新潟 

寄り道 福島潟

県道3号で福島潟放水路を渡った先の内島見東交差点を左折して県道46号を3kmあまり南下した嘉山の信号十字路を左折して県道264号に入ると福島潟に至る。福島潟は新潟砂丘により阿賀野川などの河川の流れがさえぎられ、さらに砂丘列の内陸側に徐々に土砂が堆積してできた。江戸時代に市島氏等が主導して福島潟の干拓が進められたが完結しなかった。福島潟は塩津―新潟水系のほぼ中間点にあたる。芭蕉は塩津潟から川を継いでこの福島潟に入って来たに違いない。

県道3号の内島見東交差点にもどり新潟に向かって西進を続け泰平橋で阿賀野川をわたる。国道7号の海老ケ瀬インター信号をくぐって県立大学前信号から二つ目の信号交差点(大形本町3・4・5丁目の境界)で県道と分かれて左折して、北国街道浜通りの旧道筋に入っていく。

寺山不動尊火産霊神社の前で大きく右に曲がっていく。上木戸にはいって左に曲がり常明寺の前を通り、上木戸諏訪神社前の丁字路を右折。道なりに進み右手に牡丹山諏訪神社をみて県道4号を横断する。道は昔あった伊佐池を右に回り込むように進んで左に曲がり、三柱神社を通りすぎる。このあたり狭い道が住宅密集地を縫っていく感じである。

新栗ノ木川を渡り、鵜又踏切を横断して白山神社前の沼垂白山信号丁字路に突き当たる。街道はここを右折して沼垂東3丁目交差点に至る。

沼垂は蝦夷対策拠点として大化3年(647)に築かれた渟足柵の比定地である。河道変化の影響で沼垂は4度も場所を変えたことが知られていて正確な場所はわかっていない。

沼垂東3丁目から新潟古町への道筋は定かでない。西に向かって沼垂東4丁目信号を直進して流作業五差路信号を右折して萬代橋で信濃川を渡る。萬代橋は明治19年(1886)に竣工した新潟市の信濃川に架橋された初めての橋である。それまでは渡船によっていた。

新潟は信濃川と阿賀野川の船運の基点として、また北前船の寄港地にもなり長岡藩の外港として整備され繁栄を極めた。日本最長の信濃川(長野県では千曲川)が日本海に注ぐ新潟を中心とする越後平野は縄文時代は日本海であったという。長い年月をかけて信濃・阿賀野両河川が運んでくる土砂と、日本海対馬海流が運んできた土砂が越後砂丘を形成し堆積して現在の越後平野を形成した越後平野は方々に潟が存在する低湿地である。

萬代橋をわたっていくと、新潟市でも古くから開け現在も最も繁華な区域に入っていく。本町交差点に新潟市道路現標と里程標があり、この地点を起終点とする国道が記されていて興味深い。国道7号はここより北へ青森市長島1丁目まで518km、国道8号が京都烏丸五条まで592km、双方で京都と青森を結ぶ日本海沿岸の大動脈である。国道17号は日本橋から新潟まで442km、中山道、三国街道、北国街道と次いでいく佐渡金山の道筋であった。

新潟の旧市街地はこの大通りを挟んで南北に走る「通り」と、それらを東西に結ぶ多くの「小路」で形成されている。小路には旧地名や職業名が付されていてその特徴を知ることができる。機械的な名称で片づけなかった。各通りは国道を境にその南に6番町から1番町まで、北の方へは7番町から13番町(本町通りだけは14番町まで)まで規則正しい町割りになっている。

本町通りの一筋西が東堀通り、その西が古町通りでその名の通り旧新潟宿場街であった。芭蕉は信濃川を下って萬代橋西詰あたりに上陸し、大通りの古町交差点を左折して5番町あたりの旅籠に宿を求めたのであろう。結局泊まることになった大工源七の家もこの辺りにあったのではないか。

北国街道は古町通りを南にくだっていく。その前に国道の北側で二か所見ておきたいところがあった。一つは西堀通り7番町にある宗現寺である。境内に芭蕉の蓑を埋めたという蓑塚がある。文政10年(1827)善導寺に建てられたが、市内数次の火災に際し、大正6年(1917)、当寺に移設された。

他の一か所は東堀通り8番町と古町通り8番町に挟まれた鍋茶屋通りとよばれる狭い小路である。老舗料亭や割烹が軒を連ね、京都祇園、東京新橋と並び称された古町芸妓で知られる花街である。

