭で野菜が並べられていた。値札がついているが誰もいない。

仙川2丁目交差点は左側にキューピーの工場、右側に栄太郎本舗の工場がある。やや坂になっていて、滝坂切通しと呼ばれていた難所である。すぐに右にわかれる細道があり、入口の右手に
「馬宿 川口屋 瀧坂旧道」と刻された石標が立っている。わずか300mほどの旧道が残っているのだが、残念ながら風情はまったくなかった。すぐ先がつつじヶ丘駅である。

芦花公園駅とつつじヶ丘駅との間の旧道南方に二人の文豪が20年ほど居住していた。駅名にもなっている芦花公園は
徳富蘆花が明治40年から昭和2年までを過ごした旧居と屋敷を保存した公園である。仙川とつつじヶ丘の間若葉町に武者小路実篤が昭和30年から51年まで過ごした屋敷跡を保存した実篤公園がある。いずれにも寄らなかった。

「旧甲州街道入口」の標識のある三叉路を左にとって旧道に入ると、布田5宿の第1番目、国領が始まる。
布田宿は国領・下布田・上布田・下石原・上石原の五つで、それぞれ月のうち6日を分担し合って宿場業務をつとめていた。物静かな国領を通りすぎ、常性寺のあるやや活発な布田駅入口をすぎると、5宿の中心であった上布田、賑やかな今の調布駅入口にやって来る。5宿の総延長は3kmにも及ぶが本陣、脇本陣はなく、旅籠もたった9軒という小さな宿場であった。旅人はほとんど次の府中宿まで素通りしていったという。

調布といい、布田といい、布とのつながりを連想させる。調とは律令時代の税制の一つで朝廷に納められる絹や綿の布をいう。この土地には朝鮮半島からの渡来人が定住して、綿花から布を織る技術を伝えた。納めた綿布が桓武天皇に喜ばれて、天皇はこの土地を「調布(たづくり)の里」と名付けた。

調布駅前通りのひとつ手前の天神通りを進むと、
布多天神社がある。延喜式神名帳に載っている古社である。本殿は宝永3年(1706)の再建、寛政8年(1796)の狛犬とともに歴史を誇る。布が多く作れますようにと、布多という名をつけた。

調布駅から深大寺(じんだいじ)行きのバスに乗った。満席だった。深大寺は天平5年(733)に満功上人が開山したと伝わる、都内では浅草寺に次ぐ古刹である。縁起によると満功上人は里の長者の娘と結婚した福満の息子、福満はこの地方に機織り技術をもたらした渡来人といわれている。縁をとりもったのがインドの水の神様
であった関係で、寺の名が深大となった。

この寺は江戸時代から蕎麦で有名である。参道にはあらゆる蕎麦製品を売る店が並んでいる。一個100円の蕎麦饅頭6個入りを買って帰った。皮は湿り気があって上品な甘さの餡を包んでいる。「創業文久年間 元祖嶋田家」の店先におおきな板看板に「深大寺そば調べ」と題した由緒書きがある。そのなかの冒頭の部分を引用する。織物のみならずそば造りも渡来人がもたらした。渡来人の貢献はおよそ当時の先進文化のすべてにわたる。

「深大寺そば」有名になりしは、元禄年間よりなり。乃ち関東天台大本山、東叡山寛永寺御門主、第五世公弁法親王に、寺坊で作りし蕎麦切りを献上、賞賛を得。その折のそばの風味、殊のほかお喜ばれし御門主、御一門ほか諸大名にも広くご吹聴あそばされし。以って俄かに名高く、諸家より深大寺に蕎麦の使者が立つは、それ深大寺そばをして「献上そば」とも称し、その佳味を謳われしことなり。また一説に三代将軍家光公のご推奨いたすところときくや如何。それ蕎麦作りのこと、北方大陸より朝鮮半島を経由、渡来しものなり。以って武蔵野の開拓に力をいたせし高麗帰化人等によりて広く栽培されしも、果たして深大寺周辺の地味、蕎麦栽培に特に適するものなりという。   以下略

調布駅前を通り過ぎ小島町の駐車場前に日本橋から6番目の一里塚があった。半ばフェンスに隠れて跡碑が立っていて、一里塚の説明がされている。町並みにかって宿場だったことをうかがわせるものは何もないが、一里塚があったことを暗示させるかのような「えの木」という駐車場の名前が妙に気になった。

左手に常演寺の常夜燈、源正寺の六地蔵と石塔群などをみながら街道を下石原上石原と進んでいく。右手の角地に広大な敷地にふるびたコンクリート塀をめぐらせた屋敷が目を引いた。立派な門もレンガ色のコンクリート柱で、黒扉は鉄板にみえる。なんとも堅牢な構えであった。

