金谷

打越隧道をぬけると、山側は富士見ヶ丘という別荘地になっている。

3番目の洞口隧道が国道の先に口を開け、左手から内房線が接近してくる。富士見ヶ丘別荘地の西端地下を両トンネルが潜り抜けている格好である。

国道から離れて内房線路の土手を上がる。線路を渡り笹薮を漕いで低地にでると水路に沿って作られた舗装道に出た。

海方向にたどっていくと道は内陸にカーブして右手にトンネル口が現れた。位置からして旧洞口隧道であるはずはなく、別荘地に造られた
「青春トンネル」であった。海の方向に向かって別荘地内の車道を歩いていく。別荘は季節柄留守宅ばかりである。

国道に近い地点で、右手に大きな窪地があった。その底に旧隧道が口を開けているのではないか。降りて探ったが何も見当たらなかった。窪地の山側をながめると上部が開けており峠の雰囲気が漂っている。50mほどのきつい斜面を這い上がって見たのは車を駐めた別荘であった。身を伸ばして峠の反対側を見渡すと、果たせるかな下りの斜面が認められその遠く向こうには打越峠の金谷側出口を眺めることができた。

昔の峠を宅地造成したのではないかと未練を残しながら窪地を出て車道にもどる。

さらに先に進むと車道は国道を見下ろす地点で途絶。そこから山側にさらに上がっていく道があった。木々をぬっていくとすぐに頂上にたどりつき、そこから岩に挟まれた見事な旧道が下っていた。この古い山道は別荘への私道とは考えられず、旧峠からの道であるとしか思えない。先ほど見た峠が本当であるなら、二瘤ラクダのように一旦鞍部におりて再び峠を越えた道跡と考えられる。

旧道は巨岩の塀を縫うように下り、倒木や沢を渡って、やがて笹薮の湿地を通って前方に線路がみえる明るみに出た。線路をわたると国道127号に合流する。



しばらく海沿いのまっすぐな道をいく。右手に
平磯海岸がみえてくるとその先に4番目の 丑山トンネルが見えてくる。

隧道口から手前100mほどの平磯海岸バス停左手に旧丑山隧道に通じる旧道が分かれている。

いつものように踏切のない線路を素渡りすると山裾を迂回する畦道風の旧道が延びている。やがて山側からバーンという腹に響く音が強まって、金谷国際射撃場の入口を通り過ぎた。標的は山側に設けられているのだろうが、何となく弾がこちらに飛んでくるのではという気がして、快くなかった。

金谷国際射撃場からすぐに現役の
旧丑山隧道があらわれる。手掘りのままの素朴な隧道である。道はやがて線路に突き当たるが、その斜め後のガードをくぐって国道に出、そのまま海側の島戸倉集落に入っていく。旧道の延長線としては国道を少し進んで民家の庭先に下りる道が本来の道筋ではないかと思う。

集落に入る前に海に向かって4本のレールが敷かれ海へと消えている。造船所があった場所である。

静かな集落が漁港を取り巻くように形成され、その海岸にそって旧道が延びている。家並みを離れて旧道を南にたどっていくと波が打ち寄せる岩場を経て、岬に向かう草むらの中に消えていった。その岬の根元を5番目の島戸倉隧道が貫いている。

島戸倉集落から国道にもどり、隧道の前で右の旧道に入る。ここにも旧隧道が現役で残っている。ただし二車線だった旧道は一車線減らされ、出入り口は縦に半分が閉ざされていた。外観は国道を弓形に結ぶ車道であるがトンネル部分はもはや私有地となっているのかもしれない。

短い旧島戸倉隧道をぬけて国道に戻る。

館山自動車道、富津金谷IC導入路高架下を通り過ぎると、第6番目の大日隧道である。ただし旧道にはトンネルはなく、国道に開けられた大日隧道の横のわずかに盛り上がった程度の切通し峠を易々と越えていた。旧道は柴崎集落をぬけ、国道に出たと思うとすぐに左の旧道に入っていく。

国道の右手には東京湾フェリー乗り場があり、東京湾を横切って三浦半島の久里浜とを結んでいる。

旧道にはいってすぐ左手に房総石の石塀が長々と続いている。国登録有形文化財に指定されている鈴木家住宅である。門から内部をうかがうと奥に白壁土蔵が見えた。その通りにはほかにも房州石を使った石塀をめぐらす民家が見られた。

