伊賀街道 



津−片田長野平松平田上野
いこいの広場
日本紀行


伊勢国と伊賀国を結ぶ伊賀街道は大和、山城方面からの参宮の道として古くから開かれていた。大和街道で伊賀国に入った参宮者はそこから方向を東に変えて、橡ノ木峠(長野峠)を越えて五百野から久居を経由して伊勢街道月本追分に出た。この道を伊勢方面からは伊賀越え奈良道と呼ぶ。江戸時代に入って慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封され、津を本城に、伊賀上野を支城にすると、津を起点として五百野まで新たな道を開き、官道として津と伊賀上野を結ぶ伊賀街道が整備された。その結果、上野−五百野間の伊賀越え奈良道は官道伊賀街道に吸収された。全長12里、約50kmの街道を津城から発って上野に向かう。伊勢参宮を済ませ故郷上野に向かった芭蕉野ざらし紀行の跡を追う旅も兼ねている。





津城は、戦国時代に築かれた小さな城を、永禄12年(1569)織田信包が城郭を拡充し、慶長13年(1608)藤堂高虎が入城すると城を大改修し伊勢街道を移して城下町を整備した。

現在残るのは一部の石垣と内堀のみである。西ノ丸跡である日本庭園入口には藩校有造館の入徳門が移設されている。

二ノ丸西口に設けられた
伊賀口御門が伊賀街道の起点となる。江戸城半蔵門を起点とする甲州街道が江戸城の搦め手を確保することにあったと同様、藤堂高虎は万一の時には伊賀口から一路上野城に退却する道として伊賀街道を開設した。

津城伊賀口は現在の津市役所駐車場と津カトリック保育園が対角に向き合う信号交差点付近にあたる。

西に一筋行った交差点を左折して次の十字路を右折する鍵の手を経て、八町の通りを一直線に西進する。城下町が整備された際、八町にわたってまっすぐな道が延びていた八町畷に商人町が作られた。

JR八丁踏切をわたりすこし先を右に入ったところに
慈眼院観音寺がある。山門を潜るとすぐ左手に子安地蔵尊と琴平大権現を祀ったお堂が並んでいる。その傍に一風変わった石造りの祠が林立していて、中をのぞくとそれぞれに小さな石仏が安置されている。墓のようで、墓ではなさそうだ。本堂はトタンが両目をふさぐように軒下を隠して、うらぶれた格好である。

街道にもどって歩をすすめるうちに、左手に江戸中期の国学者
谷川士清(ことすが)の旧宅が現れる。18世紀後半に建てられた家屋で連子出格子が美しい。部屋には多くの書籍・資料類が展示されていて、博物館のようであり、往時の生活を偲ばせるものではなかった。

街道は安濃川に接近し、納所橋のたもとに延命地蔵尊が祀ってある。橋の親柱には鉄製の燈籠が乗せられていて珍しい意匠である。

街道を覆いかぶさるように
一本の大木が立っている。不思議にも枝は街道の方向にだけ繁って、反対側はすっきりしたものだ。偏った重心にもかかわらず幹は垂直を保っている。誰かが剪定したものか、自然のなりゆきか、気になる大木であった。榎だろうか。一里塚があれば申し分ないが、津城からまだそこまでは来ていない。

道が国道163号に合流する地点に小さな石塔があった。茅葺の屋根を模ったかわいらしい石塔である。

国道はすぐに二手にわかれ、左に逸れていくバイパスとわかれて川沿いの本道をいく。中勢バイパスをくぐり殿村北交差点で直角に南に折れ650mほど行ったところで左手の旧道に入る。

十字路角に
「新四国霊場八十八カ所 此ヨリ三丁」の道標が立っていた。

トップへ


片田 

旧道は伊勢自動車道を潜り天理教教会の先の二股を左にとって、田尻橋の北詰めで民家に突き当たって途絶する。民家の右に回り込むと
川に沿った土道が残っていた。

200mほど先の十字路を右におれると国道の忠盛塚東交差点にでる。交差点をわたってまもなく右手に塚が築かれ石標や赤い幟、大きな案内板などが集まっている。石柱には
「平氏発祥伝説地」とあって、「胞衣塚」ともいわれる塚には、平忠盛が産まれたときの胞衣が埋められているという。案内板には詳しい平氏の系図と解説があったが、私の理解を越えるものだった。

川沿いの旧道にもどる。道は舗装道路となった。国道の手前で舗装は終わり土道が二手に分かれている。ここを左にとり、なおも川に沿って進んでいくとエネオスGS前で道筋は消えていた。旧道は短い橋あたりから国道を斜めに横切って岩田川の支流に沿って弧をえがきながら再び国道を横切って片田田中町集会所の北側に出ていた。その間迂回して集会所から旧道を西に進む。

