祝日について

子供の頃から、土曜日になると朝から心がうきうきとして、日曜日の夜になると気分が落ち込んだものである。社会に出てからはますますその傾向が強まった。1979年、初めての海外赴任でニューヨークに渡ってからは、心が浮きだす時刻が土曜の朝から金曜日の昼に早まった。

この20時間の差は大きい。人間の本性についての難しい理屈は抜きにして私は休みの日が率直に好きである。その後日本も週休2日制が普及して週末に関する日米の差はなくなった。そこで目は祝日に向けられる。

1979年には、アメリカの国民祝日は9日で、日本は13日あった。その後アメリカでは1986年にマーティン・ルーサー・キングの日ができた。他方日本では1989年に、それまでの天皇誕生日がみどりの日に、皇太子誕生日が天皇誕生日になり、更に1996年に海の日が加えられた。現在では日本の方が5日多くなっている。

しかしこれは表面上のことで、休日が日米いずれが多いかはそう簡単ではない。年によって変わるのである。

アメリカの10日の祝日のうち、5日が月曜日、1日は木曜日と決まっていて週日の休みが6日保証されている。一方日本では2000年になって2つの祝日が月曜日と決まった。2003年にはさらに2つが月曜日となる予定である。日本にはその他、正月の2、3日と5月4日を休みとしている他、銀行は年末が休業となった。

両国ともに日曜日が祝日であるときは翌日の月曜日が休みになることは同様である。結局、日米間の年間の休日の多寡は、毎年暦をしっかり見なくては比較できなくなってしまった。2003年以降はどうやら日本の方が多そうである。

「国民の祝日に関する法律」を横に置き、インターネットをブラウズしながら、世界の祝日のことをつらつら考えている。日本の祝日には他国に見られないユニークなものがある。多くは日本人固有の精神のこまやかさや優雅さを反映して好ましい。その中に1つ不要と思われるものがあった。成人の日のことである。法律にはこうあった。
  「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」

従来成人の日は正月15日であったが、2000年より1月の第2月曜日となった。アメリカやヨーロッパにはない特殊な祝日である。陰暦の正月15日は、新年最初の満月の日で、各地ではその年の豊作を願い、また悪霊を払うドンド焼きなどの行事が行われたという。それらの祈願を若い人間に向けたものか。

成人式とは,本来、男子の場合を成年式、女子の場合は成女式と言っていたものであり、男子が15歳頃、女子は13歳頃に行われていた。一人前の男女になったことを社会が認めるとともに、本人に自覚させるための儀式であった。武家の時代では元服式ともいった。ユダヤ教の成人式(バールミツバ)は13歳で行われる。

現在では満20歳にならないと社会から一人前の人間として扱ってもらえないことになっている。これがモラルハザードを引き起こし、若者の幼児化を助長した。過保護の母親と子供の関係と同じである。その反面で未成年の若者は、だれも自分は文字通り子供だとは思っていない。
「私やっと20歳になりました」と言ってビールを飲む女子大生タレントのテレビコマーシャルをみるたびに、なんというカマトトかとしらけた気分になったものである。

役所主導の成年式は年々しらけてきているようだ。2001年の1月はちょっとした成人式騒動の年であった。式場でのケイタイ、飲酒、暴言などの不行儀が限界に達したといわれた。各メディアは特集番組を組み、なぜ成人式は荒れるのかと、若者のマナーを論じ、成人式の要不要論を戦わせていた。

そこには欠けている論点が2つある。

1つは、なぜ成人を祝うことについて祝日にしなければならないかという点であり、2つ目はなぜ法律的な成人年齢を20歳とするのかの問題である。20歳の男が祝場で酒を飲むか、地方自治体が祝賀式を行うか否かなど枝葉末節な議論である。

いずれにしても現行の成人の日という祝日ほど、祝う側と祝福される側にギャップのある祝日もないのではないか。双方とも本気でない。また国民祝日として、国民人口の1%とはいわないがせいぜい2、3%くらいの、特定の年齢の人間を対象としていることにも無理がある。地方自治体が全国的な規模で同級会を主催しているようなものだ。

また今や20歳を成人とすること自体が時代錯誤的である。昨今の犯罪者に16、7歳の少年(?)が多い。それを踏まえて少年法が改正された。その趣旨を進めて成人年齢を引き下げるべき時ではないかと思う。

16歳になれば酒やタバコを許してよい。自動車免許も結婚もそれでよい。それほどに現代の若者の身体は私達の時代より進化した。社会が若者の肉体的成長を阻止することはない。若者が精神を自らの身体の発達に合わせようとする機会を社会が奪っているのである。そのかわり、若者による自由・自立の獲得は社会的自己責任を請け負うものでなければならない。現代の若者はその狭間で、甘えと不安、自覚と欲求不満のコンプレックスに陥っているように見える。韓国は2001年に成人年齢を20歳から19歳に変更した。1年とはいえ、英断であったと思う。

地下鉄駅の注意アナウンスを一度止めてみようではないか。乗降客が入り乱れて列車の進行に支障がでるか、試してみようではないか。大人たちはそれほど社会的に未熟ではないだろう。同じように、16歳から19歳の若者に成人としての自由をあたえてみようではないか。彼らは責任なく自由のみを濫用するほど愚かでないことがわかるだろう。

あるテレビが暴走族の魅力的な発言を伝えていた。

  「俺達は未成年だからやっているのだ」

PS
2022年ようやく日本も成人年齢が18歳になる。成人という本質論からではなく国民投票法という政治的動機からである点、飲酒・喫煙・ギャンブルは依然20歳以上に据え置いた点など、過保護体質から抜け切れていない。