札幌本道



凾館室蘭札幌小樽

いこいの広場
日本紀行


和人による蝦夷地の開拓は中世の頃より函館―江差の間を中心に行われた。津軽の豪族安東氏の渡島以来道南12館を根拠地としてアイヌとの交易、戦闘を交えながらも一方でニシンをはじめとする日本海の豊かな漁獲によって富を蓄えていった。その中で敦賀・京・大坂といった近畿文化経済圏と松前を中心とする蝦夷地経済の橋渡し役を果たしたのが近江商人であった。交通手段は北前船である。

時代は変遷して、日本は外国に港を開放して明治維新にいたる。栄華を誇った松前藩は消滅し、明治新政府は函館を蝦夷地の玄関とする。そこから蝦夷地の内陸をめざした開拓が始まった。目指すは小樽の内陸、札幌の地である。交通手段は船ではなくて馬車である。明治5年(1872)、函館と札幌までの馬車道建設が開始された。この道を「札幌本道」という。「街道」という語を使わなかったところに新時代の息吹を感じさせる。ルートは函館―森―室蘭―白老―千歳―札幌である。その内、森―室蘭間は効率面から海路によった。私の旅は電車の乗継とローカルなレンタカーの組み合わせである。この旅の直後、JR北海道の恐るべき企業体質が露呈した。その兆候を感じていたことを後ほどここに報告しよう。



凾館

朝市で知られる市場を散策する。細い路地の両側に屋台ほどの小さな店が軒を連ね朝食を出している。海鮮丼が主流を占める。大きなテント造りの建物には裸電球が無作為にぶらさがり、一坪ほどの縄張りに青物や鮮魚、加工食料品を並べる店が敷地を埋めている。少し広めの通りには蟹を売る店が多い。

朝市から海辺に沿って函館旧市街を散策する。

地元函館ビール工場の煉瓦造り建物群はレストランを併設して昼から多くの観光客でにぎわう人気スポットである。

その先に「明治館」とある蔦にびっしりと覆われた赤煉瓦の洋風建物は旧函館郵便局舎である。

港の方に足を向けると赤レンガ倉庫が見事な景観を呈している。金森赤レンガ倉庫は、大分県出身の実業家、渡邉熊四郎が創設した「金森洋物店」が起源である。その後倉庫業に乗り出し、明治40年に建てられたこの倉庫は「赤レンガ」の愛称で親しまれてきた。平成6年にその3分の1を利用して一大観光施設、函館ヒストリープラザがオープンした。倉庫の中には、真中に通路があり、その両脇に物を入れる部屋がいくつも連なった造りになっている。昔はトラックで倉庫の中まで入ってきたという。

その倉庫の南端に高田屋喜兵衛造船所跡地(喜兵衛資料館)として二棟の白壁土蔵が建っている。明和6年(1769年)淡路島に生まれ、28才のとき北前船で箱館に来航した。嘉兵衛は箱館を本拠地として北洋漁業、本州との交易で巨万の富を築いた。河野政通が函館の祖であるなら高田屋喜兵衛は中興の祖といえよう。

車道に戻り西に歩を進めると「茶房旧茶屋亭」が和洋折衷の趣ある佇まいを見せている。色あせたソフトクリームの看板も愛らしい。この旧茶屋亭は明治末期の海産商の店舗兼居宅の店舗部分である。

国道279号に出て右に折れると、高田屋喜兵衛の子孫が館長を務める北方歴史資料館がある。昭和63年高田屋嘉兵衛の7代目子孫、高田嘉七が高田屋関係資料を収集して創立したものである。早朝につき建物を見るだけとなった。

信号を越えた左手にある郷土資料館は明治13年に建てられた「旧金森洋物店」を改修し、資料館としたものである。和洋折衷の寄棟屋根防火煉瓦造りで、窓枠には色違いの煉瓦で意匠を凝らしている。一階庇部分のアーチ状壁面には「森金」と右から書き、その間には英語で「KANEMORI MISE」と右から記している。ほほえましい文化を見た。

十字路を右折する。誰が建てたのか角には北島三郎記念館があった。港に突き当たったところが旧東浜桟橋跡で、錨を模した北海道第一歩の地碑が建つ。明治維新の開港に伴って、明治4年(1871年)に造られた東桟橋が北海道への入口となった。青函連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)若松埠頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきた。

港に沿って西に歩いていく。江戸時代はこの道路が海岸線だった。公衆トイレの男女のサインが可愛いと妻が言った。現代の直立した男女の姿でなくて、男女ともにハットの形と髪形、赤黒の地の色で区別している。男女共に帽子が粋である。7年後の東京オリンピックに使ったらどうか。

その先右手埋め立て地に海上自衛隊の基地があり入口脇に箱館運上所跡の説明板が立っている。運上所とは税関のことで、安政6年(1859)、横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となったことにともない税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は、商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻の計64隻であったという。明治5(1872)年、運上所は税関と改称された。

自衛隊基地をすぎると右手に緑の島という人工島がある。緑の島との間に架かる橋は「新島橋」と命名されている。基地に隣接する埋め立て地はかつての出島で、外国人居留地となっていた。海辺には「新島襄海外渡航記念碑」がある。橋の左手は明治8年(1875)民間造船所用地として埋め立てられたものである。

新島橋を過ぎた交差点角に建つ臨海研究所は松前藩の沖之口番所跡で、その後明治5年(1872)には道内最初の郵便局として箱館郵便局役所となった場所である。江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。 その後江差と箱館にも設けられ、文政4年(1821)沖之□役所と改められた。「沖之口番所」は明治になって「海官所」、「海関所」、「船改所」と改称された後、明治20年に出港税の廃止とともに船改所も閉鎖された。

その先交差点を越えた左手に太刀川家住宅店舗が建つ。越後国長岡出身の太刀川善吉は函館に渡り米穀・海産商のかたわら漁業・廻漕業を兼営して一代にして財をなし函館屈指の実業家となった。明治34(1901)年、初代太刀川善吉により建築された土蔵造り2階建店舗である。現在はカフェとして営業。寄棟煉瓦積白漆喰塗りの蔵店で、両側にうだつが豪快に立つ。二階の手摺、一階のアーチなど見事な和洋の意匠を調和させている。国重要文化財である。左の濃緑色の洋館は大正4年に応接用として増築されたものだが、これも寄り添う淑女の趣があって素敵だ。

