房総往還は船橋大神宮下で成田街道と分かれ、江戸湾東岸(内房総)に沿って房総半島の南端館山に至る房総半島の主要街道である。房総諸藩の参勤交代路であり、また近世では外国船に対する江戸内湾の警護のために重要な役割を果たしてきた。現代では東京湾の埋め立てが進んだ結果、木更津までは高層建築と白煙をたなびかせる工場コンビナート地帯に化してしまったが、そこを過ぎると内房ののどかな漁村が連なるうららかな地域が残されている。私は海洋性の温暖な気候にめぐまれた南房総の城下町館山を終の棲家に定めた。そこに至る道を自らの足で確かめる旅である。
成田街道(佐倉道)の船橋宿東はずれにある大神宮下信号交差点が房総往還の起点である。東に直進する成田街道とわかれて房総往還は交差点を南に進む。最初の信号を左折した角に大神宮の表参道入口がある。
すぐ先の左手に東光寺があり、境内に入った右手に宝永6年(1709)の道標を兼ねた廻国塔が建ち「右ハかつさ道 左ハさくら道」と刻まれている。朝日の逆光と磨滅が重なって文字は読みづらかった。「かつさ道」は「上総道」で房総往還のこと。さくら道は成田街道である。つまりこの道標は房総往還の起点交差点にあったものである。
船橋市宮本地区を南東に突き抜ける。旧街道の面影を求めて古そうな建物に注意して歩いているが、なかなか見つけられない。そんな中で右手に一軒、目を引く家があった。建物は古いわけではないが、門とブロック塀を繋ぐ門柱の延長が鳥居の形をなし、鳥居下の通り道にあたる部分がくぐり戸になっている。面白い意匠だ。
船橋競馬場駅の先の踏切で京成本線を横切り国道14号(千葉街道)と合流、線路に沿って進む。谷津駅の先、習志野谷津郵便局のある交差点を左折してすぐ左手に、元禄5年(1692)の庚申塔がある。
京成津田沼駅入口交差点を越えた先、左手に元禄8年(1695)の古い厄除喜久地蔵が左右に小さな石仏を従えて祠に祀られている。
鷺沼1丁目交差点で街道をはなれて北に200mほど行った左手にある鷺沼城跡公園に寄る。周囲300mほどの円形の公園内に鷺沼太郎源太満義碑が建つ。鎌倉時代の正応年間(1288〜92)に鷺沼太郎源太光義が、ここ鷺沼城を本拠にしたという。満義は光義のことか、あるいはその末裔か定かでないが、鷺沼氏はこの地を古くから支配していた豪族だと考えられている。石碑の近くに鷺沼古墳群のひとつがあり、長さ2mほどの石棺が保存されている。6世紀のものと考えられ、その時代から鷺沼を本拠とした豪族がいたことを推定させる。鷺沼氏はその筆頭候補であろう。
街道にもどり国道14号を進んでいくと京葉道路との複雑な立体交差にさしかかり、習志野市から千葉市花見川区幕張本郷に入っていく。
幕張陸橋を越えた先で国道を右に分け左の旧道(県道57号)に入る。
ほどなく左手に庚申塔・石地蔵がある。右の庚申塔は元禄9年(1696)、左の地蔵は元禄11年(1698)、中央の笠付き庚申塔は、享保元年(1716)と、いずれも古いものである。中央の青面金剛庚申塔は丁寧な浮彫がほどこされた立派なものである。
すぐ先左手台地の麓に「大須賀山の自然と文化財」と題する案内板がある。幕張町は江戸時代は馬加村(まくわりむら)と呼ばれていた。台地は直接東京湾に面していて、房総往還は海岸沿いを走っていた。今もこの辺りにはタブの木などの海岸林が残っている。現在埋め立てによって海岸線は2.5km南に後退し、往還との間には大学、高校などの文教施設をはじめ、イベント会場、海浜公園、高速道路など、大規模に開発された。
台地上には大日堂跡地があり、タブの巨木が茂る丘の頂上には馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚と寛永14年(1637)の五輪供養塔がある。馬加康胤は室町時代の武将で馬加村に居を構えたことから「馬加」と称した。康生2年(1456)、千葉氏の内紛に乗じて千葉氏宗家を攻め滅ぼして19代当主千葉康胤となる。その後将軍足利義政の追討命を受けた東常縁の軍に敗れ、市原市八幡で敗死し首を村田川岸に晒されたという。