田植えを終えたばかりの青田を左右にみてのどかな道をたどっていく。道は右に大きくカーブしながら片田郵便局前信号で国道を横切り、片田井戸町集落を通り抜ける。集落の入り口に山神が祀られている。 右手の路地をはいって山手にある
八乳合(やちあい)神社による。片田村地区の神社を合祀している。東京市浅草区坂口商店から寄進された常夜燈が建っていた。

道は国道に合流して旧片田宿場街に入る。すぐ先の十字路を左にはいっていくと
常夜燈がぽつねんと建っている。街道沿いにあったものがなぜかここに移された。明治21年(1888)、片田村中有志者によって建立された。火袋台石に「両宮」と刻まれ、伊勢神宮の信仰と旅の安全を願って建てられたものである。村中有志者の中には野田、徳田の名があった。

国道沿いだが左右には蔵を持った民家が残り、
落ち着いた家並みを見せている。このあたりは町垣内と呼ばれ宿場の問屋場や高札場があった。


宿場の西端近くに
本陣を勤めた野田家がある。新築のモダンな家の西隣には常夜燈が立つ庭の一部と土蔵が残されていて、往時の面影をとどめている。

その向かいの連子格子造りの家も
元旅籠であった。橋の手前に、二階に欄干を備えた古い建物がある。旅籠屋「徳田屋」といわれているが郵便受けには「野田」の姓が書かれていた。片田宿には他にも「久保屋」「片田屋」「伊賀屋」などがあったという。

旧道は橋の袂から国道の南側を短くたどって国道にもどる。その角の民家脇に道標があって、「国宝薬師堂約7丁・光善寺約6丁・観慶寺約3丁」「願主野田加助」「大正15年2月建」と刻まれている。願主野田加助は片田宿本陣の野田家か?

国道沿い片田久保町集会所前に小ぶりの常夜燈がある。

旧道はここでも国道の南側を短く迂回している。国道にもどった後、300mほどで再び左の旧道に入る。国道を右に見ながら土の道をいく。

国道にもどって更に300mほどいくと今度は右側に旧道が残っている。国道の傍道だ。国道にもどり、次第に景色が山深くなってきた。大きく左にカーブしながら難所と言われた
吹上坂を越えていく。林をぬけると五百野(いおの)である。

ここで伊賀越え奈良街道と合流していた。旧道は林を抜けた辺りから合流点の道標まで、まっすぐに続いていたのだが、いまその道筋は田畑の中に消えている。

県道28号と国道163号が出会う丁字路の一つ手前の細い丁字を直角に左折すると
伊賀越え奈良街道との合流地点に出る。天明6年(1786)の道標と天保3年(1832)の常夜燈が建っている。「右さんぐう道」「すぐ津道」「左ならおおさか道」としっかり刻まれている。伊賀から伊勢神宮に参詣する場合、古くはここから伊賀越え奈良街道をたどって久居を経由して月本追分で伊勢街道に出た。「津道」は伊賀街道のことである。

三叉路を右折して県道659号を道なりに行くと県道23号との三叉路にぶつかる。右手路傍に「従是南一志郡」「距伊勢山田11里19町」と刻まれた
石標がある。旧道はその三叉路から北方向へ県道23号のすこし左にそれて延びていた。今は田畑にその跡は消されていて、その先にある道標をまもなく見る。

県道23号を北に向かい、国道手前の十字路を左に折れる。右手国道沿いに滝川弐大龍神神社がある。石垣で一段高くなっている上に周囲がフェンスに囲まれていて取り付く島がない。石垣にのぼりフェンス越に一枚写真を撮った。由緒書きだけは詳しい。

十字路のすぐ左にはいったところに自然石の道標があり、
「右さんぐう道 左津道」と刻まれている。「右さんぐう道」とは伊賀越え奈良街道を指し、「津道」は伊賀街道のことだから、この道標は常夜燈の建つ合流点にあるべきではないかと思われる。ここにあって「左津道」といわれるとあたかも国道163号がそのまま昔の津道であったかと考えてしまう。道標の右側には旧道の証かのような道跡が残っているようであった。なお傍に立つ現代の道標には久居伊勢方面と上野奈良方面だけ示されていて、津方面はない。ますます自然石の標記との差異が気になってくる。

道標の前を通る旧道を西に進む。国道に出そうになって再び左の旧道をすすむ。五百野集落を通り抜け国道に接してから鋭角に左折して下之郷から中之郷へと集落を縫っていく。途中、鍵の手状の角に石垣に乗った小さな祠がある。辺りの草を刈っていたおばさんに尋ねると、その祠は
天王寺さんといって子供の頃はここに集まってお参りをしたという。