その先の和風旅館「かぢや旅館」は、創業安政元年(1854)の老舗旅館である。建物は新しくその歴史を感じさせない。

旧道は国道127号に合流するが、すぐ左の旧道に入る。正面に金谷神社がある。赤味を帯びた備前焼の狛犬が目を引く。右奥に県指定有形文化財「大鏡鉄」の説明板があった。文明元年(1469)金谷神社の西方500mほど沖の海中から引き揚げられたものと伝わる。この地方にたたらによる製鉄技術が存在していたと推量される。

神社の脇で道が二手に分かれ、右に折れていくのが旧道である。ここで街道を難れてまっすぐ進み、ロープウェーで鋸山日本寺を訪ねることにした。

鋸山ロープウェー終点の展望台からは、直下に金谷町並み、左手遠くに保田海岸まで一望できる。少し稜線をたどって鋸山頂上に出た。

鋸刃のようなギザギザの稜線が明鐘岬となって東京湾へ落ち込む。この山からは古くから良質な房州石を切り出していた採石場として知られる。あちこちに垂直に切りだした採石場跡の壁が立ちはだかる。ギザギザの稜線も、その採石事業が作りだした。

鋸山の正式な山名は乾坤山といい、全山が日本寺の境内となっている。日本寺は神亀元年(724)行基が開創したという古刹である。鋸山は昔の国境で、ここで上総と安房の国を分けていた。現在の富津市金谷と安房郡鋸南町の境界をなしている。

順路をたどって、「地獄覗き」をはじめ「十州一覧台」、「百尺観音」「西国観音」「通天関」「五百羅漢」「大仏」「医王殿」「日本寺」、などを見て回った。その間どのくらいの石段を上り下りしたことか、かなりな運動量であった。また、高所恐怖症にはその醍醐味を十分味わえない。

鋸山ロープウェイで下山し街道に戻る。旧道は国道に合流し、上総湊の城山隧道から数えて7番目の明鐘(みょうがね)隧道をめざす。

途中、海に突き出す岬の岩陰に堂のシルエット姿を見出した。館山側にまわると、小さな駐車場が整備されていて、そこから岩を伝って不動堂まで行くことができる。岬の海中には黒々とした岩が多数ちらばり、強風にあおられた大波が一定の間隔をもって砕け散っていく。不動岩の隙間にレールの残骸をみつけた。かつての船着場跡と思われる。

明鐘トンネルに繋がる落石除けの手前から海沿いに迂回する道が旧街道である。二又を左にとり細い道をたどるとすぐに荒々しい明鐘岬に出た。筋状の岩が海に向かって延び出し白波の中に消えていく。鋸山が東京湾に尽きる場所である。ここより上総から安房に入る。町名の「鋸南(きょなん)」は鋸山の南側を意味する。

岬に一軒の喫茶店があった。今は床と柱だけの姿で残っている。廃家か建て替え中なのか知らない(2014年4月。)*実は映画「ふしぎな岬の物語」のセットが建築中であった。秋に公開されている。

この民家を回り込んで旧道は草むらに消えそうになりつつも続き、岩場をこえると館山側のロックシェッド脇の歩道に出た。この間に明治時代の隧道があったのかどうか、その痕跡らしきものは見当たらなかった。

出口脇に
小祠があって中に地蔵が祀られていた。いつの時代のものか、確認しなかった。

左手に鋸山登山自動車道の入口がある。民間企業が所有する有料の私道である。この先に8、9、10番目のトンネルが続いてある。

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本郷(保田) 

まず現れるのが潮噴隧道である。落石除けの後に短いトンネルが続く。右側に設けられている道は旧道跡か、作業道路の一部か、わからない。入ってみたがロックシェッドからトンネルに続く地点で側道は「この先通り抜け出来ません」と通行止めになっていた。あえてその先の草むらをたどろうとしたが、草むらの道跡は急な崖下に落ち込んでいるようであった。

仕方なく通行止めの地点まで戻って、車の途切れたタイミングを待って歩道のないトンネルを走り抜ける。幸いトンネル部分は24mという国道127号では最短のトンネルであった。

潮噴トンネルを抜けるとその先に次の元名トンネルロックシェッドが待ち受けている。これは途中に元名第一・第二トンネルと2個のトンネルをつなぐ入口である。ここにも入口右手に舗装された側道があるが、やはりすぐに通行止めとなっており、その先にトンネルの上に出る階段が設けられていた。上に上がってみると、金谷側は山に突当り、保田側はトンネル出口の上で途切れている。舗装された道がつくられた平坦なスペースである。作業場だったのだろう。