旧街道は下八坂橋を渡って最初の交差点で県道57号と分かれて左折する。すぐ右手に一対の常夜灯が建つ路地の奥にひなびた木造りの鳥居があり、その奥の階段を上がると琴平神社がある。社殿はなく、常夜灯と基壇上には石塔類や狛犬が置き去りにされている。廃社となったのであろう。
街道は突き当りを右折するが、直進して子守神社の大銀杏を見る。乳を垂らした巨幹に多数のおみくじが結び付けられている。葉をおとしたせいで壮大な枝振りを隠し包まず誇示しているようであった。子守神社は千葉常胤の子の大須賀四郎胤信が建久5年(1194)に幕張縫坂の屋形に造営し、永正5年(1508)に当地に移されたと伝わる。
幕張3丁目の静かな町並みを通り過ぎる。この通りは旧国道14号である県道57号のさらに以前の国道である。新しい家が多い中で板張り造りに二階の手摺が趣をたたえた家を見つけた。
幕張小学校の一つ手前の路地を左にはいったところにある幕張3丁目公園は江戸時代の代官屋敷跡地である。明治天皇駐蹕之所碑の説明碑文を引用する。
江戸時代幕張町は、天領として北町奉行所配下にあり、当地にあった大須賀家はその代官所にあてられていた。 当時の建物は、昭和43年千葉市に寄贈され、加曽利貝塚公園の一部に「代官屋敷」として保存されている。明治15年、明治天皇が市内中野町方面における陸軍対抗演習統監の際、休息所にあてられたところとしても知られている。また、音楽家山田耕筰が幕張小学校に通った頃、このあたりに見事なからたちの並木があり、名曲「からたちの花」が生まれたと言われている。 |
現在の町並みからは代官屋敷もからたち並木も想像することさえ難しい。
旧街道は県道57号を斜めに横切って旧国道に合流するが、ここで街道を離れて県道を京成幕張駅の方に進み、「幕張昆陽地下道」陸橋の先にある昆陽神社に寄っていく。
京成千葉線の南側に秋葉神社と昆陽神社が並んでいる。昆陽神社は江戸時代の蘭学者青木昆陽を祀ったもの。昆陽は八代将軍吉宗に仕え、享保の大飢饉の翌年、江戸小石川の薬草園に甘藷を栽培、数か所で試作し成功したのが馬加(幕張)村だった。青木昆陽没後、天明の飢饉が起きた。甘藷栽培を始めて約40年後のことで、馬加村ではこの大飢饉にもかかわらず、一人の餓死者も出さなかったといわれている。そして昆陽は芋神さまとして敬われ、弘化3年(1846)秋葉神社境内に祀られた。道を隔てた千葉市用地に「昆陽先生甘藷試作之地」碑が建つ。
街道に戻る。幕張駅入口交差点を渡り花見川の手前の二股を左にとって新花見川橋で花見川を渡る。川に浮かぶ小舟と橋を渡る電車を一枚の写真にいれようとしばし橋の真ん中で休息。船をもっと大きく入れたかった。
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川を渡ると幕張町から検見川町に入る。検見川は幕張につづく房総往還2番目の宿場である。江戸時代は漁港としても栄えた。旧街道は「検見川神社南側」信号を右折するが、ここで反対方向に進んで線路を越えたところにある検見川神社に寄っていく。
反り屋根の見事な社殿である。受験時期直前の折から親子連れあるいは一人で、引いたおみくじに神妙に見入る高校生の姿が見られた。
街道にもどり、「検見川商工振興会」の街灯が出迎える町並みを歩く。左手、半七酒店の奥に房総往還沿いで初めての土蔵を見つけた。右手、宮間陶器店やその道向かいに建つ民家も風情を残す建物である。このあたりが昔の検見川宿の中心地であったのだろうか。
ところどころに間口が二間半の、一見中途半端な感じを与える家を見かける。切り妻妻入りの家では右に一間間口の玄関がすこし前に突き出て、奥まって一間半の部屋がつながっている。伝わるところに寄れば、この辺りは明治末期、検見川の人口急増に伴い、次男、三男の住宅難と浜の縄張り争いなどから多くの人が住めるように、三間間口の土地に二間半間口の家を建築したという話である。本来二間間口のところを半間分建ぺい率を高めたということであろうか。ちなみに奥行きは京町屋並みに長かった。建築は風土を体現して面白い。
つい一軒一軒間口を測りながら見て歩く癖がついてしまった。
