出羽街道−1



村上−猿沢塩野葡萄大沢大毎中村(北中)

いこいの広場
日本紀行


出羽街道は越後国村上と出羽国鶴岡を結ぶ91kmの内陸の道である。山中を避けて村上から勝木を経て鼠ヶ関へ出て、そこから羽州浜街道をたどって鶴岡に至るルートもあった。村上から鼠ヶ関までの浜道を出羽浜街道とよぶ。

太平洋側にも出羽街道とよばれる脇往還がある。奥州街道吉岡宿より分岐し、岩出山、鳴子、堺田を経て、羽州街道舟形宿に通ずる道で、出羽街道中山越と呼ばれている。いずれの出羽街道も参勤交替には使われなかったが、奥州街道や北陸道から出羽柵(秋田)に赴く古代軍用道路であった。また、出羽三山への巡礼の道であったことや芭蕉が通った奥の細道であったことも両街道の共通項である。


村上

村上は古代北陸道の北端に当たる。奈良大和から発した北陸道(北国街道)は西近江路を経由して北陸に入り、信州追分で中山道から分岐した北国街道と高田で合流していた。その後、大化3年(647)新潟湊が開発され沼垂柵が設けられるとともに北陸道は新潟まで北上し、さらに大化4年(648)には磐舟柵が置かれて村上を中心とする岩船郡が蝦夷対策の前線基地となった。天平5年(733)になって、日本海側最北の出羽柵、秋田城が築かれた。村上と秋田を結ぶ道が出羽街道と羽州浜街道であった。

北国街道と出羽街道、出羽浜街道の起点は、村上城下の札の辻であった現大町交差点である。当時は三叉路で、そこから出羽街道は北に向かい、北国街道と出羽浜街道が西へ、そして南へは米沢街道が発していた。

出羽街道が通る大町・小町の通りは町屋が軒を連ねる城下の中でも一番古い地区で往時の趣を色濃く残している。札の辻から大町通りを北に進む。右手に国登録有形文化財の二軒が隣接して町屋風情を盛り上げている。益甚酒店は一、二階の見事な格子窓と古びた杉玉が蔵元の風情を湛えている。村上は古くから酒造が盛んな土地で、寛文時代には大町だけで11軒の造り酒屋があった。益甚はそのうちの一軒であろう。建物自体は明治25年の大火直後の建築である。現在は地元14軒の蔵元が合併してできた大洋酒造の一員である。

北隣も格子造りの町家で、「鮭」の一字を大書した暖簾が軒から地面に着くほどに垂らしてある。建物は明治12年の大火直後の再建だが、土蔵は江戸時代後期のものである。吉川家は江戸の寛永年間の創業で、米問屋に始まり味噌醤油の製造、そして造り酒屋と変遷し、現当主の代になって、「喜っ川」の屋号で村上伝統の鮭の家庭料理を商品化して商っている。店内は見物客でにぎわい、定期的に当主自ら案内役を勤める。通り土間の天井の梁からは1000匹以上の鮭が吊るされて壮観である。鮭が美味しく発酵するように年中窓は開けっ放しで、真冬は屋内も氷点下になるそうだ。あめ色に熟成した鮭の頭は迫力があった。

寺町通りと筋違いの路地を東に入ったところに村上城の大手門があった。現在の市役所のある場所に榊原帯刀の家老屋敷があって、芭蕉と曽良は村上に着くや榊原帯刀を訪ねたものである。

市役所の東側に家庭裁判所があり、その北側の郷土資料館の敷地内に国重要文化財の若林家住宅が保存されている。江戸後期の中級武家屋敷で茅葺曲がり屋造りである。

このあたり一帯が家老屋敷を筆頭とする武家屋敷町であった。

裁判所と郷土資料館に挟まれた細い路地を東に進み広い車道を横切っていくと臥牛山麓に突き当たる。この山頂に村上城(別名舞鶴城)があった。村上城は室町時代以来この地方の地頭本庄氏の根拠地であったが、慶長3年(1598)この地に入った村上頼勝が大改造を加え、その復堀直奇(なおより)によって本格的に築造された。偉容を誇っていた三層の天守は寛文7年(1667)に落雷によって焼失し再建されることはなかった。現在山頂に高石垣が残るのみである。案内板に「山頂まで20〜30分」とあり、麓の一文字門跡を見るだけにとどめた。