電車通にもどり更に東に足を伸ばすと市電の終点、函館ドック前駅に出る。そこから湯の川行の電車が出発していった。本当はあずき色のレトロな電車を撮りたかったが、そう安易には走っていないようだ。「ハイカラ号」という名で、一日8便が運行され、火と水曜日は運休である。詳しくはこちらまで。

函館ドック前駅交差点を左折して魚見坂を上がっていくと左手に立派な山門を構えた高龍寺がある。山門に彫られた彫刻が見事である。高龍寺は寛永10年(1633)松前の曹洞宗法源寺の末寺として建てられた市内で最も古い寺院である。本堂は明治33年(1900)、山門は明治43年(1910)と、それほど古くない。ロシア領事館が近くにあった関係で、箱館開港当初にはロシア領事館一行の止宿所となった。

函館の町は幾度もの大火に見舞われ、その度に多くの木造建築が消失した。最大の大火は昭和9年(1934)のもので、死者2166名、焼損棟数11105棟を数える大惨事であったという。現存する明治以降の建物でもその殆どが石や煉瓦造りであるのはその為である。幸い高龍寺はその大火を免れた

高龍寺の先の二股を右に進むと、港を見下ろす景色のよい所に外国人墓地があり、その西隣に南部藩士の墓がある。外国人墓地は嘉永7年(1854)ペリー艦隊の二人のアメリカ人水兵を葬ったのがはじまりといわれている。

南部藩士の墓には蝦夷地の警備と開拓を命じられ異郷の地で亡くなった南部藩士12名が眠っている。

市電通りを基坂までもどる。ここに札幌本道の起点となる里程元標が建っていた。北の角地に建つのは不動産や倉庫業で財をなした相馬哲平氏の社屋で、大正2年(1913)に建てられた和洋折衷のルネサンス風事務所建屋である。西洋式切妻破風のぺディメントなど特異な意匠を凝らしている。

海に向かう道の中央緑地には明治天皇上陸記念碑が建ち、突当りが自衛隊基地正門で運上所跡地である。凾館山に向かって上がっていくと右手にペリー提督像、左手には旧イギリス領事館、突当りは元町公園で左手に箱館奉行所跡標識、奥に公会堂が海を見下ろして建つ。

安政元年(1854)、日米和親条約によって箱館はアメリカ艦船の補給港となる。開港にそなえペリー提督が来航した。ペリーはなにかにつけて箱館と下田を比較し、港の良さ松前藩士をはじめ町民の精練された振る舞いについて箱館巣を称賛した。松前が京文化を継承していたことまでは知らなかったのだろう。

道路の反対側に旧イギリス領事館がある。アメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として称名寺に開設された後、数度の火災にあって大正2年(1913年)にここに再建されたものである。昭和9年(1934)の閉鎖まで領事館として使用されていた。現在はレストランとなっている。

この山側に隣接して旧相馬邸が建つ。坂下にあった相馬社創業者の本宅である。明治41年に建てられた。1861年、越後から函館に渡ってきた相馬哲平は函館戦争の渦中、米の投機で巨利を得る。その後、北海道屈指の大商人として函館区公会堂をはじめ、数々の公共事業に私財を投じ、函館の発展に尽くした。

元町公園は享徳3年(1454年)河野政通が館を築いた故地である。「宇須岸河野館」と呼ばれた館は遠くから見ると箱に似ていた所から「箱館」と呼ばれるようになり、地名発祥の基となった。宇須岸(ウスケシ)とはアイヌ語のウショロケシ(湾内の端の地形)から転じたもの。元町は文字通り函館発祥の地である。

凾館は伊予から陸奥に移り住んだ河野政通が、安東政季に従って蝦夷地に渡ってきたことから始まる。政通は小さな漁村にすぎなかったここ宇須岸(うすけし)(現函館市元町)に箱形の館を築いた。以来箱館は蝦夷地交易の場として栄え、松前藩成立後は藩の役所が置かれるようになる。

左手に箱館奉行所跡の標柱が立つ。東蝦夷地を幕府直轄地とした直後の蝦享和2年(1802)、夷地開拓・統治のため設置したもので、幕末には北辺警備および外交窓口も担当した。その後、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年(1864)に五稜郭内に移転した。

その奥に建つ洋館は旧北海道庁函館支庁庁舎である。明治42年(1909)に建てられた。特徴的な柱廊玄関は、2階に張り出した屋根がコリント式柱頭飾りと中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられている。現在は観光案内所として利用されている。

公園の最上段に旧函館区公会堂が建つ。左右対称の格式ある洋風建物で、明治43年(1910)に相馬哲平の多額な寄付をもとに公民館として建てられた。当時は大正天皇の行啓宿舎にも使用され、2階には大正天皇が滞在した御座所や寝室などが再現されている。2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表している。修学旅行の高校生たちが頻繁に出入りして、函館最大の観光スポットのようである。

観光客の多くがここから左手に続く「ソフトクリーム通り」に流れていく。教会群を経て函館山ロープウェイへの順路に当たる道筋に、なぜかソフトクリームを売る店が軒を連ねているのだ。割引券を手に客引きする店員が近寄ってきて私も2枚もらった。 店は「函館元町宇須岸の館」という名の土産店だ。その「宇須岸」という名が気に入った。30円割り引いてもらって山川牧場のソフトクリームを食べた。女子高校生たちであふれて肩身が狭かった。

店を出てそのまま東にすすむと八幡坂の広い通りの起点に出る。この下り坂は波を打って函館港の水面まで見下ろせる風景が人気をよんで、ロケにも使われる観光スポットだという。坂の西側にロシア極東大函館校がある。本校をウラジオストクにもつ極東国立総合大学の函館分校として1994年に開校した。ロシア語教育の他ロシアの歴史・文化・政治・経済などロシアのスペシャリストの育成を目指している。日本においてロシアの存在をこれほど身近に感じたことはない。

