柿崎

大清水観音堂から国道8号にもどり、西に向うとすぐ柏崎市から上越市にはいる。市境から2kmほどで旧街道は国道と分かれて右の県道129号に入っていく。

町並みに入って間もなく、右手福沢酒店の先の二股を左にとるのが旧道筋である。ここは柿崎宿東の枡形跡で、街道はすぐに丁字路に突き当たり右折する。左手角の民家脇に浮彫の指差し道標があり、「右山みち 左奥州道」と刻まれている。

家並みはみな新しく、旧街道の香りは全くない。中心地と思われる住吉町交差点から一筋西の十字路右角に「元問屋」という割烹旅館がある。さてはここが問屋場であったかと、一瞬胸を躍らせたがどの資料にもそれらしき情報はなかった。

その十字路を左にはいっていくと浄善寺がある。本堂がインドのパゴダをまねたコンクリート造りで、およそ仏教寺院には見えない。度重なる火災に業を煮やして昭和3年に完全耐火寺院として再建された。門前に「親鸞聖人のお枕石・扇屋渋々宿跡地」の碑がある。旅館扇屋の跡地で、親鸞聖人が越後配流の折、扇屋に一夜の宿を求めたが宿の夫婦は冷たく断った。聖人はしかたなく扇屋の軒下で石を枕に一夜を過ごした。浄善寺にはその石が安置されているという。

旧街道は黒川神社の先で柿崎橋をわたった先で線路に分断されている。少し先で右折してガードをくぐり線路の海側を川に向かって分断された延長線までもどる。上越建設工業前で舗装がとぎれた先にもすこし土道が残っていた。

旧道は県道129号に合流する。この東方600mほどに、国道8号の馬正面(ばしょうめん)信号交差点がある。このあたりに古代北陸道の佐味(さみ)駅家があったとされる。

北国街道は砂丘に沿った砂防林の中を行く。

右手、林の中に石碑が見える。柿崎から大潟にかけて犀浜と呼ばれる砂原に黒松の防砂林を完成させた藤野条助(1649~1760)の顕彰碑である。藤野条助は内陸、尾神村(吉川区尾神)の庄屋、藤野家の22代当主であった。そと者による事業に地元民の協力がなかなか得られなかった。碑は藤野家縁故者による個人的なものである。

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潟町 

上越市柿崎区上下浜から大潟区雁子浜に入る。

右手に人魚塚公園の案内標識が立つ。海に向かってはいっていくと砂丘の一角に小公園が設けられ、常夜灯と「人魚塚之碑」が建っている。ここ雁子浜には昔から人魚伝説があり、それを題材にして上越高田の童話作家小川未明が「赤いローソクと人魚」を書いた。人魚伝説とは短く言えば佐渡の娘と雁子浜の若者との悲恋物語である。

『人魚は、南のほうの海にばかり住んでいるのではありません。北の海にも住んでいたのです。北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に女の人魚があがってあたりの景色を眺めながら休んでいました。・・・』

旧街道(県道129号)は鵜の浜温泉街をとおりぬけていく。通りは温泉街らしくない。昭和31年(1956)帝国石油による石油試掘の際に湧出した戦後の温泉である。

街道を歩いているぶんには気づかないが、鵜の浜温泉街を挟んで上下浜駅から土庭浜駅にかけて北陸自動車道の東側には多くの潟が点在していて、広大な低湿地帯であったことを思わせる。昔は街道も潟を縫っての道筋であったのだろう。

正法寺の少し先右手に古そうな石井戸がある。水路が整備されていて、地下を通って街道の左側の池に注いでいるのだ。「どんとの石井戸」と呼んでいる。北国街道潟町宿場の東端にあたり、江戸時代から清水が湧き出していた。付近には水車のある酒店があったという。

右手阿部畳店の向かい丁字路の角に道標があり、潟町駅方向に「米山道」、北国街道に面して「左奥州道」とある。「左」は新潟方面を指している。

少し先左手に「明治天皇潟町行在所」の石標の立った古い構えの家があった。玄関の起り屋根が重厚で貫禄がある。



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黒井 

犀潟駅前通りを通過して県道129号は県468号に代わる。

左手、八千浦小学校入口に順徳天皇御駐輦所の碑がある。明治天皇の駐輦所、小休所はよく見かけるが、順徳天皇駐輦所とは唐突な感じを受ける。しかも何の説明板もない。承久3年(1221)、順徳天皇は佐渡に配流となった。佐渡へは寺泊から渡ったことになっている。都から直江津を経ての途次のことであろうか。あまりこだわらない方がよさそうだ。