鍋茶屋専属の置屋だった「川辰仲」は名妓廣子が94歳で亡くなった後、その住家であった建物内部を公開している。外壁はモルタル塗りの情緒もない建物だが引き戸と出窓に施された繊細な格子からかすかに置屋の香りが漏れてくる。引き戸に手書きの貼紙があり、1000円払えば内部の京都職人による雅な建具や調度品が見られるようだ。

その向かいが板張り木造3階建ての老舗料亭「鍋茶屋光琳」である。江戸時代末期の弘化3年(1846)にすっぽん料理店として創業した。現在の建物は明治43年(1910)に再建されたものである。3階にある二百畳の大広間は文化庁の登録有形文化財になっている。宴会には川辰仲の芸妓がよばれたのであろう。

旧街道筋である古町通りを南に歩いていく。通りはモダンなアーケード商店街で、昔の面影は全くない。6番町から始まって町名標識が律儀に立つ。江戸時代は5番町を中心に旅籠が建ち並んでいた。3番町は遊女屋が多かったそうだ。2番町左手に市内で一番古い木造建造物である愛宕神社がある。本殿は1700年代前半の建築で、拝殿は本殿を納める覆屋と一体になっている。増改築もほとんどなく保存状態がよいとされている。

1番町の船江大神宮境内に芭蕉句碑がある。安政4年(1857)に地元の俳句会「柳々舎」によって建てられた。刻まれている句、「海に降る 雨や戀しき うき身宿」は越後路新潟で詠んだといわれているが定かではない。

古町通りは一番掘通り(県道164号)に出て終わる。通りの向こうは白山公園で、新潟城跡の比定地とされている。天正9年(1581)、上杉謙信の死後に始まった御館の乱での論功行賞の不満から新発田重家の乱が勃発。新発田軍勢は新潟津を奪取して砂州上に築城したが4年後には落城したといわれている。遺構は発見されておらず、比定地については確かでない。

園内に新潟総鎮守式内社である白山神社がある。建立年代は延喜(901〜)とも寛治(1087〜)ともいわれている。本殿は正保4年(1647)、拝殿は翌年慶安元年(1648)の造営と伝えられている。昭和34年には萱葺屋根が銅板に葺き替えられた。

白山公園の東端に旧新潟県会議事堂がある。明治16年に建てられたもので、明治初期の議事堂としては全国唯一のものという。木造2階建で白亜の漆喰壁がまぶしい。中央に塔屋をのせた左右対称の堂々たる建物で、議場を始め、知事室、議長室など14の部屋からなる。国の重要文化財で、現在は新潟県政記念館として公開されている。

旧街道は市役所前から県道164号を西に進むが、ここで反対の南に2km余り行った所にある鳥屋野潟に寄る。鳥屋野潟は親松導水路で信濃川に直結し、塩津潟から始まった一連の水運体系の西端をなしていた。

これで新潟散策を終えて、北国街道を弥彦へと向かう。市役所前から西に進み、白山駅前を経てJR越後線をくぐり国道116号を横断したところから県道16号となってひきつづき西進する。関屋大橋で信濃川関屋分水路をわたり、青山道下信号交差点で県道は曲尺手状に右折―左折していく。県道16号は新潟大学前を右に見て、内野駅前の内野四ツ角交差点で県2号になる。三日月橋で新川を渡った先で道は急に細くなり、車も少なくのどかな道になる。

中権寺集落で右手やぎもと小児科の先の二股を右に直進する1kmほどの旧道が残る。

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赤塚 

木山信号五叉路で県道2号を右に分けて左の細道が旧道である。造り酒屋、菊池酒造の蔵と工場前を通り過ぎる。県道に合流して左折すると右手に大きな佐潟が現れる。佐潟は砂丘列間の窪地にできた国内最大の砂丘湖で、外部から流入する河川はなく湧水や雨水を水源としている。1996年にラムサール条約登録湿地となった。

街道沿いの湖畔に3基の句碑が並んでおり、真ん中が芭蕉の句碑である。もとは赤塚集落内にあったものが、佐潟公園整備の際に現地に移設された。説明板には芭蕉が赤塚の旅籠を訪れて詠んだ句とあるが、句は金沢で詠まれたものでこの地に関係ない。

 あかあかと 日はつれなくも秋の風

佐潟のすぐ先で県道と分かれて左の旧道に入る。集落入り口は急な上り坂になっていて、右手の斜面奥に石黒家の墓地があり、街道脇には渡辺嘉助の碑「屁ぷっり坂」の説明板がある。「登り切ることができずに亡くなった人がいた」とは、誇張でなければ重度の循環器疾患者だったにちがいない。

