舟形街道は、羽州街道舟形宿と羽黒山登山口である手向宿を結ぶ街道で、六十里越街道とともに出羽三山への参詣に向かう代表的な街道であった。また、最上川水路を利用して日本海の酒田から最上川を遡上して清水河港に上陸し、舟形を中継地として中山越出羽街道(北羽前街道)を通り、太平洋側の仙台城下へと結ばれる重要な奥羽横断ルートでもあった。舟形街道は清水から清川まで最上川船運に頼るところに特徴がある。

庄内の酒田氏、松山の酒井氏、本庄の六郷氏、亀田の岩城氏などの大名が参勤交代でこの街道を利用した。芭蕉は奥の細道で本合海から船で清川まで下り、舟形街道で羽黒まで向かっている。ふるくは源義経が本合海まで船路をたどり、そこから陸路中山越出羽街道、奥州街道を次いで平泉に落ち延びた道でもある。



舟形

舟形宿は羽州街道が南北に貫き、東へは中山越え出羽街道が、西へは舟形街道が分岐する交通の要衝であった。猿羽根峠の北麓にあって新庄藩と尾花沢幕府領とが接する南端の宿場で、新庄藩の番所が置かれて通行が厳しく監視されていた。

舟形街道の起点がどこであったか定かではないが、宿内で羽州街道から西に分岐する道はいくつもない。宿場の南端で西におれ国道13号の郵便局脇にでる道と、中央公民館のある十字路を西に進み、駅前で国道に出て南に下る道筋である。いずれにしても現在の舟形街道である県道31号に乗るにはさらに国道を南に下ることになる。

中央公民館の十字路からスタートしよう。県道31号でJR踏切をわたると、尾花沢新庄道路沿いに「西の前遺跡」の案内標識があり、細道を入っていくと右手に石碑と説明板が立っていた。道路建設工事に際して発掘された縄文集落跡から高さ45cmの国内最大の土偶が出土した。しかもすらりとした八頭身美人の体型で、「縄文の女神」として話題を呼んだ。

県道を西に進み、小国川をわたると長者原に入る。県道36号との交差点あたりが集落の中心であろう。左手に大きな杉の木がそびえ根元に古びた青面金剛王碑と庚申塔がある。杉は旧街道の並木の名残りであろうか。

家並みの切れ目から左手をのぞくと街道に沿って低地がのびて、そのむこうには小国川堤防の茂みが続いている。集落は河岸段丘上に作られその中を街道が走っている。

福寿野には一里塚に似た塚が築かれ、その上には道標をふくむ石碑が集められている。角柱の石道標からは「向左 烏川ヲ経テ肘折二至ル」と読み取れた。県道330号を経て国道458号で肘折温泉に至る道筋と思われる。

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清水 

一直線の道がつづき最上川に接近していく。変電所を過ぎたあたり、左の林に「歴史の道 旧舟形街道」の標識を発見した。陸路の舟形街道を示す貴重な存在である。山道を入り込んでいくと「三吉神社」の石碑があり、東屋風の展望台が設けられている。最上川から遠くの山並みまで美しい最上の風景が望める。

街道は山をまわりこむように最上川に向かって下りていく。国道458号(本合海バイパス)を横切ると清水宿に入る。庄内と山形を結ぶ水陸交通の要衝である。本合海に向かって右手に姿良い松の木を配した老舗蔵元小屋酒造がある。花羽陽醸造元で創業1593年、400年以上の歴史をもつ東北最古の酒蔵である。小屋家は清水宿の本陣を勤めていた。

さて、清水河岸を見ようと探索した。清水集落の家並みと川岸の間には田んぼが広がっていて河岸らしき形跡はみあたらない。畦道をたどって堤防にあがってみるが案内板の類をみることもなかった。河岸あっての清水宿であるからないはずがない。裏通りにある大蔵村役場に行って聞いてみた。丁寧に対応してもらったが、誰も知らなかった。

清水に隣接して合海集落がある。どこが境かもわからないほど家並みが続いている。その北端に金毘羅神宮があって、そこに清水河岸と合海河岸のことが詳しく解説された説明板が建っていた。本来清水にこそあるべきものである。合海は慶長年間に本合海から移住してきて作られた集落で清水河岸と補完関係にあった。