下に降りて通行止めの先の旧道跡を探る。ススキが深く足が先に進まない。まもなくススキのトンネルに出会って前進をあきらめた。潮噴隧道の旧道と同様、旧道は磯伝いの海の道であったのだろうか。旧隧道が掘削された様子もない。

やむなくシェドとトンネルの接続地点まで戻り、歩道のないトンネルを恐る恐る通り抜けた。三国街道の三国トンネルも、歩道のない恐怖のトンネルであった。大型車とすれ違う度にトンネルの壁にへばりつくようにしてやり過ごさせたことを思い出す。

外に出てほっとして振り返ると何ということか海側に旧隧道の坑口が並んでいるではないか。入り口は金網で閉じられていたが、それほど遠くない距離に出口の明かりを小さく見ることができた。海に消えていたと思われたススキの道のどこかに、さきほど見えた小さな入口があったはずである。この旧隧道にも名があっただろうが、南手側の坑口はモルタルが吹き付けられていて手がかりを見出すことは出来なかった。

元名海岸から保田集落に向かって歩き出そうとした時、左手に合流してくる道が気になった。舗装はされているが、かなり放置されて痛んでいる様子である。元名トンネルの山側方面から下ってくる道のようだ。もしかすれば、元名峠ともいえる鞍部を越える峠道の跡ではないかと、すこし遡ってみた。舗装が途切れるとともに道跡は深い藪に消えていた。その先を望むと、気のせいか少し低く丸まった鞍部のような稜線が見えた気がした。他方、旧道があったとすれば、それは房総の親不知といわれた浜道ではなかったかとも思い直した。

元名川を渡ると保田(ほた)に入ってくる。左・右に折れる曲尺手を経て、与市商店向かいの路地を入ったところに別願院がある。入口左手に元禄海嘯菩薩地蔵尊がある。元禄16年(1703)11月房総半島沖を震源域とする推定M8.2の大地震が発生し、地震による海嘯(津波)で関東一円で死者が八千人以上、ここ保田地区でも319人が犠牲となった。

墓地のほぼ中央に菱川師宣の墓所がある。見返り美人で知られる浮世絵師菱川師宣はここ保田に生まれた。左側に昭和2年建立の「菱川吉兵衛師宣入道友竹之墓」と刻む墓碑があり、右には平成5年師宣300回忌に子孫の菱川岩吉氏らによって石仏が建てられた。

寺の裏側にでると本郷浜(保田海岸)が広がっている。ここは「房州海水浴発祥の地」で、明治22年(1889)に漱石が保田に10日滞在した時ここで海水浴を楽しんだ。

街道は再び曲尺手にさしかかる。右手空き地に県指定史跡「浮世絵の開祖 菱川師宣誕生地」の石碑がある。菱川師宣は、安房国保田村で縫箔刺繍を業とする菱川吉左衛門の長男として生まれた。生年は不詳だが寛永中頃(1630年頃)と推定されている。江戸に出て絵師として大成したが、終生故郷を愛し、落款には「房陽」「房国」と冠称し、晩年には別願院に梵鐘を寄進している。元禄7年(1694)江戸で没した。

保田信号を右折し、その先左に短く旧道が残る。どのあたりに江戸時代の本郷宿があったのか、手掛かりになるようなものはみかけなかった。旧道の区間に郵便局があることからこのあたりが保田集落の中心であったとしか推量するしかない。

国道127号に合流してすぐ保田川を渡ると地区名は保田から大帷子に変わる。

七面川を渡ってすぐ右手に残る短い旧道にはわずかに昔ながらの家並みを見ることができた。旧道をぬけると吉浜地区で、大きな保田漁港の北岸に出る。

漁港の南側にまわりこむと、炭火による焼き貝食べ放題(1時間2500円)が人気の漁協直営食事処「ばんや」がある。宿泊施設「ばんやの湯」も併営していてこの一角は大型バスが立ち寄る観光地となっている。漁協による町おこしの成功例であろう。

その先、右手に「道の駅きょなん」と「菱川師宣記念館」がある。前庭に「見返り美人」の銅像が立っているが、肝心の浮世絵「見返り美人図」はここにはなく東京国立博物館にある。

大六川を渡って国道から離れて川沿いの道を海に向かって進んでいくと八王子神社とその先の小公園に出る。海岸には船揚場と桟橋跡が残されている。八王子鼻と呼ばれる場所で、かつてはここが東海汽船の乗り場で、東京と内房を結んでいた。