八幡坂をすぎると左右に教会が建ち並ぶ。寺町ならぬ教会町である。その中での最も大きいのがハリストス正教会である。安政6年(1859)にロシア領事館の礼拝堂として立てられ、明治5年(1872)全国で初のロシア正教会の聖堂となった。明治40年(1907年)の大火で類焼したが、大正5年(1916年)ロシア風ビザンチン様式で再建された。レンガ造りを漆喰で塗り込めた白壁と屋根の緑が見せるコントラストが美しい。重さ約2トンあった大鍾は、大正12年(1923)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の鍾と交換された。

夕方に向かう頃合いをうかがって函館山ロープウェイーに向かう。入り口は長蛇の列だ。夕景、夜景の観光スポットで、5時ごろから混みはじめ展望台で日没を迎えるのが定番になっている。一番よい撮影場所は記念写真を売る業者が占めている。偶然満月の夜で、湯の川方面に丸い白い月が浮かんでいた。

あの月の下あたりに和人の館「志苔館」があった。康正3年(1457)、その近所に住む和人鍛冶屋と、客として小刀を注文したアイヌの男性との間に口論が生じ、怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺してしまった。アイヌが首領コシャマインを中心に蜂起して志苔館を攻め落とした。

翌朝、五稜郭に寄って札幌本道の旅を始める。

凾館駅前交差点に国道元標なるものがあり、ここから3本の国道が分岐する。旧市街を通る279号、湯の川温泉地区から函館空港、志苔館跡遺跡方面に出る278号、そして現代の札幌本道5号である。

五稜郭に寄るには国道278号にはいり松風町信号を左折して道道83号を行くのが分かりやすい。

五稜郭は江戸時代末期に築かれた日本で最初の西洋式の城郭である。日米和親条約により箱館は下田と共にアメリカ船に対する薪水食料の補給港となった。幕府は蝦夷地経営と対外関係の処理や海防のために函館元町に箱館奉行所を設置したが、外国船からの砲撃を避けるため海岸から2.5kmほど内陸にあるこの地に移され五稜郭は蝦夷地における政治的中心となった。

明治元年(1868)箱館戦争時には旧幕府海軍副総裁榎本武揚率いる幕府軍3000人に占拠された。榎本は蝦夷地領有を宣言して蝦夷政権を樹立するも翌年5月、降伏開城した。再び明治政府のものとなったが役所として利用されることはなく、明治4年に開拓使本庁舎の札幌移転に伴い、奉行所庁舎をはじめ郭内のほとんどの建物が解体された。復元されている奉行所は役所というには豪華すぎるほど立派な建物である。

国道5号にもどって森をめざす。

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国道5号は大沼公園の西縁を縫って赤井川で茅部郡森町に入り、道道149号と交差する。その先で右に旧道が分岐している。駒ヶ岳の東麓にあたる高原地帯で、牧場やゴルフ場などが点在するリゾート地であるが、昔は宿野辺と呼ばれた寂しい山道であった。

国道と分かれて1.5kmほど行った丁字路を右に入った左手に「三界萬霊塔」という文字が刻まれた文久2年(1862)建立の石塔がガラス張りの小屋に保存されている。文字はガラスと摩耗で、ほとんど読めない。傍には昭和59年に建てられた石碑が添えられている。森と箱館の間を人馬が往来していた街道があった査証である。

6kmほど道なりに行きJR函館本線東山駅東方の踏切を渡って少し先の右手に「史跡 旧茅部街道 三軒茶屋跡」と刻まれた石碑と説明板が建っている。室町時代末期、茅部地区に鰊漁の「茅部場所」が設置されると、函館近郊から多くの漁師が出入りするようになり、函館-室蘭間に道路が開かれ、後に「茅部街道」と呼ばれる主要道路となった。街道筋の要所には宿屋、休憩所等が建ち、特にこの三軒茶屋では、わらじ・酒お茶・駄菓子等を買う人々で賑わったという。明治にはいると、茅部街道は本格的に改修されて、函館-札幌間の本道となり、国道5号線の開通により「旧街道」となった。

旧街道は国道5号にもどり、1.5kmほど進んで姫川の手前で再び右に分岐する旧道に入る。函館本線の踏切を渡ってすぐ左折し道なりに森町に入っていく。道道794号を横切って川を渡ると森川町から御幸町に入る。最初の信号交差点の西角に建つ石蔵の場所が明治天皇行在所跡である。明治14年(1881)9月5日、北海道御巡幸の際に森桟橋より上陸の後、阿部重吉が経営する旅館に一泊し、翌日陸路により函館に向かった。隨行員は当時の開拓長官黒田清隆ら三百余名の大行列であったという。旅館は現存しないが跡地には当時のままの庭園が残っている。

通りを森駅にむかって、次の丁字路を右に折れていくと線路に突き当たる。柵が設けられていて浜辺に出られないが、ここが明治時代の森桟橋跡である。明治5年、函館~森・・・室蘭~札幌間(札幌本道)の新道建設工事が開始され、翌6年には全長255mの森桟橋(波止場)が完成し森-室蘭間の定期便が運航を開始した。昭和3年に長輪線の鉄道(長万部~輪西間)が開通したため船の利用者が減り廃止に追い込まれた。

明治11年(1878)年8月12日にイザベラーパードは函館を出て森村に入り、翌日ここから海路室蘭に向かった。また明治14年には明治天皇が室蘭からここに上陸して阿部旅館に一泊した。明治天皇上陸記念碑が線路越の海中に見える。

札幌本道も森-室蘭の間は道路を造らず航路によった。陸路だと155km、海路はその3分の一以下の42kmである。電車ならともかく、そこを馬車で行く気はしなかったのだろう。私の旅は森から普通列車を乗り継いでいく。札幌本道とは関係ないが、それ以前にも茅部街道のような道はあったのだ。内浦湾に沿った海岸の道もあったろう。室蘭まで道筋は追わない。

森駅から一駅で桂川駅に着く。桂川駅と漁港の間の道を北にたどると、小さな川をわたったところで海岸側に標柱が立っている。「旧幕軍 榎本武揚 土方歳三 之 鷲ノ木上陸地」と記されていた。明治元年(1868)10月、内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木村に榎本武武揚率いる艦隊が上陸した。榎木艦隊は、旗艦開陽丸ほか七艦で、陸兵2千人以上と言われる。当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所であった。旧幕軍はここを後方陣地として函館に向かって進軍していったのである。