街道筋の大町に戻る途中、合同庁舎の北側にある成田家住宅、その北方のまいづる公園内に復元保存されている岩間家住宅嵩岡家住宅、藤井家住宅をみてまわった。いずれもよく手入れされて保存状態も良い。


大町にもどり、寺町通りをすこし入った右手に黒塀が続く安善小路(黒塀通り)が風情を醸している。その西側にある浄念寺は村上藩主榊原氏の菩提寺である。芭蕉が奥の細道で村上に宿泊したおり参拝している。当時は「泰叟寺」と呼ばれていた。本堂が白壁土蔵という珍しい造りで、国指定文化財である。

街道に戻り北に歩を向けると大町から小町に入る。ここにも町屋の家並みがのこる。江戸時代はここが村上宿の中心で旅籠が軒を連ねていた。そのうちの一軒は門を利用して美術館となっている。「旅籠門」と書かれた暖簾を掲げたわずか3坪の日本一小さな美術館だという。長屋門であったのだろう。

その北の角地に宿屋井筒屋があるが、ここが旅籠大和屋久左衛門の跡地で芭蕉はここに2泊した。 井筒屋自体も9代続く老舗の宿屋で建物は明治期の町屋造りで国登録有形文化財である。

市内散策はこのくらいにとどめて、いよいよ出羽街道を歩きだす。

井筒屋の先、小町に残る枡形跡を通って右折し庄内町に入る。この通りは鮭塩引き街道と飛ばれ、12月に入ると家屋の軒先に鮭が吊るされ村上の風物詩となっている。これより市内を抜け出るまで右に左にと10か所の鉤の手を経る。

庄内町の突き当たりを左折する。街道はビューティーサロンコジマ前の丁字路を右折するが、そこを直進して左折し、加賀町佐藤内科医院前の丁字路を右に折れた先、稲荷神社の境内に湯殿山供養塔、庚申塔と並んで、一番右に「雲折々 人をやすむる 月見かな」と刻まれた芭蕉の句碑がある。この句は、芭蕉七部集「春の日」にあり、貞享2年(1685)の作とされている。句碑は天保14年(1843)10月に、芭蕉の150回忌追恩の為に加賀町観法院の別当であった白露観夢為坊が建立したもので、稲荷神社脇は夢為坊の住んでいた観法院の門外であった。

ビューティーサロンコジマ前に戻り丁字路を東に進む。すぐに広い車道にでるが左折し右折して久保多町に入る。突き当たりの丁字路を左折し街道は道なりに村上久保田町郵便局の前で右に折れ、左におれて県道3号片町信号に出る。

県道3号を右折して、右に曲がった先、上片町信号交差点を左折する。右手宮尾酒造の南隣に地蔵堂と、明治2年(1869)に建立された芭蕉の句碑がある。

元禄5年10月3日、赤坂彦根藩邸中屋敷で開かれた五吟歌仙での発句である。

けふはかり人もとしよれ初時雨   ばせを
野は仕付たる麦のあら土       許六
油実を売む小粒の吟味して      洒堂
汁の煮たつ秋の風はな        岱水

堤防道を左折して三面(みおもて)川の支流、門前川を山辺里(さべり)橋で渡る。

左手に宮尾酒造の第二工場を見て山辺里集落を抜け四日市のY字路を左にとって古渡路(ふるとろ)に入ったところのY字路を左に直進する。分岐点に二基の自然石塔が立つ。左は庚申塔で、右が題目塔道標である。

正面に「奉納大乘妙典六十六部」、左側面に「左 出羽道」右側には「右 在道」と刻まれており、左が出羽街道旧道であることを示している。

旧街道は県205号を横断して金源寺の先の五差路をなおも直進していくと小川集落裏手の水路に突き当たって消失している。昔は田んぼの中を、三面川の宮ノ下渡しまで街道が続いていた。

右におれて国道7号に出て水明橋で三面川を渡る。三面川は秋になると鮭が遡上して10月中旬から12月上旬にかけては二隻の川舟で網を使って鮭を捕る伝統的な繰り網漁を見ることができる。