清水と合海の境に庄内様御乗船道(御手船小路)とあるところの突き当たりが合海の船着場で、庄内と山形を結ぶ水陸兼帯の交通の要衝として、庄内、松嶺、矢島等の諸大名の参勤交代の乗降がここで行われた。この御手船小路は当時は俗人の歩行が禁じられており、付近には「御手船蔵」が建ち並び、蔵の直ぐ傍らに最上川が流れていて大いに賑わったと伝える

舟形街道はれっきとした参勤交代路であった。解説にある「御手船小路」を探したがわからなかった。幾人かの人に清水河岸がどこか聞いた結果、橋を渡った向こう側にあるとの情報を得た。河岸が宿場の対岸にあるということ自体がおかしいが、とにかく行ってみる。

大蔵橋を渡って県道30号を西に向かう。小高い山の峠あたりで「清水城址入口」の標識をみつけた。山道をたどっていくと、開けた農地に空堀と土塁の遺構が残る城跡があった。中世室町時代の砦跡である。

県道にもどり、ようやく川に近づき稲沢で県道から右にはずれる細道にありついた。川辺まで近づくが、崖で下には下りられない。そこに「稲沢の渡し跡」があった。ここは対岸の清水河岸に渡る渡船場である。結局清水河岸も合海河岸も見ないで終わった。

国道458号にもどり本合海に向かう。舟形街道は清水から清川まで最上川を下る水路であるから、その間の陸路情報は重要でない。

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本合海 

国道は最上川に近づくと直角に右に曲がって本合海集落に入る。早々に右手に積雲寺が、その左手に川を見下ろすように「芭蕉乗船の地」公園がある。遠くをみつめるようなポーズをとる芭蕉と曽良の像と、句碑があり、和英両文の解説板が建っている。

本合海は、陸路のない時代に内陸と庄内を結ぶ最上川舟運の重要な中継地として栄えました。大石田を後にした芭蕉、曽良一行は新庄の風流亭に2泊し、地元の俳人たちと俳諧を楽しみ名句を残しています。元禄2年(1689)6月3日、主従一行は、松本村まで見送りに来た地元の俳人たちと別れを惜しみ、本合海の船つき場へとめざし、この地より舟上の人となりました。八向楯の絶景と青葉の美しい雄大な最上峡の景観を楽しみ、川を下り清川へと旅を続けます。

地元の人たちの見送りの場所が松本だとはどこからの情報だろう。曽良の随行日記には見送りのことは触れられていない。

堤防をおりて水辺を逆もどりしたところに「本合海の渡し」の碑がある。水辺に石畳み跡と思われる遺構が残っていた。碑文によれば江戸初期には新庄から畑、蔵岡を経て古口までの陸路があり、一里塚さえ整備されていたようである。畑も蔵岡も最上川左岸の集落である。この事項は明治に至るまで新庄から本合海に至る陸路はなかったとする説に異を唱えるもので、奥の細道の道筋に大いに影響を与えることになる。

積雲寺の境内に正岡子規の歌碑を訪ねる。積雲寺は天正6年(1578)開山の古刹で、正岡子規は明治26年(1893)に松尾芭蕉の足跡を訪ねる旅に出て、同年8月に本合海に到着した。

  草枕夢路かさねて最上川ゆくえもしらず秋立にけり

積雲寺の北にある小山の頂上が八向公園になっていて本合海の街並みを見渡せる場所に斎藤茂吉の歌碑がある。

   最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ


国道458号をすこし東に進んで国道47号に乗り換え本合海大橋を渡る。すぐに右に下りる道があり、「本合海水辺プラザ」案内図にしたがって矢向神社の鳥居を訪ねる。川向い真正面に
八向山の白い断崖が見える。その山頂に中世に築かれた八向楯があった。楯主は合海志摩守といい、この地方一帯に勢力を張っていた。

鳥居の注連縄に縁どられて白い断崖中腹に見える小さな赤い社殿が矢向神社で、貞観16年(874)に創建された式内社である。古来、最上川を上下する舟人の信仰が厚く、文治3年(1187)兄頼朝に追われた源義経は舟で最上川をさかのぼり本合海で上陸した時「矢向大明神」を伏し拝んだと「義経記」に記されている。