黒井宿に入ってくる。左手、本敬寺門前に黒井宿の説明板が立っており、境内六地蔵脇に芭蕉句碑がある。

  さびしさや花のあたりのあすならふ

句は次の句文と共に笈日記に掲載されているもの。

「明日は檜の木とかや、谷の老木のいへる事あり。 きのふは夢と過て、あすはいまだ来らず。ただ生前一樽のたのしみの外に、あすはあすはといひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ。」

句碑説明板の中に、「奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅龍屋伝兵衛で休んだのに因み寛政の頃、地元の俳人熊倉平十郎幸亭らによって建てられた句碑と言われている。」とある記述が気になった。

7月6日の芭蕉一行の足取りは、昼頃鉢崎を立って黒井からまっすぐ浜を通って関川を渡り今町(現直江津)に到着。聴信寺に泊まる予定だったが相手はいい顔をせず、結局古川市左衛門宅に泊まることになった。曽良の日記には黒井で休んだことは記されていない。旅龍屋伝兵衛がどこにあったかについて、黒井宿の案内板には触れていなかった。

黒井宿の始まりは、今から約400年前の天正年間(1573~1593)とされ越後府中(直江津)と奥州とをつなぐ最初の宿場として栄えた。江戸時代に高田に城が築かれた後は、春日新田の次の宿場として利用された。黒井郵便局あたりが黒井宿の中心地だったのだろう。街道はその先の丁字路を左折して県道122号に移る。

高田城が築かれる以前の北国街道は芭蕉が通った道筋で、国府から直江津を通り、関川河口付近で川を渡って浜伝いに黒井宿に至った。直江津(現在の上越市中央)は古代北陸道の水門(みと)駅家があったところとされている。佐渡への渡船場でもあり交通の要衝であった。

近代の北国街道は県道122号で黒井駅に向かう。右手に黒井神社があり、町並みにかすかな宿場の残り香を感じないでもない。

街道は黒井駅前を通過して踏切を渡り、佐内橋で保倉川を渡る。佐内町の2つ目の曲尺手の角に「筆塚」と、「右 さいみち」「左 おう志う道」と刻まれた道標が立っている。「おう志う道」は新潟方面への「奥州道」であるが、「さいみち」はわからない。

旧道はみちなりに左にまがって400mほど南下、県道488号を右折して小町橋を渡り、春日新田宿に入っていく

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春日新田 

春日新田信号で国道360号を横切ると、右手覚真寺の参道入口に春日新田馬市跡の標識が立ち、参道を入った左手に馬頭観音と天保12年(1841)の又左衛門(高浪忠太夫)の墓がある。

春日新田馬市は宝暦14年(1764)この地の又左衛門(初代の高浪忠太夫)が秋田から馬を買ってきて、馬市を開いたのが始まりと言われる。当時、春日新田は天領で秋田城主佐竹家の預かり地であった。秋田は名馬の産地であった為、秋田藩も積極的に又左衛門の馬売買を保護した。

宿場町の面影を偲ばせる旅籠風の民家が建つ。その先には藥医門を構えた立派な家が旧家然とたたずんでいる。黒板塀を見越す松の姿も風情がある。本陣跡かと思ったが特段の案内札は見かけなかった。それにかわって上越市議会議員事務所の立て看板があった。

十字路交差点あたりが宿場の中心地だったのだろう。二階に虫籠窓を切り、袖壁を設けた商家風の建物の前に春日新田宿の案内板が建っていた。慶長19年(1614)高田城の築城により、福島城は廃城となり、又関川に掛かっていた橋も壊され奥州方面から今町(現直江津)に行く旅人、北陸方面から直江津を通り北に向かう旅人も全て高田を通るように街道が設けられた。春日新田は高田から奥州方面へ向かう最初の宿場としてつくられた。春日新田には本陣(間口8間=14.4m)をはじめ、旅籠が6軒あったという。