トップへ


猿沢 

川を渡ると宮ノ下集落である。国道から離れて左手県道583号をすこし川下に進んだ右手に地名の由来である川内神社がある。その川辺あたりに宮ノ下の渡しがあった。


国道に戻る途中の
字路で左の旧街道に入っていく。宮ノ下から下中島に入った右手に庚申塔がある。

下中島は元々三面川の中洲にあった集落だったが、洪水のため国道7号の一段高い段丘上に移転した。見下ろすと三面川の支流をなす高根川と国道の間に広がる田園が美しい景観をなしている。


旧道は国道に並行して北上、1kmほどいったところで国道を横切り右の旧道に入って鵜渡路(うのとろ)集落を通り抜ける。国道に戻るがすぐに上野集落で再び左斜めの旧道に入る。

薬師川を渡ると村上から最初の宿場、猿沢集落に入る。静かな町並みの中ほどには350mにわたって前の川が街道に寄り添っていて、川の西側に建ち並ぶ民家の各家は石橋で街道に結ばれている。水辺の並木と相まって、旧街道宿場町の風情が感じられる。

前の川は、大満虚空蔵尊の方面から掘削された人工河川である。開発年代は不明だが宿場の時代からあったそうである。猿沢は出羽街道の宿場町であるとともに大満虚空蔵菩薩の門前町として発展してきた。

前の川が街道から離れていく先の十字路を左折して北に進んでいくと前の川を渡った先右手に大満虚空蔵尊の拝殿がひっそりと建つ。入母屋銅板葺造りで唐破風向拝付である。奥の院は女人禁制のため元和4年(1618)に遥拝所として建立された。現在の建物は弘化4年(1847)に再建したものである。

大満虚空蔵尊の創建は天平2年(730)、行基が虚空蔵菩薩像を自ら彫り込み岩窟に祭ったのが始まりと伝えられている。その後、保元2年(1157)に山頂に御堂が建立され虚空蔵菩薩像を安置して奥の院となった。

トップへ


塩野 

旧街道は猿沢集落をぬけて国道に戻る。

檜原を経て板屋越集落で左斜めの旧道に入る。1.4kmほど進み、早稲田集落で国道にもどる。

大須戸川の支流、塩野町川を渡って二股を左の旧道に入る。塩野町集落入口左手に庚申塔がある。

1.5kmほどの旧道が塩津宿をまっすぐに通り抜ける。

江戸時代後期、岩船郡北部の村々は幕府領米沢藩預かりとなり、塩野町はそれらの中心として代官所が置かれた。その場所は
JA跡といわれている。現在の塩野町局斜め向かいで、敷地跡にコープが小さな店を開いている。

集落の中央あたり、右手丁字路角に「鳥道」と大きく刻された道標が立っている。国道を越えたところに龍門寺があるが、その参道であろうか。

塩野町小学校の先の二股を右にとる。分岐点右手に二基の石塔がある。左の大きいのが庚申塔で、右は「南無阿弥陀仏」と彫られた題目碑のようだ。


国道を横断して大須戸川を渡って大須戸集落を通り抜ける。入口に「こちら大須戸 能の里」と書かれた看板が立っていた。なまこ壁の土蔵が散見される静かな農村集落である。集落出口近くの二股を右にいくのが旧道らしい。のどかな野道をたどって国道に戻る。


しばらく国道をいく。沿道に民家が途絶えて山に近づいていく。長坂峠の下を通る葡萄トンネルの手前で左に出ている山道があるので入ってみた。最初は林道と思われる砂利道がしだいにぬかるみの山道となって、やがて保安林の標識が立つあたりから、深い杉林の獣道となっていた。羊歯が深く生い茂り人が通った気配は感じられない。長坂峠越えを断念して国道に引き返しトンネルをぬけて葡萄宿に入った。

トップへ


葡萄 

トンネルを出てまもなく右手に旧国道の出入り口がある。旧国道は葡萄集落を迂回するようにして葡萄峠を越えて大沢に出ていた。むしろ現国道が蒲萄集落の中心を縦断していて、旧国道がなぜ集落を避けるように造られたのか不思議である。

旧葡萄宿の町並みは国道の両側に延びている。建物は総じて新しく、ここが昔宿場であったという気配は感じ取れない。左手にスキー場がみえる。冬には賑わいを見せるのだろう。

ちょうどその向かいあたりにある丁字路の角に道路標識が立っていて、「村上方面→」「←勝木方面」、そして国道から分かれる路地に向かって「←矢葺明神方面(出羽街道)」と示されている。ここが大沢宿から葡萄峠を越えて葡萄宿に入ってくる旧出羽街道の道筋である。芭蕉と曽良はここへ出てきた。