伊勢地方特有の屋根形式と思っていた「起り屋根」を乗せた家を見つけた。よく見るとここも間口は二間半のように見える。一間の玄関に一間のガラス戸、そして半間は戸袋であろう。ところがよくみると一階の柱の間隔が同じでないのだ。ここで間口を測るのを止めた。
検見川陸橋下信号の左手に小さな地蔵堂がある。
陸橋をくぐった後も左手に二間半間口の家が軒を連ねる家並みがあった。そろえたように寄棟中二階建てで、地割は宿場の町屋のように細長い。間口の外観は様々だった。
東関東自動車道をくぐって花見川区検見川町から稲毛区稲毛町に入る。「稲毛海岸5丁目歩道橋」の先で街道は左の旧道に入る。短い細道をたどると水路にぶつかる。
ここで街道から離れて右手の陸橋をわたり、現在は千葉トヨペット本社となっている旧千葉市庁舎を見ていく。入母屋造りの両翼を構えた木造二階建て建築で明治32年(1899)に旧日本勧業銀行本店として東京都千代田区に建てられた。大正15年(1926)京成電鉄に売却された後昭和15年(1940)千葉市に移築され昭和36年(1961)まで市庁舎として使用された。
陸橋をもどり、旧道は水路を越えて稲毛2丁目の街並みの中を行く。国道14号の喧騒からは隔離され人通りもない静かな道である。
右手に石塔が祀られていて、そばに草鞋が添えられている。正面にはなにか浮彫されているが文字か図柄かさえ判別できない。
旧道は県道134号に突き当たり左折する。右手高台にあるのは浅間神社で、参道を登っていくとまだ新しい装いの社殿があった。拝殿入り口の左右に「八重寿」の酒樽が山積みされている。ここにも学生の姿が見られた。黒松林がしげるこの高台は海を見下ろす景勝の地として知られ、多くの文人墨客が訪れた場所であった。
街道は海岸沿いを通ることなく、ここから坂を上がって内陸の台地上を穴川に向かい、千葉県庁前を通って寒川に通じていた。京成稲毛駅を過ぎる。遮断機が降りるや一人の作業員が道路の中央に出て手早に仕事をこなしていた。電車が通る間が作業時間である。
左手に板塀を囲い木造総二階建ての趣ある民家が目にとまった。屋根はかすかに起り屋根で、庇に横板を通している。共に伊勢地方に多い建築様式である。
その先の二股を左にとる。総武本線稲毛駅の高架手前、右手に明治天皇御野立所跡があり案内板と石碑があった。明治15年近衛師団対抗演習観閲のため行幸した時休憩を取った場所だという。
稲毛駅高架をくぐり繁華な駅前商店街を過ぎると、仲よし公園の一画に「開拓の町小仲台」と題する石碑がある。戦後の焼け野原から町づくりに至ったこの地区の歴史を刻むものである。
街道は園生(そのお)十字路(実際は五差路)で右折して左手から来る県道72号に移る。
穴川中央公園の向かいに穴川神社がある。右手に「軍馬記念」や「征露記念」の碑が建つ。社殿は三つの神社を抱き、左の道祖神社には大きな下駄が奉納されている。草履にみえる大きな履物は木製だが歯がない、草履と下駄の間の子のような履物だ。
街道は千葉都市モノレールが走る国道126号の広い道に合流する。 モノレール天台駅を過ぎ作草部(さくさべ)駅の手前、右手の路地の角に囲いに納まった道標がある。「右ハながのま村よなもと道 左ハそんのふ村小中台道」と刻まれている。この道標は、別名「縄しばり塔」と呼ばれ、風邪を引くと塔を縄で縛って平癒を祈願し、治ると縄を解いて御礼をする信仰があったという。
作草部駅前信号交差点の南西角に宝永2年(1705)の庚申塔がある。ここより千葉市稲毛区から中央区に入る。
モノレールを撮ろうと思うが、電車や車と違い、音もなく近づいて音もなく頭上を去っていく。気づいた時には時遅し。待ち伏せするしかない。見通しの良い空中をにらんでいると、しずしずと二両編成のモノレールがやってきた。レールを跨ぐのでなくここのモノレールはぶら下がり方式である。
街道をそれて千葉公園に寄っていく。大きな綿打池の周りを老人が、池中には水鳥が憩っている。東端の木々の上をモノレールが滑るように通り過ぎた。「綿打池」の名は寒川村の綿打屋の太郎兵衛に由来する。江戸時代このあたりは旗本領の作草部村と佐倉藩の寒川村との境界で、所属に関して争いが起こった。太郎兵衛は役人の実地検分の前日に、寒川村内の弁天の碑石を池の縁に移して置いたことにより、寒川村のものになったという。