旧街道は案内板のある交差点を左折して高田に向かうが、ここで交差点を右折して福島城跡に寄っていく。

信越本線の踏切を越えたすぐ右手に春日神社がある。天徳2年(958)当時の国府府内一般の鎮守の神として、蜂ケ峯(現春日山)上に勧請されたのが始まりである。後に上杉謙信の築城に際し、城の鬼門の守り神として蜂ケ峯の麓に移された。慶長12年(1607)春日山城主堀忠俊は春日山城を廃し福島城を築く折に、春日神社も新城下の春日町(上越市春日新田)に移し勧請したものである。なお、慶長19年(1614)、松平忠輝が福島城を廃し高田城を築城した際も、同じく新城下の竪春日町(上越市本町1丁目)に当社を勧請した。社殿は移築されず、結果三か所に春日神社が存在する。

春日神社からさらに北に進み保倉川を渡った先の港町1丁目バス停のある交差点を右折、まっすぐ東に歩いて国道350号を横断し、最初の十字路を左折すると五差路交差点に出る。右手の古城小学校が福島城址である。校門を入った構内左手に福島城址の石碑が建っている。福島城は慶長12年(1607)に完成され、同19年に廃城となった短命の城である。上杉景勝会津移封の後に春日山城主となった堀秀治により、山城である春日山城に代わるものとして築城が始められた。堀忠俊の代に完成し、慶長12年(1607)に忠俊は春日山城を廃して福島城へ移った。慶長15年(1610)堀忠俊の改易後徳川家康の子松平忠輝が福島城主となる。忠輝は慶長19年(1614)、内陸部に高田城を築城し、福島城は廃城となった。福島城跡からは石垣遺構や陶磁器片などが出土したが、縄張りの全体像や建造物については判明していない。城を移した理由は明らかでないが、毎年、雨期になれば関川、保倉川が氾濫するからだという。

福島城址から戻る途中、そのまま北へ足を延ばし直江津港を、春日神社前の丁字路を西にいって関川にかかる直江津橋を見た。直江津橋を渡るとJR直江津駅がすぐである。上杉謙信の時代直江津橋の近くに応化(おうげ)の橋があり通行税を課していた。松平忠輝の高田城築城によりこの橋は壊され、江戸時代をとおして関川は渡しのみとなった。明治5年(1872)になって再び橋が架けられた。

春日新田宿を通り抜けて国道8号の下門前信号を横断、旧道はここから県道186号になる。北陸自動車道を潜り富岡を経て高田城下への入口、稲田に至る。稲田の集落には半暗渠の水路に沿って古い家並みが残っている。宿場に多い妻入りとは違ってここはほとんどが平入の建物である。雁木で繋がった長屋が続いているように見える。一階の庇から二階の屋根に梯子を架けているのが特徴的で、雪降ろしのためかと想像した。

稲田3丁目信号を右折して稲田橋を渡り、高田城下に入る。

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高田 

橋を渡ってすぐ右折する。稲田橋の西側、東本町5丁目(旧鍋屋町)に稲田口番所と高田銭座があった。ここは高田城下から奥州街道へ行く出入り口である。松平忠輝は高田城築城にあたり、軍事上の目的と高田城下の繁栄のために関川河口の往下橋を廃止した。従って糸魚川方面から新潟方面に行く旅人は五智から加賀街道を通り、陀羅尼口番所(北本町3丁目)を通り高田城下に入り、稲田口から奥州街道を利用しなければならなかった。その為今町(直江津)の発展は大きく阻害された。

旧道はここから北国街道信濃路との合流点である本町7丁目交差点まで、三か所の曲尺手を経るジグザグ道である。東本町5丁目の十字路を右折し岳陽堂の角を左折する。通りは直線的で中央に融雪設備を敷き、両側の家並みは雁木で連なる。稲田町と同様、ここでも建物は二階平入で統一されているようだ。軒下になにやら吊るされているが、大根ではなさそうだ。乾いてひも状になっている。干しズイキといい、八頭芋の茎を乾燥させるのだそうだ。

