イングランドの旅
ロンドン支店で会議があって、私はニューヨークから久しぶりにロンドンを訪れた。9年前のヨーロッパ一周の時と風景はなにも変わっていなかったが、この時は学生集団旅行では行かなかった場所を見る機会をえた。
ソーホー地区は新宿歌舞伎町みたいな所である。レイモンド・レヴューという品のよいストリップ・ショーが旅行客の間で評判だった。薄桃色の肌がライトに照らされてほとんど白に近い。舞台の女はディスコのミラーボールの下に立ち、衣装と肌がきらきら輝く。やがて長くて細い手足を伸ばしたり曲げたりして、舞台を大股で歩きまわる。床体操のようにひどくまじめに動き回るので色気を感じさせなかった。
日本のように舞台の中央で、手持ちぶさたな風をして、けだるそうに着物をいじりながら曲の終るのを待っているようなことはしない。どうやらロンドンはショーに重きがあって、日本はストリップが目当てであるとわかってくる。その差は観客層にも表れていて、そこには夫人同伴の二人ずれが多かった。グラスを片手に声を低めて会話を楽しみながらショーを眺めている。うらびれた背広姿や食い入るように舞台をみつめる貧乏学生の姿はなかった。
パブにも行った。日本でいう居酒屋みたいなものであるが、そこで食うのはクラッカー程度で、立ちながらもっぱら大ジョッキーのビールを手にして会話をはずませる所である。ビターという生ぬるくて重苦しいビールをはじめて飲んだが、酔うまでに腹がふくれていけなかった。風呂上がりのビール一杯という清涼感はまったくない。私には冷やしたラガーがあっている。
週末を利用してスコットランドを見ることにした。ゴルフの故郷、セント・アンドリュースに行ってみたかったからである。エディンバラまで飛行機でとび、そこで丘の上に立つエディンバラ城にまず登る。ウィンザー・キャースルを小ぶりにして4分の3ほど壊したような城である。
城そのものよりも、その城山を取り囲むようにしてある公園からながめる景色が美しい。ともすれば無彩色になりがちな城壁や石垣の姿が、手前の豊かな緑の広がりのわずか上部に塗り加えられたように、つつましく望まれた。
汽車でセント・アンドリュースまで行く。コートを用意していたがそれでも寒かった。ブリティッシュ・オープンで馴染みのオールド・コースは海に沿うてある。浜辺側の歩道との境を作る白い垣根がOB杭である。コースの上を雲が低く流れている。野原そのままがコースになっており、半日で整地できそうなでこぼこもそのままにしてあって、いまにも穴からもぐらが出てきそうな風景であった。
テレビでもよく見る、クリークにかかる小さな石橋(スウィルカン・ブリッジという)に来て、これを前景とするクラブハウスの写真を撮りたかったのだった。
マスターズが行われるオーガスタにも12番と13番ホールにホーガン・ブリッジ、ネルソン・ブリッジと名づけられた姿のよい橋がある。つつじの花が盛りの季節で、それを背景にした眼鏡橋は一幅の絵になった。大小・材質を問わず橋は人の通る足音を偲ばせて、なつかしい心持を起こさせる。
寒々とした浜辺では子供が凧をあげていた。凧上げは正月の風物という固定観念があった私には、季節構わず凧をあげる思い付きが新鮮に見えた。後日リッチモンドに住むようになった時も、広い公園で年中凧あげに興ずる家族連れを見たものである。
この町には4年後に再び訪れている。エディンバラのある投資顧問会社と合弁事業を立ち上げようとしていた。スコットランド人はイギリス人よりもさらに控え目で、アメリカ人のような押しつげがましさがない。ここなら一緒にうまくやっていけそうだということだった。
その出張のおり、オールドコースからいくらも離れていない町の一角にあるゴルフ店に立ち寄った。土産物が豊富に取り揃えてある。カシミアのゴルフシャツなどはいかにもスコティッシュである。ヒッコリーの木でできた骨董品のクラブが気に入って、その中から一番安いパターを選んで買った。ヘッドはわずか5ミリくらいの厚さで、平坦な表面ながらも、幾度も錆落しをした結果であろうか、鉄の表面は無数の小さなでこぼこがある。実践にはいかにも頼りないパターではあるが、壁に飾るにはふさわしい。
