房総往還-3 



君津−佐貫竹岡
いこいの広場
日本紀行
房総往還1
房総往還2

房総往還4

君津

江戸後期の房総往還は県道90号の道筋に乗って西に進む。右手海側は埋立地に造成された新日鉄をはじめとする広大な工場地帯である。一方左手には断崖が道路まで迫って山深い様相を呈している。かつてはこの県道が海岸線をなしていたのであろう。坂田交差点を渡った右手広場に「坂田漁業協同組合解散記念碑」が建てられている。坂田海岸は上総海苔の養殖で知られる漁場だった。江戸の海苔商人近江屋甚兵衛が開発したものである。昭和の高度成長期、京葉臨海工業地帯造成政策に基づき君津町地先海面に八幡製鉄の誘致を決めた。昭和40年、計画の提示を受けてから5年の苦渋を経て漁業組合は漁業権の放棄を受け入れた。

この海岸一帯各地に同様の記念碑をみることができる。

左に段丘が続く道路だが房総往還旧道は坂田と大和田交差点の間で内陸に入り、丘陵を越えて人見地区の青蓮寺前に通じていた。その間の道筋は消失している。中央分離帯のある大きな車道を跨道橋で跨ぎその先を左折して下って行く。右手は新日鉄関係の住宅・福祉施設が建ち並びさながら新日鉄村の様相である。新興住宅地の中を曲折しながら丘陵麓の東西に走る道に出る。右折して西に向かうとやがて左手に周西幼稚園を通りすごして左からの道と合流する。合流点に人見地区の住宅地図が建っていたが街道に関する情報はなかった。左手に高札場ならぬ屋根付の掲示板が建っていた。このあたりからは旧道の道筋のようだ。

右手に青蓮寺が現れる。人見山を背後にして唐破風付の堂々とした本殿を構えている。開基、由緒等は不詳ながら、嘉禄元年(1225)の開祖という記録があるらしい。境内左手に建つ大きな寛保2年(1742)の宝篋印塔が目を引く。

青蓮寺の東側には旗本小笠原家2500石の人見陣屋があったが今は宅地や畑となって遺構や標識等はない。旗本小笠原信元が天正18年(1590)、富津に陣屋を構えたがその後、幕末の海岸防備のため富津は松平定信の白河藩領になったため、文化8年(1811)、小笠原家はここ人見に陣屋を移したものである。

青蓮寺は上総海苔開発者近江屋甚兵衛の墓があることで知られる。境内にある六角堂は資料館だそうだが公開していないようだ。詳しくは国道16号の北側にある君津市漁業資料館に行くのが良い。

近江屋甚兵衛は明和3年(1766)江戸四谷に生まれ、11歳の時浅草の海苔問屋に奉公に出た。その店の屋号が近江屋であったのであろう。子がなく妻にも先立たれた孤独な身であった甚兵衛は商人のかたわら海苔の養殖方法を研究し、54歳の時産地開拓のために千葉県にやってきた。江戸川河口の浦安、養老川河口の五井(市川)、小櫃川河口の木更津の村々を回ったが漁場が荒れると心配する漁民に反対されて事業は成らなかった。

人見村にやってきた近江屋甚兵衛は名主八郎右衛門の理解を得て、小糸川河口の遠浅浜に海苔ひびを立てることができた。文政5年(1822)、2度目の挑戦でひびに海苔が着き、ここに「上総海苔」が誕生することになった。近江屋甚兵衛は、弘化元年(1844)79歳で亡くなった。

墓の背後に立ちはだかる人見山に登る。山頂に人見神社がある。君津、富津の海岸地域旧17ヶ村の鎮守として崇拝されている。毎年7月に行われる「おめし」と呼ばれる神馬奉納で知られている。頂上からの眺望がよく、眼下に小糸川と町並みが広がり、遠方は白煙をあげる臨海工業地帯の工場群が沿岸を埋め尽くしている。

神社から車道を北に下りていく。国道16号を横切ったところ右手に君津市漁業資料館がある。留守番の若い女性がパンフレットと上総海苔一袋をくれた。漁業資料館だが館内の展示は近江屋甚兵衛と海苔養殖関連で占められている。ヒビに着いた海苔を小舟から身を乗り出して手で採る風景は、会津の旅でみたジュンサイ採りに似ていた。現在では手作業に代わってポンプで海苔を吸い上げるという。ジュンサイ採りはそういうわけにはいかないだろう。