路地を東に向かって入っていく。国道沿いとちがってこの旧道に立ち並ぶ家並みには懐かしさを感じさせるものがある。

集落をでると道は緩やかに棚田をぬって高度を上げていく。振り返ると谷間に延びる葡萄の集落が美しい。

道は山の手前で右に急カーブしていく。一方で左にも土道があってまもなく山に消えていた。おそらくこの道が旧道跡なのであろう。右に曲がった道は舗装された旧国道に合流した。ここからつづら折りに上っていって出羽街道の最大の難所、蒲萄峠をめざす。

道の左側は沢に沿った急峻な崖である。旧街道は勾配の険しさを感じないままに峠の切り通しに至る。両側に残る石垣は旧国道建設時代の遺構であろう。葡萄峠は標高260mとさほど高くなく、加えて舗装された車道では難所の実感を得ずじまいであった。奥の細道でも曽良は随行日記に大沢から葡萄の間に「名ニ立程ノ無難所」と記している。

右手山側の路傍に馬頭観音塔が建っている。建立年代は不明だが感じでは古くなさそうである。

明神川の手前、右手に漆山神社がある。蒲萄一帯は漆の産地であった。神社自体は一間四方の小さな祠であるが式内社で、また源義家が弓羽で屋根を葺いたという伝説から矢葺明神とも呼ばれていている。永承6年(1051)前九年の役が起き、義家は蒲萄峠で敵と対峙したとき漆山神社の社前で休憩し奥州征伐で勝利できたら社殿を建立し、弓羽で屋根を葺くと祈願した。6年後、安倍貞任を平らげた帰途、祈願したとおりに社殿を作ったという

社殿の背後には明神岩の巨大な岩壁が垂直にそびえ立つ。カメラにはその全容が納められなかった

明神川を渡ったところの三叉路に「出羽街道大沢峠 芭蕉が歩いた石畳」と書かれた立看板と、「村上市葡萄 4.0km →」「← 旧国道(大毎方面)」「出羽街道登り口 0.7km →」の標識が立っている。

三叉路を右にとって旧国道を離れて旧出羽街道を行ってみることにした。明神岩から大沢宿までの約2kmの山道は地元の人々の手で石畳が補修され、旧道がよく保存されている。登り口からすこし旧道に入って振り返ると明神岩の全容が認められた。

トップへ


大沢

この先、旧道には石畳のほか、山賊が座頭を襲い、金品を奪って谷底に落とした所と伝わる座頭落とし、大沢峠、街道の目印となっていた笠松の跡などのスポットを経て大沢に下っていく。歩いてみたかったが熊出没の注意書きが気になって断念。明神岩までもどって旧国道で大沢側にまわることにした。旧国道は6kmの遠回り道となったが、安全には代えられない。

大沢側の旧道入り口にも「出羽街道」、「奥の細道」と記した案内標識が整備されている。旧道に踏み入れるや石畳の道が始まった。丸まった古来の石畳と思われるものと、修復された新しそうなものが混じった道である。まもなく出羽街道古道は羊歯が生い茂る暗い杉林に入っていった。そこから引き返し大沢をあとにして次の宿場大毎に向かう。長い下り坂である。

大沢集落は村上側から葡萄峠越えの旅人が休んだ宿場であった。今は閑散とした小さな山里で、集落内を枡形状に道が方形に一周している。人気のない集落に不審者をみつけたのか、一匹の犬が私が立ち去るまで執拗に吠え続けていた。

大集落を後にして先ほど通ってきた旧国道に合流し北に向かう。旧国道の開削で大沢は近代の交通網から切り離されて孤立した。

トップへ


大毎 

国道7号への分岐点に「芭蕉が歩いた奥の細道出羽街道 大沢峠石畳古道」の案内板が立っている。石畳を整備したときに設置されたのであろう。

その三叉路を右にとって大毎トンネルの南方を下っていく。180度にするどく左にカーブしてすぐに丁字路を右折する。大毎集落の家並みが始まる。

左手地蔵堂の脇に三基の石塔が並んでいる。左が馬頭観世音、中央が法華石写塔、右が青面金剛塔で宝暦の銘が読める。いずれも背が高い立派なものだ。

集落入り口の三叉路に道路標識があって「大沢2.0km→」「←大毎0.5km」「←北中1.4km」と記されている。大毎方面でなく北中への方向が旧出羽街道の道筋である。