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府中

東府中駅前で線路と道路がからむ大きな交差点に出る。マグドナルドをはじめあたりの建物も都会らしい景観である。旧甲州街道は変則6差路交差点をそのまま真っ直ぐ進み、二つに分かれた京王線の一つを横切る。 駅前の派手さはすぐに消え、左手に国府八幡宮の一の鳥居が現れる。脇に立つ「八幡宿」の説明パネルによれば、この辺りの村名を八幡宿といったが別に宿場ではなかったようだ。参道を二の鳥居に向うのに踏切を横切らなければならなかった。鬱蒼とした森の中に、聖武天皇が一国一社の八幡宮として創立したと伝えられる国府八幡神社が鎮座している。

まもなく人ごみの音が高まって、ボランティアが交通整理を手伝っている大国魂神社前に来た。鳥居の前に仁王立ちするケヤキの幹の太さは圧巻だ。色づき始めた見事なけやき並木が右側につづいている。起源は前九年の役の前後に源頼義、義家親子が、1000本の苗木を献上したことにあるという。並木入口に万葉歌碑があった。碑文自体は万葉仮名で読めもしないが、脇にある解説碑によれば東国の恋歌のようである。

歌碑に寄せて
この歌は万葉集巻14東歌の武蔵国の一首です。武蔵の国は東京、埼玉、神奈川にわたる大国であり、その国府が府中にありました。訓読では次のようになります。

          
武蔵野の草は諸向きかもかくも 君がまにまに吾は寄りにしを

「草が風に靡くよう、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」という意味の歌で、自然と共に生きた女心を歌ったものです。
碑文は万葉集古写本中、全巻を完備している西本願寺本に拠りました。  平成11年12月吉日  府中市

酉の市の季節で、参道は大鷲祭奉納提灯のトンネルで壮大に飾られていた。本殿前で菊展示会が開かれており見事な作品をバックに、着飾った七五三参りの母親、子供が記念写真に納まっている。欅の大樹にかこまれた静寂を晴れやかな空気が包んでいた。大国魂神社は景行天皇111年の創立で、律令時代国司が巡拝すべき武蔵国内の重要な6社を集めて武蔵総社又は六所宮とした。

旧甲州街道と府中街道(旧鎌倉街道)の交差点、「府中市役所前」が府中宿の
札の辻で、問屋場、高札場などが集まった宿場の中心である。北西角に創業1860年中久酒店の店蔵が構え、向かいに高札場が復元されている。府中宿は、鎌倉街道の宿駅があった本町と、江戸時代に開かれた新宿(現宮町)と馬場宿(現宮西町)が加わって合宿となった。8軒の飯盛旅籠を含めて38軒の旅篭屋があり、甲州街道では八王子横山宿に次いで大きな宿場町であったといわれている。

高札場を過ぎて片町2丁目左手に、俵藤太の屋敷跡であったという曹洞宗の名刹高安寺がある。足利尊氏が全国66ヶ国2島に建立した安国寺の一つである。夢窓疎石の提案により、足利尊氏が元弘の乱(1331)後の戦死者の霊を弔うために全国66ヶ国2島に一寺一塔の設置をすすめた。堂々とした二階建ての山門は二重門になっていて、外側に向って1対の仁王が立ち、内側には地蔵尊と、内藤新宿でなじみになった奪衣婆がいた。いずれも細目の金網に守られていてカメラを受け付けない。墓地の奥に藤原秀郷を祀った秀郷稲荷が建ち、その横道を降りた林の中に伝説の弁慶硯の井戸があった。義経が兄頼朝の勘気が解けるまで待機していた場所ともいわれる。

高安寺の西側に沿って坂をくだっていくと、右手のJR南武線分倍河原駅前広場に新田義貞の騎馬像が建っている。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の旗を揚げたとき、京都で足利尊氏が、そして関東では新田義貞が倒幕の兵を起こした。元弘3年(1333)5月、新田義貞は多摩川の分倍河原で北条軍を破り、1週間後には鎌倉を陥落し北条氏は滅亡した。分倍河原古戦場跡の碑が分梅町2丁目、鎌倉街道(都道18号)が中央自動車道をくぐったところに建てられている。

旧甲州街道にもどる。旧道は本宿町で国道20号と合流し、大型トラックが行き交う騒然とした国道を一路西進して日野橋5差路で奥多摩街道に入る。すぐ先の4つ辻を左にはいり、静かな住宅街を下っていくと多摩川沿いに下水処理場が現れる。昔はこのあたりに日野の渡し場があった。今、川向こうの日野宿へいくには下流の国道20号に架かる日野橋を渡るか、上流の立日(たっぴ)橋にでてモノレールの下を歩かなければならない。

(2006年11月)
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