一関

迫(はさま)街道は、旧奥州街道(国道342号)と台町で分かれ南西に延びて岩ヶ崎(栗駒町)、真坂(一迫)の宿場を経て岩出山で中山越出羽街道に合流する街道である。岩手県では迫街道とよばれているが、宮城県に入ると陸奥(奥州)上街道という呼称が一般的である。他にも松山街道、山形街道、西街道などの別称がある。元禄2年(1689)5月14日(新歴6月30日)、芭蕉は一関で二泊した後、迫街道を通って岩出山へ向かった。

一関宿の南はずれ、台町郵便局をすぎると光明寺への案内標識が立つ信号丁字路がある。そのすぐ先に右斜めに出る細道(車両進入禁止)がある。ここが
迫街道の起点である。坂をあがっていくと左からの道との合流点に大きな文政2年(1819)の庚申塔と小さな元文元年(1736)に建てられた道標が並び、道標には「これ従 右ハはざま道、左ハせんだい道」と刻まれている。

すぐ右手に一関藩主田村家の菩提寺大慈山
祥雲寺がある。山門前には左に「松尾芭蕉行脚の道(岩出山に至る)」の標柱が、右手には道標を兼ねた地蔵尊があり台座に「明和四年」(1767)、「右岩ヶ崎 左仙臺」と刻まれている。この地蔵は追分にあったものである。

祥雲寺の境内は広大で、多くの堂宇・石塔石碑類が配置されている。学者の顕彰碑が二基ある。幕末の数学者千葉胤秀と、蘭医学者建部清庵である。一関は教育水準が高く多くの学者を輩出した。

左手に漆喰土蔵の鞘堂に納められた
一切経蔵がある。鞘堂の裾にほどこされた細かな亀甲模様が繊細な美をたたえている。経蔵は日本最大といわれる八角形の転輪経蔵だそうである。

観音堂の西側につけられた遊歩道を上がっていくと右手に赤穂市長の揮毫による
「播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩公供養之塔」がある。「忠臣蔵」の時代に建てられたものと期待してきたのだが、昭和63年建立という新しさにガッカリ。殿中刃傷事件を起こした浅野内匠頭は一関藩田村家の江戸上屋敷で切腹した。それが縁で、赤穂市と一関市は姉妹都市を結んでいる。

少しいくと「時の太鼓」で知られる
長昌寺がある。城下に時刻を知らせるのに「時の鐘」として特定の寺の鐘が突かれたことはよく聞くことだが太鼓を打ち鳴らすことは皇居、幕府、御三家のほかは禁じられていた。それだけに一関藩は特別な扱いを得たことになる。「一関には過ぎたるもの二つあり、時の太鼓に建部清庵」といわしめた所以である。

一関を後にして丘陵の裾をぬってのびるのどかな道を南西に向かう。やがて「なべ倉」バス停手前左手に
「迫街道一里塚跡(新山)」の標柱が立っている。塚はなく、跡地をしめすのみである。

国道4号のガードをくぐった少し先に
「芭蕉行脚の道」の白い標柱が立っている。奥の細道、元禄2年(1689)5月14日の行程を示すものである。

まもなく蔵主沢で道が二手に分かれ、その間に山中に入っていく山道が残っている。入口に
「日本の道百選 奥の細道(蔵王沢)」がある。これが迫街道(奥の細道)の旧道で山を越え東北自動車道の西側で刈又一里塚に続いていた。この道は途中で消失しているため、右側の県道で迂回する。

東北自動車道のガードをくぐって左折、山間の舗装道路を南に向かってしばらく行くと左手に自動車道のもう一つのガードが見えてくる。蔵主沢から山に向かった旧道が山を下りこのガード下に出ていた。その道を逆にたどってみると轍の残る農道のようで、田圃の間を山に向かって続いていた。

元に戻って、車道との交差点角にいつもの「日本の道百選 奥の細道」標柱と
刈又一里塚の説明板が建っている。一見広くて整備された道の先は二股になっており旧道は右の上り坂をゆく。入口に「芭蕉行脚の道」の標識がひん曲がって倒れている。柳沢で見たきれいな白い標柱はてっきり木柱だと思っていたが、どうやらトタン製四角柱のようだ。