石黒家は江戸時代の豪農で17か村の大庄屋を勤めた。屋敷は中原邸の隣で、目立つように街道に突き出した敷地の一段高い石垣の上にあった。

集落内を進んでいくと左手に赤塚神社と石黒家の菩提寺である大慈寺がある。大慈寺前の三叉路を左折すると石黒家屋敷跡の石垣と、明治時代の大地主で庄屋を勤めた中原邸がある。中原家は漁業や水運業で財を成し江戸時代は本陣を勤め、明治天皇は北陸巡幸の際にここで昼食をとった。邸内の敷地は約4000坪あり、江戸後期に建てられた主屋と、明治後期のレンガ塀、約1500坪の竹林などが現存している。春秋の年二回公開されるだけで普段は広大な敷地に巡らされた板塀と表の藥医門をみるのみである。

旧道は県道46号との十字路を直進するがここを右折して県道2号との交差点に赤塚村道路元標がある。

旧道は県道2号に合流して赤塚集落を出る。

県道2号で松野尾地区の新保五差路を越えた左手に北国街道の標柱とその脇に自然石の道標があった。文化3年(1806)の建立で「右やひこ道」と刻まれている。越後一之宮弥彦神社への道しるべである。

その道向かいに自然石の芭蕉句碑がある。

  涼しさや すぐに野松の 枝になり

元禄7年(1694)、伊賀上野の雪芝亭で巻かれた歌仙の発句である

松野尾交差点を直進し右手上堰潟から出る水路を渡った先の二股で県道2号を左に分けて旧道に入る。二股分岐点に「北国街道 (松山0.7km)」の標柱が立つ。

布目集落の理容カネコ前の三叉路で旧街道は右に折れていく。「北国街道(稲島へ1.2km)」の標柱がある。

道は集落を出て角田山のなだらかな山並みを眺めながらのどかな田園の中をたどる。旧道歩きの幸せを感じるひと時である。

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稲島(とうじま)

県道562号に出て右折する。すぐ左手に稲島集落への入口があり、北国街道の標柱が建ち、右手に出ている山道が旧道であると記している。100mほどの短い道だ。

集落に入ると三叉路に北国街道の標識があり、弥彦へ2里半、新潟へ6里半と記してある。標識の背後に建つ白壁土蔵は二階に重厚な漆喰窓と大きな家紋が施され立派である。右手の民家は格子造りの大きな家で、大きな鬼瓦を載せている。このあたりには宿場の面影が残っている。本陣を勤めた庄屋桑原家がどの家なのか聞く人影もなく分からないのが残念であった。

集落内を西に入ったところに二十三夜塔と地蔵が並んでいる。ここも旧道だそうで、集落内の旧道筋がはっきりしない。

稲島の家並みを出て伏部のY字路角に北国街道の標柱があって「稲島へ0.4km、竹野町へ0.8kmとあった。新潟を出て赤塚以来、この北国街道標識が整備されていて大いに助かる。標柱の脇に「右やひこ道」と刻まれた道標が立つ。

「弘法清水前」バス停の手前、角田山登山口に「ごりん石」の標識があり、すこし入った左手に大きな丸い石があった。高さ約2メートルの自然石で、芭蕉一行が休憩のため腰をかけた石と伝えられている。石には「涼しさや すぐに野松の枝のなり はせを翁」と刻まれている。松野尾の道標近くにも同じ句の碑があった。越後路で詠んだ句でもないのになぜか人気がある。

その先の十字路を左に50mほど入った右手に「弘法の清水」がある。ちょっとした小公園に整備されている。水汲み場には多くの柄杓や漏斗が用意されていて利用者の多いことがうかがえる。

街道は道なりに進んで松郷屋集落の景清寺前を経て、その先の十字路を北国街道標柱にしたがって右折、平沢集会場を通り過ぎると右手に縄文時代頃から使われていたという平沢清水がある。 平沢清水には平家落人の伝承が伝わる。付近から縄文土器が出土したという古い土地柄である。

旧街道は新潟GCの中を横断する。ボールを打つ乾いた音が聞こえてきて心地よくない。

ゴルフコースの林に沿った土道がゆるやかなカーブを描いて延びる。遠くに見える円錐形の山は多宝山(634m)である。

福井集落の入口三叉路に北国街道標柱があり弥彦まで1里半のところまで来た。標柱には現在地を(茶塚地蔵様)と記されている。「茶塚」に登ると墓地の奥に子育て地蔵がある。江戸時代この茶塚は三根山藩のさらし場で罪人を船戸境の稲場で処刑しその首を三・四日間、道端の曝し台に上げて諸人のみせしめにしたという。道の向こう側には嘉永2年(1849)建立の庚申塔がある。