小糸川沿いに青蓮寺方面にもどり中橋で小糸川を渡る。昔は小糸川に橋はなく船で渡っていた。小糸川が君津市と富津市を分ける。



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佐貫 

中橋を渡って国道16号を左折、すぐ左手に大堀神明社がある。

内房線青堀駅前を通過して大堀亀下信号交差点で、街道をはなれて内裏塚古墳と飯野陣屋跡に寄っていくことにする。

交差点を左折して県道157号を400mほど行くと左手にこんもりとした丘が現れる。内裏塚古墳という前方後円墳で、南関東地方最大である。築造年代は五世紀中頃で、被葬者は古代須恵国の首長と推定される。

後円部を上がって行くと塚上に「内裏塚」碑、脇に
「珠名塚碑」があった。かつてはここに珠名姫神社が祀られていたが大正4年飯野神社に合祀された。碑は嘉永年間に建立されたもので、珠名(たまな)は万葉歌人高橋虫麻呂の長歌に詠われた古代上総の美女である。 胸は豊かで腰は細くくびれた妖艶な美女だったという。

つづいて県道157号を500mほどいった交差点を左折するとまもなく水路に囲われた所にさしかかる。ここがおよそ縦300m、横400mほどの方形の濠と土塁で囲まれた飯野陣屋跡である。慶安元年(1648)に飯野藩初代藩主保科弾正忠正貞が中世の城郭跡に陣屋を築造したもので、明治維新に至るまで10代223年に亘って飯野藩主の居所であった。陣屋は本丸、二の丸、三の丸を備え、その堂々たる偉容は、長州徳山、越前敦賀と並んで日本三大陣屋の一に数えられている。そのうち現存するのは飯野陣屋のみといわれている。

内部に三条塚古墳と飯野神社がある。三条塚古墳は内裏塚古墳に次いで古墳群中第二位の前方後円墳である。築造年代は6世紀末ころと考えられ、内裏塚古墳よりは100年あまり新しい。

三条塚古墳の東側に飯野神社がある。かつて内裏塚古墳に祀られていた古代上総の美女珠名姫がここに合祀されている。

街道の大堀亀下信号に戻る。国道16号を1.2kmほど行った左手、青木自治会館の前に青堀南部漁業協同組合解散記念碑と芭蕉句碑が並んでいる。その後ろの小高い塚には八海山・御嶽山・三笠山参拝の記念碑が、ふもとには古そうな庚申塔などが建っていた。

芭蕉句碑は 「ほととぎすなくや黒戸の濱ひさし」 の一句を刻む。書は幕末の書家、萩原秋巌によるもの。萩原秋巌の養子となった俳人萩原乙彦が明治3年(1870年)5月に建立した。

この先で国道を右に分けて短い旧道が残っている。

街道は新井交差点を直進して富津集落に入る。右手海岸は富津漁港、道をそのまま直進すると潮干狩りで有名な富津海岸、富津公園を貫いて富津岬に至る。

房総往還は富津信号交差点で国道16号を終え、左接して県道255号に乗り換えて南下していく。

街道から離れて富津陣屋跡と富津岬を見ておこうと思う。町並みは静かで昔の面影はない。

江戸時代後期、異国船が日本沿海に現れるようになり、幕府は房州沿岸警備を強化、安房・上総の江戸湾防備を白河藩主松平定信に命じた。松平定信は寛政の改革を断行した老中で、18世紀末期には自ら江戸湾海防の強化を提案していた人物である。

文政4年(1821)に富津陣屋が置かれるとともに、海沿いの房総往還が整備され以後内陸ルートにかわってこの海岸ルートが主要街道になった。陣屋の所在地は摩尼山医光寺付近の空き地というだけで、医光寺境内周辺をみわたしてもそれらしき案内板や標識を見つけることはできなかった。

町並みの中程を見計らって路地から海岸にでる。漁港と隣り合わせに潮干狩り専用駐車場が整備されている。今は誰もいない。

そこから公園内の松並木の中をひたすら岬まで歩く。突当りにモダンな展望台が築かれ、江戸湾が広がっている。展望台は明治百年を記念して建てられたもの。岬の沖合にみえる小島は明治元年、江戸湾海防に為に築かれた海堡であろう。