堤防内側に県指定史跡「源頼朝上陸地」の石碑がある。治承4年(1180)伊豆で挙兵した源頼朝は、平家方の大庭景親勢との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かった。「吾妻鏡」によれば頼朝は安房国平北郡猟島に着いたという。猟島が現在の鋸南町竜島とされている。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝は再起を図る土地として房総を選んだ。

佐久間川を渡って二つ目の路地を右に入るとすぐ右手に
加知山神社がある。古くは牛頭天王(ごずてんのう)といい、明治になって加知山神社と改称した。祭神は素戔鳴尊である。左手の鳥居脇に鯨塚と呼ばれる小さな石の祠が散乱している。勝山は房州捕鯨発祥の地である。江戸時代初期醍醐新兵衛が勝山組と岩井袋組の船団を組織化し、江戸湾でツチクジラを捕獲した。鯨塚はひと夏の捕鯨の漁期が終わるごとに解体を担当する出刃組が鯨への感謝と供養を兼ねて一基ずつ建立したものである。

すぐ西側にある妙典寺は醍醐家の菩提寺である。房総捕鯨の祖醍醐家は代々醍醐新兵衛を称し、捕鯨業の総網元・大名主として村を指導した。近代になると製油産業や缶詰工業を興して隆盛を極めたが1937年11代目で醍醐家は途絶した。

路地を引き返して国道にもどる。そのまま国道を横切って東に入る道筋が旧道である。旧道は右にまがってすぐに国道に合流する。

国道をひきかえし、勝山信号丁字路を直進する勝山港通り商店街を通り抜けると勝山漁港に出る。港は今朝の水揚げを終えたところで、数人の漁師や婦人が団欒しながら網を繕っていた。江戸時代はここから勝山捕鯨組が船団を組んで出かけていったものである。

港から街道へ戻る途中、郵便局の手前の路地を山側に入っていくと八幡山裾の駐車場に出る。八幡山の頂上には勝山城があり、中世から江戸時代にかけて安西氏、里見氏が居城した。元和3年(1617)、内藤清政が勝山藩を起こすと勝山城直下に陣屋が構えられた。内藤氏の断絶後は、酒井氏1万2千石となり9代200年間ここに居住し明治維新を迎えた。陣屋跡は山麓の駐車場や住宅地となり、当時を偲ぶよすがはない。

街道に戻り「下佐久間」信号手前の小滝提灯店の角を右折する。街道は突き当りの大乗院の手前の十字路を左折するが、右折して回り込んだ先左手にある鯨塚を訪ねる。ここは竜島の飛び地で板井ヶ谷という。勝山藩酒井家の分家で竜島の殿様と言われていた旗本酒井家が住んでいた。鯨塚は割烹「蔵」入口を過ぎた左手の小高い山裾にある。碑は全部で120基ほどあったといい、52基が現存する。1年に1基の供養碑を建てたとされるからここだけで醍醐新兵衛の捕鯨暦120年を刻むことになる。先に加知山神社境内に見た鯨塚より保存状態がよい。

十字路に戻り突き当りの大乗院に寄ってみた。本堂は再建されたばかりで風情はない。ここは中世の平群郡の豪族、安西氏の居館跡と伝わる。その左手、白幡神社境内に庚申塔石祠が6基並んでいる。一番右にある寄棟の石祠が「山王系庚申石祠」として鋸南町有形文化財に指定されている。寛永19年(1642)の銘があり、県内最古のものだという。

大乗院の手前の十字路に戻り、山裾の東側を回り込むように進むと、右手に堤ヶ谷堰が広がる。旧道はその堰の西縁をめぐっている。旧道の証であろうか、路傍の草むらに地蔵を安置した石祠がさりげなくあった。

変則五差路に出て、旧街道は右斜めに延びている山裾の農道をたどっていく。左から来る道と合流した先、左手に持福寺と八幡神社があり、街道脇に古そうな庚申塔が立っていた。

街道はその先で国道127号を横切って、狭い内房線市部瀬踏切を渡る。特急さざなみ館山行がのどかに通過していった。

踏切を渡って道なりに右に行くが、すぐ先民家の前で道が二手に分かれている。右にとって細道を左に回り込むように進むとすぐに舗装道から右に分かれて林中に入っていく草道がある。旧道は竹林にはいりこむや前方に峠の明かりが見えてきた。飯之坂という旧街道である。峠で安房郡鋸南町から南房総市に入ってきた。

