松前街道



凾館北斗木古内知内福島松前上ノ国江差

いこいの広場
日本紀行


「松前街道」は蝦夷地唯一の藩である松前藩の城下町松前を終起点とする街道であるが、本州と北海道によってその意味する道筋が異なっている。本州においては、松前藩の参勤交代に使われた道という意味で、松前から三厩に船で渡った後、油川乃至青森で奥州街道に合流するまでの津軽半島東岸外ヶ浜を縦走する道を指す。奥州街道の終着点にも関わる問題で、三厩を奥州街道の終点とする場合は、松前街道は奥州街道の最終部分に付けられた別名にすぎない。「日本紀行」では「奥州街道―18」として扱った。

他方、地元北海道の道南地方においては、松前と並んで古くから和人による蝦夷地開拓の拠点となっていた箱館(明治2年、函館に改称)と松前を結ぶ道を松前街道(福山街道)と呼んでいる。ここでは函館を起点として松前まで、さらに足を伸ばして松前三湊の一つである江差を訪ねることにしたい。明治以前の蝦夷地開拓の歴史と、そこに点在する近江商人の足跡をたどる旅でもある。函館から松前までおよそ100km、松前から江差までは65kmの行程である。松前から先の海岸の道は延々稚内まで「にしん街道」という愛称で整備が進められている。歩いて一里塚や宿場の古い家並みを楽しむという旅でない。函館で車を借りた。松前から20kmほど先の江良で1泊し、翌日江差をまわって内陸経由(国道227号)で函館に戻るドライブ旅行である。

和人が蝦夷地に渡り生活・交易の根拠地を大規模に開拓しだしたのは室町時代、14世紀の末頃から15世紀半ばにかけてである。松前街道を旅するにあたって、数人の和人の名を知っておかねばならない。

まず、中世の蝦夷地開拓史に中心的な役割を果たした安東政季(初名師季)である。安東氏は元々鎌倉時代から南北朝時代にかけて津軽十三湊付近を根拠とし、蝦夷地との交易を業とした海の豪族であった。鎌倉時代には北条家に仕え蝦夷管領として蝦夷地の支配を任された。室町時代にはいると勢力を津軽から出羽秋田郡まで拡げる過程で秋田を本拠とする上国家と津軽を本拠とする下国家に分裂する。十三湊にとどまって蝦夷地を管理していた下国家は南部氏との抗争に敗れ、安東政季は捕虜として下北半島の田名部に知行を与えられる。享徳3年(1454)安東政季は南部の地を脱し蝦夷地に渡り、被官であり娘婿であった上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。

康正2年(1456)、分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季の招きに応じて秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移り、檜山を本拠とした。蝦夷地を去るにあたり、安東政季は大館館主の安東定季(松前守護)、花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護)、茂別館館主の安東家政(下国守護)の3名を守護に任じた。その翌年にコシャマインの戦いが発生している。

安東氏は戦国時代になると、後嗣のいない上国家を統合し秋田氏に改姓、江戸時代には三春藩主として大名の地位を維持した。

次に武田信広である。若狭国の守護大名であった武田信賢の子とも、若狭の商人とも言われる。宝徳3年(1452)21歳の時に若狭を出奔。恐山の麓陸奥国宇曽利に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗るようになった。享徳3年(1454)安東政季を奉じて蝦夷地に渡り、上国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。その後季繁の婿養子となり蠣崎氏の家督を継ぎ、蠣崎信広と改姓した。

康正3年(1457)に和人武士団とアイヌの間で起きたコシャマインの戦いでは、当時蝦夷地にあった道南12館のうち10館が陥落するなか、信広が武士達をまとめあげて大反撃に打って出てアイヌ軍を次々に撃退、遂にはアイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った。この功績によって蠣崎信広の蝦夷地における地位が確立された。1462年には勝山館を築城し花沢館から移っている。

信広の子、光広は本拠をそれまでの上ノ国から大館(現松前)に移した。

蠣崎信広から数えて5代目当主蠣崎慶広の時、天正18年(1591)、豊臣秀吉から蝦夷地の徴税を認める朱印状をえて、それまで主君の位置にあった安東家より独立、蝦夷地の支配権を確立した。つづいて徳川時代にはいると家康よりアイヌ交易の独占権を公認される。慶長4年(1599)、姓を蠣崎から松前とあらため松前藩初代藩主となる。「松前」は徳川旧制松平の「松」と前田利家の「前」をとったものという。

蠣崎季繁(すえしげ)の出自については武田信広とおなじく若狭国の出身で守護武田氏の近親とも、南部氏の庶流で下北半島田名部の西方、蠣崎村を領し「蠣崎蔵人」と名乗ったが、南部本家との争いに敗れて蝦夷に渡ったともいわれているが定かでない。蝦夷地に渡って下国安東政季の娘婿となり、上国守護職として花沢館(現檜山郡上ノ国町)に住んだ。安東政季が下北半島から蝦夷地に渡ってきた際、武田信広と共に身を預かった。コシャマインの戦いの後武田信広を婿養子とし、養女としていた安東政季の娘を娶らせ、蠣崎家の家督を譲った。

河野政通は越智氏の末裔を称し、伊予河野氏の一族とされる。安東政季が蝦夷地に渡る際、武田信広らとともに政季に従った。宇須岸(うすけし)(現函館市元町)に宇須岸河野館と呼ばれる館を築いた。その館が方形であったため、箱館という地名の発祥となった。コシャマインの戦いでアイヌによって箱館は陥落した。