帰路は半島の南岸をもどる。遠浅の海水浴場が延々と延びている。

富津信号交差点までもどり、右折して房総往還を再び歩き始める。川名信号で国道465号となる。すぐ先、左手の農家前に「富津市指定史跡 原口照輪生誕地」の案内板が立っている。江戸後期、成田山新勝寺13代目の貫主で中興の祖と言われている。

左手、富津千種新田郵便局を通り過ぎ、内房線の「新田踏切」を渡る。街道はそこから逆V字形に切り返しているが、線路で分断され渡れない。踏切で引き返し旧道復活点にもどる。200m余り行った丸獣医科医院前の丁字路を左折、再び線路で分断されているので、線路沿いに南下して千種街道踏切をわたり、復活地点にもどる。千種街道踏切への三叉路を直進して国道465号で内房線の東側を佐貫に向けて下る。岩瀬川を渡って、道なりに内房線のガードをくぐり、その先の信号を左折する。

直進すると国道は海岸にでるのでそのまま寄り道をした。大貫海浜児童公園から朝日を受けて輝く小久保漁港に繋がる。

街道にもどる。信号を左折し東に進むとすぐ左手に富津市役所大貫連絡所があり、その東側に弁天山古墳がある。古墳への登り口に弁天山古墳の説明板と並んで、小久保藩陣屋跡の石碑が立つ。明治元年(1868)9月、遠江・相良藩1万石の第三代藩主田沼意尊(おきたか)が上総天羽・周准(すす)郡に入封し、この地に陣屋を築いたが4年で廃藩となった。

弁天山古墳は全体が露出していて登りやすく頂上からの見晴らしもよい。後円部に竪穴式石室が保存されており、格子窓から覗くと石室を覆う二枚の大きな天井石の先に亀の首のような縄架け突起が出ている。石を運ぶときにここに縄をかけて引いたという。珍しいものを見た。

街道は坂を下って小久保踏切を渡る。ちょうど警笛が鳴って南から電車がやってきた。事前に進行方向がわかっていれば電柱を避けてもっとよいアングルを捕えられたのだが・・・。

街道は線路を離れて大貫小学校の先の交差点を直進していく。久しぶりに昔の風景を残した本格的な旧街道に巡り合えた。

左手に白木の鳥居があり、奥に岩を穿った祠がある。

その先の二股を右にとって内房線の海老田踏切を渡り、国道465号に合流する。小久保踏切から海老田踏切までほぼ2kmの気持ち良い旧道であった。

国道を左折して佐貫に向かう。ほぼ中間くらいのところで東京湾観音参道が出てくる。整備された坂をひとしきり上っていくと大坪山(標高120m)の頂上に目にもまぶしい白衣の観音が立っていた。56mという高さだ。君津出身の材木商、宇佐美 政衛(うさみ まさえ)が昭和36年に世界平和を願って建立した。

街道にもどり、国道465号は佐貫駅北方で内房線を跨ぐ。旧道は少し手前、内房線のトンネル出口先で線路を跨いでいた。

跨線橋を下りてから、線路で分断された旧道端にもどる。旧道は駅に向かわないで左に折れていく。道なりに進んでいくとカネイ理容の前で国道465号に出た。旧道はそこから引き続き国道を斜めに横切ってカネイ理容の東側に続いている旧道に入っていく。佐貫は房総往還の宿場でありまた佐貫城下町であるがその町はこの地点から500mほど東に入った佐貫交差点から内陸部に向かって延びているのだ。つまり海岸ルートの房総往還は佐貫の町の西端を素通りしていく道筋になっている。内陸ルートはまさに東から城下を通って佐貫交差点を通り、カネイ理容のところから南下して湊をめざす道筋になっていて、自然なように思える。

という訳で、ここで佐貫の町を散策しつつ内陸ルートの終点部分を歩いてみようと思う。

佐貫交差点の角には大きな醤油樽が置いてあって樽には「天保五年創業(1834)江戸の味を伝えて160年」と、老舗宮醤油がその歴史を誇っている。芳しい香りを漂わす建物は国の登録有形文化財である。冠木門を構え、板壁の店舗の両側には白漆喰に黒板壁の蔵を配して堂々とした威風である。店の分厚い窓ガラスには自然のゆがみが波たちこれもレトロな風情を添えている。