次の駅は石谷駅という。注意しないと見逃すほどに目立たない駅舎である。右手には美しい蛯谷漁港が、さらに右手には遠く駒ヶ岳が雄大な裾野を広げている。駅前脇の空き地に「茅部の鯡供養塔」がガラスの屋根付ケースに入れられている。脇に新しい石碑がある。先に見た「三界萬霊塔」と同じ扱いである。供養塔の建立は宝暦7年(1757)で「三界萬霊塔」より100年以上も古い。茅部場所は鰊の豊漁地として知られ毎日浜辺は鰊の山を築いた。特に宝暦7年は大豊漁で、当時の加工技術が間に合わず、漁業者合議の上土中に埋めて鰊の供養塔を建て、慰霊法要をした。

石谷駅から次の降車駅洞爺駅までは少しある。途中、八雲町、長万部等を通っていく。ローカル電車の旅を楽しむつもりだったが、車体のきつい横揺れで気分はいたく害された。首の座っていない乳児なら頭が吹っ飛んでいくのではないかと思ったほどである。どこに来れば揺れるという規則はなさそうで、ある時突然に二、三回の激しい横揺れ発作が起こるのである。その発作の多さにあきれてしまった。本州では経験したことのない状況がここでは平常として受けられていることが恐ろしい。JR北海道で脱線事故が報じられたのは旅行から帰った直後であった。はじめは偶然の事故だろうと聞き流していたが、その後毎日のように報じられる関連ニュースを見ているうちに、あの横揺れはJR北海道の低度な企業体質を象徴していることに思い至った。あの揺れが異常でないと思うほどの意識の鈍さである。

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室蘭 

洞爺駅で降りて洞爺と昭和新山をみていく。修学旅行の気分である。

湖畔のナナカマドが色づいていた。

昭和新山は昭和18年(1943)、突然地震と共に始まり、2年間に17回の活発な火山活動で麦畑が隆起し、溶岩のドームが出来た。標高398m、そのうち赤褐色の溶岩ドームの高さは175mを占める。地元の郵便局長が買い取り、私有地にある活火山として珍しい存在である。

伊達紋別駅で降り、1.5kmほど東の国道37号沿いに道の駅と隣接して造られた伊達歴史の杜を訪ねる。維新政府軍に反抗した仙台藩は石高を大幅に削減され経済的に困窮した。伊達家一門亘理伊達家当主邦成は旧臣とともに新天地を求めて明治3年この地に移住した。開拓された町は伊達市となった。その武家文化と開拓の苦難を伝える伊達市開拓記念館の傍に迎賓館が建つ。明治25年に建てられたもので、洋風(公の場)と和風(私の場)を配した数寄屋風の書院造りとなっている。開拓状況視察のため来道した政府高官や開拓使などの接待の為に利用され、昭和10年から昭和30年頃までは伊達家の居所として利用された。

迎賓館の脇に明治6年に建てられた御蔵が残っている。総板張りの簡素な建物だが、内には開拓移住当時亘理から持ち込まれた伊達家の先祖伝来品、伊達政宗関係資料、書物などを入れた長持30個ほどが収められていた。

黄金駅から国道に出て北に1.8kmほどもどった右手に国史跡北黄金貝塚がある。北海道に存在する縄文貝塚の5分の1の面積を占める巨大な貝塚である。

貝塚だけでなく、縄文人の生活の跡が残る集落跡ともいえる。資料館を見てからその前に広がる丘を散策した。水場の祭祀場から丘を登る。ここに五カ所の貝塚が発掘された。生活様式には本州の縄文人との間に大きな差異がみられるという。出土した縄文人の人骨は近代アイヌ人と特徴が変わっていないことが判明した。

崎守駅から3km余り東に行ったところの陣屋町に
南部藩モロラン陣屋跡がある。南部藩は函館から幌別にかけての東蝦夷地警備を江戸幕府により命じられ、湾内を望むこの地に、方形で二重の土塁と壕からなる出張陣屋を築き、防衛にあたった。内陣には、火縄銃の鉄砲武者たちの兵舎や稽古場、馬屋、大砲置き場、藩士の詰所や長屋などが設けられ、内陣の後背には、土塁に囲まれた火薬庫も置かれていた。

室蘭本線は東室蘭で二手に分かれる。特急など札幌方面への主要列車はすべて登別にむかい、室蘭駅は東室蘭から乗り換えるローカル電車の終着駅に過ぎない。運転席の傍から綺麗に拭かれた窓を通してカメラを構え通しという貴重な体験をさせてもらった。対向電車を真正面からとらえるのは快感である。線路が明治初期の海岸線で、札幌本道はほぼそれに沿っていた。

室蘭駅前の道道699号が明治時代以前の海岸線であった。その海側は広大な埋め立て地で、湾の西側に現在の室蘭港中央埠頭、東側は製鉄、セメント、製鋼などの工場地帯で、白煙をあげる煙突が林立している。室蘭は幌内炭坑の石炭の積出し港として発展した港町である。

札幌本道は道道より一筋山手に寄った道で、地元では札幌通りと呼ばれている。札幌通りが走る台地と海岸線との間に多数の坂があって、室蘭の地名はアイヌ語で「小さな坂」を意味する「モ・ルラン」から来た。

駅から道道を北に歩いていくと、旧室蘭駅舎がある。寄棟屋根に三角破風の屋根窓が取り付けられ雁木を配した和洋折衷の珍しい様式になっている。明治45年(1912)に建てられた駅舎で、平成9年まで使われ現在は観光協会が入っている。

その道向かいに室蘭八幡宮入口標識がある。八幡坂の石段は札幌本道旧道を横切って更に続いている。測量山の東山麓に慶応4年(1868)造営された。明治8年の遷座の際、打ち寄せられた鯨を売って資金の一部にしたことから鯨八幡の愛称がある。豪華な社殿は祭壇が丸見えに解放されている。境内からは室蘭港が一望できる。