スコットランド最古の大学であるセントアンドリュース大学のキャンパスを通って城に向かう。切り立った海岸を背にして、石積の骨格だけが残る。北海を渡る風は夏でも寒く、雲は西から絶えまなく駆け足で流れきて、夏雲さえも雨雲のように低い。天候が刻々と変わるのが北の土地の特徴だが、西空をみれば10分以内の頭上の天気が間違いなく予測できる。
港は小樽のように、かってはニシンで賑わった。よく手入れされた小型漁船の群れを中世の家並みが見下ろす風景は、画家ならずとも一幅の絵を感じずにはいられない。
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ウェルズ
ウェルズはイギリスの西方で面積は四国ほどしかない。太古の時代、ヨーロッパの先住民と言われるケルト人がイングランドの島にも流れ着いた。彼らをブリトン人という。その後ローマの支配を経て、ゲルマン民族の大移動をうけてやってきたアングロ・サクソン人がこの島の中央部を制覇した。11世紀にはいると別のゲルマン民族ノルマン人の支配下にはいる。ブリトン人は次第に僻地においやられ、スコットランドやアイルランド、そしてこのウェールズ地方に生き長らえることになった。
ウェールズ人たちは、その土地をカムリ(同胞)と呼んでいる。一方、ウェールズという地名は古英語の「異邦人」から来た。アングロ・サクソンから見て、ウェールズ人がいかに違っていたかを暗示させる。違いの主因は言葉であった。ウェールズ語は古代ケルト語から派生した言葉で、発音も言葉そのものも、英語とは全く異なった言語である。このあと出てくる、世界で一番長い駅名の話しの中でそのことが実感できるであろう。道路標識も英語の併記がなければ皆目見当もつかなかった。
スノードン山(1070m)を中心とした山岳公園で、ウェールズに三つある国立公園のうちの一つである。スノードン山はイギリス最高峰である。滋賀県の最高峰伊吹山でさえ1400m近くあり、イギリスの国土がいかになだらかで、穏やかであるかがわかる。
麓のスランベリスから1両編成のかわいい蒸気機関車におよそ1時間ゆられて頂上へ着く。途中けわしげな渓谷もなく、時間さえあれば花畑や広がる牧場の風景を楽しみながらハイキング気分の登山もできるやさしい山だ。頂上に立ってもけっして恐しげでない。同時に、頂点に立つという独特の達成感も湧いてこない。子供連れの家族旅行にはまことにふさわしい山だといえる。
ただし天候は刻々と変わる。平地のエジンバラやセント・アンドリュースでも雲は常に低く、陽射しはめまぐるしく変化した。まして1000mも上がれば雲は手に届かんばかりとなり、気まぐれな天気の餌食になることは容易に予想されることであった。スノードニアでは1日のうちに春夏秋冬が経験できると言われるのはあながち誇張とも思えない。
スノードン山のほぼ南、スリン半島の付け根にイタリア風の町がある。建築家クロウ・ウィリアムエリス卿が50年近くを費やして作り上げたヴィラである。ニューポートにあるような贅にまかせて作ったようなものでなく、それぞれの建物は節度ある大きさに仕上げてある。ソレントをモデルにして17世紀調のイタリア風ビリッジをめざしたとされる。柱廊やドームを周りの地形を考慮して注意深く配置し、花、木立、池、石柱などで趣向をこらした庭をくみ合わせる。
生涯をかけて自前建築の道楽を極めた満足感が伝わってくるようであった。あくまで外観の総合建築美を大切にしている。数多い建物がそれぞれ個性のある設計で、一気に完成することなく気長に手作りを楽しんでいたことが感じられて、見る者に威圧感をあたえない。ローマの郊外にもこのようなヴィラをみたが、こちらのほうが箱庭のようにまとまりがある。訪れる人にその魅力を最大に感じてもらう為にも、この地にもう少し暖かくて明るい日差しを運んできてやりたいと思ったことであった。
世界一長い名を持つ駅があるときいて見に行った。こじんまりとした駅で、プラットホームには電車の待ち客は誰もなく、観光客だけが多かった。駅の前庭にやたらと長い立て札があり、そこには58のアルファベット文字を使った駅名が書かれていた。