宮醤油の東隣も相模屋という大正ロマンの洋風店舗が趣ある佇まいを見せている。

道向かいにも重厚な白壁店蔵が建っていて、風情ある家並みの一角を担っている。

商人町風の町並みの中を東進すると、みごとな曲尺手に出た。街道内陸ルートはここを左折して国道127号にそって君津方面に向かう。

ここでは曲尺手を左折したすぐ右手にある日月神社を見るだけにして、曲尺手を右にとって佐貫城跡に急ぐ。佐貫中学の南側から日枝神社にかけて手入れされた生垣をめぐらした民家が続く。

Y字路手前に一本杉が立つ石垣が佐貫城跡入口である。佐貫城(亀城)の築城は室町時代に遡り、応永年間(1394)武田氏による説と文安年間(1444)長尾氏によるとする二説がある。その後、里見、武田、朝倉、加藤、大河内と城主が次々と代わった。江戸時代になって二度の廃城の時期を経て宝永7年(1710)、阿部正鎮が三河刈谷から移封され佐貫城を再興した。その後明治維新まで阿部氏8代にわたる統治が続いた。

案内図によれば手前から三の丸、二の丸とつづいて本丸跡に至る。山道を上がって行くと二の丸跡に水を湛えた堀跡が残っていた。本丸跡は林の中で、展望はきかない。そばに展望台への標識があったので、さらに山道を登って見晴らしのきく頂上に出た。遠く右手の山上に東京湾観音が小さく見える。

城山を下り来た道をカネイ理容店脇の旧道までもどる。

街道は佐貫の町を出て県道256号に合流、八幡街道踏切を渡り田園の広がる中を海に向かって進む。車も時々通るだけで、通り抜ける集落も静かなものである。



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湊 

染川を渡り道が右に曲がって左折する角に鶴峯八幡宮がある。草創は養老年間(713〜723)と伝わる古社である。源頼朝が安房から北上してこの地を通った際、武運長久を祈願して短刀を奉納したとも伝えられる。里見・武田氏以来歴代佐貫城主たちの寄進を受けてきた。まだ新しい石畳の参道をすすむと鮮やかな朱塗の社殿が晴れ晴れとした姿で佇んでいる。9月の例大祭では御浜出神事とよばれ三基の神輿が新舞子浜の海に担ぎ出される。

街道からその新舞子浜に出てみた。誰もいない海だが、右手に東京湾観音が真正面に見えた。方向としては真北にあたる。

街道(県道256号)は断崖上を海に沿って走っている。道と浜辺の狭い斜面に別荘風の建物や保養所が建ち並んでいる。やがて街道は海から離れて内陸に曲がっていく。左手に切通しの崖面を穿って二体の地蔵が祀られている。セメントを流したような岩肌である。

JR内房線笹毛踏切を渡り、一路南をめざす。長浜信号で国道127号に合流、交通量が急に増える。左に大きく曲がった先で左手の旧道に入る。すぐに国道を横切り、郵便局の脇をとおり切通しで分断された断崖端を回り込み、再び国道を横断して集落内の旧道を通り抜けて国道にもどる。

JR上総湊駅前を通り過ぎ400m余り行ったところで左手に旧道が分かれている。歩道と並行した後左にまがって住宅街の中に入っていく。歩行者専用道路ほどの狭い道である。

手入れされた生垣がつづく民家の間をたどっていくと小さな変則十字路に出る。竹垣や房総石の石積みを備えた落ち着いた家並みが緩やかなS字状の下り坂に沿って続き、旧道の
風情あふれる一角をなしている。細道は湊済寺の脇を通って県道93号に出る。

ここは
曲尺手になっていて、旧道はわずかに東にずれて丁字路を右折し、湊川を渡っていく。曲尺手に湊町バス停があるところからこの付近が昔でいえば札の辻にあたる町の中心地なのであろう。

ここで街道を離れて、県道を逆の海側に進み湊信号で国道を横断し、海に向かう。湊交差点の南角に湊町道路元標があった。県道93号が海に突き当たったところが上総湊港海浜公園になっている。

湊川河口が漁港である。JR鉄橋を内房線の電車が渡っていった。

港からの帰り道、左に出ている曲がりくねった細い路地をたどって神明神社に立ち寄る。仲町公民館と隣り合わせであった。鳥居をくぐった所にある手水鉢は古く見えないが側面には天保6年(1835)の銘が読み取れた。