街道(国道126号)は千葉公園前駅の手前で左にまがり、JR東千葉駅を椿森陸橋で渡る。右から県道40号が合流する。その先右手に千葉神社がある。朱塗りが鮮やかな社殿である。もとは千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立された。今も妙見信仰の中心地の一つである。
都川にかかる大和橋を渡る。大和橋手前右側の川べりは荷揚げ場跡である。都川河口の寒川港(現在の出洲港)は佐倉藩の御用港として重視された。大和橋から羽衣橋にかけては御蔵屋敷が建ち並び、百姓船(五大力船)、押送船が寒川御蔵より米・大豆を江戸へ廻送したという。現在も河畔に建つ「米商ビル」や、その中にある「千葉県米穀集荷商業協同組合」などの存在は往時の名残であろう。
大和橋を渡ってすぐの交差点から旧東金街道が分岐している。
分岐点を入ってすぐ右手にお茶の水の碑がある。傍の碑文によれば、治承の昔、千葉常胤が源頼朝を居城猪鼻山に迎えた時、この水で茶を汲んだとのことである。
そのまま坂を上がると千葉城(猪鼻城)跡に出る。大治元年(1126)、千葉常重は士気の大椎城からこの地に本拠を移した。さらに常重の子常胤の代には石橋山の合戦に敗れた源頼朝を助け、千葉氏は全盛期を迎えた。やがて附近に城下町が形成され、これが現在の千葉市の起こりと伝えられている。郷土博物館として建てられた天守閣は中世の城郭にあったものでない。当時の本丸跡に城址跡碑が立っている。
寒川港の荷揚げ、集荷、輸送でにぎわった市場町に千葉県庁がある。前庭に「羽衣の松」がある。まだ若い松の木だが、ここには「千葉」の地名の起源ともなった古い羽衣伝説が伝わっている。むかし亥鼻城下に千葉(せんよう)の蓮の花が咲き誇る池田の池という美しい池に、夜半になると天から一人の天女が舞い降り、着ていた羽衣を松の枝に掛けて蓮の花に見入っていたという。亥鼻城主であった平常将はこのうわさを知り、天女を自分の妻にしたいと家来に羽衣を隠すように命じた。羽衣を失った天女は帰ることができず常将と結婚し、やがてりっぱな男の子を生んだ。このことが京に伝わり、感銘を受けた天皇は千葉の蓮の花にあやかって「千葉」の名を常将に授けたという。
それにしても最初からずいぶん斜めに傾いた木ではある。
県庁の中央通路を通り過ぎ、羽衣橋を渡った前方左手の立体駐車場の庭に明治天皇行在所旧蹟避が建っている。木陰に隠れてわかりにくい。明治15年5月千葉郡八街村付近で近衛兵の大演習があった時の行幸で明治天皇は、同月1日・3日の両日現在の千葉支庁から千葉県教育会館の敷地にあった千葉県女子師範学校に宿泊したのを記念して昭和3年に建立されたものである。
街道にもどりJR本千葉駅の北側を通り抜ける。この駅は明治29年(1896)房総鉄道の寒川駅として開業した。
港町交差点に差し掛かる。街道はここを左に折れていく。左手角に「君待橋之碑」と、その後方に「君待橋舊跡」の碑と轍を刻んだ車石が置いてある。昭和44年までこの付近に新川と呼ばれる小さな溝(旧河道)があって、そこに架けられた石橋を「君待橋」といっていた。 昭和55年になってその跡地の北方約200mの都川に新しい君待橋が造られた。君待橋には三つの伝承がある。
1.長徳元年(992)藤原実方が陸奥国へ下向の途中にここを通り、里人に橋の名を問うと、君待橋と答えたので実方は「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。
2.治承4年(1180)千葉常胤一族が源頼朝をその橋のたもとに出迎えた時、頼朝がこの橋の名を尋ねると、六男東胤頼が「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」と答えた。