室町時代に蝦夷地に渡った和人の根拠地として、東は函館から西の上ノ国まで渡島半島海岸線に沿って12カ所に館が建設された。館主はいずれも当時蝦夷地を支配していた安東氏の被官で、館を拠点としてアイヌや和人商人との交易を通じて領域を支配していた。

道南12館の所在地は次のとおりである。(赤字は史跡が残る)

志苔館(函館市志海苔町)、宇須岸館(箱館)(函館市元町)、茂別館(北斗市矢不来)
中野館(木古内町中野)、脇本館(知内町湧元)、穏内館(福島町館崎)、
覃部館(松前町東山)、大館(松前町字神明)、禰保田館(松前町館浜)、
原口館(松前町原口)、比石館(上ノ国町石崎)、花沢館・勝山館(上ノ国町上ノ国)

安東政季が蝦夷地を去る時、茂別・大館・花沢に守護を置いて12館を集約。最終的には花沢から大館に入った蠣崎氏によって安東氏最後の拠点であった茂別も吸収され、12館の領地は松前に統一されることになる。

以上の歴史的背景をもって函館から出発することにしよう。



凾館 

凾館の宿は朝市で知られる市場に隣接した東横イン朝市にとった。朝食前に市場を散策する。細い路地の両側に屋台ほどの小さな店が軒を連ね朝食を出している。海鮮丼が主流を占める。大きなテント造りの建物には裸電球が無作為にぶらさがり、一坪ほどの縄張りに青物や鮮魚、加工食料品を並べる店が敷地を埋めている。少し広めの通りには蟹を売る店が多い。観光客相手だから持ち帰る人はなく自宅配送が標準となっている。鮭、イクラ、数の子など、年末に見かける風景がここでは日常的に見られる。値段は地元だから特段安いということではなさそうだった。

夕張メロン一切れ100円で売っているのは上野アメ横と同じだ。一本150円のスイートコーンを買った。実は黄色でなくいかにも未熟な白さであるが、生でかじってみると見事に甘かった。

朝市から海辺に沿って函館旧市街を散策する。

凾館は先述したように伊予から陸奥に移り住んだ河野政通が、安東政季に従って蝦夷地に渡ってきたことから始まる。政通は小さな漁村にすぎなかったここ宇須岸(うすけし)(現函館市元町)に箱形の館を築いた。以来箱館は蝦夷地交易の場として栄え、松前藩成立後は藩の役所が置かれるようになる。

それから開国に伴って国際貿易港として飛躍するまでの間に、箱館を海運の一大拠点に発展させたもう一人の人物が登場する。明和6年(1769年)淡路島に生まれ、28才のとき北前船で箱館に来航した高田屋嘉兵衛である。嘉兵衛は箱館を本拠地として北洋漁業、本州との交易で巨万の富を築いた。赤煉瓦倉庫の一角に高田屋喜兵衛造船所跡地(喜兵衛資料館)として二棟の白壁土蔵が建っている。造船所まで持っているとは驚きである。

安政元年(1854)、日米和親条約によって箱館はアメリカ艦船の補給港となる。開港にそなえペリー提督が来航した。ペリーはなにかにつけて箱館と下田を比較し、港の良さ、松前藩士をはじめ町民の精練された振る舞いについて箱館を称賛した。松前が京文化を継承していたことまでは知らなかったのだろう。

旧市街の散策を続けている。旧市街といっても建物はすべてが石か煉瓦造りで、明治以降の建築である。巨大な明治村と言ってもいい。明治にはいるや箱館は函館と改称した。明治以降の函館は「札幌本道」にまかせることにして、松前街道の起点としての函館散歩は松前藩の支配下にあった箱館に限っておくことにしよう。観光マップでいえば、沖之口番所跡、高龍寺、南部藩士の墓と、宇須岸館が築かれた場所だという元町公園界隈しかない。

凾館港を眺めながら歩いていくと東浜桟橋に北海道第一歩の地碑設置されている。その先、海上自衛隊凾館基地正門前に税関の前身である運上所跡の説明板が立っていた。

さらに港に沿って進んでいくと交差点の角を占めて函館臨海研究所の立派な二階建ての建物がある。道内最初の郵便局が置かれた場所であるが、さらに古くは同じ場所に松前藩の沖之口番所が設置され、港を利用する船舶、旅客、積荷に対して税を徴収した。後の税関である。

その交差点を左折すると市電が走る大通りに出る。北西に向かって歩いていくと函館ドック前駅で行きつく。

その丁字路を左折して坂を上がっていくと左手に立派な山門を構えた高龍寺がある。山門に彫られた彫刻が見事である。高龍寺は
寛永10年(1633)松前の曹洞宗法源寺の末寺として建てられた市内で最も古い寺院である。本堂は明治33年(1900)、山門は明治43年(1910)と、それほど古くない。ロシア領事館が近くにあった関係で、箱館開港当初にはロシア領事館一行の止宿所となった。

函館の町は幾度もの大火に見舞われ、その度に多くの木造建築が消失した。最大の大火は昭和9年(1934)のもので、死者2166名、焼損棟数11105棟を数える大惨事であったという。現存する明治以降の建物でもその殆どが石や煉瓦造りであるのはその為である。幸い高龍寺はその大火を免れた。

