伊勢街道と二見興玉神社を結ぶ約8kmの道である。途中に休憩の場所として二軒茶屋を経る。この道は二見興玉神社への参詣の道であったと同時に二見地方から神宮へ塩や食材を運ぶ道でもあった。伊勢街道からの分岐点が二ヶ所あり、河崎問屋街を抜けた後北新橋の西詰で二道は合流し、一路二見に向かった。
山田
まず伊勢街道の小田橋を渡ったところから左に分岐する地点からスタートする。勢田川沿いに小公園があってそこに簀子橋の道標がある。元は簀子橋の西詰にあったものである。その道標に「すぐ二見…道」とあるように、勢田川に沿って北上する。すぐでてくる橋が簀子橋である。道標はここにあった。
県道37号を横切って勢田川右岸をいくと道が二股に別れる地点に「河崎の歴史」と題した案内板が立っている。河崎の商家が立ち並ぶ家並みは川向かいにあって、その散策は第二のスタート地点からの旅に任せる。
南新橋に立って対岸を眺めると岸に面して建ち並ぶ商家や蔵を認めることができた。現在は護岸堤防で家並みの裾を見ることができなくて風情が半減しているが、それがなければ蔵や店が川岸に直結している風景を見ることができたであろう。
北新橋に着いた。ここで後発組が橋を渡ってくるのを待とう。
山田宿から第二のスタートを切る。外宮表参道前交差点で伊勢街道と分かれ、JR伊勢市駅に向かって歩いていくと左手に映画に出てきそうなレトロな感じの三階建て旅館が建っている。山田館といい、100年の歴史をもつ老舗旅館である。明治時代に参宮鉄道が敷かれたとき、山田駅(現在の伊勢市駅)から伊勢神宮外宮まで約300mの参道が出来た。路面電車が通り山田駅前通りは旅館、食堂、土産物店がたち並び観光客で賑わった。その時代に開業した。
菊一文字刃物店が建つ二股を右斜めに出ているのが旧二見道である。
吹上交差点を直進するとJR線路で旧道は分断されているため、逆くの字に迂回して旧道にもどり近鉄線の高架をくぐる。
そのさきの三叉路で街道をはずれ左折して県道201号にでる。その角のスーパー駐車場端に山田奉行所跡の石碑と説明板が立っている。山田奉行所は大岡越前として知られる大岡忠相が18代奉行として4年間を勤めたことがあり、このころ紀州藩主であった徳川吉宗により享保元年(1717)に江戸町奉行に抜擢された。なお山田奉行所跡は市内に他にもある。
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河崎
街道に戻り、曲がりくねる旧道をたどると勢田川手前の丁字路を左折して河崎本通りに入っていく。すぐ左手に庚申堂と常夜灯がある。
河崎は勢田川の水運を利用した物資の集積地・問屋町として発展、江戸時代には「伊勢の台所」と呼ばれて繁栄した。
古い商家の家並みが続く。切妻妻入りが圧倒的に多い。右側に建ち並ぶ店や蔵の裏は勢田川に直結している。主だった建物には説明札がかかっており、それを読みながら町並みを散策していく。説明札は「NPO法人伊勢河崎まちづくり衆」によるものだ。屋根の形が「反(そ)り」か「起(むく)り」か「直(す)ぐ」か、そして隅蓋瓦の形についての記載を欠かさない。
個々の説明は写真下の説明文にまかせよう。
店の名だけを追っていく。
砂糖問屋の榎本商店、
創業万延元年(1854)の元茶屋、現菓子処播田屋、
元廻漕問屋辻村家・現古本屋ぽらん、
二見街道そして地区最大の豪商、雑貨問屋「角仙」村田家。かっては16棟の蔵をもっていたという。現在はそのうち4棟が再活用されている。「角仙」の本宅はさすがに貫禄がある。
元川役人の堤家。
左手丁字路角に道標が立っている。「左 二見神社大湊道」「右 宮川道」「すぐさんぐう道」と刻まれている。
その隣に「角仙」の店舗をつかった美容院。
元船宿、現八百屋の小崎商店。
左奥に河辺七種神社(元河崎神社)がある。
伊勢河崎商人館の手前で北新橋をわたって、先発組に合流する。
向こう岸に川の駅船着場を眺めながら堤防沿いの道をたどる。二股にきて川を離れる。右手角に二棟続きの旧家が川崎の家並みを締めくくるかのように構えている。橋本家の住宅と蔵の切妻妻入りツインである。ともに築100年以上経っているのに老朽を感じさせない優雅さを保っている。