ぬかるみがまじる山道となり深い雑木林に入っていく。この上り坂は「ひじまがり坂」とよばれているらしい。有壁からの旧道にも「ひじまがり坂」があった。横V字形に折れる鋭角の曲がり道の呼称だが、ここまでにそんな折れ道があったか、記憶にない。

峠の気配がするあたり、右手に
「おくのほそ道」の冒頭を刻む文学碑がある。

  
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也・・


その先に、お椀を伏せたような一対の丸い塚があらわれた。人も通らぬ見捨てられた山道で修験者のように毅然として長年の孤独に耐えてきた姿は神々しくもある。原形をとどめる一里塚を山中にみることじたいが稀有な例である。

トップへ


岩ヶ崎

道はさらにつづき左に木立の切れ間がみえるようになった。再び雑木林のなかにはいり、道が左右に分かれる手前で「この先通り抜けできません」と書かれた立て札があった。旧道はこの先、岩手県と宮城県の県境に沿って山を下り一関CC駐車場脇に出ていた。今も無理をすれば辿れるらしいが、ここで引き返し、最初の東北自動車道のガードまでもどり、県道で西側から回り込むようにしてゴルフ場に入った。

駐車場脇から旧道が復活している。ゴルフ場への導入路を下ってゆくと、県道との交差点手前に
「奥州上街道 吉目木坂(よしめきさか)」の標識と数基の石塔がある。また交差点の東側に吉目木館跡の標柱が立っている。ここはもう宮城県である。街道の呼び方も迫街道は姿を消して「奥州上街道」にかわった。

交差点を直進していくとまた路傍に
「奥州上街道」の標柱が立っている。牧場がみえる高原の快適な道をゆくとやがて峠を越えて平地にでる。右からきた道と合流した先で小川(金流川)を越える。

橋の脇に「芭蕉行脚の道 赤児大橋」の標識が立つ。

この先、右手にあぜ道が真直ぐにのびていて森の中に消えている。農道の途中に「芭蕉行脚の道」の標柱が立つ。これが旧道で、森の中を1kmほど県道に沿って西南にのびて町道片馬合普賢堂線の前で崖となって断絶している。この出口にも「芭蕉行脚の道」の標識と詳しい説明板が立っていて旧道であることを示している。

一方、赤児大橋から矢待沖バス停で県道182号に出て右折していくと、まもなく右手に
八幡社、道が大きく右にまがるところに赤児塚がある。奥州藤原秀衡は歌舞を好み、そのなかで舞の上手な春風という少年を寵愛していた。他の舞童がこれを妬み、春風を殺して当地に埋めたという。里人は春風がいつも紅色の衣を身につけていたことから「赤児塚」と呼ぶようになった。

県道「金成野外活動センター」の案内標識が立つ町道との十字路交差点(ここを右折、100mの地点に旧道出口)を直進して一路栗駒をめざす。なだらかな下り坂から町並が見えるようになってきた。

民家の前に「和牛の里栗駒」の大きな看板が迎えてくれる。しばらくいくと市街地にはいり県道4号と合流、その後四日町信号を左折、一筋目を右折して広い八日町の通りを西進、栗駒岩ヶ崎保育所の裏側で駅前通りに突き当たる。ジグザグの町並は宿場当時と同じ形で残っている。


右にいけば岩ヶ崎小学校の裏山が
鶴丸城跡になっている。小学校前を左におれて学校の西側から裏山に上がってく坂道をたどる。頂上に石碑がある。南方向に岩ヶ崎の町を展望でき見晴らしがよい。鶴丸城は南北朝時代葛西氏を祖とする富沢氏の居館として築かれた古い歴史をもつ。城主は転々とした後中村氏が明治維新まで170年にわたり居住した。石碑は中村家13代当主になるものである。

保育園南の丁字路にもどる。そこからわずかであるが右手に
松並木がのこり昔の面影を伝えている。「奥の細道 岩ヶ崎鶴丸城跡」の標柱と、「鶴丸城跡」の説明板が立っている。右にでている道は大変広い。角に標柱があって、「桜馬場」とよばれる岩ヶ崎城主の馬場であり、領内最大の馬市が開かれていた場所である。街道はさらに一筋南の通りにはいって六日町を通り抜け国道457号を左折、茂庭町を通って岩ヶ崎大橋で三迫川をわたる。