中之郷の西方寺をみて集落の西端ちかくの丁字路を右に折れて国道に出る。広域農道との大きな交差点をわたった先で左の旧道に入って美里町足坂の下出、下中集落を抜けていく。それぞれの集落に、御神燈と万度石がペアを組んで並んでいる。御神燈と万度石のスタイルはそれぞれ違っていて面白い。特に
最初の角柱万度石と後の井桁模様御神燈が個性的だ。

国道に戻り300mほど進んだところの三郷総合庁舎前バス停脇に伊賀街道・三里ガイドマップの案内板が立っている。

街道はその先で国道を離れて左の旧道に入る。集落の中に御神燈と供養塔が建つ。共に明治10年の銘が読み取れた。集落をぬけると右からくる道路と合流して坂を下り長野川を
新開橋で渡る。石の欄干を備えた風情ある橋をわたると、10軒ばかりが川に向かって下る段丘に寄り添って生きる集落があった。家々を隔てる路地は島の集落の迷路を思わせる。

ここで
旧道の道筋をたどることは難儀だった。
橋を渡って、右に出ている川に沿った道を見過ごして、次の二股を右にとる。斜面に立つ木造家屋の間を縫うように上がっていくと、新開クラブという集会所横にでる。その先で直進する道と左折する道に分かれている。

旧道はそこを左に折れて、道なりに田圃の畦道まがいの道をたどる。みちなりに右折し、次の集落に入っていった。集落の西端で旧道は途絶えている。

田圃をへだてて前方に新しい墓地が造成されている。その先で旧道が復活していた。害獣除けの鉄線を横目にのどかな山里の道をしばらく進む。

トップへ


長野
 

やがて長野川に架かる
立岩橋に差し掛かる。南長野地区である。
橋から川の下流を見下ろすと二つの巨岩が重なりあっている。砂岩層が折れたものだという。上の平たい岩は幅8m、高さ6mという巨大なものである。この巨岩は
夫婦岩とも呼ばれてかっては近くに立岩明神があった。現在は長野神社に合祀されたため、社殿などは残っていない。

橋をわたり国道に出、分郷集落にのこる短い旧道を経て国道を1.5kmほどいくと、長野宿に入る旧道が右に分かれている。分岐点手前に
長野氏城跡の案内板が立っていた。

山道をすこし入っていくと石垣や土塁の遺構が残されている。長野氏は、南北朝時代から室町時代のころ、長野城を本拠として旧安濃郡と安芸郡を支配した国人領主である。南北時代には幕府の奉公衆として活躍した。長野城の支城としてこの丘陵地に東の城・中の城・西の城の三城と長野氏の居館が築かれた。

旧道入り口に
長野宿の石標と美里ガイドマップ板が立っている。

旧宿場街に入っていく前に、最初の十字路を右にとり坂を上って長野神社をたずねる。家並みが尽き集落を見下ろす山の中腹にあった。

街道にもどる。なだらかな坂を上っていく。伊賀と伊勢とを分ける山並みが近づいてくる。格子造りの家が見られる静かな集落である。

郵便局が
本陣・庄屋をつとめていた岡喜左衛門宅跡である。

郵便局の道向かいに一段高い空き地があって街道沿いは石垣が組まれている。防火の役割を果した
火除土手の名残である。土手の上には「頌徳碑・供養塔・常夜燈」と刻まれた石塔がある。

火除土手の北隣は岡彦右衛門が勤めていた
問屋場跡である。どうやら長野宿は岡家によって治められていたようだ。

宿場の北端に建つ
万屋は中二階の端に楼閣のような一段と高い入母屋の二階が並ぶ趣きある建物である。表札をみると「萬谷」とあった。本名を屋号にしているのだろうか。

その先で旧道は右に折れていく。その三叉路に大きな石ころを二つ重ねたような小さな馬頭観音が綺麗な花に飾られていた。

道は国道と合流して峠道に向かって上っていく。

途中、平木集落にあるという
三船の常夜燈を見ていくことにした。かなり急な坂を上がっていく。二股を左にとってさらに上がると集会所の前に出る。十字路向かいの高みにある安養寺の脇道を上がっていくと平木天王社への上り口に立派な常夜燈が立っている。

かって伊賀街道筋の平木口にあった三舟明神社に寄進されたものが、統廃合の後ここに移された。弘化3年(1846)の建立で伊勢神宮への道中安全を祈願して寄進されたものである。