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二軒茶屋
道はそのまま県道102号(現二見街道)に合流する。このあたり神久という地区だ。左路地入り口に六地蔵と庚申祠がある。
その先で県道と分かれて左の旧道に入る。まもなく両側に風情ある建物がみえてきた。正面に楠の大木がそびえ道が右に曲がっている。
左側の建物は二軒茶屋川の駅と角屋民具館である。後ろは勢田川に面していて近くに船着場があった。勢田川は河口近くで五十鈴川と合流して伊勢湾に流れ込む。かっての大湊で現在の宇治山田港である。
伊勢神宮への参道は幾つもあるが、志摩や尾張・三河、遠江・駿河などからは船で大湊に入り勢田川を上がってここ二軒茶屋に上陸した。明治天皇を乗せた軍艦もここに上陸したという。楠の下に記念碑が建つ。
葦の原だったこのあたりに参宮客相手の茶屋ができた。餅を売る「角屋」とうどん・すしを出す「湊屋」である。船を下りた参詣客はここで一息入れ身なりを整えて神宮に向かったという。いつしかこの地を二軒茶屋というようになった。湊屋はなくなり、角屋は今も名物「二軒茶屋餅」を売っている。
店に入ると昔ながらの帳場にかわいく商品が並べられている。ランチがわりに三個入りの二軒茶屋餅を買った。あずき餡の入った薄皮の餅で、香ばしいきな粉がまぶしてある。船着き場跡が見える川縁に出て見る間に三個平らげた。
県道に合流する。十字路にたって改めて角屋の正面を眺める。400年、当主21代を数える老舗の味がしみこんでいる。屋根は「むくり」でなく「そり」だった。普通一階軒にみられる大垂が二階にも付けられているのは珍しい。
道向かいにも感じのよい板張りの蔵がならんでいる。角屋は多角化をめざしてビールや味噌醤油の醸造にも乗り出した。それらの醸造場である。
県道を100mほど行ったところで再び左の旧道に入る。左に曲がる先に赤い稲荷の鳥居が建ち、その裏側に黒瀬村の氏神橘神社がある。石鳥居には「町内和平」の札をぶらさげた注連縄が飾られている。静かな境内で落ち葉から立ちあがる焚き火の臭いが心地よい。
黒瀬集落を進んで、この辺りにあった道標が移されてあるという黒瀬公民館の場所をたずねた。街道から外れたところで、敷地の片隅にコンクリート造りの庚申祠と並んであった。
「右 内宮古市道」「左ふる市xみち」「西外宮みや川道 東ふた見みち」と刻まれている。「古市」が強調されているようにみえるのは、寄進者が古市の杉本屋であるせいだろう。古市街道で見かけた案内板によると「外宮と内宮を結ぶ旧街道のほぼ中間点にある古市は江戸の吉原・京の島原と並ぶ三大遊廓で知られ、全盛期には妓楼70軒、遊女1,000人を数えたという。特に油屋・備前屋・杉本屋が古市の三大妓楼として有名だった。」とあった。
街道にもどる。右手に切妻妻入り起り屋根の民家をみつけた。二階の屋根つき高覧が色っぽい。
旧道は県道102号を斜めに横切る。六差路になっていて、この左側角が黒瀬公民館に保管されている道標が立っていた場所だ。
旧道はすぐに県道にもどり大きな国道23号南勢バイパスをくぐる。街道はここから国道42号に吸収されるがまもなく国道を左に分けて県道102号として復活する。周辺は工場地帯で殺風景である。
五十鈴川に架かる汐合橋の南たもとに、「西すぐ二見」「南 右二見」と刻まれた道標が立っている。川を渡ると二見町溝口である。
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二見
橋を渡るとすぐに右の旧道に入る。袂に小さな地蔵がいた。凛々しい顔をしている。
旧道は川にまで延びていて川中の旧橋の遺構に続いている。昔はこのあたりに渡し場があった。
偶然、参宮線鉄橋を4両編成の電車が走っていった。これらは多気駅で連結されたものである。その瞬間を今朝目撃してきたところだ。宇宙船のドッキングよりもダイナミックである。
旧道に入ってすぐ右手に二見神社の石標と鳥居の続く参道がでている。石段で白木の千本鳥居の中をすすむ。二見神社は京都伏見神社から分神を載いた姫宮稲荷神社がはじまりで、その後明治になって近辺の氏神を合祀して二見神社と改称された。