名残の松並木からそのまま直進して
旧くりはら田園鉄道栗駒駅に寄る。入口軒下に「みんなの足だよ栗鉄は 乗って残そう孫子のために」と大きく書かれた看板が掲げられ、その下のガラス戸には「この3月31日をもって旧栗駒駅は閉鎖いたします。なお、構内に市民バスは停車いたしませんのでご理解をお願いします。」の紙切れが貼られている。3月とは今年のことだろうか。無人の駅舎に近づく人はいないが数台のタクシーが駐車していた。線路はまだきれいだが1年もすれば草むらになるのだろう。

駅前の暗渠にそって土塁がすこし残っており、
「大手橋跡」と刻まれた大きな石碑が立っている。当時はここに三迫川から取水した外堀が築かれ、鶴丸城(岩ヶ崎城)の大手門が構えていたものと想像した。

この辺りには「岩ヶ崎」と「栗駒」の地名が区別なく使われているようにみえる。岩ヶ崎が古名であろう。栗駒は栗駒山を含めた広域の地名なのだろうか。栗原市に吸収される前の栗駒町の中心地であった。

岩ヶ崎宿の出口茂庭町には古い家が残っている。
円鏡寺の参道にめずらしい石碑をみつけた。

      「杉並区高井戸第三国民学校 学童疎開50周年記念樹 わが故郷栗駒 
                平成6年10月9日建立     高三疎開学童の会 栗駒町」 


都会の子供が田舎でどのくらいの期間をすごしたのか、戦時中とはいえ子供たちにとっては土や花や虫に囲まれての楽しい生活だったのではないか。

国道457号は真直ぐに南下し、尾松郵便局の交差点で右折して西に分かれていく。上街道は県道17・42号となって
島巡橋で二迫川を渡る。はるか西方の山並みにそれぞれ形の違う三つの峰がながめられる。どれかが栗駒山だろう。栗駒という名は1年前の大地震で知ったものだ。

ところで、三、ニに次ぎこの先一の迫川がある。三本の流れは共に栗駒山に源を発して東流し宮城平野を潤している。金成の東方でニ迫と一迫が合流して一迫川となりさらに三迫川と一緒になって単に迫川となる。その先、旧北上川と合流して石巻湾に注いでいる。

県道はまもなく二手にわかれ、県道42号は南東方向へ、奥州上街道である県道17号は右に折れて西に向かう。700mほど行ったところに
「史跡 奥州上街道入口」標柱が立つ丁字路にさしかかる。他の側面には「真坂を経て岩出山に至る。 約1000mの地点に芭蕉衣掛の松がある」と記してある。ここを左折するとすぐに「芭蕉衣掛けの松 直進900m先」の標柱が立つ。この道が旧街道、祠堂ヶ森(志登ヶ森)への道である。

森の入口に「芭蕉衣掛けの松 ←徒歩20分」の立て札。左方向に森を入っていくと右手に雷神社参道入口に赤い鳥居がある。山道をのぼりやがて峠から車道との合流点におりていく左手に松の切り株を覆う東屋があった。ここで芭蕉は衣を松の枝に掛けて一休みしたという。この峠付近は眺望絶佳のところで、藩主の領内巡視の「お遠見場」で知られる。

車道を右に進むとすぐ左手に「奥州上街道」の標識が立つ旧道が続いている。再び山道に入って祠堂ヶ森をぬけ、広域農道大又−割山線に出る。出口に「奥州上街道」、「奥の細道」の標柱に並んで、「祠堂ヶ森」の詳しい説明板が設けられている。

「栗原郡のこの一帯は平安時代には姫松荘といわれ、藤原氏の荘園であた。江戸時代は、各村に分かれていたが、明治以降は姫松村となり、現在は栗原郡栗駒町・一迫町・築館町に含まれている。志堂(志登)が森は、栗駒町と一迫町の境にあたっている。」


トップへ



真坂

広域農道を右に折れて県道17号に出、次の宿真坂に向かう。

長い坂を下っていく途中、右手に
町田館跡の標識がある。近寄ると側面に「自然の地形を利用した単郭の平山城で、年代や館主などについては、いっさい不明である」とあった。