南房総市は館山市を取り囲む形をとり、館山市を挟んで内房側に富山・富浦地区、外房側に白浜・千倉・丸山・和田地区を持ち、北に隣接する内陸に三芳地区を有する。内房側と外房側は山中を通過する道路でつながってはいるが、鉄道や幹線道路は館山市を通過しなければならない。合併をめぐるいきさつでこのような変則的な行政区域となった。地勢的な南房総の中心地は館山である。

飯之坂をこえた旧道は民家の敷地縁をかすめて車道に降り、右折して県道89号のガードをくぐり、県道に沿って民家の庭先を通り抜けて小さな大五郎踏切を渡って二部信号先の国道127号に出る。斜めに横断して短く残る旧道をたどった後国道127号で岩井駅前を通過する。

駅に通じる道との丁字路に大正時代を思わせる洋館の中華料理店(武平館)がある。二階のベランダ、一階の出窓が瀟洒なレトロ風情を醸している。建物自体の情報がないが、由緒ありげな佇まいであった。街道向かいには純和風の民家が好対照をなして建っている。二階の高欄は旅籠風の趣を感じさせる。

市部追分交差点に出る。市部には継立場があったと言われているが、房総往還の宿場として取り上げられた例はみない。間宿であったのかもしれない。

ここから最終目的地館山に至る道筋に三通りあった。

まずこのまま現在の国道127号をたどって富浦町南無谷を経て館山市舟形の那古宿に至るルート。この海岸通りは現在も多数の狭くて無照明のトンネルをくぐらねばならない難所である。明治になって開発されたルートで、今回の対象からは除外する。

二番目は木ノ根峠越えの最短ルートである。江戸時代に内陸公認ルートの近道として使われた。市部交差点を直進して大川を渡り、すぐ右側に残る旧道を経て国道127号を横断、「つくだや酒店」の先を左折して山に向かい、岡集会所の先の変則4差路を左に折れる旧峠越え登山道と、直進する木ノ根隧道越えの林道コースに分かれていく。

旧峠までは険しいながら山道は残っているようだが、峠から丹生(にゆう)側では道が消失しており旧道をたどることはできないらしい。旧峠越えの道は鎌倉時代の古くから存在していた。

この難所を迂回するため明治18年(1885)に峠の東の山裾に200mほどの素掘りの隧道が掘削され、この隧道の南北に林道「木ノ根林道」が開削されて大いに利用されるようになった。明治22年(1889)漱石が保田に遊んだ時、この林道を経て館山まで足をのばしたという

新旧二つの木ノ根ルートは丹生集落で合流した後、南下して那古の三叉路で県道302号(旧国道127号)の浜ルートに合流する。

第3のルートは最も古い内陸の道筋で、南総里見八犬伝の里をめぐる道である。市部交差点を左折して県道258号から県道88号に乗り継いで南下し滝田宿、三芳村を経て終点北条宿で浜・木ノ根ルートと合流する。ここでは第3のルートを行く。

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滝田 

市部交差点を左折して県道258号を東に向かう。内房線を渡ってまもなく富山小学校の隣に茅葺の山門が建っている。室山時代の開創といわれる福寿院の山門は、勝山藩祖酒井忠国の父忠朝が市部に住んでいた屋敷から移築されたものである。

門前に派手な「白寿延命地蔵」の幟が立てかけられている。参道の右手にその蔵が安置されていた。由緒などの説明板はない。

館山道を潜った先、富山中学への入口に「南総里見八犬伝 伏姫籠穴 入口 800m先」の大きな看板が立っている。『南総里見八犬伝』は江戸後期、滝沢馬琴が文化11年(1814)から28年に亘って刊行した全98巻、106冊におよぶ超長編伝奇小説である。その名の通り南房総地方を支配していた里見家にまつわる作品で、その発端部の主役、伏姫とその愛犬八房の舞台がこの北方に横たわる標高349mの富山(とみさん)である。

中学校の脇から山道に入っていくと登山口駐車場に立派な門が作られている。100mばかりの石段を上っていくと右手奥に岩穴が口を開けている。岩の隙間を上がって籠穴を覗くと入口近くに大きな白い玉が置かれている。穴は大きくない。奥には8個の黒い小さい球が並べられていてそれぞれに仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌と白文字で記されていた。小説の内容はさておき、ここをはじめとして房総往還沿いの犬掛、滝田には『南総里見八犬伝』の発祥地ゆかりの場所が点在している。これらを町おこしに活用しようと、現在「南総里見八犬伝を大河ドラマに」運動を展開中である。