国道にもどり、いよいよ旧長野峠の山道に挑む。道は長野川に沿って蛇行をはげしくしながら高度を上げていく。国道だが車はめったに通らない。右手に美里窯の標識をみて進むとやがて長野峠バイパスの新しいトンネルが見えてきた。道は二手に分かれて、左が旧国道163号である。新トンネル開通によって旧トンネルは閉鎖され通り抜けはできない。二股を左にとって旧国道を少し入ったところ右手に
犬塚があり、そこから旧長野峠への山道がはじまっている。

義犬伝説が伝わる犬塚には祠の傍に石塚、石地蔵、供養塔などが集められている。このあたりには明治初年まで人家があったらしい。今でも別荘らしい建物が一軒建っている。その前の舗装された坂道を上がっていく。「伊賀街道長野峠越え」、「旧長野峠まで徒歩約30分」と記された標識が立っている。杉の葉が積もった道をたどっていくと右に作業道路が分岐する広い空間に出た。

山道を登るにつれ足元は荒れだし沢を渡る。「旧伊賀街道長野峠」の案内標識を頼りに九十九折の道をいくとやがて眼前に急斜面が現れた。上を作業道が横切っている。階段を上って作業道をわたるとまもなく標高530mの長野峠に到着した。伊勢国と伊賀国の国境である。時計では犬塚から25分かかっていた。峠には標識が立っており
「長野古道→」と書かれた表札もあった。

伊賀側にはいって下り道をいくとまもなく
茶店跡の標識があり、沢に面して石垣が残されてた。峠の茶屋があったというのであろう。長野古道は沢伝いにくねくねと降りていく。

やがて道は平らになって林道らしい舗装道が復活した。二股を左にとって下っていく。昨日の雨で沢があふれて道に薄く広がっている。逆光にきらめいて綺麗だった。

杉木立が疎になってきて前に出口が現れた。閉鎖された旧トンネルから出てきた旧国道に合流する。

トップへ


平松
 

服部川を渡って県道42号と合流、右にカーブした先の右手に奥まって芭蕉の
猿蓑塚公園がある。幾つかの句碑があるがもちろん目当ては芭蕉の句。一段高い所に四角い自然石の句碑と、その隣に新しい句碑がある。自然石の句碑は天明4年(1788)建立の古いものである。刻まれている句は、

  初しぐれ、猿も小蓑を欲しげなり

元禄2年(1689)9月、「奥の細道」の旅を終え伊勢参宮の後故郷上野へ帰る途中にこの山中で詠んだものである。

旧街道は新トンネルを出てきたばかりの国道163号に合流し服部川に沿って山を出る。伊賀の国最初の集落は汁付という。

左手田のあぜ道に蔦を絡めた風情ある
自然石の常夜灯が立っている。五社八幡宮と刻まれた常夜燈を一回りして、いちばん松茸に似た方向から一枚撮った。かわいらしい石燈籠である。

右手にバス停から山の方へ入ったところに朱い
弁天堂が建っている。元は猿蓑塚のすこし上の方にあったが、昭和の始め頃にここに移された。由緒等は知らない。

次の
元町集落に、峠を越えた最初の宿場、上阿波宿が置かれたが度重なる火災で復興があやぶまれ、宿場は平松村に移転させられた。

集落入り口の左手の坂道を上がったところに慈眼寺があった。今は観音堂とよばれている。昭和22年に再建された本堂板戸には浮き彫りされた菊の紋章があった。

元町は小さな集落だが、古いたたずまいをみせる家並みがかっての宿場街であったことを偲ばせる。左手には海鼠壁土蔵が納屋風建物に取り込まれためずらしい建物が目を引いた。

その先で旧道は元町を後にして国道と分かれ、右側の旧道に入る。別府橋を渡り田園の中をいく。

まもなく国道に出るがすぐに
天眞大御神が祀られた祠の前で国道を離れ、旧道に入る。ここが平松宿の入口である。元禄年間に上阿波宿(元町宿)が移ってきた。わずか半年の間で宿場を作り上げるという突貫工事であった。

道は丁字路につきあたり左に折れて、宿場の町並みが約400mにわたって南北に続いている。

ここで街道からはなれて反対の方向に歩いて見た。服部川の清流をまたぐ高い橋脚に、アーチ形にくりぬいた欄干が情緒ある
石橋の風情を醸している。橋をわたって式内社である葦神社を見てきた。

宿場街にもどって南に向かう。特に
左(東)側の家並みがすばらしい。本陣や問屋場は右側の蛭沢家あたりだが、家は新しく昔の面影はない。高札場も本陣と問屋場の間にあったらしい。