高龍寺の先の二股を右に進むと、港を見下ろす景色のよい所に外国人墓地があり、その西隣に南部藩士の墓がある。

寛政11(1799)年幕府は東蝦夷地を直轄地(5年後には西蝦夷地も)としてその経営に乗り出し、蝦夷地の警備を南部・津軽の両藩に命じた。両藩はそれぞれ500名ほどの藩士を派遣して警備に当たることとなった。南部藩は元陣屋を箱館に置き根室、国後、択捉に勤番所を設けその任に就いた。その後文政4(1821)年に蝦夷地は松前藩に返還されたが安政元(1854)年に再び蝦夷地が幕府の直轄地となると、再び東北の諸藩に蝦夷地の警備と開拓が命じられた。南部藩は箱館から幌別(現登別市)までを担当、600余名が勤務していた。明治維新になって蝦夷地詰めの藩士は故郷に帰ったが、中には異郷の地で亡くなった者もいた。ここには南部藩士12名が眠っている。

市電通りに戻り、北方民族資料館のある大きな交差点に着く。交差する広い坂道は基坂(もといさか)といい、ここに札幌本道の起点となる里程元標が建っていた。海に向かう道の中央緑地には明治天皇上陸記念碑が建ち、突当りが自衛隊基地正門で運上所跡地である。

凾館山に向かってのびる基坂を上がっていくと右手にペリー提督像、左手には旧イギリス領事館、突当りは元町公園で左手に箱館奉行所跡標識、奥に公会堂が海を見下ろして建つ。

箱館奉行所は東蝦夷地を幕府直轄地とした直後の享和2年(1802)に設置された。元治元年(1864)に五稜郭内に移転するまで、ここが函館のみならず蝦夷地支配の中心地として機能した。15世紀半ば、河野政通が宇須岸館を築いた故地である。

松前街道の起点としても、札幌本道の起点としてもここがふさわしい。これより駅前で車を借りて西に向かう。

ところで、コシャマインの戦いの発端となった志苔(しのり)館は函館空港の海側にある。函館駅から東に9kmの所にあるのに、気が最初から西に向かっていて寄るのを忘れた。

小林太郎左衛門良景が根拠として築いた志苔館の近所に住む和人鍛冶屋にアイヌの男性が小刀を注文したところ、品質と価格について口論が生じ、怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺してしまった。日頃差別的交易に怒りを募らせていたアイヌが首領コシャマインを中心に蜂起して志苔館を攻め落とした。勢いを得たコシャマイン軍は西に向かって進軍し、茂別と花沢をのこして道南12館のうち10館を陥落した。花沢に寄っていた武田信広が反撃に出て結局コシャマインが討ち取られたこと既述のとおりである。

凾館駅前交差点に国道元標なるものがあり、ここから3本の国道が分岐する。旧市街を通る279号、湯の川温泉地区から函館空港、志苔館跡遺跡方面に出る278号、そして五稜郭に向かう5号である。5号はすぐに札幌本道の跡を追う5号と江差に向かう227号に分かれ、さらに七重浜で227号から松前街道の道をたどる228号が分岐する。時計の正反方向から江差に向かう両国道は江差で出会う。私は時計回りに228号と227号を1周することになる。

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北斗  

国道228号を函館湾に沿って5km近く走って戸切地川に架かる上磯新橋の手前で県道96号に入って北上する。4kmほど行ったところで左に出ている清川寺参道道を上がり、桜並木の道をすすんでいくと突当りに国史跡、松前藩戸切地(へきりぢ)陣屋跡がある。

安政元年(1854年)日米和親条約(神奈川条約)が締結され、日本はウィ下田と函館を開港し、鎖国政策に終止符を打った。幕府は翌2年蝦夷地防衛の強化をはかるため、津軽・南部・仙台・秋田・松前の5藩に分担警備を命じた。松前藩は七重浜から木古内までを分担し、その陣屋としてこの戸切地陣屋を構築した。蘭学の築城書による四稜郭で、大砲6門を据え宿舎22棟を建て、約120人が守備にあたった。明治元年(1866)箱館戦争の際、駐屯の松前軍は陣屋を自焼して退いた。土塁と空堀に囲まれた敷地内に建物跡がよく保存されている。

国道228号にもどり上磯新橋を渡って8kmほど海岸沿いの国道を行くと茂辺地川に差しかかる。川を渡ってすぐ右岸堤防の道に入り、堤防を遡上して中学校の先の橋で川の左岸に移り、山道を道なりに進んでいくと矢不来天満宮の鳥居前に至る。この山道は旧国道228号で、2.5kmほど手前の北斗市館野地区から矢不来地区に入った辺りで現国道から分岐している道である。

鳥居前を通り過ぎて道なりに旧国道を登っていくと台地上の畑地に出る手前の林中に「茂別遺跡」と記された標柱がたっていた。かすかな踏み跡(空堀)をたどっていくと土塁跡が認められる神社裏参道に出る。

茂別館は、嘉吉3年(1443)津軽十三湊城主安東盛季が南部義政に十三湊を攻略され蝦夷島に渡った時館を造ったのに始まる。のち安東政季の弟家政が館主となった。コシャマインの戦いで道南12館の内10ヶ所が陥落する中で上ノ国花沢館と並んでアイヌ軍の攻撃に耐えた2館の一つである。西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られた自然の要塞に立地して、和人の蝦夷地支配の拠点となったが、永禄5年(1562)下国師季(家政の孫)の時、アイヌの攻撃に遭って茂別館は廃絶、下国師季は松前に逃れ蠣崎氏に臣従した。師季の子孫はその後松前藩で家老職をつとめている。