国道47号に戻る。すぐ先の小さな集落がである。

蔵岡には旧道が残っている。

大きく川が左に蛇行するところに「道の駅とざわ」がある。別名「モモカミの里」と、和韓両文字で書かれた案内板があった。建物もみたからに韓国風である。

新庄から出た陸羽西線は八向山の北側を通り、最上川の右岸を走ってきたが古口の手前、真柄で川の左岸に移りこれより国道47号と並走する。

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古口 

まもなく古口に到着した。ここから先、扇のように広がりを見せ始める庄内平野の要に位置する清川まで、最上川の両岸には山塊が迫り、岸辺に陸路を開削する余地がなく、船運に頼るしかなかった。古口は最上川舟運の船着場として栄え、新庄藩は、庄内藩との境に最寄りの当地に関所を置き、通行の取り締まりを行った。夜は対岸まで大網を張って通行をとめたという徹底ぶりである。

集落に入る手前に舟番所を模した建物が建ち、門には金字で「戸沢藩船番所」「乗船手形出札処」と書かれた看板が仰々しく掛けられている。ここが現在の最上川芭蕉ライン船乗り場である。船に乗る前に古口集落を見て回る。

国道より一筋山側の道が旧道のような感じがする。見るべきところは旧舟番所跡である。芭蕉と曽良はここで船を乗り換え、番所で手形の手続きをした。それは集落の西端近くにあった。右手の空き地に「奥の細道 船番所跡」の標識があり、堤防近くに明治天皇行在所跡の石碑が立っていた。この場所は船番所跡であるとともに、古口郷の代官所跡でもある。戌辰戦争(1868年)で代官役所・郷手代長屋共焼失した。右手のグリーン色したトタン葺の家が小林家で、明治14年(1881)明治天皇が山形、秋田、北海道巡幸のおり古口に立ち寄り、小林治橘家の行在所で昼食をとった。

戸沢村役場によって斎藤直吉氏の家を尋ねる。かっての戸沢村長を勤めた家だからすぐに教えてくれた。斎藤家は奥の細道の旅で、芭蕉一行が新庄の渋谷風流からもらった添状を番所に届けるように渡した、荷問屋の「平七」家であるという。

現在の船番所にもどっていよいよ今回の旅のハイライトである最上川舟下りに入る。平日にも関わらず建物の中は観光客で一杯だった。年配の団体客が圧倒的に多い。切符を買って呼び出しとともに乗船口に移動する。団体客優先で船が準備され、私は最後の船で団体さんと相乗りになった。船はすべてが「芭蕉丸」だ。広場に芭蕉の追っかけ子規の句碑があった。

朝霧や船頭うたふ最上川

芭蕉丸は古口から草薙温泉まで12kmの最上川峡谷航路を下っていく。ほぼ一時間ごとに出港し、舟数は十分準備してあり満席お断りということはなさそうである。降船場の草薙から、トイレと土産を買う時間を考慮してバスが待機しており、古口まで400円で送り返してくれる。

船首で靴をぬいで茣蓙にくつろぐ。団体は賑やかだ。修学旅行気分になってまもなく「柳巻」を過ぎる。南から角川が流れ込む場所で、梅雨時は激流となって最上川の横腹をえぐって渦を巻くという。この日はおだやかで、水面がやや波打つ程度であった。

やがて、右岸の川岸に小さな小屋が見えてきた。最上峡ふるさと村と名付けた休憩所である。船はUターンしてここで一休みする。その間に船客は甘酒で体を温めたりアユの塩焼きを食べたり土産物を買う。バスツアーで大型土産店に連れて行かれるシステムと同じだ。次の船がくるのを見て船は桟橋を離れる。

しばらくすると右岸に数軒の家が見えてきた。外川集落跡でみな他所に移転してしまった。最後まで独り住まいしていた80代の男性も動けなくなって息子が引き取ったという。

船旅もいよいよ佳境にはいってきて、船頭さんの口も一段となめらかになってきた。右手に石段と鳥居が見えて、岸に一艘の船が横付けしている。芭蕉丸でなくて義経丸だ。芭蕉丸はここには寄らず、別途高屋駅近くの渡し場から義経丸が観光客を運ぶ。鳥居の右方にかすかに見える小堂が「仙人堂」だろうか。仙人堂は外川神社とも呼ばれ、日本武尊を祀る。源義経につき従ってきた常陸坊海尊がこの地で皆と別れ、山に篭り修験道の奥義を極めて仙人になったという。