坂を下りきったところに姫松小学校が、再び上り坂の峠手前に
山神社がある。小高い丘に上がる参道の横に旧道風の草道がついてる。尾根に上がると狭い平地に銅版葺き一間切妻造りの社殿が建っている。小さいながら、彫刻をほどこし高覧付き回縁を備えた立派な神社だ。その横を街道とおなじ方向に山道が残っている。北側は上がり坂の端に出羽三山石塔などが並んでいてその先は崖で消失。南側は山中に消えているようにみえる。この部分が旧道なのか、神社神域の台地なのか、知らない。

県道にもどって真坂の町に降りていく。一迫川の手前右手に
龍雲寺が、左には奥州藤原氏の重臣、井ノ山雅楽允の居城と伝わる姫松館跡がある。龍雲寺は伊達騒動をテーマとした「先代萩」に登場する政岡(白河志摩義実夫人)の墓があることで知られる。わが子を犠牲にして幼君を救ったという烈婦、政岡とはどんな女性か。

一迫川をわたり長崎川を渡ったところで県道17号から分かれて右の旧街道に入っていく。真直ぐに南北にのびる通りが真坂宿である。真坂・一迫は岩ヶ崎・栗駒の関係と対応するようで、真坂が旧名、一迫町は栗原郡時代の町名だろう。街道の説明に単に「迫(宿)」と出てくる場合があるが、「迫」とは三本ある迫川流域のことで、主に一関以北からみた広域概念と思われる。ここでは宿名として、岩ヶ崎−真坂で統一しておこう。

真坂宿は北から本町、中町、荒町、南町と続く。所々に旧街道筋の雰囲気が残っている。伊長自転車店は門の屋根を突き破るようにそびえる松の木が立派だ。中町の若生明文舎は白ペンキ塗りの板壁が大正時代の洋風建物の雰囲気を与えている。「印刷と製本」と浮き彫りした板看板も趣ある。

荒町はみごとに高さをそろえた家並みが続き、個性をおさえ和風建築を思わせない中立的な景観もまた全体としての一つの個性であろう。

南町の右手に芭蕉の
時雨塚が建つ秋葉神社がある。この塚は、寛政12年(1800)の建立で、地元の俳人午夕の門弟が次の句を刻んで「時雨塚」としたものである。

   今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを   野は仕付けたる麦の新土   許六   春も時にとりてやしぐれ塚  午夕

曽良随行日記に「真坂ニテ雷雨ス」とある。時雨塚を、この時の芭蕉雨宿りの場所と結び付けたいが、付近にそれを暗示するものは見当たらなかった。

真坂宿をでた街道は再び県道17号に合流しやがて二股で県道59号を左に分岐して、自らは南西に向かう。右手の沼のほとりに
水神社の説明板と「赤鳥居の松」の標柱が立っている。雨乞いの神として信仰された神社で、11世紀にはすでに祠堂があったという古い歴史をもつ。

街道は栗原市一迫から大崎市岩出山にはいる。

トップへ


岩出山

街道は堂の沢から天王寺一里塚まで、県道17号の北方に旧道が断続的に残っている。旧岩出山町はこれらの旧道を昭和53年(1978)から4年にわたり「歴史の道」として整備・保存事業を行なった。対象区間は9km、農林道とかさなる部分が半分、のこる約4kmが草深い山道である。草を狩り、標識を設け、東屋を建てて独りでも歩けるようになった。ただし、マムシと熊に対する保障はない。1kmを越える部分が二箇所あるほかは200mから500mの比較的短い山道である。それらのいくつかを歩いてみた。

真山御上バス停付近に「歴史の道」の全体像を示した案内板がある。ここが第1の旧道入口である。石畳で整備された入口から杉木立の山中にはいり県道に沿って1.2kmの山道をいく。山道といっても県道から50mほど林に分け入った側道という感じで、なにかあれば県道に飛び出せるという安心感があった。杉木立の中を歩いていくと県道とをつなぐ丁字路をすぎたあたりに
「潜り松古墳群」の案内板がある。石段をおりて県道に出る。


S字状カーブを経て「千本松長根300m」の標識が立つ丁字路にさしかかる。このあたりは
馬館と呼ばれる所で、「馬館跡」、「馬館古墳群」の標柱が建っている。馬館はかつて真山地区の中心地で、駅舎を置いて駅馬の継立を行ったほか、馬市も開かれていた。