中ほど右手の公民館脇に昭和12年銘のある木製の
道路元標と慶応2年(1866)の常夜燈がある。元標には「津市元標へ28km793m」とあった。1m単位で計測しているのには感心した。 

左手に
旅籠「いたや」が昔ながらのたたずまいを残している。屋根はかすかに起きていて伊勢地方でよく見られるむくり屋根である。欄干の下側を七福神などをかたどった瓦で飾っている。軒瓦は先の丸い部分すべてに「板」の文字が彫られている手作り瓦である。一階の繊細な出格子も美しく、本陣でも問屋でもない旅籠にしては風格を備えた建物である。南側に棟つづきの家があって、通りに面して瓦屋根の門塀が古びた趣を添えている。

その先にも見事な千本格子の家がある。公民館を過ぎてからの家並みは街道両側に渡ってすばらしい。

家並みの終わる辺りに平松宿の沿革と、現旧の屋並図が並べられていて、良質の情報を得られた。本陣、問屋が現在の蛭沢家の位置にあたることはここから得たものである。

川淵に自然石の大きな
道標があった。阿波大仏で知られる新大仏寺への案内石である。案内にしたがって新大仏寺による。建仁2年(1202)重源上人の開基による真言宗の寺である。奈良東大寺に敬意を払って、この大仏寺に「新」の一文字を追加した。

長い歴史の中に盛衰があって、芭蕉が訪れたときは伽藍は破れ坊舎は絶えていた状態だった。その後、江戸中期になって伽藍の再建大仏の修復がなされ、現在の
大仏堂が建立された。

境内に芭蕉の「新大仏寺記」全文を刻んだ
文学碑がある。「丈六に 陽炎高し 石の上」の句は、貞享5年(1688)芭蕉が帰省のさい二人の旧友とともにこの寺を訪れたときに詠まれたもので、この時期の新大仏寺の寂れた様子が伝わってくる。

碑を囲む玉垣はその一本一本が俳句をたしなむ人たちによって寄進されたものか、俳句とともに住所・氏名までが記されている。その中に私の故郷である滋賀県八日市市の名をいくつも見たのは驚きであった。

大仏道標にもどって平松宿を出る。国道にわずかに戻って左の旧道にはいる。600mほどで再び国道をわたって川沿いの道をいく。およそ1km、誰もいない旧街道歩きの楽しみを味わう。

壊れかけた
茅葺の家がある。

その先、服部川の川原をみおろすと永年の水流で丸く削られた岩がいくつも飛び石にならんでいる。普段は徒歩でわたっていた川であるが増水時にはこの岩を伝って渡ったことから、
平岩の渡り瀬と呼ばれている。

左手には小さな地蔵があった。平らな面に丸印と磨耗した文字が刻まれているようだが、読めなかった。

街道は国道に出る。反対側にある
大橋茶屋跡に芭蕉句碑と道標が並び立っている。 句は江戸で詠まれたもので、この地とは関係ない。ただこの川端に柳の木があったというだけである。 

  
からかさに押しわけみたる柳かな  はせを

道標には正面に題目が、側面に「右なら大坂道」と刻まれている。

国道で大橋をわたってすぐに左の旧道に入る。しばらく川沿いの静かな道をたどる。槇野橋が架かるところで対岸をみるとオオサンショウウオの図を画いた看板が目に付いた。渡ってみると小さな石の山の神が三基並んでいる。

街道をすすみ道路が立体交差する手前、左手に小さな祠と「右なら道」と刻まれた道標、延喜式内阿波神社の社標があった。

トップへ


平田 

国道に合流して下阿波地区を通り抜けたところでまた左の川に沿った旧道に入る。旧街道はこの先大きく蛇行する服部川に沿っていたが、今は通行止めとなっている。新しく切り通しを作り蛇行を端折ったバイパス国道を行く。昔この辺りは椎の木岩伝いと呼ばれた難所であった。

バイパスを通り過ぎた所の右手斜面に
自然石の髭題目碑がある。「南無妙法蓮華経」と刻まれその下に「山神権現、経力龍王、大石霊神」と縦に併記されてあった。

三谷集落をぬけしばらく服部川の北岸を西進する。右手に木の館があるところで国道を左に分けて旧道に入るが、まもなく国道と合流、出後橋で直進する国道と分かれて橋を渡る。東出集落に自然石の大きな
常夜燈が建っている。

白漆喰塗りの土蔵をつけて黒板塀をめぐらせた立派な屋敷がある。主屋には虫籠窓が切られている。白黒のコントラストが際立っている。

中出、西出の集落をぬけて国道の方向へもどる途中で道筋が消失している。

県道56号に出て大山田橋を渡る。平田信号で左折してすぐ榎の大木の下で右の旧道に入る。平田宿の入り口である。

右に折れると
植木神社がある。寛永元年(1624)ごろ、悪疫退散のため始められたという植木神社祇園祭は県指定無形民俗文化財で、当日宿内をねりあるくだんじりを収めた立派な小屋が町の東西に建っている。