カーブミラーの立つ変則十字路に道路標識があり、「←大沢2.2km」「←吉祥清水0.3km」そして「旧出羽街道」として右方向を示した指差し道標が記されている。大沢は今来た道であり「旧出羽街道」と一致している。吉祥清水は旧街道をそれた大毎集落内にある。「大沢」と「吉祥清水」が同方向であるのはおかしい。「大沢」は「旧出羽街道」と同じ右方向であるべきだろう。

結論的には十字路を左折するのは国道7号に出る道。直進するのが北中に向かう旧出羽街道。右折するのは大毎集落に入る道で、すぐ右手に名水で知られる吉祥清水がある。

ここで道を誤りまっすぐ行かずに右に曲がって吉祥清水の前に来てしまった。この道が旧街道であるのか、水を汲んでいる人に聞いたが知らなかった。

吉祥清水は、大正13年に大毎集落の住民有志が、吉祥岳の麓に湧き出る清水を飲料水として集落内に引き込んだことに始まり、現在90世帯の家庭に引き込まれて日常生活用水として飲まれている。平成5年には清水の水飲み場が整備され、ここにきて大きなポリ容器に清水を汲み入れて帰る人たちが多い。平成20年に環境省による「平成の名水百選」に認定された。

その先満願寺境内には大きな案内地図が建てられているが残念ながらそこには旧出羽街道の道筋は示されていなかった。境内入り口に「バス折り返し地点」とあるのは、勝木―大毎間のバス路線のことである。大沢に行くバスはない。


旧道の道筋に入らずにそのまま満願寺前を通り過ぎて大毎集落をぬけ、広域農道に出た。丁字路路わきに「吉祥と清水の里 大毎」と書かれた大きな案内看板が立っている。そこを左折して北中に向かう。

トップへ


中村(北中) 

北中集落の手前、左手の林の中に芭蕉公園がある。平成元年(1989)、芭蕉の奥の細道の旅(元禄2年(1689))から三百年目を記念して整備されたものである。林を切り開いた空間の一角に芭蕉句碑が建てられている。

さはらねば汲まれぬ月の清水かな

芭蕉が中村に一泊したときの句だといわれるが芭蕉句集には見当たらない。傍の説明碑によれば、この辺は清水が豊富な土地だという。

旧出羽街道の案内地図板が建っていて、それには現在地、芭蕉公園の西側に旧道が通っているように描かれている。公園の西端を注意深く探ってみたが、旧街道らしき道筋を見出すことはできなかった。消失したのか?

坂道を下ると北中集落である。北中は江戸時代、中村と呼ばれていた出羽街道の宿場町であった。明治になって他所の中村集落と区別する為に北の中村という意味でこの地名に変えられたという。道路の中央を融雪装置が延びる雪国の街道風景である。建物は新しいながら、落ち着いた雰囲気を湛えた家並みが見られる。

集落に入って街道はまもなく三叉路に差し掛かる。出羽街道は右に折れる。左に折れると勝木から浜通りを鼠ヶ関に向かう。中村は浜通りと本道が合流する要所で、出羽街道の宿場としては大きな方であった。

奥の細道の旅で、芭蕉は曽良と温海で分かれ、曽良は温海温泉から出羽街道小国宿に出て中村に下ってきた。芭蕉は温海から馬に揺られて浜通りを下り勝木を経て中村で曽良と合流した。三叉路角の店先に「黒川俣村道路現標」と「芭蕉宿泊の地」の標識が建っている。黒川俣村は明治22年、岩船郡の北中村、北黒川村、大沢村、大毎村、中津原村、荒川村の6村が合併したものである。

芭蕉と曽良が一泊した旅籠がどこであったかははっきりしていない。三叉路の交差点北側に「旅館」の看板が見える家がある。ここが庄内藩酒井侯の本陣であった小田屋五兵衛宅跡で、芭蕉はここに泊まったとも、秋田屋佐治右衛門宅に泊まったともいわれている。北中には明治始めまで、小田屋、秋田屋等5軒ほどの旅篭屋があったという。

旧街道は小田屋前を通って次の宿場北黒川に向かう。





(2015年10月)
トップへ