LLANFAIRPWLLGWYNGYLLGOGERYCHWYRNDROBWLLLLANTYSILIOGOGOGOCH
(スランヴァイルプールグインゲルゴウゲールウクウィールンドロブウーリスランダスイリオゴゴゴッ)と読む。
パンフレットに英語訳があった。
The Church of St Mary in a hollow of the white hazel near to the rapid
whirlpool and to St Tysilio's church near to a red cave
両者を比べても暗号のようで「TYSILIO」が共通の固有名詞であるらしいこと以外さっぱり見当もつかない。アルファベットを使っていても、全く異なった二つの言語なのだから無理もない。
あえて日本語訳を試みると「急流の渦巻きの近くにある、白い樫の幹の窪みの中の聖母マリア教会と、赤い洞穴の近くの聖ティシロ教会」となる。1時間有効の記念入場券を10枚買った。紙幣よりも細長くて財布に入りきらない。
日本は世界で一番短い文学をもっているがそれは音節数で規定されているため、1語といえどもこの駅名を含めた俳句は作れないことになる。
緑の絨毯に覆われたようななだらかな丘が続く。土の色が見えない。苔か芝か牧草か。日本のように丈のある雑草が景観を壊すことがない。左右から緩やかに丘が降りてきて、平らになったところで1本の細い流れが二つの曲面を接合する。谷というにはあまりに優しいが、土地の人はこれをdaleと呼ぶ。ハーツデール、スカースデールのデールだ。流れと岸とに判然とした区別がないのんびりとしたこれらの小川はどこかで道路と交差しているはずである。そこでは橋をくぐることもなく、流れは堂々と道路を横切る。その部分をフォード(浅瀬)というのだそうだ。イースト・アングリアにはそのような場所が多くあった。
緑の面は石垣でしきられている。水田ではないので、丘陵の斜面も棚にする必要はなく、あくまで自然にまかせて細かな石積みが、万里の長城のように丘にへばりついて波打ちながら続いている。そこに牛や羊がまばらに放たれているのである。日本人の目には贅沢な土地のつかいように見えるだろう。空の雲はあいかわらず厚くて低い。
「つばめの滝」という絵看板が道端の木にかかってあった。林の中を苔で黒ずんだ岩を縫うようにして幅10メートルほどの清流が走っている。上流をみやると岩を伝って若者が川を横切っていく。踏み外しても膝までもいかないような深さに見える。一ヵ所で川幅が広くなり、水流が45度の角度で数段にわかれて流れ落ちている。落差はたかだか数メートルで、滝つぼに落下する轟音がなく、静かな滝だった。暗緑色の岩にさえぎられて白い流れが幾本にも分かれていく。今まで見たことのない新型の滝だった。
「SYCHNANTPASS」という峠の宿に泊まったが、今地図をみても出ていない。確かにこの滝の近くであった。
コンウィに向かう途中、田園のなかに小型のストーンサークルをみた。すぐ傍にトタン屋根の小屋がたち、田んぼに直立した石が捨て置かれているように見える。高さ2、3mの12個の石が円を描いて立っている。中央には円形の平らな石があった。ただし、12個の石を上部でつなぐものがない。石柱だけのストーンサークルだ。
13世紀、イングランド国王エドワード一世は、ウェールズで頑強に抵抗を続けるスウェリンという男に手を焼いていた。防御と攻撃拠点を兼ねて、王はこの地域にコンウィをはじめとして多くの城を築かせ、ウェールズ人をその中に包囲してしまった。ウェールズはついにイングランドの配下に降る。
北ウェールズに残る城壁の町の中でもコンウィは、特に堅固な城塞で知られる。城壁の上はところどころに鉄柵で補強してあるが足元の石垣は頑丈で、ほぼくまなく歩いてまわることができる。前方にはなだらかな山が近くにせまり、下には河口の広がりに舟が浮かんで眺めがよい。鉄道線路をまたぐ石橋も城壁の一部かのように古めかしかった。
壁の内外は中世の町並みであった。人々の動きに急ぐふうはすこしもない。イギリスの田舎では時間がゆったり流れている。それはウェールズだけでなく、東の田舎でもそうだった。