街道にもどり600mほど行くと左手に福満寺がある。参道入り口に道標があり、正面に「富山表参道」、左面に「麓ニ里見伏姫之籠窟アリ」と刻まれている。富山の登山口はいくつかあり、ここもその一つとなっている。

すぐに県道を右に分けて合戸集落の旧道に入っていく。家並みの山側にのびるなだらかな坂を上がっていくと、湧水が石垣のすきまから漏れ出ており、あるいは土中から導管で用水枡にひかれていて伏流水の豊富な土地柄を示しているようだ。

石積みの祠に石仏が安置されている。このあたりが峠のようである。

のどかな土道の傍にはスイセンと菜の花が早春の彩りを競っている。その中心に一里塚にしたいような一本の大木が集落を見下ろしていた。

坂を下って県道に出て、またすぐに左の道に入っていった。これが旧道かさだかではない。先の旧道のような風情は感じさせなかった。

道が大きく右に曲がる左手路傍に石祠におさまった地蔵がある。

しばらく道なりに県道を進んで、左から来る県道88号と合流する。

700mほど南に下ると左に赤いトタン屋根の犬掛お堂がみえてくる。そこを左に入って平久里川を渡り、突当りの丁字路に「犬掛古戦場跡」「八房伝説地」の標識が立っている。

左におれて山裾の道をたどると「犬掛古戦場跡」の案内板と小さな苔むした自然石の碑がある。あたりはのどかな山里である。

里見家三代当主義通は若くして子義豊を残して病死した。義豊の後見役として継いだ義通の弟実堯はいつまでも国を譲らず、義豊は天文2年(1533)実堯を稲村城に攻め実堯を自害させて5代当主に就いた。実堯の子義堯(義豊の従兄弟)は父の仇と翌天文3年(1534)義豊を犬掛に攻め義豊も実堯と同じく自害して果てた。ここはその戦いの跡である。

足をすこし先までのばすと、山裾に里見義通・義豊父子の墓がひっそりとある。墓石は素朴な自然石の五輪塔である。

丁字路にもどり、今度は道を南にたどる。春日神社の参道麓に「八房伝説の地」として八房と八房を育てた狸の像が建てられている。狼のような顔つきの犬だ。八房はここで生まれ、狸に育てられた後、伏姫と余生を共にする。私は八犬伝の小説を読んでいない。どこかにこの場所と比定する記述があるのであろうか。

街道にもどり南下を続ける。平久里川と接近、離反を繰り返しながら大きな三叉路に出る。上滝田地区で、昔は房総往還の継立場となっていた。館山北条宿に至る最後の宿場である。郵便局の反対側に山に向かう道が出ている。ここから街道を離れて滝田城址に寄っていくことにした。籠穴、古戦場跡、八房生誕地につぐ4番目の八犬伝所縁の地なのである。

山に向かうにつれ振り返ると滝田集落が一望に見渡せる。山裾に近づいたとき、左手に旧家らしい門構えの門塀がみえる。おずおずと近寄って門内を覗き込むと建物は門塀のみの空き地であった。

更に少し登ったところで農道と分かれて左の登山道に入っていく。大きな案内板があって分かりやすい。入り口は猪除けの柵が設けられていて、入山者は紐をほどいて戸を開け閉めするように注意書きがあった。「滝田城跡 城主一色九郎」と記した立札がある。一色九郎は里見家5代義豊の妹婿(義弟)である。『南総里見八犬伝』では初代当主里見義実の居城とされている。

木の葉で足元が柔らかく、遊歩道として整備されているため怖しげがない。何か所かは険しい登り坂になっているが、「虎口」を経て快適に登るうち、見晴らしのよい高台に出た。北の方向を望んでいる。

さらに数分、武者溜、曲輪の標識を確認しながら登っていくと「滝田城主郭」「礎石」などの立札が設けられた本丸跡に出る。「礎石」立札の足元には大きめの石ころが一つ置かれているだけで、古さを感じない。

そのすぐ先で八幡台とも呼ばれている櫓台に達する。城址の最高地点(標高140m)で、いわば天守閣跡である。小さな八幡石祠の傍に「城代一色九郎の居城 南総里見八犬伝発祥の地」と書かれた木柱が立つ。

ここからは南に向かう下り道である。すぐ展望櫓のある高台があり、そこに伏姫と八房のブロンズ像が建てられていた。説明板によると、滝田城は初代当主里見義実の居城で、伏姫生誕の地ということになる。滝田城は後に成長した八犬士が結集する場所とされていて、ままことに南総里見八犬伝発祥の地にふさわしい。