旧国道で茂別の町中を通って国道にもどり、5kmほど津軽海峡を眺めながら海岸の道をゆく。渡島当別駅前を通過してまもなくトラピスト修道院入口の標識が現れる。右に折れて坂道を上がりJR江差線踏切を越えて1kmほど北に行くと美しい杉並木の向こうにトラピスト修道院の姿が見えてくる。明治29年(1896)フランスから数名の修道士たちが木造の修道院を建てた日本で最初の男子修道院である。並木の正面に建つ正門から奥は男性のみが予約して入ることができる女人禁制の地である。フェンス越に二階建ての本館を覗き見するだけで修道士の姿を見ることもなく帰ることにした。

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木古内(きこない) 

国道にもどり2km余りで北斗市から上磯郡木古内町に入る。そこから3.5kmほどいくと海岸沿いに公園が設けられて黒々とした帆船が展示されている。場所は竜飛岬を望むサラキ岬で、明治4年(1871)咸臨丸が座礁し沈没した。咸臨丸はオランダで建造された日本初の軍艦である。万延元年(1860)、勝海舟を館長とし福沢諭吉やジョン万次郎等を乗せて太平洋を横断しサンフランシスコに入港した。その後輸送船として蝦夷地開拓移民の輸送に従事中の遭難であった。

サラキ岬から泉沢、札苅を経て8kmほどで木古内集落に着く。集落入口で右手の旧道(道道5号)に入る分岐点の海側に小公園があって、海を背に大きな子供の像が立っている。異様に大きな頭を丸めた二宮金次郎のような姿に見えた。明治初期、幼くして目を患いながらも貧しい家庭を助けるためにマッチを売り歩くなど孝養心をもって生きたという実在の人物にまつわる話が伝わる。

旧道に入る。本州における旧街道のように古びた家並みを期待しているわけではないが、それにしてもさっぱりしたものだ。JR線路の北側に移って、佐女川神社に寄ってみた。寛永2(1624)年、松前藩河野加賀守源景広の勧請により祠を建て、武運長久を祈願したのが始まりとされる。毎年正月15日、4人の若者が厳寒の海に神体を潔める「みそぎ祭り」は佐女川神社の神事として天保2年(1831)に始まった。

観光マップに道南12館の一つである「中野館跡」が記されている。宝徳2年(1450)佐藤季則が築いたがわずか7年後にコシャマインの戦いで廃絶した。地図に記された木古内高校(今は中学校になっている)の北側となっている辺りを幾度も探したが見当たらなかった。木古内が道南地方の蝦夷地開拓根拠地の一つであったことは確かである。

函館から出たJR江差線は木古内で津軽海峡線と分かれて内陸に向かう。木古内は北海道新幹線の最初の駅として予定されており、古来より交通の要衝であった。

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知内(しりうち)
 

道道5号から道道383号で木古内の町を出て国道228号に合流するとすぐに建有川を渡る。この川が古来木古内と知内の境界となっていた。知内側の国道沿いに門が建っている。安政2年(1855)徳川幕府は、蝦夷地のうち建有川から乙部にかけての地域を松前藩領として残し、ほかを幕府の所領として箱館奉行所の管轄とした。そのため、接点となったこの地に境界柱がたてられ、警備のための寨門(さいもん)がおかれた。寨門をはさんで木古内側に箱館奉行所の番所、知内側に松前藩の番所があり、出入りの旅人の手形や荷物を検査していた。

国道はまもなく知内町内にはいり知内川を渡った先で大きく右にカーブしていく。右手に
雷公神社がある。元久2年(1205)砂金を求めて甲斐の国(山梨県)からこの地に来た荒木大学が、天下泰平と当所の安全を祈願し、寛元2年(1244)創建したとされる北海道で最も古い神社であるという。大千軒岳(1071m)を源流とする知内川流域は古くから砂金でしられ、元和3年(1617)松前藩は金山番所を設けて本格的に採掘を始めた。なお、金山番所は松前藩による切支丹処刑の場所としても知られ、後になって番所跡には十字架が建てられた。

知内は木古内とならんで松前街道の主要な町であった。ここにも道南12館の一つ脇本館があったが、その所在地については知内町涌元地区としかわかっていない。知内町内から、松前街道の国道228号とわかれて海辺を行く道道531号沿いにある。

街道は知内川に沿って内陸に向かう。知内から福島に至る海岸線は山塊が津軽海峡に落ち込む険しい場所で、知内と福島とをまたぐ8kmほどの岩部海岸は道が無い秘境である。

街道はJR知内駅にさしかかる。隣接する道の駅に「日本最古の墓出土地」なるモニュメントがあった。湯の里地区の遺跡から旧石器時代の土墳と考えられる日本最古の墓が発見された他縄文時代後期のストーンサークルが出土したのを記念したものである。ストーンサークルといっても単に石を環状に並べただけのもので、ストーンヘンジのような環状列柱ではない。

知内駅は本州から青函トンネルを出て最初の駅である。鉄道写真愛好家のためにそのトンネル出口を見通せる地点に展望台が設けてある。時刻表が貼ってあるのがうれしい。その時刻を待ってカメラを構えているとやおら特急スーパー白鳥の車体が音もなく姿を現した。望遠レンズを持ってくるべきだった。

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福島 

国道はそこから山間の道をたどって松前郡福島町に入る。大千軒岳周辺の砂金採取で沸いた時代、砂金掘り人足の粗末な住居が千軒もあったという千軒集落を過ぎ、市の渡橋を渡った先で右に分岐する道が大千軒岳登山道に至る町道澄川線である。車で20分ほどいくと奥二俣の登山口に着く。そこから約6kmの登山道の途中に金山番所跡とキリシタン殉教碑がある。行ってみたいが熊が怖くて独りで行く気はしない。毎年7月に行われる巡礼ミサに参加するのが無難なようだ。