東本町4丁目に直江八幡宮が杉木立に囲まれて品格ある佇まいを見せている。創立年は不詳だが、直江津の地にあった延喜式の「江野神社」であると伝える。松平忠輝の高田築城にともなって城下に遷された。

突当りの丁字路を左折、次の十字路を右折する。

東本町3丁目信号を横断し、青田川に架かる往下橋を渡って左折、右折して筋違いの本町7丁目交差点に出る。交差点手前に二階の格子が美しい老舗らしい小川呉服店があり、店主が暖簾を上げようとしている時だった。

交差点を右折した右手に宇賀魂神社があり、かつて本町7丁目交差点にあった道標が保管されている。道標には「右 おゝしう道 左 かゝ道」と刻まれている。高田から新潟、村上に向かう北国街道を「奥州道」、金沢、越前に向かう北国街道を「加賀道」と呼んで区別した。北国街道は高田城下を避けてその北側を通り抜ける道筋になっている。ここは中山道追分宿を出た北国街道信濃路の終点でもある。

ここよりしばらく高田城下町を散策する。高田宿は信濃路筋の本町通り(県道198号)を中心に形成された。高田駅の西側は寺町で63の寺院が密集している。

本町6丁目と5丁目の間、本町通りの二筋東の通り(大町通り)に旧今井染物屋がある。約150年前の江戸時代に建てられた高田を代表する町家建築である。切妻平入造りで棟が低く、屋根の傾斜が緩やかである。雁木の形式は庇だけを前に出す「落とし式雁木」でなくて、古い形式の「造り込み式」となっており、雁木の上に部屋が造られている。黒基調の全体として簡素な外観となっている。

大町通り商店街も雁木の町並みつくりに熱心で、軒下に干し柿や干し大根を吊るした家が多い。町づくりの協力事業であるらしい。ここも東本町でみたように、比較的低い二階建て平入の民家が町ごと長屋のように雁木で繋がれている町並みは懐かしい趣がある。


本町5丁目交差点が高田駅前である。芭蕉が今市から高田にきて泊まった宿(池田六左衛門宅)が、この付近であったといわれる。駅前から一筋東の南北の通りが仲町通りであるが、その通りを南に入ったところが芭蕉の泊まった池田六左衛門宅跡だという。かつては石碑があったらしいが、市の区画整理事業のため除去されて今は何も残っていない。

仲町通りをすこし歩いてみる。現役の金津桶店の先に旧金津憲太郎桶店がある。両店は何の関係もない。旧金津桶店の前には「桶屋町」の標柱が立っている。桶屋町には桶屋が49軒、籠屋が2軒あったと記録にある。2軒だけ残っていた桶屋も、昭和末期に金津憲太郎氏が亡くなって、現在は先に見た金津桶店1軒だけとなってしまった。旧金津桶店は江戸時代後期の町家と推定されている。間口3間、切妻造平入で雁木は造り込み式雁木の形態をとっているが、旧今井染物屋と違って雁木上に部屋は無い。こちらの造り込み式の方がさらに古い形態という。

仲町通りを引き続き南に歩く。けばけばしい若い女性の顔入り看板がビルの横壁を覆っている。どうやら仲町は歓楽街の風情である。その先に遊郭の名残ではと思わせる建物が目に入ってきた。料亭宇喜世という老舗料亭である。江戸時代末期の書院造りの建物は国登録有形文化財ということだった。それにしても入口があでやかである。

料亭宇喜世の建つ十字路を右に折れて線路の西側に広がる寺町へ移動する。町の規模だけでなく寺の密度も圧倒的である。北の寺町3丁目から南の1丁目にかけて63の寺院が集まっている。その多くが春日山城下、福島城下、府中から移転してきたものである。その中で中心的な存在をなすのが淨興寺であろう。

越後に配流になった親鸞が建暦元年(1211)流罪を解かれのちに常陸国に開いた草庵稲田禅坊が起源とされる。その後度重なる火災で各地を転々としたのち永禄10年(1567)、上杉謙信の招きにより越後春日山に落ち着いた。高田城築城に伴い現地に移転してきた。延宝7年(1679)の建立とされる入母屋杮葺きの荘厳な本堂は国の重要文化財である。