街道に戻って、湊橋で湊川を渡る。下流に架かる国道の橋名も湊橋である。普通旧橋の名に、「新」をつけたり、「大橋」などとするものだが、ここはなぜか同じ名の橋が並んでいる。その橋の向こうの鉄橋に内房線の電車が走っていった。

左から下りてくる道との合流点に
指指道標が立っている。三方を示して「竹岡村ヲ経テ金谷」「湊町ヲ経テ佐貫町及」「天神山村賣津ヲ経」と読める。

旧道は警察署前で国道127号にでるが、その手前に天神社の案内板があって、その中の地図に、旧湊橋を渡ってきた道に
「旧道」と記されているのを見て勇気づけられた。

国道を横切ってすぐに右手の
旧道に入る。旧道を国道が分断した形である。旧道は細い下り道で、まもなく内房線の海良踏切を渡る。元あった道幅を故意に狭くして車が通れなくしている。そのすぐ先にも国道との連絡道路があるので地元住民に不便はないということか。

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竹岡 

二つ目の連絡道路と合流したすぐ先で旧道は国道の下を直進する。左手法面に村境を示す石標があった。「君津郡竹岡村」と刻まれている。現在では富津市内の海良と竹岡地区との境界線だ。

その手前の二又を右に折れて薬王寺に寄っていく。湊川河口の南岸を望む手前に薬王寺がある。説明板は薬王寺についてではなくて、オハツキイチョウに関するものだった。文化9年(1812)白河藩主松平定信が自ら白河より取り寄せて手植えしたものと伝えられる。松平定信は富津陣屋を築いた人物として親しい。

街道にもどり鬱蒼とした林に入る。海が覗き見える右手に住吉神社がある。林をぬけ旧道は国道127号に合流する。

北町バス停の右手に旧道が残っている。湊でみたものと同じく、断崖が国道によって切り通された跡に残された岩塊である。回り込んでいくと左手の岩塊は垂直に鋭く切り立っている。海側の旧道でさえ深く切り通して造られた。右手にまだ山の残余がある。旧道はすぐに国道にもどり、竹岡の町内に入っていく。

国道に出て200m足らずで今度は左手の旧道に入り松翁院(十夜寺)に立ち寄る。境内には承応2年(1653)の古い庚申塔があり傍に庚申信仰についての詳しい説明板がある。古代は夜を徹しての酒盛りが行われたとあり、歌垣まがいの享楽的な行事かという印象を抱いていた。その後徐々に宗教的な色彩を強めていったようである。しかし庚申待ちと称して夜に集う風習の中に快楽的要素がなかったかといえば疑わしい。

墓地にひときわ目だつ地蔵が海を背にして立っている。竹岡義民、岩野平左衛門の墓である。江戸時代延宝の頃、百首(ひゃくしゅ)村の名主平左衛門は、時の旗本による重税に敢然と抗議したが、報われず延宝8年(1680)47歳で処刑された。その慰霊を兼ねた十夜法要は平左衛門の三回忌以降今日にまで至っている。

旧道は国道に戻り、白狐川を千歳橋で渡る。振りかえってみれば、これという町の中心街をぬけた印象が残っていない。房総往還の継立場があった場所というのはどこなのか。なおJR竹岡駅はここから2km先の荻生という集落にある。

右手に見えるこんもりした山は造海(つくろみ)城跡である。造海城は寛正2年(1461)武田氏一族真理谷氏によって築城、里見氏に引き継がれた後天正18年(1590)里見氏が安房一国に減封されたときに廃城となっている。その後幕末になって沿岸防備のため竹岡陣屋(跡地は竹岡小学校)を置いた会津藩によって砲台が築かれた。

旧道は千歳橋の手前から左斜めに出て白狐川をわたり、内房線にむかって延びていた。橋を渡って左折して旧道道筋に入る。

旧道は内房線に分断されているが踏切もなく、そのまま越えていく。田畑の中にひっそりとのびる道はやがて坂を上がった所で三叉路に出る。その前方と右手に手掘りの隧道が現れる。岩と穴に立ち塞がれた異様な空間である。
この真下を内房線がくぐり抜けている。鉄道トンネルの真上に車道トンネルを立体交差させているのだ。

右方の短いトンネルを抜けてみる。車道トンネルの長さは線路を跨ぐだけの短いもの。その先で国道127号に繋がっていて、出口に「灯籠坂大師堂参道」と書かれたゲートが仰々しく建っている。