両側が崖に落ちる尾根道を伝って下るとやがて駐車場になっている大手口に降り立つ。ここが城の表口であった。

八犬伝の里を後にして街道は川に沿って南に進む。下滝田と上滝田の間くらいに滝田の青墓と刻まれた墓石が目を引いた。里見義豊の家臣岡本四郎兵衛頼重の墓らしい。

街道は広くてまっすぐな道となる。田園を縦走する新しい道で沿道に集落がすくなく、恰好のツーリングロードになっているらしく、大型バイクの集団が轟音をたてて駆け抜けていく。道の駅三芳村鄙の里で休んでいく。駐車場にはバイクが多い。「菜の花バニラソフトクリーム」を食べ、直販所で「パープルスティック」「わさび菜」というめずらしい野菜を買った。パープルスティックは皮が紫色で中がオレンジ色をした小型の人参である。人参特有の臭みがまったくない。わさび菜と一緒にサラダにして食べると美味かった。

三芳村は昭和28年(1953)に滝田村、稲都村(いなみやむら)、国府村が合併してできた村である。その後平成18年広域合併で南房総市に吸収された。館山市を取り囲んで富浦、富山などの内房と千倉、白浜などの外房に渡る変則的な南房総市域にあって両者をつなぐ内陸部に位置する。

三芳橋の手前で県道と分かれ、旧道は右におれて平久里川沿いに進む。堤防道との分岐点に馬頭観音があった。小さな古い観音と平成10年の銘がある新しい御影石の碑が並んでいる。

県道296号に出たところで左折して横峰大橋で平久里川を渡る。
ここは館山市だ。橋を渡って右折、家並みを撮り抜けて広々とした田園の中を真っ直ぐに南に進む。再び南房総市にはいって府中地区となる。旧三芳村を構成していた府中村である。
安房国の国府があった所と推定されているがそれを証明する遺跡は発掘されていない。ちなみに国分寺はここから3kmほど南にあり、この地域が安房国の行政中心地であった。

府中の集落にはいると街道は手入れが行き届いた生垣に挟まれ、落ち着いた沿道景観を作り上げている。

街道は集落の中程で右におれて
宝珠院の境内を横断する。安房国府はこの境内あたりにあったという。本堂の裏手にまわってみると梅林が広がっていて古代の香りが漂ってくる気がした。

観音堂の扉が開いている。千葉県有形文化財である十一面観音像を撮ることができた。

細道を西にたどり、平久里川に突き当たって左折する。十字路交差点を渡ると館山市正木である。

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北条(館山)  

鵜登川橋を渡り高井集落に入る。右手の共同墓地に7基の古い石塔が並びそのうち左2基は出羽三山碑で、講中の名前を刻んだ台石が登山年毎に積み加えられた珍しい形をしている。

集落内の旧道は槇の垣根が連なる細い道である。やがて新しい家並みの中を館山総合高校の東側、南側を回り込むように進んで、国道127号を横断する。北原丁字路信号を左折する。ここから北最終地点北条宿に入る。

真直ぐな道が南北にのび、ここも槇の生垣が美しい。すぐ左手の生垣に隠れるように古い青面金剛庚申塔が立っている。
北町の庚申塔とよばれ、北條村若者中が建立したもので江戸期の作と考えられている。庚申信仰についての詳しい説明板があった。但し教育委員会のものでなく個人名が記してあった。歴史愛好家であろう。

右手に海雲寺、不動院を見ながら市役所前を通過、左手に千葉県安房合同委庁舎、館山警察署、北条病院、館山消防署がつらなる官庁街に入ってくる。このあたりに江戸時代北条藩の陣屋があった。

寛永15年(1638)、駿河大納言徳川忠長の家老だった屋代忠正が安房国で一万石を領して北条藩を立てると、北条の仲町に陣屋を築いた。その後享保10年(1725)には信濃から水野忠定が一万二千石で入封し、文政10年(1827)に上総国鶴牧藩へ移封するまでのあいだ陣屋とした。

房総居往還は南町交差点で外房回りの伊南房州通往還と合流する。伊南房州通往還は房総往還と浜野、または八幡宿で分かれ、茂原から太平洋側に出て、外房回りで館山へ至る約120kmの道である。茂原までは県道14号(現茂原街道)、それ以降は館山まで国道128号が現代版となる。このあたりが北条宿の中心街で問屋や商家が軒を連ねていた。今は館山駅周辺やバイパス沿い、またイオンタウンなどに客を奪われて昔の賑わいは失ってしまった。