3.昔橋の近くに美しい乙女がいて対岸の若者と恋を語りあっていた。ある日大雨で橋が流され、呆然として対岸を眺めていると、若者は濁流を泳いで渡ろうとしたが、力つきて水中に没した。これを見て乙女は悲しみのあまり激流に身を投げて若者の後を追った。このことがあってから里人は君待橋と呼ぶようになった。
私は3番目が良いと思う。
港町交差点から最初の十字路を右に入って行くと、右手に厳島神社港町弁財天がある。江戸時代半農半漁を生業とする村人が豊饒・多産の福徳を願って都川河口のほとりに弁天様を祀ったのが始まりだという。境内奥には「お穴」と称する小さな洞窟がミニ鳥居の後ろで口を開けている。弁天の使いである蛇の穴にふさわしい。
街道は港町から寒川町に移る。寒川は継立場があった宿場である。寒川港をひかえた流通の要衝として栄えた。今は住宅、商店、町工場が混在するただ静かな市街地である。いくつかの銭湯が残っている辺り、下町情緒がうかがえる。
左手に寒川神社があり、延享元年(1744)の簡明素朴な神明鳥居が建つ。天照大神を祀り、昔は、海上往来の船が同社沖にさしかかると礼帆といい帆を半ば下げて航行し、また社前を馬上で通行する者は下馬して敬意を表したと伝えられる。 昭和39年の出津海岸の埋立てまでは、8月20日の祭礼に海岸の大鳥居から神輿が勇壮に海に入る海上渡御の古式(お浜下り)が行われていた。今は国道の西側にJFEスチール(川崎製鉄と日本鋼管の合併会社)の巨大な工場が占拠している。
街道左手に鉄柵に保護された延享2年(1745)の道標ある。正面に「奉造立南無庚申尊」、左側面に「右ハかつさみち 左ハちばてら道」と刻まれている。上総道は房総往還の館山方面、千葉寺道は文字通り坂東三十三観音霊場千葉寺への参詣道を指したものである。
その道向かいにも天明元年(1781)の石塔があって、「高祖日蓮上人大菩薩」と刻まれている。その奥に廃寺らしき建物が残っていた。
京葉線の高架下をくぐって稲荷町に入る。
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曽我野・浜野
すぐ先左手に稲荷神社がある。由来記によると、当社は日本武尊が東征の際駒を放って祈願したことから駒原神社とされていたが、大治元年(1126)千葉常重が猪鼻城に館を構えて以来千葉氏の守護神の稲荷になった。境内には当地の偉人、花沢紋十が天保7(1837)年、甘藷澱粉製造を始めた事などを記した「甘藷澱粉製造発祥之碑」がある。
蘇我駅前通りを横切り、「今井町」バス停の先左手に「大がん寺の道」と刻まれた道標が立つ。
蘇我1丁目から2丁目に入った左手に蘇我比盗_社がある。延喜式内社で、古くは千葉郡一円の総鎮守社だった。曽我野は古代、蘇我氏に属する部民の居住地であったので、当社は彼らの氏神として祀られていたと思われる。また、蘇我の地には、日本武尊と弟橘媛とにかかわる地名伝説を伝える。
曾我野2丁目バス停の先で二股を左に直進する。
曾我野3丁目の右手はいったところの八幡公園は曾我野藩陣屋跡である。曾我野藩は明治3年になって下総国高徳藩の戸田忠至の子正綱が曽我野藩一万石に封ぜられたが、翌年廃藩となった。小さな祠と赤色の小屋があるだけで城郭の遺構は残っていない。
街道は京葉臨海鉄道貨物線の「旧国道踏切」を渡る。警笛がなり、カメラを構えている間に一両の機関車だけがいそいそと通り過ぎて行った。
生実川を渡り塩田町に入る。
右手、塩田バス停の後ろに長い板塀と門を構えた民家がある。一本の木が塀越しに高くそびえ、旧街道の雰囲気を醸していた。
バス営業所の先、左手に塩田天満宮がある。こぢんまりとした社殿の唐破風と千鳥破風の彩色が妙に色っぽく感じられた。
街道は県道66号に突き当り右折して、浜野川に架かる塩浜橋を渡り浜野町に入る。房総往還の継立場があった浜野宿である。
街道が右に曲る左手に諏訪神社がある。 室町時代後期の大永元年(1521)に上総国市原郡養老庄の領主村上周防守義清が、信濃国の上・下諏訪神社を領内に勧請しようと重臣、神官を遣わし、神璽・神鏡などを奉じての帰途浜村(現浜野町)に宿泊したとき、村人がこれを奇縁としてこの神を勧請し、祀ったのに始まるという。この神は結局養老庄にはたどり着かなかったのか?