境内には親鸞の遺骨を納める本廟がある。

高田散策の最後に高田城跡を訪ねる。本町3丁目交差点から枡形を通って東に進むと大手町を渡って高田城跡の高田公園に入って行く。

高田城は家康の6男松平忠輝が慶長19年(1614)福島城を廃して建築し、伊達政宗・上杉景勝などによる天下普請で築かれた。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヵ所、御茶屋台1ヵ所などが設けられていた。その後火災や地震の度に縮小再建されたが、明治3年(1870)の火災を最後に以後再建されなかった。高田城は、慶長19年(1614)から8家18代の城主が交替し、257年間続き、明治4年(1871)にその幕を閉じた。平成5年に御三階とよばれた三重櫓が再建された。

町内散策を終えて本町7丁目交差点に戻る。ここから加賀街道を行くことになる。

川をわたり北本町1丁目交差点を右折して高田城下をでていく。北本町の家並みもまた同様に二階建て切妻平入の長屋スタイルである。一階、二階をつなぐ梯子が常設されているのも見慣れた風景となった。

街道は北上し北本町2丁目で左斜めに折れた後県道13号を横断する。この辺りに陀羅尼口番所一里塚があった。石碑等は見当たらない。

白山神社の先で右斜めにおれて真北に方向転換する。川を渡った先で左に曲がり、木田新田に入った直後の丁字路に追分地蔵がある。傍には春日村道路元標があった。地蔵には「左かゝかいたう」「右いまゝちみち」と刻まれている。加賀街道が北国街道で、今町とは芭蕉が泊まった直江津市街である。芭蕉は黒井からまっすぐに浜道をたどって関川を船で渡り、直接今市に入った。二日後今町から高田に行く際は春日新田経由でなくてこの道を通ってきたのではないか。

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中屋敷 

藤新田信号で県道63号を横断、北陸自動車道を潜って変則五差路を右折して春日山町信号で県道180号に合流する。交差点の左角に「史蹟春日山城趾」の石標と案内板が設置されている。

頚城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉謙信公の居城地であった。この山上に本丸を構え、二の丸、三の丸をその下に配し、土塁濠を重ねて比隣に勢威を示した。春日山は別名蜂ケ峰と称し眺望に富み付近の属城を充分に監視することが出来た。本丸跡の後方、一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがなく、ぞの北方に毘沙門堂及び御花畑があった。また西方には鐘楼跡や景勝屋敷跡等があって、南方のニの丸、三の丸方面に家臣の屋敷跡が点在し、規模は極めて雄大である。 上 越 市

春日山町交差点のすぐ北に「中屋敷」のバス停がある。このあたりに中屋敷宿があった。春日山城下の東麓を南北に北国街道(加賀街道)が抜けていく。中屋敷宿は城下町の中心左手の民家は板壁で覆った土蔵を持ち、街道に面した壁の一部だけ覆いを開けている。そこから漆喰土蔵の窓がのぞき、漆喰には装飾的な鏝絵が施されている。道行く人から良く見えるように配慮されている。

沿道の家並みに宿場町であったころの面影はなく、わずかにバス停と郵便局に「中屋敷」の名が残っているのみである。地図をみると地名としての「中屋敷」のあるが、春日山城を中心としてその周囲に、中屋敷、大豆、中門前、春日山町が複雑に絡み合っていて、中屋敷地区を一地区として特定するのが難しい。

御館川を渡ったところで県道を左折して春日山城趾に向かう。すぐ右手入ったところに春日神社がある。天徳2年(958)創建の古社である。越後国府々内全域鎮護の神として、奈良春日大社の分霊を勧請し鉢ケ峰上に祀った。以後この山を春日山と称するようになった。永徳年間(11381)守護代長尾高景が、春日山城築城に際し現在地に移し、春日山鬼門鎮護の神として、当地方の鎮守の神として祀った。その後、城が春日新田、高田と遷るに伴い春日神社もそれぞれの地に建てられた。

長尾家、上杉家の菩提寺林泉寺に寄る。明応6年(1497)上杉謙信の祖父越後守護代長尾能景公が、父重景公の十七回忌にあたり、越府鎮護の古寺址を浄め、長尾氏の菩提所として建立された、曹洞宗の名刹である。茅葺の可愛い惣門は、春日山城の搦手門を移築したものであると言われている。謙信が幼少の時代ここで学んだ。