交差点角の北条郵便局の敷地に旧家のものと思われるが残されている。旧郵便局長宅でもあったのか。

交差点を渡った右側に古びた造りの鈴木屋和菓店がある。1個100円の草餅や桜餅が並べてあった。

右手に金台寺(こんたいじ)がある。ここの墓地にはまた、萬石騒動の折百姓方に加担、為に藩役人に処刑された代官行貝弥五兵衞國定・弾七郎恒興父子の墓がある。萬石騒動とは、正徳元年(1711)北条藩屋代氏の一万石の領地内でおきた農民一揆のこと。首謀者とみなされた湊村、薗村、国分村の3人の名主が国分村菅野で処刑された。処刑跡には「三義民殉難之跡」の石碑が建てられている。

JR内房線「第十館山街道踏切」を渡る。館山街道とは房総往還のこと。

小さな曲尺手を経て来福寺の先で長須賀信号丁字路にさしかかる。この角に宝暦8年(1758)の道標があった。現在は市立博物館屋外展示場に保管されているとのことで、訪ねてみた。申請書を書いてカメラで撮らせてもらった。正面に巡礼者の浮彫がほどこされた石柱で、側面になんとか「北国分寺道」らしき刻字を認められた。他面にも「南一之宮道」と刻まれているそうだが摩耗が激しくて判読不能であった。なお、ここでいう一之宮は洲崎神社のことだという。安房国一之宮は一般には安房神社であるが、同社の祭神である忌部氏の祖、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の妃である天乃比理刀当ス(あめのひりとめのみこと)を祀る洲崎神社も江戸時代、一之宮と称された。

長須賀は新宿との境を流れる境川と、館山側の汐入川とにはさまれた地域で、この二つの川と館山湾が形成した砂洲に町場として成立した。長須賀信号交差点の左手に明治時代から続く金物商紅屋商店の店蔵が建っている。紅屋の店蔵は大正13年(1924)、主屋は昭和元年(1926)の建築で共に国登録有形文化財である。空き地になっている南側から見ると店蔵の東側に接続して主屋が建てられているのがよくわかる。建物は古そうにはみえなかった。

街道は長須賀交差点を右折する。古い建物をほとんどみかけない北条あたりに比べてこの長須賀の町場には格子造りなどの懐かしい佇まいをみせる家並みが残っている。

道は汐入川に架かる潮留橋で館山駅東口商店街を通ってきた県道302号・国道410号と合流して橋を渡り、館山城下町に入っていく。県道302号は岩井から木ノ根峠越えの旧道筋である。

橋をわたると地名は長須賀から館山に変わり、館山城下の下町・仲町・上町の町並みが続く。

仲町左手に長福寺がある。墓地の東側に多くの石塔や石仏がならんでいて、寄子萬霊塔、庚申塔と宝篋印塔には解説が添えられていた。

いよいよ終点館山城が見えてきた。小山の頂上に建つ犬山城天守閣を真似た建物は市立博物館の分館で里見氏を題材にした『南総里見八犬伝』に関する資料が展示されている。

館山城は豊臣秀吉の時代天正15年(1587)に、安房里見氏第9代義康が築城し、第10代忠義公が伯耆国(鳥取県)の倉吉に移されるまで、27年間里見氏の居城となっていた。

里見氏の故郷は群馬県伊香保温泉の近く榛名地区里見郷である。戦国時代が始まろうとした15世紀の中頃に鎌倉公方足利成氏のの側近、里見義実が安房に移り住んできた。外房白浜周辺の上杉氏を追い払い白浜城・稲村城を拠点に安房国を支配した。房総里見氏の祖である。

9代里見義康(1573〜1603)のとき、岡本城(南房総市富浦町)から館山城に本拠を移し、港湾・城下町を整備して現在の北条・館山の基礎を築いた。義康の子10代里見忠義の慶長19年(1614)、姻戚大久保忠隣の政争に連座して改易となり、伯耆国倉吉に流されてしまった。その間170年の房総里見氏は断絶し、館山城は取り壊された。

現在の館山城天守閣(博物館)に上ってみた。館山市と鏡ヶ浦とよばれる静かな館山湾が一望できる。東京湾の入口にあって対岸の三浦半島がみわたせ、空気が澄んだ日にはその向うに富士山を見ることができる。海洋性気候で冬暖かく夏涼しい。のどかで魚が美味しい海がみえるこの地に8年前移ってきた。終の棲家である。そこへの道筋を確かめる旅であった。

(2015年2月)
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