福島トンネルをぬけ2.4kmほど下った三岳地区で右から逆Y字形に合流してくる道がある。この道は殿様街道と呼ばれ松前藩の殿様が通ったとされる旧松前街道である。福島川を遡上するように登って、千軒から分岐していた町道澄川線に繋がっている5km程の道である。茶屋峠、茶屋跡などを訪ねるウォーキングイベントがあるようなので、それに参加するのがよい。

道なりに進んで一路海岸に向かって下っていく。福島町に入り、川を渡ったところに「横綱の里ふくしま」と銘打った道の駅と「横綱千代の山・千代の富士記念館」がある。千代の山は私が小学校の時の横綱で、同時代の大関に濃い胸毛と太い眉毛が魅力的な朝潮がいた。私は朝潮と太鼓腹の鏡里が好きだった。

福島大神宮に寄る。表参道の右側の裏参道を上がると右手に境内社川濯 (かわすそ、 かわそ−川裾) 神社がある。川濯神社は女性の神様で、 昔から村の熱心な女性講中によって維持、 祭礼が行われてきた。その神木とされるのが推定樹齢500年といわれる古木乳房檜で、根元の部分が多数の乳房状に膨れ上がっている。乳房桧は産後の女性がお参りすると乳の出がよくなるといわれ、母体安全、子孫繁栄を祈る女性の信仰を集めてきた。松前藩四代目藩主の奥方も祈願したことがあると伝えられている。

裏参道を上がると土俵が設けられていてその後ろに岩を持ち上げる鬼の形相をした
天手力男命の像が立っている。天の岩戸をこじ開け天照大神を誘い出した大カ無双の神で、相撲元祖の神とも言われる。横綱の里ふくしまの町おこし事業であろう。

参道を登りきったところ福島大神宮拝殿の右手前に八鉾杉という杉の大木が聳え立っている。樹齢約370年といわれ一本の杉の木から八つの幹が天を突くように伸びていてる。幹周は5.8mで北海道で2番目の太さ、樹高は23mである。

福島大神宮自体は創立年代不詳の郷社で、本州からの渡海者が伊勢皇大神宮の大麻を奉じて鎮座したと伝えられる。

境内の海が臨める片隅に「松前藩砲台跡」の標識が立っていた。松前藩のお台場である。手前に福島漁港と町並みが一望でき、背後には険しい岩部海岸が東に延びている。右端の岬は道が果てる秘境ツバクラ岬であろうか。

国道は福島の町を出て南下、白符を経て吉岡に至る。昔はここより白神岬を越えて松前にでる海岸道路がなかった。旧松前街道は吉岡で現道道636号に入り、吉岡川に沿って山中に向かい不動滝をみて福島町と松前町をわける分水嶺を越えて荒谷川に沿って下っていく。松前湾にそそぐ荒谷川河口で国道228に合流していた。今その跡をたどることは出来ない。

吉岡川をわたると館崎地区に入る。吉岡の真下を青函トンネルが走っており、国道の右手の台地上に青函トンネル・メモリアルパークが設けられている。その場所に道南12館の一つ穏内館があった。館主は青森県北津軽郡木造町菰土の出で安東一族の流れをくむ蒋土季直であった。昭和40年の文化財調査で一辺80m四方の塁壁と空堀等が発見されたが、その後の国道用地と青函トンネル建設用地の工事で館跡は消滅してしまった。福島町役場吉岡支所に「中世遺跡穏内館遺跡」という標柱がある。

吉岡の次の集落は松浦で、旧国道はここから吉岡峠をこえてスズキノ沢川沿いに下って白神・荒谷の境で現国道228号に出ていた。道跡はあるようだが車で通り抜けられる状態ではなさそうだ。

現国道はここからいくつかのトンネルや覆道を抜けていく。崖が海に迫る峻険な地形で、国道さえ迂回しなければならない難所であった。

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松前 

立岩トンネル内で福島町(松浦)から松前町(白神)に入るとまもなく白神岬に到り、覆道の左手駐車場に「北海道最南端」碑が建っている。東経140度12分、北緯41度23分の地点で霞んで見える竜飛岬まで19.2kmである。白神岬(アイヌ語でシラルカムイ:岩の神が住む所)は北海道から津軽海峡を越えて本州へ向かう渡り鳥が300種以上も数えられ、日本屈指の渡り鳥の休息地となっている。

白神、荒谷、大沢集落を通過していよいよ松前城下に入ってくる。町の入口で道道380号に入る。城下通りと呼ばれている。旧街道だか定かでないが、函館をでて初めて「街道」の雰囲気をもった町並みに出あった。といっても景観に多少城下町風情を取り入れた程度のもので、古い土蔵や町屋造りの家が建ち並ぶ風景ではない。

松城信号交差点を右折してまず
松前城跡に寄る。正式な名は福山城。蠣崎家5代目慶広(祖は武田信広)は慶長4年(1599)、松前氏に改姓し初代松前藩主となり、その本拠地として従来の居館があった大館(徳山館)より福山(現在の松前城の位置)に移り、翌年に築城を開始、6年後の慶長11年(1606)に完成した。当時は松前家の家格は城主でなかったため、正式には「福山館」と称された。江戸時代の嘉永7年(1854)北方警備のために幕府の命により拡張、改築された。日本最後で最北の城である。

昭和35年に再建された天守閣は資料館となっているが、それに続く本丸御門は築城以来の姿をとどめ国重要文化財に指定されている。資料館に展示されている松前屏風(複製)は小松前川(西方)と大松前川(東方)に挟まれた台地に建つ松前城とそれを取り巻く城下町と北前船が浮かぶ波止場の繁栄ぶりを描いている。この屏風絵は近江商人恵比須屋岡田弥三右衛門が描かせたものといわれている。