目の前に川幅の半分を占めるほどの大きな浅瀬が見えてきた。エンジンの音が止んで船尾に陣取った船頭が櫂を漕ぐ。川の深みを注意深く進む。いつもより波が高い。芭蕉が「水みなぎって、舟あやふし」と叫んだのはこの辺りではなかったかと思う。

ガイド役の船頭さんが本日最後の歌を歌い出す。三つ目の歌だ。それまで二曲は手拍子を迎えたが、今回は拍子を取らないようにという。目をふさぎ渋みのある声で最上川舟唄を歌い上げる。いい歌だ。船客はしばし旅情に浸る。

歌が終わったころ右手に白糸の滝が現れる。滝の高さは124mで日本6位。八合目付近から湧き水が出ているため水枯れはしない。赤い鳥居の上の木々の間に白い一筋の流れが見えた。芭蕉は奥の細道で最上川船下りの印象をこう記している。

 白糸の滝は、青葉の隙々に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。
  水みなぎって、舟あやふし。
 五月雨をあつめて早し最上川

現在の最上川船下りはこの先草薙で終わる。船旅はちょうど一時間だった。芭蕉の時代はもう少し下った清川で下船していた。

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清川 

草薙から4kmほど左岸を下り立谷沢川を東雲橋でわたった先で国道をおりる。左手小学校の裏庭に「芭蕉上陸之地」の石碑、芭蕉句碑芭蕉像が立って、元禄2年(1689)6月3日の最上川下りを記念している。句を刻んだ大きな石は「清川関所跡」碑も兼ねている。ここに庄内藩の船番所があった。清川は庄内藩の船運の中心地であり、庄内平野の要の地点でもあったので、船番所を設けて警備していた。古口の新庄藩船番所に相対するものである。

一筋西の街道筋に移る。清川から再開される舟形街道陸路の起点は中学校の正門前である。運動場に昭和9年の古い文部省注意板が残されていて、この場所明治14年9月天皇行在所となったことが記されている。校舎の一部に仮屋が設営された。そばに小・中学校の歴史が刻まれている。中学校は天皇巡幸の1年前の明治13年に建設されている。巡幸に合わせ行在所目的に建てられた事情が垣間見える。校舎の後ろに見える林は御殿林とよばれ、戊辰戦争清川口古戦場跡でもある。この場所に庄内藩主の宿泊所があった。清川本陣跡ともいえる場所だ。

その林に隣接して清河八郎を祭る清河神社があり、鳥居の脇に清河八郎が座っている。清河八郎は清川に生まれ、江戸に出て学を東条一堂に、剣を干葉周作に学び北辰一刀流兵法免許皆伝の域に達した。その後全国に雄飛し尊皇攘夷討幕の同志と結び、明治維新の風雲を起したが、文久3年(1863)麻布一ノ橋において幕府刺客のために暗殺され34オで生涯をとじた。

街道を歩き始める。右手に黒塀に囲まれた赤松が旧家の邸宅跡を偲ぶように残っている。

その先に「明治維新の魁 清河八郎生家の跡」と書かれた看板が建っていた。場所は空き地である。

集落の中ほどの路地を左に折れると、御諸皇子神社の参道がJR線路をまたいで延びていた。鳥居の後ろに建つ山門には宝暦9年(1759)制作の立派な仁王像が安置されている。社殿は白木造りの清楚なたたずまいである。源義経が平泉に逃れる途中、一夜の宿とし、旅の安全を祈願した社として知られている。扉があいていたので中にはいると正面に大きな絵馬が掲げられていた。

の隣の歓喜寺境内に清川八郎の墓がある。

歓喜寺と御諸皇子神社の山門前を流れる清冽な水路は北楯大堰といい、狩川城主北館大学守利長が1612(慶長17)年に開削した用水路で、日本疎水百選に指定されている。月山に源を発する立谷沢川から引水し全長32kmにおよぶ大堰は庄内の荒地を潤し、有数の米どころに変えた。
朝夕一時間に一本の陸羽西線が幸運にも通りすぎていった。