神社からまもなく神宮御園の石標がある。路地を入っていくと鉄製扉に守られた菜園があった。明治32年(1899)に開園された長い歴史を持つ。なかで神職衣装の職員が二人しゃがみこんで話に夢中だった。伊勢神宮直営の菜園で、ここで収穫された食材は伊勢神宮におくられる。声をかけて中を歩かせてもらった。広さは2万平米で果樹園もあるが、これだけで神宮で消費する全量をまかなえるわけでなく、あくまで祭典に供える野菜・果物を栽培しているとのことである。
その先の二股を右にとる。山田原公民館の南方にこんもりとした森が続いている。その一角に蜜巌寺があった。
道はその先丁字路を左折し、すぐに右におれる鍵の手を経る。参宮線のをこえると右手にきれいな築地塀をめぐらせた明星寺がある。
その先で街道をはなれて南へ1kmほどの寄り道をしていく。渡し場があるということだ。右に折れると自然石の庚申塔が7基並んでいる。ここは昔の高札場だった。集落を出た右手の田んぼに一つの岩が放置されている。天狗岩といって天狗が山から投げたといわれる。
老人ホームらしき施設の前に万葉歌碑がある。一部草に隠れて読めなかった。道なりに進んで突き当りを右にとり左折すると引船橋に出る。川に特段の名はなく五十鈴川派川とよばれている。水量豊かな川だ。夫婦岩の東方に注いでいる。かっては三津浜の繰り舟の渡し場だったという。
橋から下流をながめたら小高い山の頂上に城がそびえているではないか。錯覚かと思ったが確かに見える。しかも金ピカだ。後で調べたら「ちょんまげワールド」という安土桃山文化村だった。誰がいくのだろう。
街道にもどり、すぐ左折する。左手に家紋を浮き彫りに下コンクリート塀の一部が残され散る。背後は空き地だ。旧家跡か、気になるオブジェだ。
道はJR参宮線踏切を越え県道102号にでる。そのまま国道42号を横切って旧道を進む。途中、車道の左に工場に沿って残る道跡が旧道である。右手に消防団車庫をみて進むと観光案内所に突き当たり、駅からの表参道に出る。
正面に茶屋庚申堂があって、旧街道であることを示している。
参道の右側には切妻平入りの商家が三棟連なっている。いずれも風情あるたったずまいである。連子格子と高覧のある建物は旅館だろう。一番左は菊一文字則宗本店とある。あれ!二見道起点にも菊一文字の本店があったはずだが。後で調べたら、「菊一文字則宗本店」は全国に多数あった。奇妙な現象だ。
左側にはみやげ物や茶屋がおおい。圧巻はお福餅本家だ。こちらは堂々とした切妻妻入り造りで、道向かいの平入造りと好対照をなしている。二棟つづきで二階の千本格子が見事である。暖簾に創業270余年とある。お福とは天鈿女(アメノウズメ)命のこと。名前も商品もなんとなく「赤福」に似ている気がする。その赤福がすぐ先にあった。強烈な競争関係にある。
旧道は赤福のさきの丁字路を右にはいっていくのだが、そのまま直進して創業280年の老舗旅館朝日館を見ていくことにした。朝日館の前身である角屋は、大名たちが参宮した折の本陣の役割を負った茶屋だった。別館となっている木造の建物は塀越に二階と屋根しか見られないが、きめ細かい千本格子は切妻起り屋根とともに品格あるたたずまいを見せている。
旧道にもどる。細い路地をはいるとすぐに鍵の手を経て、昭和時代の家並みが残る細道を歩く。今は朝日館の前の通りがメインになっていて大型ホテルや旅館はその通りにある。旧道はいまや裏通りだが、ここがかってのメイン旅館街だった。
旧道を通り抜け広い通りを横切る。さらに細い旅館街を通る入り口に趣味的なたたずまいをした五十鈴勢語庵が名物「塩ようかん」を売っている。切妻造りだが角地にあって両方に店を開けている関係で、妻入りであり平入りでもある。大垂の下に幕板と同じ長さの暖簾を下げていて、面白い商家建築だ。ところでここから西へ1kmほど行ったところに神宮直製の製塩所、御塩殿がある。二見浦では塩作りが盛んだった。
小学校の修学旅行で泊まったのはここではないかと思われる木造旅館の前を通る。夕食のサザエの黒い部分がたべられなくて友達が告げ口をし先生に怒られたこと、大広間の雑魚寝で枕投げに興じたことなど。6年の卒業旅行で父が付き添ってきた。