松前公園を通り抜けて松前藩屋敷に向かう。ここに江戸時代の松前城下町が凝縮されている。蝦夷地唯一の城下町松前は、幕末時には戸数8千、人口3万を数え、仙台以北では最大の都市といわれ、近江商人を中心として北前船による日本海沿岸から瀬戸内海方面にわたる交易で大いに発展した町である。特に若狭(敦賀、小浜)を経由する京文化の伝播は松前藩の上品で雅な風土を形成するうえで重要な要素となった。函館に上陸したペリー提督が下田と比較して松前藩士の精練された応対ぶりに感心したのは根拠のないことではなかった。

表門をくぐると正面に沖の口奉行所が再現されている。松前藩の蝦夷地へ出入りする船改め、積荷、出入人を改め、税役を徴収する役所で、奉行、吟味役、吟味下役、小使、足軽、手代等の役人が配置されていた。松前藩は千島列島や樺太の一部を含む広大な地域を藩領とした。役人の顔つきが良い。

商家の代表として近江屋がある。松前に屋号近江屋を開いたのは八幡商人の西川市左衛門である。商機を蝦夷に求めた近江商人がまず足がかりを築いた土地が松前であった。松前藩は「米のとれない藩」で石高がない。それでいて「松前の春は江戸にもない」といわれた繁栄を謳歌した。蝦夷地の海産物と京、大坂の産物との交易を通じて松前に富をもたらしたのは近江商人といってよい。蝦夷地へは、米、麹、塩、酒などの生活必需品を送り、近畿地方へは鮭、鰊、鱈、鮑、昆布などの海産物をもたらした。おせち料理としての数の子や、京都の「にしんそば」の起こりである。「にしんそば」はその後江差、小樽に逆輸入されて地方グルメとして人気を得ている。昆布は鰹とならんで、だしの素材としてなくてはならないものになった。

最初に蝦夷松前に渡ってきた近江商人は柳川出身の福島屋田付新助(1581〜1632)と材木屋建部七郎右衛門であった。慶長15年(1610)田付新助は同郷の建部七郎右衛門と一緒に北海道の松前に渡り漁業を起こす。「両浜組」を組織し、松前藩主の保護を受けて各地に漁場を開いていった。漁獲物は北前船で日本海より敦賀に着き、近江の塩津海津から湖上を利用して京都や大阪に運ばれた。

その後、八幡商人であった岡田弥三右衛門西川伝右衛門たちがつづく。

岡田弥三右衛門は文禄4年(1595)、田付・建部両家が蝦夷に渡ったことに刺激を受け南部地方への行商を始める。八戸に本拠をおき、1614年松前城下に支店(屋号「恵比須屋」)を構えた。日本海の海運を利用して呉服・太物・荒物類と北海道産物の交易に従事し、松前藩の調進方も請け負った。小樽を中心に古平、銭函、美国、岩内の漁場を場所請負し、鰊の豊漁で巨利を得た。

西川伝右衛門は呉服類を北陸・奥羽地方に行商。そのとき、北海道が商売に有利との情報を得、慶安3年(1650)に福山小松前町(小松前川辺り)に出店、住吉屋を号し呉服・太物の販売や材木の買い付け等を商い藩の御用商人となった。また、二代目伝右衛門の頃には小樽近辺の忍路(オショロ)・高島の場所請負をして漁場を開拓した。

江戸時代中期に蝦夷地に進出した近江商人としては枝村(現在の豊郷町)出身の藤野喜兵衛がいる。松前に渡って魚場を開き廻船業者として活躍。文化3年(1806)松前藩から数か所の場所請負を許可され文化14年(1817)には千島、国後島を手始めに根室、花咲、目梨、色丹島、択捉島を請負って活躍し、北海道や北方領土の産業の発展に尽くした。藤野家は昭和の初めに北海道に移住、豊郷町の中山道沿いにある本家「又十屋敷」は「会豊館」として維持・公開されている。

藩屋敷公園内の散策を続ける。

近江屋の向かいは旅籠「越前屋」。その他、廻船問屋、紙結、漁家、番小屋、武家屋敷など一軒一軒見て歩くのが楽しい。時代考証がしっかりしていて復元作業が誠実になされている印象を受けた。

城跡と藩屋敷をみれば松前のすべてをみた気になった。松前城から波止場に下る坂は沖之口坂と呼ばれ、坂の両側に石垣が発見された。交差点の海側には沖口広場が整備され、坂沿いに「沖口役所跡」の碑と「菅江道真の道」の標柱がある。城と松前港の間に位置し、ここに江戸時代、交易で栄えた松前の税関としての役割を果たした番所があった。

広場から海を眺めると小松前川の河口に築かれた旧波止場跡が見える。北前船が出入りした湊の上を今は国道が走っている。旧波止場に隣接して道の駅「北前船松前」があるのだが、時間の都合で端折った。松前藩時代の桟橋が残っていることを知っていたら当然記録に撮っていたであろう。失策である。

道南12館の内最も重要な一つである大館跡も見なかった。場所は神明地区で松城交差点から北に1kmほど行った所にあるらしい。郷土資料館の西方の高台にあたる。遺構がどの程度残っているのか、観光マップになかったので行かなかった。