この集落には三根山陣屋があった。長岡藩牧野忠成の四男定成を初代藩主とし、文久3年(1863)の11代藩主忠泰の時1万1千石の大名となり始めて三根山藩を立藩し大名の陣屋として整備された。現在は陣屋としての遺構はなく三根山藩址公園となっている。

三根山藩は江戸末期の戊辰戦争で荒廃した本家長岡藩に、「米百俵」の救済米を送った藩として有名である。

街道は県道460号にでて右折し、すぐ尚古堂あめやの前を左折する。県道沿いに新潟県内2番目に古い福井酒造がある。建物は新しく蔵元の風情はない。寛永年間(1624−1643)の創業で銘酒「峰乃白梅」で知られる。芭蕉が弥彦めざしてここを通った時には営業していたことになる。

県道から南にむかって200mほどの区間は道路沿いに庭の植え込みが整えられ妻入り造りの家並みが旧街道の面影をのこし、旧宿場街かとも思われる雰囲気がある。右手、千本格子が見事なゆべし作りの老舗本間屋が趣ある佇まいを見せている。昔は福井に6軒柚餅子を作る店があったが、今はここだけになってしまった。

すぐ先左手に旧庄屋佐藤家の茅葺民家が佐藤家民俗資料館として保存されている。江戸後期の建物だといわれるが、ガラス戸などは現代の改築部分だろう。規模はそれほど大きくなかった。

福井集落を出て矢垂川のほとりに良寛の歌碑がある。国上寺からほたるが飛び交う場所として知られるこのあたりまで良寛は托鉢に回っていた。

  福井なる 矢垂の橋にきてみれば 雨は降れども日は照れゝども


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岩室 

街道は三叉路を左の南方向にとって、道なりに進み樋曽集落に入る。右手路傍に小さな地蔵堂と庚申塔が並んでいる。

県道55号を横切って突き当りを道なりに左にまがって再び突き当たりを右折、岩室にはいっていく。鉤型のような道筋だが単に出っ張った山裾をたどっていくに過ぎない。

岩室温泉の生い立ちについては正徳3年(1713)に公認されたとされ、江戸時代後期の文政3年(1820)の記録には「旅籠30軒、妓家12軒、人家80余軒、…人馬の往来は昼夜絶えることはない」とあるという。芭蕉が奥の細道でこの地を通った時もなんらかの湯がでていたのかは定かでない。

岩室集落に入り、旧道は大きな温泉旅館「ゆもとや」の裏側を通っていく。このあたりに源泉があった。右手に夜泣き地蔵があり、その上の小高い山に岩室薬師堂がある。昼間の温泉街特有の気だるさがただよう道であるが夜には岩室芸者が行き交う賑わいをみせるといわれる。

街道は右手に慶覚寺(きょうがくじ)を見て岩室信号交差点に出る。岩室の中心地で、角に
岩室村道路元標がある。

交差点のすぐ南側、右手に建つ大きな建物は
料亭旅館高島屋で、江戸時代の庄屋屋敷が本館として利用されている。明治11年、明治天皇北陸巡幸の際にはここめが休憩所として使われ、前庭に「明治天皇岩室御小休所」の石碑が建っている。

その先現道には温泉旅館が建ち並び街道松の名残もあって旧宿場の雰囲気が感じられる。

岩室交差点にもどり道路元標の立つ細い坂道を上がっていく。その先の十字路で南北に延びている道が旧街道の道筋で、慶覚寺の西側を通っていた。温泉旅館街である現道とはちがって落ち着いた住宅地である。

十字路を左折して旧街道を南に進むと右手に岩室神社がある。天照皇大神と豊受大神を祭神とする岩室の産土神である。弘化2年(1845)に神明社、十二社、諏訪社、稲荷神社の5社を神明社の地(現岩室神社)に合祀して建立された。

鳥居の脇に「北国街道と岩室温泉の道」として中部北陸自然歩道の案内地図板が建っていた。「このみちは、湯けむり賑わう岩室温泉と、越後一の宮で崇拝されている弥彦神社につながる歴史深い北国街道を訪れるみちです。」とあり、これこそ旧道だと思い込んでこの道を行くことに決めた。舗装された林道をたどって天神山城址登山口を通過する。十人余りの高齢男女が登山を終えて下りてきた。

天神山城の築城時期は定かではないが、室町時代には小国氏が居城していた。天正11年(1583)上杉氏の一国支配下となり、直江兼続の弟大国実頼が天神山城主小国重頼の養子となって小国氏の家督を相続した。慶長3年(1598)上杉景勝の会津国替えに際し廃城となった。頂上一帯には土塁・石塁など、中世の城郭跡がほぼ完全な姿で残っている。