郷愁をさそう通りをぬけると白砂青松の二見浦海岸にでる。確かあのときも夕方この松並木の中を歩いたはずだ。幼心にもなぜか感傷的になって、三浦光一の「街灯」を口ずさんだ記憶がある。
松並木に設置された常夜灯の列にまじって、気が利いた歌や俳句の碑が置かれていた。西行、芭蕉そして地元代表の本居宣長である。
西行は「波越すと二見の松の見えつるは梢にかかる霞なりけり」と詠った。
それを受けて芭蕉は「うたがふな潮の花も浦の春」と詠んだ。
芭蕉の西行追っかけぶりが発揮されている。
最後に浜辺に面して本居宣長が彼らしくまじめな歌を残している。
「かわらじな波はこゆとも二見がた妹背の岩のかたき契りは」
結婚式のスピーチに使えそうだ。
街道沿いにもどると右手に豪壮な建物がある。かってここに藤堂藩が砲台を築いた。明治になってその跡に伊勢神宮の賓客の休憩・宿泊施設として賓日館が建てられた。建物は国重文である。建物は公開されており団体客が出入りしている。宿泊は出来ないようだ。
いよいよ沿道最後の店屋「まるはま」は休憩・みやげ物屋で、伊勢うどんと赤福が目玉のようである。一棟の店舗に切妻屋根を二つ乗せ、大垂・暖簾を横一本で貫いている。これも新しい建築様式である。屋根は「直ぐ」だ。
ここで二見道は終わる。後は二見輿玉神社の鳥居をくぐって夫婦岩までの旅の結びである。
二見という名の由来は二説ある。
内宮から流れてくる五十鈴川が、本流と、舟引橋で見た派川の東西二手に分かれてこの地を挟み伊勢湾に注いでいるため、「二水(ふたみ)」と呼ばれるようになった。
この地を訪れた倭姫命(やまとひめのみこと)がその美しさに帰り際二度振り返ったことから二見と言われるようになった。
大きな社号標に一の鳥居、その脇に常夜灯と蛙の石像が出迎える。
二の鳥居前に二基の大きな常夜灯が立ち、台石に「京都先斗町丸寿組」、その下に組長、会計以下、組員の役職と名前が綿々と彫られている。本格的な組織である。
明治22年(1889)先斗町の花街が伊勢講を組み、芸妓が先斗町の公休日の最終日曜日を利用して1泊旅行を楽しんだ。のち大正時代には高野山詣の鴨川組も作られている。花街の厚生福利制度だった。高野山にいけば鴨川組寄進の常夜灯が見られるかもしれない。
夫婦岩の姿が見えてきた。伊勢神宮の社殿に近づいた時よりも胸がときめく。
「天の岩屋」の標石と朱色の鳥居と社があって、正面から覗くと暗がりには岩の窪みがありそうに見える。右手には例のおたふく元祖「天鈿女命アメノウズメ」が足と手を上げて踊っている。肌は露ではない。
「天の岩屋」は全国各地にあるそうで、どこが本家なのか知らない。
二見輿玉神社の脇に沖縄産の巨大なオオシヤコガイが展示されている。年齢150年だという。亀の長寿は知っていたが貝もそんなに生きるとは知らなかった。
絵馬掛けには「駕籠たて松の潮湯跡」の木札が下がっている。海水浴場の始まりは今のような開放された砂浜ではなく、露天風呂のようなものだったらしい。東海道大磯でみたもう一つの発祥地もよく似たもので、泳ぐというのではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまり、海水につかっているだけで、いわば潮湯治のようなものだった。
二見輿玉神社はコンクリート造りで、何の情緒もない。
わき道から神社の裏にまわると夫婦岩が近くに見える。ここから日の出を拝んで写真を撮るといいですよと、鳥居を立てた場所が設定されている。
この旅で私はここに二度来た。最初が午後の干潮時で、二つの岩は裾でつながっていたのだ。海中で離れているからこそ夫婦をつなぐ大注連縄に意味がある。双頭の一枚岩では有難さが半減するというもの。
満潮時を調べて早朝に再びやってきた。曇っていて海と空の境がみえない。よい写真を撮るには満潮時の日の出でなければいけないのだ。それにはここに泊まるしかない。そんなことを考えながらも気分の充実を味わっていた。
日の出を見るときは妻を連れてこよう。初詣をかねて元旦にでもと考えていたが、夫婦岩の間に日が昇るのは春から夏にかけての時期だと知った。再考。
完(2012年5月)
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