国道にもどり今夜の宿がある江良まで20kmを急ぐ。松前に泊まっていれば道の駅くらいは寄っていただろうに、なぜ無理して江良まで行ったのか、よくわからない。旅館を探している中で、江良に手ごろな民宿を見つけたまでの事である。

松前の町を離れてまもなく、険しい海岸線がつづく松前街道にしては珍しく砂浜が続く場所にでた。折戸浜といい、キャンプ場になっている。岩場が多い海岸ではあるが、テントを張るには十分な広さがあった。暮れなずむ浜辺にたき火の煙がたなびいている。風下に立てば美味な匂いを感じることもできたであろう。

館浜を過ぎて札前にはいると左手に札前集落を貫く浜沿いの旧道が出ている。集落手前に大きな岩が二つ海に突き出している。海側の岩には鳥居が立ち注連縄で結ばれた二ツ岩は伊勢の夫婦岩を連想させる姿である。

国道は静浦、茂草、清部集落を通り抜けて江良集落に入る。旧道の集落中程、漁港の真裏に民宿ささきがあった。看板に「仕出し・弁当」とあるから食事に期待できた。出てこられた女将は都会的な夫人であった。このあたりは北海道でも一番暖かいところで雪もあまり積もらないんですよと、意外な挨拶から始まった。2食付で一人6300円。

朝食前の1時間程、宿の裏庭にあたる漁港を散歩する。妻は画材になりそうなものは何でも写真に撮る。自転車、浮きリヤカー、ロープ、防波堤の梯子、集魚灯。私は浜辺と道路を結ぶ細い路地の風景が気に入って一枚撮った。

江良から一路江差を目指す。今日の天気予報は曇り後雨。降る前に江差を終わりたい。

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上ノ国

白坂、原口、神山を過ぎると松前郡松前町から檜山郡上ノ国町に入る。

小砂子、石崎を経て汐吹の集落に降りていく旧道を少し通り過ぎた辺り左手に駐車場があり説明板が見えたので車を止める。説明板は「ワシリチャシ跡」に関するものであった。「前方を海辺に突き出した台地の後方に幅2.5m、深さ3m程の空壕とこれを渡る土橋が作られている。」とある。草むらを踏み分けて海に面した斜面をながめたところ、それらしき遺構は見つからなかった。「ワシリ」とはこの辺りの地名で、チャシとは「砦、柵、柵囲い」とされ、16世紀から18世紀に作られたと言われる。空壕は「アイヌの落し穴」との言い伝えがある。

その先から汐吹集落の漁港がよく見えた。ところで、松前から以北の国道は松前街道ではなく、「ニシン街道」である。上ノ国花沢を拠点にした蠣崎氏の武将たちが松前との間を馬で駆け抜けたことはあっただろうが、大名はもちろん、旅人や商人がこの海岸道を歩いていったとは思えない。江差、小樽、はては宗谷まで、人や物資の移動は船で行われた。ニシンを追った漁業者は漁場の最寄港として小さな集落を作っていったのであろう。あるいは魚や獣を追って海岸沿いを歩いたアイヌの踏み跡かもしれない。「ニシン街道」はそんなあやふやな道筋に造られた近代の自動車用陸路である。

国道から砂浜に直接下りていける場所にさしかかり、車を止める。大安在の浜辺のようである。昔に歩いていける道があったのならおそらく波が足元を洗う砂浜の中の道であったろう。遠くで海に突き出している岬は洲根子岬であろう。その右手に続く台地は勝山で、中世時代、そこに武田信広は新しい館を築いた。

道の駅「上ノ国もんじゅ」の先で右手に勝山館、夷王山キャンプ場への道が出ている。1.5kmほどなだらかなドライブウェイを登っていくと左手に勝山館跡ガイダンス施設にたどり着く。勝山館跡は、後の松前氏の祖である武田信広が、15世紀後半に築いた山城で、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・北方交易の一大拠点であった。発掘調査により国内外産陶磁器や金属製品、木製品などが出土し、建物・井戸・空壕・橋などの跡が多数発見された。

勝山館跡ガイダンス施設の裏側、上ノ国集落を見下ろす夷王山の山腹に600基あまりの墳墓群が広がっている。和人の墓とともにアイヌの墓も見つかり、柵と堀によって守られた中世都市の中で、和人とアイヌが共存して生活していたことが明らかになった。個々の墓は土饅頭状の盛土に過ぎないが、墓からは宋銭、明銭の他様々な副葬品が出土している。広大な山麓にモグラが作ったような土盛が点々としてある中世風景の中に頭を空にしてしばし佇んだ。

国道にもどり上ノ国集落に入る。右手に上国寺、旧笹浪家住宅、上ノ国八幡宮がまとまってある。

上国寺の草創は明らかではないが、現在の本堂は宝暦8年(1758)の建築と考えられる。北海道における18世紀に遡る数少ない仏堂建築として国重要文化財である。

上ノ国八幡宮は文明5年(1473)に松前藩の祖となる武田信広が勝山館の守護神として創建し当初は館神と称していた。夷王山山頂に鎮座する夷王山神社は、上ノ國八幡宮の末社である。上ノ国八幡宮本殿は元禄12年(1699)改築のものと推定され、道内最古の木造建築となっている。

笹浪家は上ノ国で代々鰊漁などを営んできた旧家の一つである。初代は享保年間に能登国笹波村(現石川県珠洲市)から松前福山に渡ったとされ、後、上ノ国に移り住んだ。旧笹浪家住宅は、19世紀の前期に五代目久右衛門が建てたといわれるもので、笹浪家の古文書には安政4年(1857)に家の土台替え、翌年には屋根の葺替えを行ったという記録が残っている。主屋の部材の大部分にはヒバが使用されており屋根はヒバの割柾葺で、石が置かれている。北海道の現存民家では最古に属し、北海道の日本海沿岸に今も残るニシン番屋の原型とも言われている。休館日にあたり中を見ることは出来なかった。