境内には
芭蕉句碑があった。
   
  
枯芝や ややかげろふの 十二寸 

貞享5年(1688)、笈の小文の旅で故郷伊賀に滞在していたときの作である。

東町だんじり小屋の前で左折して平田宿の町並みに入っていく。

連子格子の家が残っており町屋風の家が軒を連ねている。平松宿にくらべれば家の造りはそれほど古くはなさそうだ。

老舗の菓子店つばやはもと旅籠であった。店の建物は新しく旅籠であったことを想像するのは難しい。

その先の切妻妻入りの家こそ、立派な旅籠調の建物である。一見平松宿の板屋に似ているが、板屋の屋根はわずかにむくれていたのとは対照的で、この家はかすかに反っている。破風に羽を大きく広げた木彫りの鶴が飾られているのが特徴的だ。一階屋根の付け根に飾り瓦が施されているのは板屋と同様である。

道は
曲尺手を経て西町に入る。十字路は札の辻で高札場だった。角に小さな津島神社がある。

左手
旅館梅屋はまちかど資料館の幟を立てていた。そっと中に入ってみると昔ながらの土間である。いろんな資料が並べられてある。人の気配も無くそのまま引き上げた。

右手に
西町だんじり小屋、その隣の空き地は祇園祭のときのお旅所となる八王子社跡である。

そのあたりで宿場の香りがする家並みが終わる。

街道は国道に合流するがすぐにまた右に分かれていく。再び合流する手前に旧伊賀街道の石碑がある。むかしはこの辺り松並木がつづいていて
「畑川原の松並木」とよばれた景勝地であったという。今はその名残の木立がわずかにあった。

旧道は国道を離れて真泥大橋をわたる。服部川が流れるこの辺りに
古琵琶湖があり、その地層からゾウやワニの足跡が発見されたという。ここで琵琶湖の話が出てくるとは思いもよらなかった。世界でもバイカル湖についで古いとされる古代湖、琵琶湖は400万年も太古の時代、断層運動によって最初この大山田村に生まれた。湖の名を「大山田湖」という。その後琵琶湖は滋賀県の甲賀、蒲生と北上して現在の位置に移動してきたというのである。その頃は鈴鹿山脈もなく、野洲川は伊勢湾に流れこんでいたという。地層的には琵琶湖と伊賀盆地はつながっているというのである。

忍者の里として伊賀と甲賀が知られているが、古琵琶湖という点でもつながっていることを知って興味が深い。地勢のみならず、伊賀と甲賀は同一文化圏にあったのではないか。私は伊賀と甲賀を結ぶ道に興味がある。芭蕉が京都の北村季吟の元へ通っていた時代、彼は鈴鹿峠越えの東海道でなく、伊賀から(柘植を経て)甲賀に出る道を行ったのではないかと思っている。いつかその道を歩いてみたい。

服部川の左岸に沿って西に進む。
一ヶ所寄ってみたいところがあった。川原集落の中ほどで十字路を右折して真泥橋をわたり国道163号を西にいくと丁字路角に大きな自然石の
常夜燈がある。ここを右折して200mほどいった右手の草地がその場所である。

「さんまい(三昧)」とよばれる墓石のない墓地だ。今は使われていないという。草地をすこし分け入ってみると「南無阿弥陀仏」と彫られた石塔があって、その背後には朽ちかけた木の墓標がうつろに立っていた。この場所で最後の別れをしたのであろう。「七人の侍」のラストシーンを見る思いであった。

来た道を戻って川原から旧街道を歩きはじめる。
「伊賀街道」の標識を通り過ぎると小さな川を渡って中之瀬集落に入っていく。数軒の民家が段丘の狭い合間に寄り添っている。

道なりに奥には行っていくと林の前で害獣フェンスが立ちはだかって
通行止めとなっていた。鍵が付いていないのを幸いにわずかな間隙から入り込む。右は川に落ち込む急な崖で、服部川の中之瀬峡谷になっている。

さて、ここから1km余り、古道を味わうと同時に磨崖仏の探索の旅である。

まず小さな浮き彫りの目明かし地蔵、江戸末期の作とされる。
持錫地蔵立像と地蔵立像は見過ごしたようである。
文殊菩薩と釈迦如来立像が並んで大きな岩に彫られている。
右手の竹林から乾いた音が静寂を破る。葉が落ちる音まで高い。ザザーという獣の動きがあった。まさか熊では、と見下ろすと二頭の鹿が歩いていくのが見えた。