街道はこの先、右折・左折・右折・左折を重ねて県道24号に合流する。この道筋は浜野宿内の曲尺手のなごりであろう。浜野宿は浜野河岸、本行寺門前町で賑わい遊郭も4軒あったという。今の埋め立て海岸は製鉄、造船、石油、化学工場や火力発電所が延々と袖ヶ浦まで林立して、かって松林がつづいていた房総往還の景色は壊滅した。
途中右手に「本行寺」と「はまの幼稚園」の入り口案内板がある。本行寺は文明元年(1469)日泰上人の開基で、上人に帰依した土気城主酒井定隆が宏壮な伽藍を建て、「七里法華」の根本霊場とした。「上総七里法華」とは、酒井定隆が土気城主となった際に領内一円を日蓮宗に改宗させたことをいう。
境内を散策していると左手の奥から園児の甲高い騒ぎ声が聞こえてきた。節分を明日に控えて二人の鬼が訪問していたのである。面は出店で売っているようなセルロイド製で、鬼面もかわいくて怖しげでない。 園児たちは歓声を上げて鬼たちをからかっているようであった。
浜野信号で東に分岐する道は伊南房州通往還(房総東往還)の旧道で、茂原から太平洋側に出て、外房回りで館山へ至る約120kmの道である。茂原までは県道14号(現茂原街道)、それ以降は館山まで国道128号が現代版となる。
その先を右折して県道24号に合流して左折する。浜野駅西側信号で国道16号をよこぎり、村田橋バス停の先で千葉市から市原市八幡に入る。この市境は下総と上総の国境でもあり、境界を村田川が流れていた。橋は架けられず明治20年ころまで舟渡が行われていた。その後川筋は付け替えられ、渡し場跡は公園となっている。街道沿いに青面金剛童子庚申塔が立っている。
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現在の村田川を渡る。
左手に安永10年(1781)建立の庚申塔と左右に小ぶりの石仏がある。中央の庚申塔は道標を兼ね、左側面に「左 江戸道」、右側面に「右 東金道」と刻まれている。
このあたりから継立場八幡宿に入る。
境内には夫婦銀杏の巨木が聳え立つ。葉を落として枝振りがよくわかり、根元から多くの幹が分かれ、それが二つに束ねられた姿に見える。
飯香岡通り側の鳥居脇に道標を兼ねた安永2年(1773)の青面金剛庚申塔があり、左側面に「右 江戸乃道」、右側面には「左 かさもりへの道 右 たかくらへのみち」と刻まれている。この道標は、この先の伊南房州通往還分岐点にあったものである。笠森寺(長生郡長南町笠森)、高倉寺(木更津市矢那)ともに坂東三十三観音札所として巡礼者で賑わった。
市原出道バス停の先にその分岐路がある。左に出て行くのが伊南房州通往還で、国道297号(大多喜街道)に合流した後山木三叉路で国道とわかれ、潤井戸で浜野から分岐してきたもう一つの伊南房州通往還と合流する。
右手に板壁の民家、その先に無量寺、葭簀をたてかけた鮮魚やなどがあって、わずかながら街道の風を感じることができた。
国道297号を横切る。直後のバス停の名が「埋立入口」とあった。後に地図で付近をみてみると国道297号は市原埠頭信号で国道16号と交差した後、広大な埋め立て地に造成された工業団地内に入り込んで消えていた。そのようすは街道からはうかがえない。ただ白い煙をたなびかせる煙突から推測するしかない。
八幡から五所に入る。金杉川に架かる金杉橋に差し掛かる。その右手あたりに足利義明の八幡御所があった。遺構や案内板はない。現地名「五所」は「御所」から来ている。
金杉橋を渡った左手路地に立派な笠をかぶった庚申塔がある。
街道はまっすぐに君塚を通り抜けて五井に入って行く。
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