旧道に下りてそのまま北に歩いていくと右手に立派な石垣が築かれた下り坂がある。道道に下りた所に「問屋坂」の標識が立っていた。石炭積出港としての室蘭最盛期に石炭荷役を一手に請け負っていた佐々木商店の佐々木市造が明治39年(1904)、有珠の石を運び、京都から石垣職人を連れてきて作らせた石垣の上に釘を一本も使わない宮造りの豪邸を建てた。やがて海産物卸問屋の室蘭産物会社が創業されると、その石垣のある坂は人であふれ、「問屋の坂」と呼ばれるようになった。

道道に下りて左に向かう。港の文学館は荒れて閉じているようである。文学碑も見当たらなかった。

海岸町と緑町の境をなす信号交差点に到る。右に折れて港に出た。船員待合所なる建物が合って、埠頭には大小各種の船舶が繋留している。

交差点に戻る。ここに札幌本道の旧道が合流している。山側にはいってみると、十字路角に明治42年創業の「ヤマコしらかわ」米穀店がある。その対角線上の空き地路傍に「室蘭港開港の地(トキカラモイ桟橋跡)」の標識と当時の桟橋を描いた絵入りの説明板があった。

明治5年の春、トキカラモイ(海岸町~緑町の境界付近)に道都札幌への道(函館~森-<海路>-室蘭~札幌)、札幌本道の築造工事が始まった。この道路は、マカダム式舗装(砂利敷)による長距離道路として日本で最初に作られた馬車道である。道が開けるや道路の両側にどんどん家が建ち並び、札幌通という町ができた。ここで札幌本道の海路部分が森桟橋と繋がる。

室蘭駅に戻る。室蘭散策が物足らず、母恋(ぼこい)駅で降りて地球岬に寄っていくことにした。母恋という地名はアイヌ語の「ポクセイ・オ・イ」(ホッキ貝のたくさんあるところ)に由来する。それに母や恋の字を当てたのは粋である。

風が吹きつける展望台に立つと眼下に西日を浴びた白亜の灯台が円みがかった水平線に向かって建つ。アイヌ語で「親である断崖」を意味する「ポロ・チケップ」が、チケウエ→チキウと転訛し、「地球岬」という当て字が使われたという。かなり無理な感じがするが出来上がった地名は母恋といい地球岬といい、素敵な命名だと思う。北海道の地名はほとんどがアイヌ語に由来すると考えてよい。

ここの海岸線は100m前後の断崖絶壁が連なり、沖にはイルカや鯨をみることもできるという。5時が過ぎて夕日を待つ。控えめな夕焼けをしばらく楽しんで室蘭を後にした。

東室蘭で一泊し、明日は白老から一気に札幌をめざす。

白老(しらおい)駅で下車、二カ所の寄り道をする。

地名「白老」はアイヌ語で「あぶ・多い・所」という「シラウ・オ・イ」に由来する。

白老はアイヌの居住地域でしられ、集落を移設・復元した野外博物館、アイヌ民族博物館「白老ポロトコタン」がある。北海道を旅する者には必見の場所であろう。白老駅から東に徒歩15分くらい、ポロト湖畔にある。

5軒の茅葺の家(チセ)が復元され、それぞれに民芸品、衣服、家具などの展示やアイヌ人による実演が行われている。一番手前の家では1時間に1回、コタンの解説とアイヌ古式舞踊の公演が行われる。解説はアイヌ女性が行う口周りの入れ墨について時間を割いた。男の口髭を巨大にした怪奇な入れ墨である。意味、理由は諸説あるらしいが、結果として明治に入り開拓使によって禁止された。

最近、日本に観光旅行で来たニュージランド先住民女性がやはり顔にほどこした入れ墨を理由に入浴を拒否されたという報道があった。彼女の入れ墨は顎髭風で、アイヌの巨大な口髭に比べれば小さなものであったが、入れ墨拒否という日本のルールが適用されたものである。場所が北海道のとある温泉だったことは皮肉である。バチカンが短パンやTシャツを認めないのと差はなかろう。

ムックリという口琴は単調ながら憂いを含んだ音を聞かせる。モンゴルで似た楽器を演奏する番組を見た。

公園が終わって局地豪雨の去った湖畔を散策した。まだ雨霞が漂うポロト(大きな湖)湖は幻想的な風景を見せている。

二つ目の寄り道は駅から2.5kほど西に行った陣屋町である。文字通りここに仙台藩の白老陣屋があった。安政元年(1854)徳川幕府は蝦夷地を直轄地とし、翌年仙台藩はじめ津軽・秋田・南部の奥羽諸藩と松前藩に警備を命じた。仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を経て国後・択捉までの東蝦夷地といわれる広域であったため、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・国後・択捉に出張陣屋を築いた。ここには本陣・勘定所・穀蔵・兵具蔵・長屋などがあり、常時120名程の人々が駐屯して警備に当たっていた。

白老から特急で札幌に向かう。この区間でも電車の横揺れは激しかった。地形の問題ではなく、線路か車両の構造上の問題であることは容易に推察できる。

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札幌

札幌散策は広範囲にわたるため駅前で車を借りる。現在の札幌本道である国道36号を千歳方面に戻る。

JR千歳線の島松駅西方にあたる国道36号の島松沢信号交差点でUターン気味に右折して旧国道に入る。この道が札幌本道である。ここから寄り道をしながら札幌市内の本道終点までドライブする計画である。

旧道に入って600mばかりで右手に旧島松駅逓所がある。駅逓所は北海道開拓時代に、宿泊所、人馬の貸し出し、さらに郵便業務も取りあつかった北海道独特の制度である。宿場における旅籠・本陣・問屋場を兼ねたような存在であった。札幌本道の開通に伴って開設された島松駅逓をはじめとして、開拓が広がるにつれ全道で238駅が開設された。

木造平屋の松島駅逓建物は明治6年(1873)から13年(1880)にかけて建てられた取扱人中山久蔵の本宅、客室と同14年に明治天皇行在所として建築された部分からなる。また敷地には御膳水の井戸、ハス池などが残っている。