弥勒菩薩は平安時代のもの。
狭い道を沢が横切る。かつては底なし淵と恐れられた
山伏淵である。

足元の低い場所に小さな本尊と六地蔵

室町時代末期に作られたという
三基の小石仏には上に「ア」「ウン」「バン」の種子(しゅじ)が彫られている。
隣あわせに
小石仏一基、

さらに一つの石の枠彫の中に六地蔵があった。

最後に三体地蔵

風景が開けて荒木の里に出る。


トップへ


上野
  

集落入り口の右手に見える竹藪は
荒木又右衛門出生伝承の地である。荒木又右衛門は江戸初期の剣客で、伊賀上野鍵屋の辻での仇討ちで知られる。伝説めいた話が多いので深くは入らない。

ひっそりとした集落には水量豊かな川が流れ、白壁の蔵や三階屋根の珍しい家など、魅力ある家並みがある。

荒木又右衛門が活躍したころ、この里は
服部郷とよばれた。服部川はその地名から来ている。磨崖仏の古道をぬけたところで時間が止まったように潜む荒木の里は懐かしい日本の原風景を体現しているようである。

須智荒木神社を訪ねる。石鳥居の左手に巨大な石燈籠が建っている。文政年間の建立だという。また右手には
芭蕉句碑があった。碑は昭和32年(1957)で新しい。

  
畠うつ音やあらしのさくら麻

元禄3年(1690)3月11日、芭蕉の帰省中に開かれた神社での興行の折に詠まれた句である。そばに詳しい解説があった。

須智荒木神社は白鬚神社とよばれ、社殿には三国志や鍵屋の辻仇討ちの絵馬が飾られている。

二階建ての棟から一段と高く首をのばした煙だしを設けた珍しくも愛らしい建物を再度鑑賞する。壁に窓がなく一階は土壁がみえる。居住用ではなくて納屋のようであった。

集落の西端にも同様な三階の建物が見えた。蔵もちの家が川傍に軒を連ねる美しい家並である。

郷愁集の余韻をのこして荒木の里を去る。

「伊賀街道」の標識をみて県道154号を右折、国道163号との交差点脇の一角に、
荒木又右衛門誕生記念碑、太神宮常夜燈、大釜地蔵(複製)が集められていた。

旧街道は服部川の堤防道に移り、国道24号(名阪国道)をくぐったあたりで川から離れて伊賀市街地に向かう。

三叉路角に立派な瓦屋根を持った祠に山の神が祀られている。上野城下の入り口にあたる。

国道163号を斜めに渡って旧街道を進む。細い川を渡った右手に寛政11年(1769)の太神宮常夜燈
子安地蔵尊がある。

家が建て込んできて、連子格子・白壁土蔵・虫籠窓などの古い家並みが現れる。

左手
滝本酒造は黒漆喰の切り妻蔵と平入りの中二階建て商家が一体となった重厚な建物である。看板がないのがさらに奥ゆかしい。二階の黒壁には虫籠窓が作られ、一階の壁は黒板下見張りと連子格子つくりで、荒格子のような駒寄が間口の半分を覆っている。まことに黒々とした建物である。

濃人町に入って右手
菅野酒造は白壁土蔵が大きな門に連なっている。大きな屋敷だ。

商店街の街灯には
「芭蕉街」の標識が付けられている。この町のキーワードは芭蕉と忍者と城である。

格子造りの町屋を眺めながら歩いていく。格子窓に
ざる(じょうれん)を掛けその中に竹筒の一輪挿しを飾る家が目を引いた。伊勢街道で見かけた玄関の注連縄に対応するものなのか。あるいは単なる商店街の申し合わせなのか。

右手の
えびすや食堂で鰊そばを食った。横の路地が旧大和街道である。つまりその十字路が伊賀街道終点ということになる。

右手に大型の町屋が切り妻平入り屋根を3軒連ねている。芭蕉街の中心地のようである。

次の大きな交差点の角に棟瓦の立派な井本薬局があり、その東側壁よりに
石の道標と木の標柱があった。道標には「すく 京 大坂 なら はせ道」「是ヨリ 北江 東海道 関」と刻まれ、標柱の方には「伊賀街道起点の地」と記されている。

この十字路の方がオフィシャルな大和街道との合流点/伊賀街道の起点・終点ということであろう。通りすがりのおじさんが、大和街道は付け替えられて二本あるのだと教えてくれた。新旧のほどは忘れてしまった。両地点を確認したのだからよしとしよう。