丁字路を右折してしばらくいくと
千本松長根入口に臨時駐車場が用意されている。民家の軒先を通って石畳を上がっていくと、見事な赤松並木が現れる。杉のように真直ぐに伸びた姿勢のよい松木立だ。

この道は源頼朝も通ったという古道である。東山道は多賀国府より現在の奥州街道より西側のルートを取って、中山越出羽街道の色麻から岩出山より奥州上街道を北上し、玉造駅(旧岩出山町葛岡)、栗原駅(旧栗駒町)を経て津久毛から金成町で現奥州街道に合流していた。上街道は平安、鎌倉時代の幹線道路だったのである。

1500mにわたって植えられた松並木も戦時中は「松根油」採取のために伐採され、現在みる松は昭和27年ごろ小中学生の手によって植えられたものである。「松根油採取跡」の立て札がその歴史を伝えている。

第二次世界大戦中、燃料として使用するため、松の大木を切り倒し、根株を掘り起こして油を採取しました。それが松根油です。松根油は、主に航空機の燃料として使用され、根株の堀起し作業は、地区民や学生の奉仕によって行なわれました。今でも、掘起された松の大木の根株が、あちこちに見られ、戦争中の窮迫した姿がうかがわれます。  宮城県 岩出山町

並木道の中間地点に
東屋が設けられそばに「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」と刻まれた「おくのほそ道」碑が建っている。平成元年に「おくのほそ道」紀行300年を記念して建立された。

松並木の終わりに「歴史の道上街道案内図」と、
磯良神社(オカッパサマ)への案内標識が立っている。矢印に従って「鼻こくり坂」とよばれる急な坂を下ると林道にでる。左折してしばらくいくと蛇行する林道を端折る形で150mほどの短い山道が残っている。山から出てくると農道の十字路があって、直進すると再び200mほどの旧道を経て県道に出る。

十字路を右におれると池の中に磯良神社がある。藤原秀郷に仕えていたカッパ虎吉を祀ってある。近づいて池をみやると木立の間からなにやら青い地蔵風の物体が見えて、一瞬ギクリとした。虎吉か? 横からちかづくと釣り竿がみえて、安心した。梅雨時で、青い合羽を着ていたのだ。

「何が釣れますか?」 「鮒。」

ビニール袋から大き目の鮒を一匹出して見せてくれた。鮒鮨用の鮒ではなさそうだ。
静まり返った森と池。些細な水音も臆病な訪問者をおどろかせるには充分なセッティングである。

県道17号を西に歩いていくと、町道との丁字路にさしかかる。西:岩出山、東:一迫、北:上街道の道路標識が立つ。右折して町道に入る。このあたり、岩出山葛岡には
古代東山道の駅家玉造駅があったと考えられている。

葛岡高田の集落から南に下る舗装道をたどると小松川にかかる高見橋の手前に「上街道」の標石がある。橋をわたって「葛岡第一生活センター」の前を右折する。

山に入って行き、二股の左の草道が古道である。約500mほどいったところ、右手に
狼塚がある。かってはここにお堂があって、毎年3月3日に狼祭りが行なわれていたという。

古道は牧場経営主の敷地を通り抜けて県道17号十文字丁字路交差点に出る。
「歴史の道上街道」もおわりに近づき、まもなく
天王寺一里塚に至る。ほぼ直角に左折する県道を対角線状に端折る400mほどの古道が残っているようだが、入口を見過ごしてしまった。

一里塚は左右共に保存するため、県道改修の際には一方通行単線道路を二本つけた。東海道で松並木を保存するためこうした配慮がなされている例を見たことがあるが、一里塚については初めてではないか。岩ヶ崎(一関方面)へ向かう車が両塚の間を通る。

一里塚からほどなく天王山に残る逆くの字形の旧道を経て、県道を横切って右斜めの坂を下っていくと、上街道の終点天王寺追分に出て出羽街道中山越に合流する。

分岐点には道標を兼ねた山神塔のほか、「おくのほそ道」の案内板、上街道の石柱などが建てられている。ここで「奥州」でなくて「陸奥」上街道となっている。ここには大正初期まで「たまを茶屋」という茶店があって、鳴子温泉に往来する旅人で賑わっていたという。