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ケンブリッジの東側、サフォークとノーフォークの一帯は15世紀まで毛織物産業が盛んな地域であった。その後スコットランドなどに毛織物業の中心が移ってからは時計の針が止まったまかのように、当時の風景をそのままに残している。イギリスの田舎はロンドン郊外や北ウェールズでも見てきたが、この土地はそれらに輪をかけて美しい。ここではフォードという特異な景色が主役を演じている。
フォードとは人馬が通れる川の浅瀬をいう。初めて見たときはこの村に洪水が出たのかと思った。一種の湿地帯ではある。しかし湖沼が散らばり村のなかを舟がゆきかう風景ではない。ストウというひとすじの川が堤防を築かず自然にまかせた一部の区画であふれ出しているというかたちである。
ロングフォードは長い浅瀬、ミルフォードは水車小屋のある浅瀬、オックスフォードは牛が渡る浅瀬、スタンフォードは石の多い浅瀬、フラットフォードは平らな浅瀬、等々である。その昔、橋もなく舟もなくて川を渡れる地点は便利だった。しぜんに人が集まり村ができた。現代になり車で移動するようになっても橋をかけようとしない。車はバンパーに水しぶきをあげて、突っ切っていく。人はザブザブと歩いて渡る。このような景色は珍しい。
19世紀初頭の英国風景画家ジョン・コンスタブルはこのような風景のなかに生まれ育った。村の名はフラットフォード。ここでは浅瀬が道を横切るだけでなく、水は川の流域一帯に広く浅く平らにあふれている。
コンスタブルの絵にでてくる風景をたどれるように川に沿って遊歩道が設けてある。「干し草を積む車」の左端に描かれている小屋はウィリー・ロット・コテージと呼ばれ、暗赤色の屋根と明るい白壁がコントラストをなして川辺にひっそりたたずんでいた。
「水門をわたる舟」の水門も形はかえているが同じ場所にある。そこから見る風景は変わっていない。
フラットフォードはイースト・ベルゴットの一角である。コンスタブルの父親はこの辺一帯の土地を所有する裕福な事業家だった。コンスタブルはここで生まれている。1776年、アメリカが独立した年であった。
地元の人か観光客か、水辺に椅子を並べてゆったり流れるストウ川を眺めている。子どもは上半身はだかになって浅瀬でかけっこをしている。一組の老夫婦が手をつないで浅瀬から上がってきた。緑の中州では乳牛が悠然と草を食んでいる。コンスタブルの描いた原風景が2世紀ちかくほとんど変わらずにあるのは信じがたいほどだった。唯一コンスタブルの絵にない風景といえば、深みでカヌーに興じる若者の一団だろうか。
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イースト・ベルゴットのほぼ北にあるカージー村は、一本の大通りに沿ってある。村にはいると道の両側は中世そのままのたたずまいだ。黒ずんだ赤瓦の屋根はもれなく苔むしている。黒瓦の屋根の家は壁の作りも新しそうである。壁は白かピンクがかった肌色が多い。柱や鴨居を露出させた木骨造りの家は、それが決まりであるかのように二階を道路側にせり出させている。故意に歪めた傾斜になっているのが、一瞬設計ミスかと思わせてなんとなくおかしい。道に沿ってできた宿場町のようだ。信州の旧中山道にそってもこんな感じの村を見た。
村を貫く道をたどると、坂を下ったところに水がでていた。くぼ地に昨夜の雨が溜まったのだろうと思うと、そうでなくて、川との交差点なのだった。歩道には水を避ける程度の低くて短い橋がかけられているが、車の通る道路はそのまま川の底を通り抜けている。その交差点の常習横断歩行者は数羽のあひるであった。
立派な教会がある丘から村全体が見下ろせる。例の浅瀬もわずかに見える。村の外には豊かな田園が広がっていた。生計は観光と農業なのだろう。どの屋根にもかわいい煙突によりそって蚊のようなアンテナが取り付けられている。中世の雰囲気を保存しながらも生活はあくまで現代的で、けっしてダッチカントリーでみたアーミッシュの世界ではない。