クラーク博士が明治10年4月16日、半年の赴任を終えて帰国する際、この場所まで見送りに来た職員、学生と訣別した。馬上から"Boys, be ambitious!"と叫んだ後一鞭を与えて坂を登り、疎林の彼方に其影を没したという。その記念碑が建っている。実はクラークの別れの言葉はBoys, be ambitious!だけではなく、その後に"like this old man."と付け加えていた。しかし名言として普遍性を与えるために「この老人のように」という個人的要素を割愛した。

旧道は国道36号に合流して8.3km北上した所、「里塚2条6丁目」の信号交差点で二股を右に取って旧道に入る。東側付近に三里塚小学校、三里塚公園があり、その名が示唆するように、このあたりに札幌本道の三里塚があった。札幌南青洲病院前でS字状にカーブした先右手の平岡南公園の道路沿いにその標柱が設置されている。明治14年の明治天皇北海道巡幸に先立ち、明治13年、札幌の創成橋のたもとを基点として室蘭まで34里を測量し、一里ごとに標柱が設置された。ここはその三番目の塚跡である。

旧道は清田区役所前を通って札幌緑愛病院の先で国道に合流する。合流点に「旧国道36号 あしりべつ桜並木」の碑が建てられている。

国道は緑地地帯の東縁を北上する。札幌ドームの先の歩道橋交差点で左折して道道82号を西進する。道道が右に曲がるところで「羊ヶ丘展望台」入口から丘を上がっていくと西洋風の建物が建ち並ぶ展望台に着く。札幌市を一望できるこの丘に右手をのばしたクラーク博士の像が建つ。来道100周年を記念して建立された。僅か9カ月という短い期間ながらクラーク博士が北海道に与えた影響はこれほどに甚大であったかと驚かされる。ここでの記念写真ポーズはV字サインでなくて右手を一杯にのばしたクラークサインであった。

ここからもう一つの遠隔観光地、北海道開拓の村を訪ねる。

道道82号をもどって国道36号を横断して向ヶ丘通りを東進、「南郷通16丁目南」交差点を右折して道道3号を南下、道央自動車道高架前で左折して国道12号に移る。道なりに5kmほど走ると北海道開拓の村に誘導されていく。

北海道開拓の村は松前の松前藩屋敷、白老のポロトコタンと同様の野外博物館で、明治から昭和初期にかけて建築された北海道各地の歴史的建造物が一ヶ所に集められて移築復元・再現されている。村内を夏は馬車鉄道が、冬には馬そりが走る。アミューズメントがないテーマパークである。

正面入り口に建つ暖色の洋館は旧札幌停車場で、入ってすぐ左手は寒色の旧開拓使札幌本庁舎である。以下、興味深かった物だけを挙げる。

旧近藤染舗:奥からリズミカルな音が聞こえてきた。中に入り音源をさぐるとなつかしい割烹着姿の夫人が大根を切っていた。この村の建物では写実的な人形だけでなく、会話や音が人形と同調して演出され、小劇場の雰囲気を醸している。

旧札幌警察署南一条巡査派出所:赤レンガ造りの交番はもと南1条にあったもの。南1条は創生橋の袂、北海道里程元標が建つ札幌本道起点である。中にケンタッキーのおじさんが脚を組んで椅子に腰かけていた。よくできた人形だと感心してみつめているとやおら立ち上がって話しかけてきた。制帽、制服がよく似合う警官OBであった。

旧青山家漁家住宅: 青山家は鰊の建網で巨万の富を築いた。建網経営には番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要とし、それら一式がそろった遺構は珍しいという。中では案内人が詳しく説明してくれた。後ほど小樽で青山家の豪華な別邸を訪ねる。

旧ソーケシュオマベツ駅逓所: 島松についで駅逓所の二例目。支笏湖の西方、喜茂別町双葉の国道276号沿いに明治42年(1909)から昭和9年(1934)まで営業していた官設駅逓所である。入ったところには取扱人(管理人)が事務をとり、奥からは客の話し声が聞こえてくる。

旧田村家北誠館蚕種製造所: 大規模な木造建物は絹(糸)の原料となる蚕の卵(蚕種)をとる建物で、東京蚕業試験場の蚕室を参考に明治34年(1901)に建築されたものである。内部には数人の作業員がいてまゆをほぐし糸をとりだす実演を見せてくれる。観光客も参加することができる。糸は蜘蛛の糸よりも細く、老眼鏡をかけてもその一本一本を見極めることが困難であった。

これからいよいよ札幌市内の散策に移る。まずは札幌本道の起点を訪ねて本道の旅を完遂し、後は気楽な観光旅行に切り替えよう。

国道12号を後戻りして白石本通13信号を左折し、道道453号で国道36号に戻って北に向かう。豊平川を豊平橋で渡り札幌中央区に入る。創生川の西岸にあたる南4条西1丁目信号交差点を右折して西岸を3筋北に上がったところが南1条西1丁目である。

そこに創生橋が架かる。札幌本道の起点であると同時に札幌の街づくりの起点にもなった。東西の通りを南1条とし、南北に条数が増えていく。創生川の両側を東西1丁目とし、東西に離れるにつれ丁数が増えていく。そして碁盤状の計画都市が出来上がった。

創生橋は明治2年(1869)創生川が大友掘と呼ばれていたころの板橋に遡る。明治43年(1910)に石造りの橋が架けられた。下部はアーチ型で欄干には擬宝珠が飾られている。お江戸日本橋にあたる。

西詰めに札幌開拓の先駆者大友亀太郎の像がある。大友亀太郎は小田原市に生まれ、安政5年(1858)に渡道し、慶応2年(1866)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに石狩地方開拓の命を受け札幌の街造りの発端となった。創生川は亀太郎が掘った大友掘が原形である。

東詰めに北海道里程元標が建っている。元の標柱は明治6年に設置されたもので、主要駅逓までの距離が記載されていた。ちなみに島松駅までは3里27丁45間、篠路(しのろ)駅までは3里10丁20間、銭函(ぜにばこ)駅までは5里10丁30間と記されている。