出羽街道の北西方向を眺めてみる。鳴子温泉あたりには出羽街道、というより奥の細道の旧道が整備されていて観光ルートになっているみたいだ。奥州街道吉岡宿から、再びこの道を歩いてくることになるだろう。
迫街道はここでおわるわけだが、芭蕉が一泊したという場所をたずねるついでに岩出山の町を散策しておこうと思う。

旧出羽街道の南側に萱葺屋根の大きな農家がある。追分の名前となった
天王寺に寄って行く。推古天皇の時代(593)に、我が国の四か所に建立された四天王寺の一つと伝えられている。三度の火災にあって七堂伽藍も運慶作の聖観音像と聖徳太子像も焼失した。 

ここから岩出山の市街地まで、出羽街道の旧道がどのようにたどっていたのか、調べていない。地図でみる限りではここから国道47号に並行して南東に向かい、県道17号を横切り針生でわずかに県道165号に乗った後、右に分かれて一栗浄化センターの先で江合川に消えている道筋が自然にみえる。しかしそれでは川向こうの岩出山の町を過ぎてしまうことになり、どこかもっと手前で江合川をわたっている必要がある。

とりあえず今回は天王寺をみて県道17号で国道47号の要害交差点をわたり県道226号(羽後街道)をたどって街中に入ろうと思う。

散策は出羽街道を歩く気分で、南から北へとたどる。

岩出山散歩の出発点は伊達家霊廟である。県道226号が蛭沢川にぶつかるところを左に折れ松窓寺橋を渡った左手の山中にある。天正19年(1591)米沢から移ってきた伊達政宗が12年後仙台青葉城に移ってから岩出山領主となった政宗第4子宗泰をはじめとして歴代岩出山領主の墓がある。

北の方角に岩出山の町が展望できる。中央を縦走する広い通りが県道226号で、出羽街道の道筋であろう。仲町、本町の区間が一段と幅広く整備されている。

仲町交差点北東角の交番あたりに
旅籠石崎屋があり、元禄2年(1689)5月14日芭蕉と曽良が一泊した。一筋北の右手ポケットパークに芭蕉像と奥の細道案内板、岩出山町道路元標などが建っている。

内川に架かる岩出山橋にさしかかると県道の景観は一変して、道幅も狭くなり沿道の家並みも旧街道の面影をただよわせている。内川沿いに西へ寄り道する。

二ノ溝(にのかまえ)橋界隈は情緒あふれる一角である。内川に沿って遊歩道が整備されている。橋は木橋で、欄干を横板で覆った珍しい造りである。

北角を占めるのは
森民酒造店で、冠木門の内側にレンガ造りの煙突がそびえている。ちょうど店の雨戸が開けられるところだった。


南に目をむけると、こちらはかっての武家町で、水路がついて緑の多いしっとりした路地である。門に板塀を構える屋敷は
阿部東庵記念館である。阿部東庵は伊達邦直公に仕えた典医で、長崎や京都で医学や蘭学を学んだだけでなく、茶道や歌道にも通じていた文化人であった。

城山公園に上る。途中にSLが展示されている。JR陸羽東線を引退した昭和14年製の蒸気機関車である。頂上広場に城址碑がある。

左奥に平服姿の
伊達政宗立像が立つ。青葉城址にあった政宗騎馬銅像が戦時中に供出された。空になった台座に小野田セメントが平服立像を寄贈した。この像はセメント像だろうか。仙台市民はこの像を余り喜ばなかった。昭和39年になって青葉城址に新しい騎馬像が出来上がったので、平服像は政宗ゆかりの岩出山城址に寄贈されたものである。右目が痛々しい。武将というよりもキリスト教徒が立っているように見える。不評だったわけがわかるような気がする。

岩出山最後の訪問場所は
有備館である。有備館は伊達家の家臣子弟の学問所として使用された、江戸期のものとして残る最古の藩校建築である。萱葺の格式を備えた美しい建物である。岩出山城本丸の断崖を借景としてつくられた回遊式池泉庭園も名園とされている。開園前の準備をしていたおじさんに無料で入らせてもらった。

入口の向かいが
陸羽東線有備館駅である。朝霧の中を二両編成の電車がやってきた。


(2009年6月)
トップへ

迫街道(奥州上街道)



一関−岩ヶ崎(栗駒)真坂(一迫)岩出山
いこいの広場
日本紀行