満たされた気分で街道に戻る。郵便局を通り過ぎ家並みが尽きたところで、県道45号は国道に合流していく。

街道はそのまま旧道を進み、やがて線路と接して舗装道は途絶、草道を左折して線路の反対側に出る。しばらく砂利道だがまもなく大堰沿いの東北自然歩道となって、狩川変電所の手前でY字路を右にとって県道33号に合流する。

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狩川 

まっすぐな県道で東興野集落をぬけると田園の広がりがみえてきた。出羽山地をぬけて庄内平野にはいってきた実感がわく。日本海も遠くはない。のんびりと回転する風力発電機がのどかさを増幅させる。

右手街道沿いに大木が二本聳え立っている。赤松の並木に覆われた熊野神社の参道がのびていた。進んでいくと陸羽西線の線路で分断されている。その先にも参道は続いていたがそこで引き返した。熊野神社の森は豊富な植物相を有し、庄内平野の自然の姿を残している場所として知られる。特に神木のエゾエノキの巨木は「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれて親しまれている。

狩川集落に入ってきた。駅前通りから街道が左折していく立川町狩川信号までの間には旧街道宿場町の面影を残す落ち着いた家並みが見られる。駅前通りとの丁字路角に構える屋敷は周囲を黒板塀で囲い込み、冠木門を構えた大屋敷である。塀の内側にはいくつもの白壁土蔵が屋敷林の間に見られる。

狩川は城下町であると同時に、これまで最上川に沿ってきた舟形街道がここで進路を南に向けて目的地の羽黒山に向かう重要な宿場でもあった。地図をながめると狩川を起点として、北西に酒田をめざす国道47号と南西にむかって鶴岡に向かう国道345号がきれいに扇の両端を描いているのがわかる。舟形街道は県道46号となってほぼ直角に南に向かう。

信号をおれてすぐ左手に冷岩寺、右手に八幡神社がある。神社の境内に「牛馬遠祖 食保大神」の石碑がある。「食保」の文字が逆だが、保食大神(うけもちのおおかみ)は日本書紀の食物起源神話に登場する神である。牛馬のもならず米、粟、小麦、大豆等古代穀物の祖でもある。珍しいものを見た。

冷岩寺の手前の路地を入り込み楯山公園による。頂上に築かれた狩川城跡地である。狩川城は南北朝時代に北畠氏の武将斎藤新九郎俊氏が築いたとされる。南北127m、東西91mの細長い形態だった。その後庄内地方が上杉氏の領有に移り、重臣の直江兼続によって検地が行われたが、これに対して抵抗する一揆が起き、狩川城もこの拠点となった。

慶長6年(1601)、関ヶ原合戦において西軍側へ味方した上杉氏は庄内地方を没収され、最上義光へ与えられた。義光は狩川城の城代として北館大学利長を任じ、狩川・清川・立谷沢の3000石が与えられた。大学利長は慶長17年(1612)に立谷沢川から引水し総延長32kmの北楯大堰を築いて新田開発を行った。堰完成後30年にして狩川の石高は10倍に増えたといわれる。元和元年(1625)、一国一城の制度によって狩川城が破棄された。

城跡はグラウンドゴルフ場に変わっており、周辺一角に空堀の跡らしき地形が残っているほか、遺構はない。

跡地の一角に立派な北館大学利長像が建立されて、極めて詳しい説明板が建てられている。城よりもなによりも、狩川にとって大事なのは北楯大堰だったことがうかがえる。

県道46号にもどって南下を続ける。舟形街道は清川から南にのびる山地の西麓を縫うように延びて、県道46号は小さな扇状地に形成された集落の西端をつなぐようにつけられている。西側はただ区画整理された水田がひろがるのみである。集落に着くたびに県道よりも山側に集落の中央を突き抜ける旧街道が残っていた。

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三ヶ沢 

狩川から最初の集落は添津である。旧道を歩いていると右手の空き地に大小二つの祠が並んでいて小さいほうには地蔵が、大きな祠には羽州街道土生田でなじみになった六面幢が収められている。六地蔵が浮き彫りされた立派なものである。