橋の袂にあった赤レンガの交番は開拓村に移築されている。

大正8年に旧道路法が制定され、道路の起点を示す標柱は道路元標へと変わり、設置場所も北海道庁前に変更された。

南に一筋下った南2条と3条の境界をなす通りの東1丁目は二条市場として知られる鮮魚市場である。蟹、雲丹等函館の朝市でなじんだ海産物が店先に所狭しと並べられている。

札幌駅の北側に位置する北海道大学のポプラ並木を見に行く。大学のキャンパスはいつも甘酸っぱい青春時代の感傷を呼び起こすものである。明治9年(1876)クラークが教頭として赴任した札幌農学校が前身である。クラーク会館の前方にクラークの胸像がある。その斜め前にある古い建物は古河講堂で明治42年(1909)古河財閥からの寄付で建てられた。

緑に包まれた構内の道をすすんで総合博物館の先を左におれていった先にポプラ並木が延びている。残念なことに平成16年の台風18号でポプラ並木も51本のうち19本が根元から倒れるという被害を受けた。現在も再生中で並木の立ち入りが禁じられている。

仕上げは札幌駅南側にある北海道庁旧本庁舎と市役所前の時計台である。

「赤レンガ」の愛称で知られる北海道庁旧本庁舎の正門脇に小さな道路元標があった。創生橋にあった元里程標の役目をここで引き継ぐことになった。

旧庁舎はネオバロック様式の堂々としたドーム建築は明治21年(1888)に完成した。中に入ると赤じゅうたんが敷き詰められた広い正面階段が目に飛び込んでくる。映画「風と共に去りぬ」からヴィヴィアン・リー演じるスカーレットが今にも華麗に階段を下りてくるような気分にさせた。



道庁舎正門から二筋南に下って二筋東に行った十字路に白い
時計台が建ち、まわりは観光客であふれている。時計台の下の建物は北海道大学の前身札幌農学校の演武場である。アメリカ南北戦争に従軍して多数の若者が死んでくのを目撃したクラーク博士は折しも西南戦争が勃発した日本でも、学生に兵式訓練を行う必要性を感じ、武芸練習場の建設を構想していた。博士が帰国した翌年に演武場は完成する。当時の米国中・西部開拓地の木造建築様式にならって白ペンキ塗りの下見板張り造りにデザインされた。

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小樽 

札幌本道は札幌―函館をむすぶ幹線馬車道だが、他にも馬車道網は延長されていった。北海道里程元標に5里10丁30間とある銭函も札幌から西に延びる馬車道の駅であった。本来は更にその西にある大都市小樽までの馬車道が企画されたが、銭函と小樽の間に横切る険しい崖が障害となって見送られていた。そこを開削して道路が完成したのは明治12年のことで、札幌―小樽間の馬車道が開通した。その翌年、待っていたように同区間に鉄道が開設される。

明治になってできた札幌に比し小樽は函館、松前、江差とおなじく古い町である。オタルはアイヌ語の「オタルナイ」(砂の中を流れる川)が語源である。オタルナイ(現在の新川)は江戸時代、銭函の砂浜を大きく蛇行しながら流れる川だった。文禄5年(1596)、そのオタルナイ川の河口に、松前藩の八木勘右衛門が漁場を開き、和人として初めて漁業を始めた。その後港は入船川河口(現在の住吉町、中央埠頭)に移されたが名称はオタルナイを引き継ぎ、オタナイ、尾樽内、小足内、穂足内と変化して明治2年、最終的に「小樽」となった。

その後オタルナイの場所請負人として小樽漁場の本格的な支配を確立したのは松前の八幡商人岡田弥三右衛門(恵比寿屋)である。岡田家は以後代々にわたりオタルナイ場所請負として七漁場を支配、第11代目岡田八十次(1820~1907)は小樽に「大三岡田商店」を開き小樽郡内全域を掌握した。岡田家の恵比須屋半兵衛は自費を投じ小樽と銭函の間に立ちはだかる張碓のカムイコタンの峻嶺を崩し、山の上の道路を通じ札幌と小樽を結ぶ馬車道を完成させた。

オタルナイに続きその西方に近江商人西川伝右衛門が寛文7年(1667)、高島(於古発(オコバチ)川・現在の妙見川-塩谷川間)と塩谷川以西の忍路(オショロ)の場所請負をして漁場を開拓した。これら三場所は、後にそれぞれ小樽郡、高島郡、忍路郡となっている。鰊の漁場としては江差をもしのぐ一大拠点であった。札幌が道都として成熟するまで、小樽は北海道の商業・金融の中心地として君臨した。そんな小樽を今回の旅の仕上げに訪れる。

小樽訪問にはもう一つの個人的な目的があった。小樽は近江商人に丁稚奉公した私の父が小樽支店支配人として2年近くをすごした町なのである。赴任したのは太平洋戦争が始まる前年の昭和15年(1940)10月、私が生まれる5年半前の事、会社は株式会社塚本商店といった。今も残るその社屋に父の面影を求めていく。

小樽駅に降り立つ。札幌駅にくらべて小さい分、観光客密度は札幌よりも高い。人は大方運河の方へ降りていく。中央通りを海の方向に歩いていく。局地的豪雨との天気予報通り、まもなく黒ずんだ雲と共に雷と激しい雨がやってきた。庇の深い建物がなく、やむを得ずガソリンスタンドの待合室に入れてもらった。

中央通りと色内大通りが交わる色内2丁目交差点の北西角に建つ二階建て箱型の建物は昭和5年(1930)建築の旧安田銀行小樽支店である。玄関をギリシャ建築風の円柱で飾るのは当時の銀行建築の典型であった。安田銀行は富士銀行を経てみずほ銀行となった。

色内大通りに入って雨宿りをしたガソリンスタンドの真向かいに入母屋根造りの黒々とした壁に金文字の「後藤商店」看板を掲げた蔵建築が建つ。明治29年(1896)、近江五個荘商人塚本定右衛門は全盛期の小樽に進出してきた。京都、東京につぐ国内三番目で最後の支店開設である。現在の建物は大正9(1920)年に建てられた塚本商店小樽支店である。明治37年(1904)の大火で、木造構造の蔵店の外壁をコンクリートで塗り固め、出入り口や窓を防火戸で覆って防火措置を徹底した。昭和44年(1969)、塚本商事は札幌支店開設に伴い小樽支店を閉鎖した。