以下は寄り道である。松尾家菩提寺、芭蕉生家、それに上野城をみたかった。

えびすや食堂から一筋東に逆戻りする。郵便局のある丁字路を北に入った左手に
愛染院がある。松尾家の菩提寺で、芭蕉は帰省のつどここに墓参した。

山門の前に
「史跡芭蕉翁故郷塚」の石碑と「愛染院の由来」説明板が建っている。門をはいって左手奥に故郷塚があった。宝珠を乗せた茅葺屋根の祠に墓石が祭られている。石に何か刻まれているようだが、磨耗がはげしくて読めない。なお、芭蕉本人の墓は遺言によって近江大津の義仲寺にある。ここには遺髪が埋められた。

周辺には多くの芭蕉句碑があった。その中の一つに

  
家はみな杖にしら髪の墓参り  

元禄7年(1694)7月15日、故郷で盆会を営んだ芭蕉は、久しぶりで一家そろって祖先の墓に詣でた折の句である。墓参りをするが、故郷の親族がみな年老いて杖をつき白髪頭となってしまった。

尼寿貞が身まかりけるとききて         数ならぬ身となおもひそ玉祭り

同じ時に寿貞の死を悼み詠んだ句である。寿貞は芭蕉の愛人とも甥の妻だとも言われている謎めいた女性だが、芭蕉が若い頃から愛していた女性に変わりない。その女性が1ヶ月余り前の6月2日に亡くなったばかりであった。彼は祖先だけでなく、いとおしい彼女の供養をせずにはいられなかった。

「自分のことを物の数にも入らない身だと決して思わなくてもいい。どうぞ私の心からの供養を受けてください」

それからわずか3ヶ月後の10月12日、彼女を追うように芭蕉は逝った。

愛染院の北、国道25号濃人町信号を左折して次の十字路角に
芭蕉生家がある。明治18年まで代々松尾家がこの屋敷に住んでいた。

芭蕉は正保元年(1644)ここで生まれた。19歳の頃に仕えた藤堂藩伊賀附の侍大将藤堂新七郎家の当主良忠(蝉吟)と共に北村季吟について俳諧を学んだ。江戸にでてからも幾度と無く帰郷し、そのたびにここに滞在して、周辺の旅の拠点としていた。故郷への思いを詠んだ句碑が生家西門にある。

  
古里や臍の緒に泣く年の暮 

貞享4年(1687)芭蕉44歳。『笈の小文』の旅で故郷伊賀上野に帰郷した折の作である。

「年の暮に年老いた兄妹のいる故郷の生家に帰り、自分のへその緒をふと手に取ってみた。今は亡き父母の面影が偲ばれ、懐旧の情に堪えかね涙にくれるばかりである。」

中庭にはかって
無名庵があった。伊賀の門人たちが建てた庵で、元禄7年8月15日、芭蕉は新庵披露をかね月見の宴を催し、門人たちを心からもてなした。跡に句碑があるが、ここで詠まれた句ではない。久しぶりに深川芭蕉庵に帰った時のやすらぎを詠んだ。
  
  
冬籠りまたよりそはん此はしら
 
「今年は久しぶりに自分の草庵で冬龍りをすることになった。いつも背を寄せ親しんできたこの柱に、今年もまた寄りかかって、ひと冬閑居を楽しむことにしよう。」

生家の一番奥に
釣月軒(ちょうげつけん)と呼ばれる離れ小屋がある。6畳一間の小さな部屋に机と火鉢、行灯が置いてあった。芭蕉はここで処女集『貝おほひ』を執筆した。寛文12年(1672)正月25日、それを上野天神に奉納して江戸に下ったといわれている。 

国道25号を西にすすむと上野市駅の北側に
上野城がある。天正13年(1586)、大和郡山から伊賀上野に転封してきた筒井定次によって築城されたのが最初である。その後慶長16年(1611)藤堂高虎が大坂城の豊臣秀頼に対する拠点の城として上野城を大改修、日本一高いといわれる高石垣を築いた。石垣から濠を見下ろすと足がすくむ。

翌17年9月、台風により完成間近の五層の天守閣が倒壊したが、大坂夏の陣での徳川方の勝利を受けてその後天守閣は再建されなかった。現在の天守は昭和10年(1935)に復興されたもので、
三層三階の主天守と二層の小天守をともなった複合式天守である。まとまりがよくて姿が美しい。

伊賀の町は古い。雰囲気が京都に似ている。見所は他にもある。それらは大和街道の折に訪ねよう。伊賀街道は津から伊賀に向かうにつれて味わいが深まっていく道であった。古さは古琵琶湖に尽きる。伊勢地方から京や近江に近づいていくことを実感する旅であった。

(2012年6月)
トップへ