国道127号用の城山隧道は昭和18年(1943)の開通、延長131m、幅5.6mと古くて短く狭い。大型トラックは入口で対向車に大型車がないことを確認してから入る。その結果、館山道が開通するまではひどい渋滞で知られていた。その横に歩道用トンネルが昭和54年(1979)造られ歩行者の安全は確保された。

大師堂参道を引き返し、旧道にもどる。真正面の灯籠坂隧道は入口も出口も高い岩盤を手で掘り進み、残りを刳りぬいた形で異常に高いトンネルとなった。極細楕円の上半分を切り取った形で、岩を削った痕跡と斜めに走っている地層の線とが相まって妙な形状である。

灯籠坂隧道を抜けると、左手に鳥居が立ち、灯籠の建ち並ぶジグザグの石段を上りつめた尾根付近に灯籠坂大師堂がある。弘法大師所縁の場所であるが、その背景として「当時の東海道は伊豆から海路をとり上総の保田、金谷に上陸するのが本道でした。」とある説明は興味深い。源頼朝も同じ経路をたどったのであろうか。

旧道はその先で内房線を渡る。かつてはあったであろう踏切はない。JR変電所を回り込んで小さな集落を抜けて「津浜」バス停で国道に合流する。右手に緑の尖塔が見える。人造小島かと思って国道を渡って近づくと浜辺に建つ民家の屋根だった。

右手の路地を下っていくと津浜海水浴場にでる。瀟洒な保養所や研修所が海に向かって建つ景色のよい海岸である。波が洗う砂岩の相が美しい。

国道にもどり、街道は左に大きく曲がっていく。萩生集落の入口あたりで左に分かれる250mほどの旧道に入っていく。三叉路角にある東善寺は本堂が改築工事の真最中であった。

一旦国道にもどってすぐに左の旧道に入る。今度も300mほどの短い旧道だがその中間辺りで竹岡駅入口を通過する。萩生集落の真ん中である。竹岡集落と竹岡駅の位置関係が不可解だ。

旧道はゆるやかに右に曲がりだし、左の段丘の裾はきれいな石積で整えられ、右側の生垣との間に趣ある旧道風景を作り上げていた。

旧道が国道と合流する左手に、国指定天然記念物「竹岡のヒカリモ」で知られる名勝地「黄金井戸」がある。鳥居の背後に洞窟があって、その中に溜まった水が鈍い黄金色を放っている。洞穴内に自生繁殖したヒカリモが光を反射させるのだそうだ。日が傾きはじめた時刻で心配だったがまだ藻が反応するに十分な日光を受けていたようであった。

西日を浴び始めた荻生漁港の北方に、海に突き出した城山が見える。

萩生の集落を出て国道を南に向かう。これからしばらく数多くのトンネルをくぐっていく。国道127号はトンネルの数が多いので全国に知られるほどである。この旅ではできる限り明治時代に開削された旧隧道を探ることにする。さらにはトンネル山の鞍部を越えたであろう江戸時代の峠越えの道跡が残っていれば、そこを歩こうと思っている。熊の心配がない房総ならではの贅沢である。

城山隧道を第1号として、前方に第2の打越トンネルが見えてきた。打越隧道は31mと短い。概して房総往還を分断する多くのトンネルは房総の背骨から枝分かれした山稜が海に落ち込む岬の岩塊を掘削したもので、短いだけでなく山自体も低い。この程度なら切り通してしまえば、と思うほどのトンネルもある。それは、峠越えの道もたいしたことはない、ということでもある。

打越隧道の前にきた。左にも大きな口が開いていて、その中央に小さな穴が掘られていた。何かしらないが隧道ではない。右手に細い道が出ていて、これが旧道らしい。右手は開発工事中で、旧道は作業道路化している。道は海辺で途絶えていたが、左の山側を見ると獣道の入口を認めることができた。

藪と倒木の中を入り込んでいくと石垣跡が残る山道が現れ、右に回り込んだ先に美しい切通しが待っていた。わずか数十メートルの峠道である。峠の先はすぐに断崖となって道は絶えている。

垂直の崖は数メートルほどの高さで、無理すれば石垣を下りられなくもなさそうである。ただしそこは私有地らしく、建物の脇を旧道が通って国道に合流しているのが覗かれた。来た道をもどって現在の隧道を抜ける。


(2014年2月)
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