旧笹浪家住宅のそばに「にしん街道」の標柱が立っている。説明板に「大蔵鰊」の伝承が記されている。「にしん」の話は松前でも江差でも小樽でも尽きない。その時々に記していこう。

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江差

上ノ国から江差まで10km。歩けば一日近くかかるのに車で行けば15分で着く。途中何もないときは車にかぎる。国道228号でJR上ノ国駅前から700mほど行ったところに右に分岐する道がある。どうやらこれが旧国道らしい。柏町、南浜町、海岸町を経て茂尻信号で国道にもどるが、すぐに道道5号との交差点を右折する。この道道5号は「いにしえ街道」と名付けられて歴史的景観が保存されている。

いにしえ街道を散策する前に国道が右にカーブするところを左に入って江差港をみていくことにした。

左手に江差港マリーナがあって江戸時代末期の幕府海軍の主要艦、開陽丸が展示されている。開陽丸は慶応2年(1866)オランダで建造され、翌年3月留学中の榎本武揚らが同乗して横浜に回航した。3本マストの機帆走木造軍艦で、全長73m、標準装備大砲26門、乗組員350〜500人。当時における世界的な有力艦といわれる。1868年1月の鳥羽・伏見の戦いののち、前将軍徳川慶喜を乗せて大坂から江戸に帰港。同年10月、榎本武揚指揮の旧幕府脱走艦隊の旗艦として蝦夷地鷲ノ木沖に到着その後箱館に入港した。11月、江差に停泊中、荒天のため座礁、沈没した。

松前街道の仕上げとしていにしえ街道を歩く。

旧国道沿いの姥神町、中歌町一帯には北前船の往来を基盤に、檜材とニシン漁、ニシン取引に関連した問屋、蔵、商家、町屋、社寺などの歴史的建造物や史跡、旧跡が多く残されている。ニシンは「鰊」と書かれるが、これを江差では「鯡」と書いた。当時の松前藩では米はとれないが豊漁のニシンによって生活が成り立っていたので、「ニシンは魚に非ず、米である」という発想があったためだという。

街道は姥神大神宮まえで曲尺手を形成している。姥神大神宮は文安4年(1447)、折居姥の草創とされる北海道最古の神社である。昔、津花の浜に「折居様」と呼ばれる老姥が庵を結んでいた。折居姥は神島に住む老翁から「この中の水を海に撒くと、鰊という魚が群れになってやって来る」といわれ、瓶子に入った水を持ち帰り海に撒いたところ、鰊の大群が押し寄せ、村は豊漁に沸き立ったという。

左手に横山家が黒板の門塀を囲い、駒寄・犬矢来を備え二階は出窓を簾で覆った京風商家が風情あふれる佇まいを見せている。寛延元年(1748)能登の国に生まれた初代横山宗右衛門は江差に渡り、にしん漁場の直営と数の子、みがきにしん、肥料の販売を始めた。道南唯一の江戸時代の商家である。

約160年前に建てられたという母屋に入ってみると、帳場・居間の後に4棟もの蔵が続く。細長い通り庭の突当りは海への門に通じる
「穴」と左の「ハネダシ」に分かれている。江戸時代はこの穴まで海岸線が来ていた。現在も8代目の当主が居住していて、伝統の「にしんそば」を提供している。

中歌町の交差点を右におれて坂を上がったところに明治20年(1887)に建てられた洋風建築は旧檜山爾志(にし)郡役所である。延宝6年(1678)、江差地方に自生するヒノキアスナロの伐採取締り番所として、檜山番所が上ノ国から江差に移転、その後檜山奉行所と改称された。旧檜山爾志(にし)郡役所はその奉行所跡に建てられたものである。

街道にもどり、交差点角の旧中村家住宅に寄る。旧中村家は江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に海産物の仲買商を営んでいた近江能登川出身の大橋宇兵衛の店舗兼居宅である。家屋は、北前船で運んできた越前石を積み上げた土台に、総ヒノキアスナロ(ヒバ)切妻造りの堂々とした二階建てで、母屋から浜側まで文庫倉、下の倉、ハネダシまで続く通り庭様式で、当時の問屋建築の代表的な造りとなっている。帳場には手前に3人の手代が座れる帳場と奥には番頭が座る帳場があり、番頭の帳場の後ろにドイツ製の金庫が置かれている。律儀な近江商人の仕事ぶりを見るようで面白い。

大正時代初期に大橋家から番頭だった中村米吉が譲り受け、昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定された。

中村家住宅の美しい板壁を愛でながら国道に下りていく。旅の打ち上げに江差追分会館に寄って実演を楽しんでいこうと国道を駐車場までもどる途中で雨が降り出した。ここにも「にしん街道」の標柱が寂しく立っている。

江差追分節は江戸時代の頃から信州中山道で唄われていた馬子唄が一種のはやり唄として全国各地に広まり、越後に伝わったものが舟唄となって船頭達に歌われるようになり、やがて今から200年ほど前に北前船によって江差に運ばれてきたと言われている。

国道はこのあたりで228号と227号がぶつかりあっている。帰路は227号で一路函館まで雨の中をドライブすることになった。函館―江差170kmを1泊2日で旅するのは少しきつい感じがした。できるなら松前と江差で1泊ずつすることを勧める。

(2013年8月)

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