春日山城趾に着く。春日山神社がある。直線的で安定した神明造のこの神社は明治34年(1901)に、童話作家小川未明の父である小川澄晴によって創建された。山形県米沢市の上杉神社より分霊され、上杉謙信を祭神に祀った神社である。

その先の断崖から上杉謙信が鋭い目付きで上越市内を見下ろしている。上杉謙信の居城として知られる春日山城は、今から600年程前の南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされる。その後、謙信の父為景・謙信・景勝の三代にわたり普請に努め、現在見られる大城郭になった。しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るに不便として、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城はその役目を終えた。

天守までは大手道をたどっていけるらしいが、当日は謙信像の下まででその先は通行禁止となっていた。

茶屋の脇から春日山(鉢ケ峰、蜂ケ峰)の頂上付近とそこにつながる大手道の一部がながめられた。

街道にもどり県道185号を北に進む。街道をはさんで西側が国府、東側が加賀町となる。このあたりは越後国の国府があったところと考えられていて、江戸時代になって高田城下ができるまでは上越地方の中心地であった。国府や国分寺が置かれ、古代北陸道の水門駅家が設けられた。直江津は国府の外港して古くから栄えていた。

沿道にわずかながら街道松の名残が見られる。左手に加賀街道の説明板があった。加賀街道は江戸時代、北陸と江戸をむすぶ大切な公道で、正式には北国街道と言う。加賀百万石の殿様や北陸の大名達は特別のことがないかぎり、この街道を通って参勤交替をしなければならなかった。街道の管理を高田藩がしたので、松並木は高田藩が植えたものと思われる。昭和10年ころ松並木は100本以上も数えられたという。

国府交差点で国道8号を横断、JR日本海ひすいライン線の踏切手前左手に親鸞が竹ケ前草庵時代に生活用水として使っていたという柳の清水がある。

踏切を渡った左手にある
本願寺国府別院が、親鸞が越後にながされたあと妻の恵信尼と4年間をすごした竹ケ前(たけがはな)草庵の跡である。江戸時代に入るとこの配所跡に参拝者が多くなり、文化2年(1805)現在の本願寺別院が建立された。別院と柳の清水はともに別院の所有地であるが北陸線(現日本海ひすいライン線)の開通によって分断された。

別院から県道にもどる。旧北国街道はその先で県道と分かれて直角に左に折れる。バス停の先の十字路を右折、国府1丁目町内会館前の五差路を直進し五智国分寺に向かって北に進むのが旧道筋である。

旧道から離れて左手にある居多(こた)神社に立ち寄る。この神社は越後国司、越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護を受け越後国一の宮として崇敬されてきた。創建は不詳であるが式内社である。南北朝時代から越後国一宮を主張、弥彦神社と競合しているが、勢力の差は歴然である。社殿は平成20年(2008)に造営されたばかりで新しい。

境内の一隅に片葉の芦が群生している。親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという。この片葉の芦は「越後七不思議」の1つにも数えられている。片葉の芦を他の地でも見た気がするが思い出せない。

街道に戻りすぐのY字路の間に五智国分寺の参道が出ている。

天保6年(1835)再建の
仁王門をくぐると右手に小振りで清楚な白木の三重塔が建つ。三重塔は寛政6年(1794)の焼失後の安政3年(1856)に再建を着工し、慶応元年(1865)に棟上がされたが高欄等は未完成である。上越地方では唯一残る塔である。

左手に芭蕉句碑がある。

薬園にいづれの花をくさ枕

元禄2年(1689年)7月8日、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。

天平年間に聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地はわかっていない。永禄5年(1562)近隣の日山城主上杉謙信によって現在の場所に再建された。その後幾度となく災興を繰り返し現在の本堂は平成9年に再建されたものである。親鸞聖人は越後配流後、一時期本堂の右奥にあった竹ノ内草庵に住んでいた。