並木の名残を思わせる木々が残る道の左側には水が流れている。懐かしさのただよう集落であった。道なりに県道にもどって次の集落に移る。



次は三ヶ沢であるが、この集落内の道は複雑で県道と山際との間に2、3本の道があみだくじ状につながっていて、どれが街道筋か結局わからずじまいだった。

集落の北東はずれにあたる位置に光星寺稲荷大明神がある。寺よりも稲荷のほうが有名である。赤鳥居と赤地白抜きの幟が刺激的だ。

集落の中央付近に御嶽神社、そばに起屋根付き玄関をもったレトロ風な建物に「三ヶ澤部落公民館」と墨書きされた看板がかかっていた。

道を適当に左右に選んで南に進むと三ヶ澤の堰南地区に出た。ここには土蔵、板塀の家並みが残っている。旧道はここにちがいないと独り思い込む。

そこから東に歩いていくと山裾に「天然記念物 三ヶ沢の乳イチョウ」と記された標石に出会う。これも行き当たりばったりの収穫である。寺の境内中央に銀杏の巨木がデンと構えて巨大な乳を惜しみなく垂らしている。壮観である。正式には「柱」といい、解説によると「乳状に突起したもので担根体といい、その構造は根と違って軟らかい細胞からできており、多くのでんぷん質を蓄えている。乳白色状の乳と同じような樹液が流出する」という。乳が出るとまでは知らなかった。

その先を右に折れて斜めに県道に接近して合流する。

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手向 

次の添川集落は県道がそのまま昔の街道のようで、家並みが両側に続いている。集落の入り口付近左手に御堂があってその前に大きな庚申塔と湯殿山碑が目を引いた。説明板はなさそうだ。

右手街道沿いに木立に隠れた茅葺の民家を見つけた。旧道の証だろう。

左手に大きな図入りの「新奥の細道」案内板が建っている。「根子杉」が目玉のようだ。地図にしたがって行ってみたが、山道にかなり入っていっても一向に根子杉にちかづいた気配がない。周囲の杉木立からしてその中の目玉杉は相当な巨大杉だろうことは想像できた。

里までもどる。途中の道を南にたどる。途中、林の一角に鉄柵に囲まれた墓石があって傍に梅津中将墓碑」の標柱が立っていた。鎌倉時代の宝治年間(1247−49)、執権北条時頼より出羽の国の探題として派遣された武将で、羽黒山長吏職を兼ねていたといわれている。

その先左手に長い石垣が組まれその上に大きな屋敷跡がある。回り込むと白壁に蔦がからみついた土蔵と立派な門が残っている。人の住んでいる気配はない。これが、案内図で示されていた旧地主鈴木邸だろう。

県道に戻る。丁字路角に白い標柱が目に入って、近寄ってみると「羽黒街道追分」と記され、自然石の追分道標がある。羽黒街道とは舟形街道をいうのであろう。山に向かっている道は「xx山神」と刻まれている。道路標識には「筍沢温泉5km」とあった。羽黒山の真北に位置する。

京田川を渡った右手に大きな石に「聖徳太子塔」と刻まれていている。寛政3年(1791)添川村の職人たちが建立したもので、京田川の河原にあったものを街道筋に移転した。

その先で150mほどの旧道が左に、県道が右にわかれ、互いに弧を描いて合流している。そのすぐ先右手に「歴史の道」の説明板が建っていて200mほどの古道が残っている。

最初の宿場清水の手前にあった以来の二度目の古道である。山道を登っていくと高台に石塔群があった。なかでも深々と刻字された庚申塔と元文5年(1740)の青面金剛童子碑は目立つ存在だ。その奥にみえる建物は「鶴岡市藤島農村環境改造センター」である。

県道にもどって2kmほど、家並みもまばらな山間の道をぬけると舟形街道終点の手向宿入り口に到着する。丁字路で、左にいくと手向宿場、羽黒山の門前町、宿坊街に入っていく。右におれると、まもなく道をまたいで建つ大鳥居をくぐって荘内の中心地鶴岡に向かう。

ここから先は左も右も、奥の細道にゆずろう。左は出羽三山巡礼の道。右は鶴岡市内から日本海の酒田まで名もない道である。

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(2012年10月)
舟形街道



舟形−清水本合海古口清川狩川三ヶ沢手向
いこいの広場
日本紀行