現在は「まるいち後藤商店」という懐石料理店になっている。雨がやみそうになく蔵造りの料理店で早めのランチをとることにした。旧塚本商店の中に入って父の職場を見る思いがした。内装は装飾がすくなく簡素ながら精巧な木造造りになっている。スチーム暖房器具が懐かしさを増幅させた。父は小樽から東京に帰り本店営業本部長を最後に家族が疎開していた滋賀にもどり、終戦後も復職することはなかった。

旧本商店の北隣は旧梅屋商店で洋物の卸問屋である。呉服を扱う塚本商事と隣り合ってライバル関係にあった。

小樽で活躍した近江商人をもう一人紹介しておこう。彦根生まれの石橋彦三郎という。大阪の米穀商に奉公し、米の買い付けに出かけた秋田で、安い公債を買い集め巨利を得た。明治8年(1875)に北海道へわたり小樽色内町の父の店で呉服問屋を始める。やがて醤油醸造をはじめ、色内の呉服店はたたんで奥沢に蔵を建てて醤油醸造業に専念。「丸ヨ石橋商店」は、野田のキッコーマン、上州のキッコーショウユと並ぶ日本の醤油御三家の1つに数えられるに至る。

呉服屋が始めた醤油醸造場で刀自を勤めたのが加賀出身の野口吉次郎である。明治30年(1897)吉次郎は丸ヨ石橋商店から分家し、稲穂町に店舗を新築、本家と競合しないように酒造を開始した。4年後最初の酒が出来上がり「北の誉」と命名した。

雨が上がり中央通りを港に向かう。運河に架かる中央橋に人力車と車夫が屯していた。橋から運河を北方面にながめる。左岸に石組の美しい旧小樽倉庫が優雅な佇まいをみせている。寄棟の瓦屋根に鯱をのせた和洋折衷の石造りである。

小樽運河は全長1140mで大正3年に着工、内陸は掘り込まず海岸を埋め立てて9年後に完成した。大型船を港沖に泊め、はしけを使って直接倉庫の近くまで入って行ける水路として作られた。使われなくなって汚染が進み一時は埋め立てが画されたが、全国的な保存運動が奏功し、小樽の一大観光スポットに再生した。岸には散策路、ガス灯が整備され赤レンガの倉庫が建ち並び、情緒あふれる1kmの景観を楽しむことができる。

海側に回って倉庫群を散策する。地ビール醸造を兼ねるビアレストランに入ってみた。西欧風の雰囲気が満ち溢れて感じがよい。

運河沿いを歩いたのは結局1kmの運河の南端300mほど。次の交差点を右折したところ、観光案内所には観光客が列をなしている。アジア系の外国人が多い。

色内大通りと日銀通りの交差点に出る。このあたりは北のウォール街とよばれる一角で、小樽が北海道の金融中心地であった当時、日銀小樽支店を初め銀行の本支店が建ち並んでいた。

旧北海道拓殖銀行小樽支店は小樽経済絶頂期の大正13(1924)年に建設され、三菱、第一各銀行小樽支店と共に北のウォール街の一角を占めている。

交差点を南に入ったところ左手にバスターミナル、その奥に大正硝子館が一階の屋根一杯に突き出した立派なうだつを設けている。

小樽を去る前にバスターミナルから水族館行のバスに乗って鰊御殿の一つ青山家別邸をみていくことにした。祝津地区にはニシン漁で巨富を得た網元の屋敷が数軒ある。小樽三漁場の一つ高島場所の海域に属する。

最も遠くにあるのが小樽市鰊御殿、田中家住宅である。明治30年の築で、親方と多数の漁夫(多くは東北からの出稼ぎ)が居住する大型のニシン漁場建築、漁家である。江戸時代末期のニシン漁は、鰊を煮た後に圧搾し、乾燥させる「〆粕(しめかす)」製造が一般的となり、綿花、紅花、藍、桑栽培の肥料として出荷された。鰊御殿とよばれる親方の豪勢な住居も、〆粕製造に従事する多数の労働者の宿舎と製造作業場、倉庫を揃えた工場であった。

旧青山別邸は札幌の開拓村に移築されている漁家の別邸である。安政6年(1859)にこの地に渡ってきた山形県遊佐町青塚出身の青山家初代留吉の二代目政吉が築造した。初代留吉は安政6年(1859)、24歳の時に北海道に1人で渡り、高島郡祝津村(小樽市祝津)の寺田九兵衛のもとに雇漁夫として1年働いた後、小規模ながら同地にて漁場を開き、明治期の積丹半島を中心に漁場を次々と拡大して漁場15ヶ統余り、漁船130隻、使用人300人余を擁する道内有数の漁業家に成長した。

銅版瓦屋根の豪壮な建物で、山形県酒田市にある本間邸を念頭に大正6年から6年半をかけて建てられたものである。約1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。家の中は6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに趣が異なり、金に糸目をつけず建てられた。

案内役と団体観光客の中にまじって流れ作業的にみてまわり、その上撮影禁止とあってしみじみとその良さを味わうことができなかった。

バスターミナルに戻り、日銀通りを小樽駅に向かう。日銀小樽支店は明治45年(1912)の建築で、日本銀行本店や赤煉瓦の東京駅を設計した辰野金吾の設計による。煉瓦造であるが外装を石造風の装いにまとめて荘重な姿を誇っており、小樽を代表する建築物である。どれほどの豪勢な民間銀行でも同地の日銀支店を凌駕する建物を建築することは許されなかった。

その南側に線路が横切っている。明治13年に小樽・手宮〜札幌を結ぶ北海道で最初の鉄道、日本で3番目の鉄道として開通した旧国鉄手宮線の跡地である。明治36年には旧小樽駅が完成し函館とも鉄道で結ばれた。国鉄手宮線は昭和60年(1985)に廃線となった。

凾館から小樽まで、2泊3日の旅であった。森、室蘭、札幌で一部旧道の道筋にこだわった個所があったが、ほとんどは道筋を追う苦労がない気楽な物見遊山の旅であった。何よりも父の足跡の一部をたどれたことがうれしい


(2013年8月)


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