旧道にもどる。二股を右にとって国分寺入口交差点で県道468号を横断して浜辺の道にでる。居多ヶ浜(こたがはま)に展望台が設けられており、多くの観光客が出入りしている。浄土真宗の開祖親鸞聖人は承元元年(1207)旧来の仏教による弾圧を受け、帰依していた法然に連座して京を追放され越後国府に流されることになった。聖人は北陸道を下って木浦(能生町)から船で国府にいたり、この地居多ケ浜に上陸したと伝えられている。親鸞聖人は、35歳から42歳までの7年間をこの国府ですごした。

旧北国街道はここから一路日本海の海岸に沿って越中国境の市振を目指すのであるが、浜伝いに東に向かうと関川河口付近に一団の史跡があり、それらを見て行くことにした。

関川河口の堤防下に琴平神社がある。その境内に新旧二つの芭蕉句碑が置かれている。刻まれている句は同じであった。

文月や六日も常の夜には似ず はせを

「明日は七夕である。一年に一度の牽牛、織姫の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ。」という句意と思われる。

元禄2年(1689)七夕の前夜直江津での作句である。芭蕉は今町の聴信寺で宿泊を断られ、松屋という旅館を営んでいた古川市左衛門宅に泊まった。夜、句会が開かれ、そのときの発句として詠んだものである。古川市左衛門宅跡は直江津郵便局の西向かい辺りであったという。今は駐車場で、何の痕跡もない。

古い句碑は文化年間地元の俳人福永里方らが建てた句碑を慶応年間に福永珍玩らが再建したものである。新しい句碑は三八朝市周辺まちづくり協議会が建立したようである。

琴平神社のさらに川縁に二基の五輪塔がある。安寿と厨子王の供養塔である。今から約920年前、悪人の謨言により陸奥岩城(福島)の国信夫郡の国守岩城判官正氏は筑紫に流された。妻と召使いの姥竹は安寿姫(14才)と厨子王丸(12才)の二子を連れて岩城からはるばると父を尋ねて行く途中、この直江の津の應化の橋の袂で山岡大夫にだまされて母親と姥竹は佐渡の二郎に、安寿姫と厨子王丸は越中の人買、宮津の三郎に売られた。知らずにいた四人も港を出ると北と西とに漕ぎ別れていく舟にそれと気付き、子を呼ぶ母、母を呼ぶ子、その悲嘆のうちに身を投げた姥竹を土地の人々が厚く弔ってここに塔を建てた。その後、安寿姫は悲しみの余り沼に身を投げ、死んでしまった。そこで姥竹の塔の脇に又、小さな塔を建てて弔った。森鴎外の山椒大夫文学碑もある。

ここは直江の浦である。日はまだ米山の後ろに隠れていて紺青のような海の上には薄いもやが掛かっている。一群れの客を舟に載せて纜を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で客はゆうべ大夫の家に泊まった主従四人の旅人である。

一方、身を立て名をあげた厨子王は母を訪ねて佐渡へ旅立った。道端で見たのは、蓆の上で繰り返して口ずさむ鳥追いの老女であった。

安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しや ほうやれほ
鳥も生あるものなれば 疾う疾う逃げよ 追わずとも

直江の津を舞台とした悲劇を小学校の学芸会で見て、子供心に涙した思い出がよみがえる。


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長浜
 

居多ヶ浜の旧道にもどり西に向かう。県道468号に合流してまもなく郷津信号で国道8号に合流する。国道と並行して歩道者、自転車専用の「久比岐(くびき)自転車歩行者道」が延々と糸魚川市押上まで約33kmにわたって設けられている。かつての北陸本線の旧線跡を利用したものだそうで、旧街道の道筋とは関係ない。

長浜交差点で左の旧道にはいる。谷浜郵便局あたりが宿場の中心であろうか。バス停も駅名もみな「谷浜」で、「長浜」宿を通っている実感がない。素朴な民家をみかけるだけで谷浜集落を通り抜けた。民宿を2、3軒見かけた。海水浴シーズン用のものであろう。

国道8号に戻って西進する。桑取川の手前の有間川信号を左折し100mほどで右折して川を渡り有間川集落に入る。家並みには新しい家が多く閑静な住宅街の雰囲気である。有間川も宿場であったとする資料もあるが、長浜宿とはわずか3kmしか離れておらず、長浜宿の相宿だったのだろうと思われる。