林道は結局宝光院手前で県道2号の弥彦・岩室口信号に出たのだが、別の資料によれば、旧北国街道はこの林道ではなくて、天神山(235m)の山麓に沿って蛇行しながら種月寺前に出て石瀬の浄専寺の先で県道2号に合流する道筋が正しいようである。先の自然歩道の説明はつまるところ「岩室神社前の旧北国街道と弥彦の宝光院前の旧北国街道をつなぐ山道」という意味であったのか、それとも北国街道のさらなる古道であったか。

結局石瀬と金池集落を通らずに弥彦に着いてしまった。

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弥彦 

県道2号は弥彦・岩室口交差点で左に分かれて行く。旧道は細い道となって杉並木が続き昔の面影を保っている。

右手に宝光院がある。宝光院は建久6年(1196)源頼朝の発願によって大日如来を本尊として開基されたといわれる古刹である。境内には芭蕉の句碑がある。元禄2年(1689)7月3日芭蕉と曽良は新潟を立って夕方近くに弥彦に到着。宿をとって神社に参詣した。句碑には越後路の名句が刻まれている。

荒海や 佐渡に横多ふ天乃河  芭蕉 

境内の奥に踏み入れると樹齢約1千年、樹高40m、幹周10mという巨木が聳える。俗に「婆々杉」と呼ばれている。由来となった伝説は省く。

宝光院と弥彦神社の間になぜか競輪場があり、神社におとらず賑わっていて異様な光景である。大正8年(1919)、弥彦神社再建事業の一つとしてここに日本初の400mトラックを備えた陸上競技場が完成、ここで毎年新潟県の競技会が開催されることになった。昭和25年競技場が競輪場に代わったという。

越後国一之宮弥彦神社に詣でる。杉並木通りに面する東参道は修理閉鎖中で、社家通りから一の鳥居をくぐり杉木立の中を拝殿に向かう。弥彦神社は元明天皇の勅願により養老3年(719)の創建といわれ、義経一行も参拝したと伝わる古社である。社殿は新しく、明治45年に焼失した後大正5年に再建された。

門前町として発展した弥彦はまた北国街道の宿場としても栄え、越後路でも数少ない山越を控えた旅人で賑わった。鳥居前の十字路界隈は土産物や旅館が立ち並ぶ。

鳥居向かいにある当時の
弥彦神社祠官五十嵐盛厚の邸宅跡明治天皇行在所の碑が建つ。天皇宿泊のために奥庭に宿を新築したという。天皇は翌早朝、弥彦神社参拝後一の鳥居前から馬車で新潟に向かい、岩室の高島屋で小憩した。先頭が岩室に到着しても後尾はまだ弥彦を出発していないほど行列は長かったという。

街道は鳥居前から県道29号で南に向かう。

途中、右手坂を少し上がった左手旧家林部家の裏庭に聖人清水がある。親鸞聖人が越後国配流中弥彦神社を参拝し当時の庄屋林部四郎左衛門宅に泊まった際、水不足に悩まされていた住民を哀れみ、林部家の竹林の一隅を持参の杖で突いて仏に念じたところ、たちまち水が湧き出たと伝えられる。

大森橋の先の信号で左に折れていく県道とわかれて旧道は直進、つぎの二股を右にとってオートキャンプを右に見て、矢楯集落の南端で広い道を斜めによこぎって観音寺の先あたりで弥彦山スカイライン(県道561号)を横切る。

県道沿いの観音寺に寄ってみた。開放的な境内に立つ黄金の観音像がまぶしかった。

旧道は湯川の先の丁字路を右にはいっていく。家並みをぬけて山道へと入っていく。弥彦山登山道をしばらく登っていくとまもなくスカイラインに出る。左に折れてすぐ右手の草むらを入ったところに立派な宝篋印塔が建っている。明和8年(1771)寺泊港の本間弥平治ほか2人が先祖百歳忌、父母五十回菩提のために建てたと刻まれている。高さは基壇から3.7m、地上高4.8mと大きな石塔で、本間家の豊かさを示すものとなっている。

街道はその少し先で猿ヶ馬場峠に差し掛かる。特に峠を示す標識もなく道路の最高点に来た実感がない。この場所は永正6年(1509)弥彦領主が越後守護代長尾為景と戦って敗れた古戦場跡である。高さは180mに過ぎないが、旧北国街道の難所といわれるほど冬場は厳しかった。昭和10年ころまでは茶屋や湯治場もあったという。県道561号スカイラインと分かれて左の旧道に折れ長岡市にはいる。


(2015年10月)
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