旧道は集落の西端近くの二股を左にとり、坂を上がっていく。有間川保育園前の丁字路を左折し、すぐ右の山道に入っていく。昔はまっすぐにつながっていたのだろう。右手下に有間川の駅と漁港がよくまとまって覗かれる。

山道をしばらくたどっていったが次第に山深くなっていく。その先の道筋に自信がなく、保育園前まで引き返した。

車道で坂を上り丹原集落内の十字路に出た。左の細道に入っていくのが旧道筋らしい。しばらくたどってみたが、民家の庭先を縫うような細道である。十字路に引き返し車道を直進して集落を抜けた。広い田園地帯に出る。前方近くに北陸自動車道が走っている。十字路に、直進は「西横山」右は「鍋ケ浦」の標識が立っている。右折して川をわたり突き当りを右折、その先の三叉路を左折して車道に突き当たる。右にいけば国道8号に出る。旧道は左折して右に曲がり、三叉路を直進する。道なりに蛇行をしながら吉浦集落内の丁字路に突き当たる。右折して吉浦集落を北に抜けていく。

家並みが尽きたあたりで二股を左にとり、その先で左に半円を描いて回り込み、丁字路を右折すると茶屋ケ原集落である。集落内で左方向に90度曲がって丁字路を直進、道なりに右に大きく曲がり込んだ後、左に曲がってようやく直線の道に入る。

途中いくつか左の家並みに入っていく路地があるが、すべて無視して本道をまっすぐ進んでいく。家並みがしだいに疎らになったところで迷いそうな二股が現れるが、ここも右をまっすぐに進んでいく。民家は途絶え林中の道をしばらくいくとやがて右手に乳母ヶ岳神社がある。いかにも古そうだがしっかりとした繊細な彫刻が施された社殿である。

道はその先浅い切通しとなりやがて視野が開けて道は草道となった。

右手前方に日本海が見えてくる。明るい段丘の草道を歩いていくと左手に小さな道標を見つけた。
「左神社道 右山道」とある。「神社」とは乳母ヶ岳神社のことであろう。

こんどは日本海に滑り落ちそうな斜面に木の標識を見つけた。「加賀街道」と書かれている。歩いているのは頼りない草道だが、加賀藩大名が参勤交代で通った道に間違いなさそうだ。

畑地を縫う農道となり、薬師堂の祠の前を通って突き当りを右折、道は藪の中に入っていった。通行止めとなっているが、藪は浅くまた周囲は明るい。熊もいそうにない。早足に進んでいくと間もなく車道に出た。

県道87号を横切って旧道らしい道をたどったが、まもなく県道に戻ってしまった。つづら折りの坂を下って北陸自動車道名立谷浜IC信号で国道8号に出る



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名立(なだち) 

国道8号に出てすぐ左の旧道に入る。

曲尺手の手前左手(高津豆腐店の南隣)に無縁塚がある。寛延4年(1751)4月25日上越市高田を震源地とする大地震があり、裏山が崩壊、陥没し名立小泊村のほぼ全村が一瞬のうちに呑み込まれ、死者400余名と民家80余戸を失う大惨事となった。「名立崩れ」として知られる震災の供養塔である。

曲尺手の先左手に「宗龍寺」がある。ここは永禄2年(1559)に創建されたお寺だが、名立崩れで海中に押し出されたという。その百年余の後、異様な海鳴りに気付いた漁師たちによって、明治初年ごろに海中から引き揚げられた「竜宮の鐘」がある。鐘は安土桃山時代以前の作といわれる。鐘のいぼが三分の一欠けているのは震災のためであろう。

町並みに旧街道の匂いはないが、ここ名立大町は古代北陸道の名立駅家が置かれた所である。遺構等は発見されていない。

正光寺前にある曲尺手を経て、二つ目の路地を左に入ったところに名立寺がある。永正年間(1504~1520)の開基と伝わる。度重なる火災で焼失し、本堂は昭和10年に再建されたもので新しい。ここは江戸時代名立宿の本陣だった。明治11年の明治天皇名立行在所でもあった由緒ある寺である。

旧道は名立川をわたって国道8号に合流し、ほどなく上越市から糸魚川市に入る。

(2015年10月)
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いこいの広場
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北国街道(越後路-4) 


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